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ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

『沢田研二 愛をもとめて』

2010年08月02日 21時24分20秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
ジュリーの記事は一旦置くつもりだったんですが~キリがないから~
でも、すぐの再開。それというのも・・・

拙ブログにいらっしゃる皆様の中には、キーワード検索でお越しになる方もいらっしゃいます。
そしてその、ウチへたどり着いたキーワードでダントツに多いのが「沢田研二」だもので・・。

ジュリーってすごいわ~・・・

昨日も今日も、今日も明日も、「沢田研二」を捜し求める方がこげんおられるとなると
なんか新しい記事書かな申し訳ない気になるやないですか~!
とはいえ、わっちに書けるのは昔話ばかり・・・もうホコリかぶった御伽噺ですよ。
でも、最近のジュリーのことは現役じゅり風呂(ジュリーファンブログのことです)の
皆様がアツク詳しく微に至り細に至るまで語り合っておいでですので
わっちは隠居した村の長老、語り部と自称して昔話を語り継ごうと・・・
・・・とて、あちこちのじゅり風呂さんちにお邪魔してコメ欄カキコしてますが・・
・・・この際邪魔ばっかせんと自分ちで語るほうがよいですね。

というわけで、不定期ですし・・・本道は介護&創作小説の発表ですので、
サブ記事ではありますが・・・たまに挙げさせていただくことにします。
改めてカテゴリー作るかどうかは・・・様子見ます。

んで! 今回のタイトルを見て「おお・・・」と思われた方は
年季の入った長年のファンか、最近の方ならかなりジュリー学のお勉強をされた方!
これ、1974年前後にジュリーがやってたラジオ番組のタイトルです。


では、今回は「ニッポン放送 沢田研二 愛をもとめて」伝授!
(公式にジュリ風呂D様のお許しをいただきましたので、伝授、使います。
 D様、快諾おおきにでっせ~!)

これは1973年4月から、1975年半ば頃まで放送されました。
関西ではたしか毎日放送だったかな・・・深夜24時20分か25分か、
そのへんから10分間の放送時間ですが
毎週月曜日から金曜日まで、年末年始もなんのその、
ウイークディの毎日、放送されていました。
・・・ええ、毎日ですよ・・・毎日ジュリーの声が聞けたんですよ~。すごいでしょ~。

内容はというと、週に4回は詩の朗読、その詩にあわせた洋楽1曲とおしゃべり。
あとの1回はジュリー自身の近況やエピソード、思い出話などなど。
コンサートツアー中は提携地方局からの生放送もあり、
コンサートの様子を話してくれたり・・・。

詩は番組の構成担当者であり、ジュリー曰く「若き詩人(たしか当時32歳くらい)」の
藤 公之介(ふじこうのすけ)さんの作でした。
藤さんのおっしゃるのに
「ジュリーのこの濡れたような(話し)声を活かすものはないかと考えて思いついたのが
詩の朗読だった。」とのこと。
でも、当時はジュリーが書いていると思ったヒトも多くて、問い合わせが相次いだとか。
その後ルック社から全5集が出版され、後に「愛をもとめて 風の詩集」が続刊として出ています。
(全部持ってた。ただし過去形。)
今もたまにオークションで見かけますね。

↑アップのお顔は藤さんです。

具体的な番組構成は、まず番組テーマ曲が流れます。
アコギのじゃらん・・というイントロのあと、
ジュリーの「ルル~ルルル~・・・」というスキャットの歌が流れます。
ギター演奏は井上堯之さん。(ジュリーだと思ったヒト多数)
歌は[JULIE Ⅳ」というアルバム収録の「ラヴ・ソング」のスキャット版。
で、マエフリの短いコメントがあり(たまに詩の冒頭部分)
CMのあと詩の朗読、洋楽がかかってまたCM(たぶん)、
そしてジュリーのおしゃべりがあって「では、また」で終わり。

まあ、何しろ2年以上放送されてましたし、ファンなり立てで喜び勇んで聞いてたし、
だから今でも覚えてるんですね~。
ああ、ジュリーも若かったあ~、25~6歳?? おあ・・・


ひとつ、何故か印象深くて覚えている回を紹介しましょう。

その日の詩は前日の続きというか、後編みたいな感じでした。
前日の詩が、確か「母への電話」みたいなタイトルで
いきなり結婚することになったという報告をする男が語り手。
親同士の確認もなく、式の日取りも場所も全部「こっち」で決めてしまって
事後報告の電話をしているというシチュエーションでした。
そして、翌日の後編は「続・母への電話」

ものすごーく暗く落ち込んだ声で(マジでジュリー、どうしたの?と心配してしまった)
「あのひととの話ね・・・ダメになったんだよ。」という話をするのです。
で、ふたりとももう大人だからとか、どっちかが騙したとかそんなんじゃない等言って・・
近いうち帰る、親父ともしばらく会ってないし、大丈夫ゲンキだから・・・
などと話して電話を切るというストーリーです。

この回は詩と言うより一人芝居ですな。その後1曲流れ、
ジュリーのおしゃべりの段になって・・・開口一番
「ねー?! だから言ったんですよ~!!」と苦言を呈す。
主人公の男を非難するジュリーのご意見とお説教がつらつらと・・・(笑)
「こんなん、うまいこと行くわけがない!」ですと・・・。
その理由は・・・なんと語ったか忘れましたが・・・。

私はその時「だから・・て、昨日何ゆうてたっけ??」とコドモのアタマで考えてました。


詩の朗読でない日はいろいろでしたが、印象に残っているのはジュリーの昔話。
藤さんの提案で「僕の心の忘れ物」と題して子供の頃の話をしてくれました。

中学生の時、校内マラソンで洛北一周、たしか全校で4位に入り
ゴール後飲んだ生姜湯がうまかった・・・とか
高校時代空手部に入っていたので、胴着を記念にとってあったはずだから
"最近”(74年ごろ)実家に帰ったときにお母様に尋ねたら
「捨てちゃった」といわれて憤慨した・・・とか

まあ、覚えているのはそれくらいですがほのぼのっと聞いていました。

それから新しいアルバムが出たときは収録曲をかけてウラ話をしたり
コンサートツアーの前に、当時はバンド・スタッフと合宿をしていて、その話とか
ツアーが始まったら各地での様子をジュリー自らレポったり
10分間なのに中身は濃く、毎日楽しみにしていたものです。

とはいえ、コドモには深夜24時半は正直きつかった・・・!
もちろん親にはナイショです。ふとんかぶって寝たフリこいて
12時ごろホンマに寝てしもて気付いたら番組が終わってたなんて事も・・・!!!

タイマーかけて録音すりゃいいのに?

・・・当時はそんな簡単なことが大変な時代だったんですよ~・・・。
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『悪魔のようなあいつ』〈追記あり〉

2010年07月23日 19時06分17秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
今回はめっさ長いです・・・お覚悟を!

ジュリー主演の伝説かつ幻のテレビドラマ「悪魔のようなあいつ」について・・・
もう完全に”時効”・・・というか、おそらくこのドラマをご覧になる機会は
ほとんどの方がほぼないと思いますんで、ネタバレありありバレまくりということで。

ここで少々追記・・・・この記事を書いた後、当時の新聞の切抜きが見つかりました。
別のところでアップしておりますので、興味ある方はぜひご覧あれ・・・
ジュリー・イン・キリヌキ~「悪魔のようなあいつ編」その1同その2です。〉

で、今回は、とあるジュリーファンブログの管理人さんの真似をします・・・

それでは皆様に「悪魔のようなあいつ」伝授!!
(D様勝手にゴメンナサイ!)

このドラマが放映されたのは放映キー局TBSで、
1975年6月6日(金)から同年9月26日までの全17回。
午後10時からの1時間番組、提供スポンサーは資○堂さん・・・あと忘れました。
レ○ウンさんもやってたような気がする・・・。


主人公は、ある程度年配の方ならご存知でしょうが、3億円事件の犯人という設定です。

3億円事件とは、1968年12月10日午前9時20分頃
東京都府中市の拘置所そばで実際に起こった、
東芝府中工場の従業員に支払われるボーナスを運んでいた現金輸送車が
白バイ警官を装った一人の男に強奪された事件です。
被害総額は2億9430万7500円で、当時では史上最高の被害額でした。
この事件の刑事時効が1975年12月10日だったので、
この年そのリアルタイム同時進行の形で、
実在するはずの犯人の日常を想像で追ってみるというドラマでした。

実はこの作品には原作がありました。
女性週刊誌であるヤングレディに連載されていた漫画で
原作者はなんとあの阿久悠さん。元は放送作家でいらしたんですね。
作画はなんとなんと"昭和の絵師”、上村一夫(かみむらかずお)さんです。
↓これ・・・ちゃちゃめ、持ってます・・・初版本で。全2巻。
(・・・てか、コドモがこんな本〈失礼〉買うな~!!! 本屋も売るな~!!!)

阿久悠さんは誰もがご存知だと思いますが、
上村さん、この方もある年齢以上の方はご存知かと思います。
「同棲」という言葉を世間一般に知らしめ流行語にもした漫画「同棲時代」の作者です。
余談ですが、この作品もテレビドラマ化されていて、
主人公は同棲カップルの女性のほう、今日子といいまして、
梶芽依子(かじめいこ)さんが演じておられましたが
相手の男性の方、次郎役はこれもジュリーが演じています。

それはさておき「悪魔・・」のお話ですが
原作の漫画とドラマは同時進行で、最終回に至っては最終話収録コミックスの発売翌日に
ドラマも終わるという離れ業をやっているため、当然話は別々に進行してしまっています。

で、昨今は往年の名ドラマ伝説級のドラマが次々にDVD化されていますが
本ドラマは一度だけ完全限定販売でDVDボックスが発売されたのみです。
本放送後も一度も再放送されていません。
DVD化にあたっても、ジュリー側がTBSさんにDVD化を迫ったけれど、
TBSさんが「あのビデオは紛失した」と言い張るので、
ジュリー側が倉庫をひっくり返して探し出したと言われています。
・・・ホントかどうか真偽の程ははっきりしませんが。
何故TBSさんが出し渋ったのかと言うと・・・

内容がとんでもないからです。

まあ、よくこんなものが作れたなというか放送できたなと言うかしたなというか
・・・・・よく毎週見たなというかコドモのくせに。
何しろ主人公の可門 良(かもんりょう)は・・・・
表向きはクラブ日蝕の専属歌手ですが、裏ではコールボーイ、つまり売春婦の男版で、
兄貴分でクラブのオーナーである野々村修二の男娼で
(↓演じるは藤 竜也さんです・・・渋いですねェ~!原作漫画もそっくりまんま。)

ほぼ全身ヌードは出てくるわ、レイプシーンは出てくるわ、フリンなんて当たり前、
暴力シーンもなんのその、近親相姦(相手は妹・・・)もなんぼのもんじゃい、
最後は派手に血飛沫噴き倒して、何人死んだかわからんくらい。
メインキャラのうち生き残ったのは3億円事件を追い続けていた刑事くらいです。
主人公はもちろん、妹も藤さん演じる兄貴分も、フリン相手とそのダンナも、
メインキャストとしてクレジットされる人々みんな死にます。なんやこれ・・・。
とにかくエロ・グロ・ヌード3拍子そろったすさまじい演出でした。
まあ~TBSさんがお蔵入りにしたがったワケですわ。

その演出・プロデュースはあの有名な久世光彦(くぜてるひこ)さん、
「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「世にも奇妙な物語」
など、これまた伝説の名作の数々を世に送り出した名演出家です。
脚本は知る人ぞ知る(知らない人は全然知らない知らない人のほうがたぶん多い)
映画監督(と言っても2作しか撮ってないらしい)長谷川和彦通称ゴジさん。

阿久悠さん、上村さん、久世さん、お三方とももう鬼籍に入られています・・・合掌。
・・・マージャン王・ゴジさんはお元気です。・・・たぶん。


劇中歌として、可門 良の歌うのが「時の過ぎゆくままに」です。
リアルで大ヒットしてミリオンセラー近い売り上げとオリコン1位も獲得しています。


で、ここでファンの皆様にちょいとお知らせ。ご存知かもですが。

この歌、ジュリーがリアルで歌ったものと劇中で歌ったものとは違っています。
まずアレンジが違い、エンディングが劇中の方がかなり長いです。
そして劇中では2番のあとのリフレインがありません。
それから何とキーが違うのです。
リアルではEmキーですが、劇中はAmキーなのですね。
アコギだと5カポでEmキーでいけますが
Amに転調してもさほど難しいことはありませんので、
リアルの音域が歌いづらい方はお試しください。
私は劇中バージョンの方が歌いやすかったです。
ジュリーはだいたいキーが高いので女声でも歌いやすいかなとは思いますが。
あの方、裏声ナシの地声で2オクターブ以上出ますからね・・・。

↑劇中より。かなり音が高いでしょ?ジュリーはちょっと歌いにくそうですが。
(ジュリーはこの場面3カポ?でEmっぽく押さえてますが、
 よく見ればわかります。ここでは弾いてるフリしてるだけ。
 ちなみに、ジュリーもアコギは多少お弾きになります。念のため。)

当時は一度シングルが出ると、4ヶ月間はテレビ等で歌われまして、
年に3曲ぐらいシングルを発売するといったペースでした。
そして毎日のように歌番組があった時代ですので、何度も歌われました。
が、4ヶ月も歌われていると、だんだん変化してくるのです。
この「時過ぎ」も何度も歌われるうちに特に演奏が違って行きました。

演奏は井上堯之バンドと番組専属のオーケストラでやっていました。
井上バンドにはリードギターの井上さんとサイドの速水清司クンの二人が
ギタリストで、普段はエレキギターを演奏していましたが
「時過ぎ」では速水クンがアコギ〈生ギター)を演奏しました。
でも、次のシングル(「立ちどまるなふりむくな」)発売以降は
エレキに戻り、何かで「時過ぎ」を演奏する機会があっても
アコギに持ち替えることはほとんどありませんでした。
また、アレンジがだんだんうるさくなって行ったのです〈個人の感想です)。
この歌はもともとはイントロと1番はアコギが中心の静かな演奏で
2番からはストリング系かな?の楽器が加わり伴奏が厚みを増すのですが、
いつの間にやらイントロにもストリングが入るようになりました。
オーケストラがどっじゃああ~んと演奏つけるのでうるさくて・・・。
また1番の間もエレピやエレキギターのアドリブと言うか”オカズ”が
ちょいちょい入るようになり、それも時が経つにつれて多くなって行ったのです。
ワタクシ、作・編曲者でありキーボード奏者でもある大野克夫さんは大好きでしたが
あれはやりすぎ。ちょっと”オカズ”入れすぎだと思いました〈個人の!感想です)。

本来の静かなイントロ、静かな1番に戻ったのは、
リリースされてから6年後の、バンドも井上バンドの次の次、
EXOTICS(エキゾティクス)になってからでした。
ようやく本来の「時過ぎ」らしくなり、ほっとしましたよ・・・。
ちなみにエキゾの「時過ぎ」は我らが柴山和彦カズさんがアコギです。
コンサートでやるときなど、ちゃんとエレキからアコギに持ち替えてくださいます。
ん~~、さっすがカズさん!!
エキゾの演奏が一番ですよ、「時過ぎ」は。(個人の!!感想です!!!!)
・・・てか、なんで速水クンは持ち替えてくれへんかったんやろ~・・・。

それからもう一つ! サウンドトラックをお持ちの方へ!

サントラ盤収録のメインテーマ、これがまたなぜか番組仕様と別バージョンです。
こういうのって腹立ちません?? なんで違うの?
なんで番組で使ったのをそのままレコードにしないの??
これじゃサントラとは言えないでしょう・・・。
しかもメインテーマですよ・・・。他の曲はたぶん同じ音源なのに。
基本的には同じなんですが、番組仕様の方が静かです。断然その方がいいです。
ちなみにちゃちゃめはこのピアノ演奏、当時耳コピして練習しました。
昨日娘のピアノで弾いてみたら弾けました!! 指が覚えてる~! るん♪
ワタクシ、ピアノも弾ける・・・と豪語は全然できませんが、
チューボー〈中学生)の頃エレクトーンなるものを
これは自主的にちょっとだけかじったので少しは弾ける・・・かもしれない。


・・・音楽話が長くなりましてスミマセン、閑話休題。

「悪魔・・・」の放映当時はまだ家庭用ビデオはオカネモチの家にしかない時代。
なので私は毎回見たあと、忘れないうちに出来るだけ克明に
その日の内容をノートに”レポート”書いていました勉強もせんと。
そして特に印象に残った話は漫画にまで描いていました勉強もせんと。
それらのノートはとっくに処分してしまったのですが、
おかげで今でも結構良く覚えております。

で、数年前限定DVDボックスが出た時はこの機会が最後のチャンスだと思ったので
必殺大人買いを致しました。

で、ほぼ30年ぶりに見た感想ですが・・・

コドモの時に見たのと大人になってから見るのとでは感じ方は違うもの。
ましてや当時は「ジュリーのやることはすべてステキでカッコよくて素晴しい」
”ファンフィルター”で見ております・・・。
でも今なら冷静に、主人公”可門 良”は”可門 良”として見ることが出来ます。
それで思ったこと・・・

「悪魔のようなあいつ」とはもちろん良をさしますが、初めの頃は意外と好青年なのです。
最後は狂気に走りますが、はじめはいたってマトモでした。

彼は孤児院で妹と、兄貴分の野々村と一緒に育ち、いろいろ苦労をし、
孤児院から脱走を図った時に妹が怪我をして下半身不随になったことに
責任を感じています。
自分のアイデンティティーやレーゾンデートルを求めて3億円事件を引き起こし
(と、私は解釈しました)それを青春の証と無理矢理に思い込みます。
更に時効が迫ってきた今、良が犯人であることをなんとなく嗅ぎつけて群がってくる、
犯人逮捕に燃える刑事を含めたさまざまな人間に翻弄され、時には逆に翻弄します。
また、脳腫瘍に冒されて余命いくばくもないという事実を知って
ヤケにもなるし立ち直りもするし、
そしてその病気が元で一時は記憶喪失にもなる。
この半年ほどの間にすさまじいほどの波乱万丈の日々にもてあそばれて
どんどん狂気へと堕ちて行くのです。

この作品が言いたいことはいったい何なのか・・・
当時はジュリーが主役だから見る、それだけでしたが、
改めて考えると、何がテーマなのかな・・・と思います。
少なくともリアルで起きたこの事件の、ひとつの真相を想像するといった
そういうことではないでしょう・・・。

リアルでは結局真実はわからないまま刑事時効を迎え、
1988年12月10日には民事時効も成立しています。


ところで最終回のエピソード。
ラストシーンでは血まみれの可門 良が、舞い散る1万円札の中でのたうつような最期なのですが、
リアリティーを出すためだかなんだか、舞う1万円札(聖徳太子)の100枚がホンモノだったそうです。
で、撮影が終わった後、スタジオに散らばった万札を集めたら97枚しかなかったそうで!!
3枚紛失してしまったのですよ。うん? 誰かがネコババしたのかも??

これはいまだに未解決事件なんだそうですが、・・・もちろんすでに時効は成立しておりますわん。


さて、ジュリーのお話は始めると尽きませんが、ひとまずこれにてお了い。
また、やるかも知んないけど・・・その時はまたよろしくお付き合いのほどを・・・。
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なんでそんなにオトコマエ?!

2010年07月20日 09時40分48秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
いろいろ伝説の多いヒトではありますが・・・印象に残っているお話を少し。

通常、大きなコンサートホールの会場には警備のヒトがいらっしゃいます。
モロ警備員という格好はしていませんが、通路の要所要所に立って、
開演までは会場の案内や見回りを、
開演後は前に押しせようとするファンの防波堤として、
会場内の安全を見張っておられます。

が、ジュリーのコンサート、少なくとも大阪フェスティバルホールでのコンサートには
警備のヒトが一人もいらっしゃいませんでした。
開演まではいて、案内をしてくれます。
でも、開演のブザーとともに退場されるのです。
何故か?・・・必要ないからです。

「ジュリーのファンはマナーがいい。」
私がコンサートへ行っていた頃のファンの評判です。

アイドル時代の全盛期、コンサートといえば盛り上がり熱狂し、
ごく一部ではありますが、席の上に立ち上がったり、
後ろから前に押し寄せてステージにかじりつき、
中にはよじ登ろうとするファンや、歌手に抱きつこうとする人までいる・・・
そんな光景はザラでした。

盛り上がるのは大いに結構なのですが、こういったマナー違反の、
ジコチューでメイワクな人たちが一部にいたのも事実です。
ですから、警備のヒトがたくさん会場内にいるのもいたしかたないこと・・・

でも、ジュリーのコンサートには一切いらっしゃいません。
ジュリーのファンはそんなメイワク行為はしないと信用して貰えていたからです。

それ以前に・・・

マナー違反のファンを一番厳しく叱りつけたのは他でもないジュリー自身でした。
「後ろ下がってください!」
「自分の席でおおいに楽しんでくださいね。」
「他の人の迷惑になるような見方は俺も困るんや。」
・・・・
マナー違反を見ると、途中で歌うのをやめてでも注意しました。
でも逆に、ファンを無理矢理取り押さえようとした警備の人には
「俺がちゃんとするから手は出すな。」
と言ったことも・・・。

「ここ(大阪フェス)は、僕たちを信じて、会場警備の人を引き上げてくださっています。
この信用を続けるためにも、皆さんはマナーを守って見てくださいね。
自分の席では大いに盛り上がってくださって結構です。
でも、席の上に登ったり前に出てきたり、あぶないことは絶対しないでください。
でないと、せっかく信用してくださってるのに、信用をなくすのが一番怖いからね。」

ある年のお正月公演でのことat大阪フェス。

和やかに楽しくジュリーのおしゃべりを聞いていた時。

余談ですが、ジュリーのMC、しゃべりは面白いことで有名でした。
ベタベタの関西弁で、美しい衣装とお化粧で、めちゃめちゃアホな話をするのです。
紅白歌合戦の内幕、楽屋裏の話や、レコード大賞をとった時の心理、
他のアイドルタレントのジュリー的考察、
バンドメンバーやスタッフとのこぼれ話などなど、いつも抱腹絶倒で
20~30分喋くりっぱなし、下手な落語や漫談より面白いと定評がありました。

例えば「勝手にしやがれ」でレコ大取った時の話・・・

「コマーシャルの入る時間は僕らにとってもちょっとホッとする時間なんですが、
あと大賞の発表だけと言うときのCMタイムになった時にね、
・・・女の人がスタンドマイク持ってきたんですよ。
ええ?・・・スタンドマイクですよ~・・・。
・・・『勝手にしやがれ』はスタンドマイクやぞ・・・。
いやいや、そんなはずはない、あそこへ司会者が来て、
『それでは発表します』・・・
いやいやいや、リハーサルではそうはやらんかった。
審査の人からアシスタントの人が何か渡されて、それを司会席に持って行って
司会者の席で高島(司会の高島忠夫)さんが・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・スタンドマイク~~~~~~!!!(爆笑)」

そして大賞受賞が決まった時の話・・・
「『やった・・・!』と思って、ぐっと力が入るのとホッとしたのとが同時でね、
僕は思わず席にぐた~っと沈み込んだんですよ。
そしたら隣に座ってた加瀬さん(元ワイルドワンズ、ジュリーのプロデューサー)が
わあって両手挙げて立ち上がってね、で、ふと見たら自分だけ立ってるのよ、
僕はぐ~っと沈み込んでるし、大野さん(「勝手に・・」の作曲者、大野克夫さん)は
隣の井上さん(井上堯之さん)と握手してるし、
で、慌ててホッと僕を立たせて、大野さんも立たせてね(笑)・・・!」
と、その時の加瀬さんを再現して手を挙げたり、臨席の自分を立たせる身振りをしたりで
会場内は大爆笑の嵐・・・

とにかく面白かったんです、ジュリーのMC!!

ところがそういった楽しいおしゃべりのさなか、
1階のたぶんかなり後方からだと思われますが、
女性の罵声?と思しき声が飛んだのです。
突然で何を言ったのかは聞き取れませんでしたが、悪口だったのは確か。
会場を埋め尽くしたファンが一斉に声のほうを振り返り、走る緊張の中、
ジュリーが静かに答えました。
「何ですか?」
静まりかえる会場。その人はこう続けました・・・
「いつもカッコばかりつけて!!」
ざわめく会場・・・

うわわ~、周りがすべてジュリーのファンなのによくああいうこと言えるな、凄いな~
・・・じゃなくて!!

みんなの、その人への視線は当然ギラつきます。が、ジュリーは涼しい声で
「ええ、僕はいつもカッコばかりつけてますが?」
ソレが何か?的な・・・? そして続けて
「前へ出てきてください。何か言いたいことがあるんやったら出てきてゆうてください。
そんな、うしろのほうでごちゃごちゃゆわんと。聞きますよ、僕は。
あのね、ゆうときますけど僕は気ぃ強いですからね、ちょっとくらいなんか言われても平気ですよ。
せやから、言いたいことあったら、前へ出てきて堂々と、はっきりゆうてくださいね。
みんなもね、言いたいことあったら言おね。堂々と。
我慢したらアカンよ、言おね!」
会場からは割れんばかりの拍手喝采・・・

その人がその後どうしたかはわかりませんし・・・
そもそも何をしにきたのかもよくわかりませんが・・・
結局ジュリーの株を上げただけだったのかな??

いや、オトコマエですね~、ジュリーって、ホンマ!


ジュリーネタは尽きないのですが、も少しお付き合いを・・・。
次回は必見?「悪魔のようなあいつ」のお話を少々・・・。
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60過ぎてもやっぱりジュリー!

2010年07月19日 09時32分19秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
澤田研二さん――本名は同じと言えば同じですが・・・「さわ」が旧字体で
本当は「研」の字も少し違うのですが・・・変換で出ません。
右のツクリというか、”とりい”みたいな字の、
下の横棒が真ん中でちょっと切れている字がホントだそうで。確か。

1948年生まれ、バリバリの団塊の世代でいらっしゃいます。かに座のA型。
出身は京都・・・といわれていますが本当は鳥取県津ノ井村(現在は鳥取市)生まれ。
お母様のご実家ですな。ご両親お二人とも鳥取のご出身だそうです。
次男で、お兄様とお妹様がいらっしゃいます。

小学校時代はおとなしく、泣いてばかりだったそうです。
でも、早くから運動神経は抜群で、6年生の時には校内イチ足が速かったとのこと。
なのに階段から落ちて右手をついたときにつき損なって捻挫、
当時から野球少年だった研二少年、無理してボールを握っていたらだんだんひどくなり
病院へ行ったら「折れてるで・・・」。で、14針縫う大手術に・・・。
でも、その時は泣かず「野球が出来なくて困る」と、そっちの心配をしていたとか。

中学校ではガラッと性格が変わって強気になり、部活は当然野球部へ。
抜群の野球センスと人を引っ張る性格でキャプテンにもなりました。
4番で主将でエース・・・ではなくファーストでしたが。
「スポーツやってる奴は成績が悪い」といわれて腹を立て、猛勉強、
おかげで成績は音楽3以外4と5ばかりの、学年トップクラスの成績に。
でも、ご本人曰く「あ、俺はやればできるんやな、ということがわかったからやらなくなった(笑)」
ともかく、それまで弱かったチームを県大会で
ベスト4に入る強力チームに引っ張り上げた手腕もなかなかのものでした。
この頃は「番長」なるものが存在した時代です。
一般生徒には手を出さず、番長グループ同志では抗争もあったという、
古い任侠路線が中学生レベルにもあった時代。
研二少年も番長グループに属していたことがあり、ケンカもよくしたけど、
ある時放送室を占拠して勝手にコンサートやらかしたこともあるそうです。
でも、あまりにうまかったので一般生徒には大ウケ、先生も咎められなかったとか・・・。
考えてみりゃ、いい時代だったの・・・かな???
なんにせよその頃から将来の片鱗が見えていたのかもしれませんね。

高校時代はというと・・・
本当はプロ野球選手になりたくて野球の名門・平安高校へ行きたかったそうなのですが、
(熱狂的阪神ファン!!!うん、トーゼンだ!
いつか掛布雅之さんのとこを「僕の舎弟だよ?」と豪語していた。
実際掛布さんにリストバンドをもらったとか何とか。)
だけど諸般の事情でそれはかなわず、
京都府立鴨沂高校(当時は京大進学率ナンバー1といわれた名門の進学校)へ。
当時の同校の野球部は弱小だったので迷っているうちに、
強面のセンパイに引きずり込まれるように空手部へ。
瓦割りなんかも出来るほどそこそこ上達はしたそうなのですが
やはり野球と言う目標を失ってしまったせいかシラケ時代突入のせいか
勉強にも部活にも身が入らず次第に学校はサボりがちに・・・(今で言う不登校)

そうしているうち、友人の誘いで音楽活動を始め、
とあるバンドでバンドボーイとしてコキ使われている(?)時に、
府立山城高校の生徒たちのバンドに誘われてそこへ加入。
それが後にあの、あの!ザ・タイガースになる当時ファニーズというバンドでした。
オーディション等であの、あの!内田裕也さんの目に留まり、高校を中退して上京、
裕也さんの監修のもと、関西出身だから阪神タイガースにあやかってザ・タイガースと改名しデビュー。
それからあとはあれよあれよというまにトップスターの座に駆け上がりました。

ジュリーの愛称の由来は、ご本人が「サウンドオブミュージック」等で有名な女優の
ジュリー・アンドリュースさんのファンだったから。これはご本人が自分で命名。
デビューするとき、裕也さんはジュリーの芸名を「沢ノ井 謙」にしようとしたそうですが、
これは当のジュリー本人がものすごく嫌がったため、本名と同じで行くことになったのだとか。
・・・まあ、ファンには有名なお話です。

1966年秋に上京して、しばらくは裕也さんとライブハウスなどに出演、
当時のGSの晴れ舞台「日劇ウエスタンカーニバル」出演後、
1967年2月「僕のマリー」でレコードデビュー。

その後、出すレコードは飛ぶように売れ、GS時代全盛期の中心グループとして日本中を席巻。
しかしその活動はわずか4年で収束。GSブームはあっという間に去ってしまい、
ザ・タイガースも1971年1月24日で解散しました。

解散後は同じGS仲間で大人気だった、先輩のザ・スパイダースと、ほぼ同期のザ・テンプターズ、
そしてタイガースから2名ずつ参加して出来たPYG(ピッグ)に加入。
↓これは初期メンバーではないですが・・・
 左端はショーケンこと萩原健一さん。右端がジュリーですね。

しかしこの”スーパーバンド”は批判もあり長続きしませんでした。
事務所(渡辺プロダクション、通称ナベプロ)のほうでも、
ジュリーはソロ歌手として活動したほうが良いと意見がまとまり、
1971年秋には「君をのせて」でソロシングルデビュー。

PYGはメンバーチェンジを経て
ジュリーを支えるバックバンド「井上堯之バンド」に自然に変わって行きました。

そして1972年末の日本レコード大賞において「許されない愛」で歌唱賞を受賞。
それからはアイドル・ジュリーではなく歌手沢田研二と名実ともに認められ、
本格的な音楽活動をスタート。
現在に至るまで40年以上に渡って歌い続けていらっしゃいます。

最近は全国的なヒット曲が残念ながらありませんけれど、
昭和年代においては枚挙にいとまないくらいありました。
特筆すべきは1983年ごろでしたか、日本でリリースされたシングルの総売り上げ枚数が
日本一であった時期がありました。それももちろんソロになってからの分のみです。
「勝手にしやがれ」でレコード大賞を、同曲と「危険なふたり」で歌謡大賞を受賞、
日本人で初めてフランスでレコードをヒットさせゴールドディスクを受賞した実績もあります。

一方でテレビドラマや映画の出演も多く、舞台でのお芝居にも出演。
また一時はドリフターズの志村けんさんとのショートコントも大受けするなど、
何にでも意欲的で、全身全霊いつもホンキでぶつかる真面目で一生懸命なヒトでもあります。
「おれは日本一の見世物でっせ~。」と公言していた時期もあり、
また奇抜なファッションや化粧でビジュアル系のハシリを担ったこともあり、
常に時代の最先端を行き、何かと話題を振りまいて日本の音楽界、芸能界を引っ張ってもいました。
・・・・・・・

・・とまあ・・・ウィキでも見ていただければもっとずっと詳しく書かれておりますが・・・

これを参考文献なし、ソラで書いてしまう私はやはり筋金入りの(元)ファンでござります・・・。

が、昨今は、あまり表舞台に出ることはなくなってしまいました。
これは私の思うことですが、今は自分が大事にしたい仕事を中心にされているのかなと思います。

以前はみんなが求めるもの、やってほしいと思うものを率先してやってくれていました。
が、今はそうではなく、ウケを狙うのではなく自分らしさを一番に考えているのかな、と。
その中で、みんなに伝えたいメッセージももちろんあるし、
大事にしたい思いもあるのだと思います。

残念ながら私がジュリーに期待しているものは、今ジュリーが目指すものと違うみたいです。
ですので、私は今はファン活動をぶっちゃけ致しておりません。
でも、ジュリーには、自身が信じていることを、貫き通して欲しいと思います。

いい意味でヒトの言うことなんか聞きゃしない。頑固モノですよ・・・。
それがジュリーだと思っています。
一人の元ファンの願望などほっといてくれていい。
60歳になってもジュリーと呼ばれたいと若い頃おっしゃっていたのは実現しました。
70になっても80になっても、言われてください。
90、100まで言われてください。そしてステージで倒れりゃ本望じゃないですか。

・・・ま、そんなふうに私は思っています。
現役ファンの皆様、
これはあくまで私個人の感想ですので、さらっとスルーしてくださいね。
私はファンしていないけど、だからホントは偉そうに言っちゃいけないんでしょうが、
皆さんは日向でジュリーをがんばって応援してくだされば私も嬉しいです。
私は影でこっそり見守ることにいたします。


・・・・って、お母さん?????!!!!!

(それからどっか間違ってたらご指摘ください。ジンソクに訂正いたします・・・。)

・・・次回はジュリーの小ネタを少々。
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じゅ、じゅりぃいい~~~

2010年07月17日 21時46分00秒 | ジュリー・・・思い出雑記あれやこれや
やっぱ、ちゃちゃめのアーティスト話ににこの人ははずせないでしょうなあ・・・

今はファンというにはおこがましいと言う立ち位置におります。
ぶっちゃけCDも買いませんしライブへも行きません。
藤山直美さんとのお芝居(桂春団治さん役ですな)も見ません。
↓これね。

テレビに出ることがあれば見ますよ、録画するし。・・・でもその程度。
(もっともほとんどテレビ出演はありませんけど。)
もちろん全然キライではありません。
元気で活動されている知らせを聞けばほっとするし、100歳までやってくれと祈っております。
また、現役でファンをしておられる、特に近年ファンになられた方々のファンブログに
毎日お邪魔してはセンパイ面をさせていただいております。
(皆様、いつもエラソーでごめんなさい。)

まあ、ファンOBといったところです。

でも、昔むかし大ファンだったのはホントウですし、
「なんであんなに、あんなん好きやったんやろ?」などと言うような、
別れた元カレに対するような後悔のキモチは一切ありません。
めちゃめちゃ熱心にファン活動していた頃のジュリーは今でも好きです。
ていうか、それは自分の思い出につながるからですけどね。
主に1972年から1984年までが一番熱心にやってた頃で、
モロ青春時代にかぶるわけでして・・・
あ、部活もやってましたよ~、ちゃんと。勉強は・・・ほどほどで。

学校のクラス内でもジュリーファンで超有名で、クラスメートに
「お前うち帰ったら悠木千帆(現・樹木希林さん)みたいにポスター貼って
じゅりい~~てやってんねんやろ?!」としょっちゅう言われた。
(↓TBSドラマ「寺内貫太郎一家」の有名なシーンですね)

自分の結婚式の時、3歳からお世話になっているある恩師に
「ちゃちゃちゃんは、ジュリーの大・大・大ファンで、
いつもたくさんの情熱をジュリーに注ぎ込んでいました。」と、全面的に暴露された。

クラスの友達を半ば無理矢理コンサートに連れて行き、"ジュリー教”の信者を増やしていた。
(実際増えた。←そのうち一人は今も現役でファンしていて私より熱心。)

「今度のジュリーの新曲、なかなかええね。」と言われたら強引にレコードを貸した。
↓特にコレ!

「オススメの歌があったら誰のでもいいから録音して。」
とテープに録音を頼まれたら、必ず全曲ジュリーの歌を入れて返した。

ファン友達とテレビ等から録音したテープを交換し合って"コンプリート”目指した。

学生寮のコンパで、ファンである後輩とアコギで"勝手にしやがれ”を熱唱した。

朝の6時に大阪中央郵便局へコンサートのチケット申し込みにたびたび行った。
(郵送先着順で前から席を割り振られたので。おかげで毎回前から5列目以内でした。)
一度は洛北の果ての学生寮から後輩にバイクで送ってもらって阪急京都線の始発に乗ったことも。

・・・・こんな感じでした。

・・・みんなにはめちゃめちゃ迷惑やったやろなあ・・・。今更反省・・・。
でもねー、当時はジュリーはかなり売れていたので、
必ずひとクラスにひとりやふたりはファンがいたのよ。
ファンまではいかないけど、わりと好きやでと言うヒトもザラにいたのよ。
「キライやけど今度の歌は好き」とか、「ドラマは見てるよ」というヒトも結構多かった。
ファン仲間や、理解はできるというヒトが身近にいた時代です。
だから、みなさん好意的に見てくださってたと思います。

でも、天邪鬼ですから、ファンクラブにはほとんど入っていませんでした。
「FCなんかに入らんでもファンは出来る!!」
と主張していましたが、実は理由は他にありました。
①ライブできゃあきゃあ騒ぐのが苦手。そういうファンだと思われたくない。
 きゃあきゃあ・・・が悪いと言っているわけではありません。
 私はそんなんようせんし、静かに、自分の楽しみ方で楽しみたいと思うだけです。
 FCに入っていると騒ぐファンだ思われる、という思い込みがあったのですね。
 もちろん今は思ってませんよ、コドモのときの偏った考えですのでお許しを。
 それに、上記の行動をみると、いかにもきゃあきゃあ言って、踊りまくっていそうでしょ?
 でも、全っ然そんなことないんですよ。
 「ジュリー!!」なんて声援送ったことはただの一度もありません。恥ずかしくて、とてもようやらん。
 だから、”そういうファンだと思われたくない”んです。違うから。
 要はタダの自意識過剰。
②当時のジュリーのFCは所属事務所全体のFCだったので、いらんタレントもついてきて非効率。
③コドモなのでお金がない。
FCにようやく入ったのは自分で稼ぐようになってから。
それも、突然ジュリーが「休業宣言」を出して公の場に出なくなってから。
情報を得たいと思って、やっと重い重いオシリをあげました。
・・・遅すぎやっちゅーねん、とにかくなんか意地になって入らんかった・・・

FC入らなくても情報は手に入ったし、いい席もとれてたし、
それに歌番組全盛期、毎日どこかで歌番組をやってて、
毎日どこかでジュリーの顔が見られたのです、リアルタイムで。
ラジオ番組もいっぱい出ていたから、毎日どこかでおしゃべりもきけました。

ビデオ(DVDはもちろん論外)も1980年代入るまでは一般家庭にはめったに存在せず
従って録画はろくすっぽ出来なかったし、見逃したらまずそれっきりだったし、
録音はできてもほとんどモノラルばかりだけれど、
インターネットもyoutubeも一切なかったけれど、
出演した映画も、レンタルビデオショップなんてまだあまりなかったから
見たければお金を出して上映期間中に何度も見に行くしかなかったけれど、
または自主上映を探し出して行くしかなかったけれど・・・

・・・でも、今から思えば、すごく幸せだったなと思います。

↑最近のジュリー


・・・て、ジュリーについては何も書いてへんがな!!!

すみません、次回はご本人について・・・
・・・まあ、ご存知の方が多いとは思いますが?!
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