ノアの小窓から

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伝道者の書7、見よ、しいたげられている者の涙を。(伝道者の書4章1節~12節)

2020年05月12日 | 聖書


 私は再び、日の下で行なわれるいっさいの しいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。(伝道者の書4章1節)
 私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。(2節)
 また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行なわれる悪いわざを見なかった者だ。(3節)
 私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(4節)

 伝道者の視点はとてもシニカル(冷笑的)です。どうしてこれほどまでに醒めた目で物を見るのかしらと、思うほどです。確かに権力は強く、たぶん現代の民主主義社会でも、権力の前に涙を呑んでいる人もいるでしょう。伝道者は、権力者が誰かをしいたげることを問題にしているというより、虐げられる人の「よるべのない」姿を見つめているだけです。伝道者は、最高権力者なのだから、しいたげられている人を何とかしようとしてもよいはずですが、そのように葛藤しているのではありません。
 
 彼はしいたげの中を生きるより、すでに死んでいる人のほうが良いというのです。もっと良いのは、「今まで存在しなかった者」というのです。確かに、生まれて来なければ何も見ることはありませんが、究極のニヒリズム(虚無主義)に、聞くほうもため息をつかないでしょうか。

 さらに、仕事の成功が「人間同士の妬みにすぎない。」となると、じっさい、成功や良い結果を求めて努力している者には、「立つ瀬」がないようにも感じます。おそらく権力の頂点にいた伝道者(ソロモン)は、何らの意味でも、成功した人たちに囲まれていたでしょう。彼らが互いにねたみあうのをいやというほど目にしたのかもしれません。

 愚かな者は、手をこまねいて、自分の肉を食べる。(5節)

 成功してもねたみ合うだけであると言いながら、手をこまねいて努力せず、結果的に貧しいものは、批判されています。持っているものさえ食いつぶしていくからです。

 片手に安楽を満たすことは、
 両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。(6節)
 私は再び、日の下にむなしさのあるのを見た。(7節)

 極端な貧しさよりは、豊かで安楽がある方がまだ良いと言います。ただ、そのようなほどほどの生き方でも、伝道者の目には、むなしいのです。

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 ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、 彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか。」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。(8節)

 伝道者は、労苦するのが自分のためだけなら「むなしい」と言っています。彼は虚無主義者のように見えますが、案外、家族や愛人、友人、知人には慰められていたのかもしれません。このような血縁主義、縁故主義は、今の人から見ると、やはり古めかしい感じがします。

 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。(9節)
 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。(10節)
 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。(11節)
 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(12節)

 仲間や家族、つまり、愛し合い、信頼し合える相手がいると、心丈夫ですね。
 確かに、人は仲間が必要です。いじめなどに遭うのが辛いのは、「守ってくれるはずの仲間からいじめられること」だと言います。
 三つ撚りの糸のたとえは、日本では、毛利元就の「三本の矢」のたとえとなっています。
 寄り添って団結している状態は、「強い」のです。





「伝道者の書」は、さとうまさこがもう一つのSeeSaaブログに連載していた聖書通読エッセイの一部です。ご存じのように、聖書はキリスト教の教典です。旧約聖書39巻と新約聖書27巻、合わせて66巻になります。
 旧約聖書はヘブル語、新約聖書はギリシャ語で書かれています。
 新旧約聖書として一冊に収まっています。世界中で、2000以上の言語に翻訳されています。
日本語聖書の代表的な翻訳は、新改訳聖書(このエッセイで使っています)新共同訳聖書(カトリック教会との共同訳)、口語訳聖書、現代語訳聖書、リビングバイブルなどがあります。
 新世界訳という翻訳は「エ●バの証人」という団体のもので、改ざんされており、キリスト教会では認められていません。



 
 







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