ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

KAIGO.介護 番外編 父の戦記 

2010年07月25日 10時20分55秒 | 介護な日々
今回は介護とはちょっと関係ないお話ですが、
これからしばらくの間父のことが中心になりますので、
父の戦時中のお話を少し致します。

そうすれば父の”ど根性”がドコに帰依するかわかろうものですので。

そもそも父自身から戦時中の話を聞いたことはほとんどありませんでした。
2008年の夏、中学生だった娘に
「身近な人の戦争体験を聞いてきなさい」という宿題が出ました。
それで父に尋ねたら答えてくれて、そこで初めてわかったことがたくさんあったのです。

まずはこれをご覧ください。

こちらは教科書にちょくちょく記述のある「千人針」です。
これは現物が今も実家にあります。

また、この日章旗は「武運長久」の字がくっきりと・・・。


そしてこれは平成3年に慰労のために贈られた賞状。

この当時の首相は海部俊樹さんだったことがわかり
・・・・て、そっちやないって!
写真は挙げてませんがなんか記念品を賜ったようです。

そしてこれ・・・

父がずっと保管していた「軍隊手帳」です。

写真は当時の、20代前半の父で・・・う~~~ん
イヤ、けっこうイケメンやん・・・そういうのは遺伝せえへんのやね・・4949
・・・イヤイヤイヤ、ソコじゃなくてってばよ!
「裏には昭和19年1月1日 任陸軍軍曹」と書かれていました。
 
手帳を開けてみると、所属が「関東軍」で階級はやはり「軍曹」です。
(かなり見づらいですが・・・)

教科書にも載っていますよね、満州やシベリア戦線で破壊工作などを
行っていた、あの関東軍です。
・・・聞かれなかったというのもあるでしょうが
父も自ら積極的には語りたくなかったのでしょうか・・・。
私も断片的に少し、誰かに話しているのを横で聞いていたことくらいしかありません。

父は従軍して一度満州にわたり、実際前線には出なかったそうですが
ずっと戦闘訓練はしていたそうです。
でも、手帳にも病名不明と書かれていて本人も現地の風土病だったといってましたが
重い病気にかかって吉林省の病院に長いこと入院していたそうです。
幸か不幸かそのせいで前線には出なかったそうですが
病気がようやく治って帰国した折には姉〈私からみて伯母)に
「病気くらいでかえって来なさんな!!」と叱られたとか・・・
そういう時代だったのですね。
その後また千葉県のどこからか出征しています。

父は所属の部隊では射撃が一番うまかったそうです。

そこで、その部隊から2人だけが選ばれて満州と露西亜の国境へ送られました。
それが精鋭部隊であり特殊工作員部隊である関東軍でした。
破壊工作や諜報活動のための厳しい訓練や演習を来る日も来る日もくりかえしたそうです。
一方、父がもといた部隊はその後南方――サイパンに送られました。
そしてその部隊は全滅、つまり全員が戦死されたそうです・・・。
父はここで九死に一生を得たと申しておりました。
そして、関東軍の一員として明日は前線に向かうとなったまさにその時・・・

日本は終戦を迎えました。

結局父は軍事演習だけで前線には出ることなく帰国し、終戦の翌月末に和歌山港に戻ったのでした。

訓練が徒労に終わったのは・・・結局良かったのでしょうが・・・。
自分の命が助かったのみならず、誰も殺してしまうことなく済んだのですから・・・。

母の長兄は戦死しています。遺体はもちろん遺骨もありません。
命からがら帰った人も、体は無事でも心が病んでしまったひともおられたでしょう。
戦争で、命令とはいえ人を殺してしまった人も・・・
確認は出来ないが殺したのかもしれないと罪の意識を背負った人も・・・
いらっしゃったでしょうし、今もいらっしゃるのでしょう。
・・・とにかく、その時代に生きた方々は
どなたもなにがしか重いものを背負っていらっしゃるのだなと改めて思います。
そして、だからこそお強いのだと思います。


月並みな結論ですが、やはり戦争はいけません。絶対に繰り返してはなりません。

父の戦争の記録と証拠・・・これらは捨てずに、何らかの形で残し伝えたいと思います。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 創作小説 SUNSET ... | トップ | 創作小説 SUNSET ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

介護な日々」カテゴリの最新記事