内倉真裕美の晴耕雨読

恵み野は「花の街」と言われています。HP「内倉真裕美のガーデニングダイアリー」もご覧下さい。

⑤1992年7月7日花と暮らし展 ⑥1992年7月21日むかしは良かった

2020年10月31日 10時43分18秒 | コラム

千歳民報ゆのみ

⑤1992年7月7日花と暮らし展

恵庭市政施工10周年を記念して開催されたのが「えにわ花とくらし展」でした。

昭和55年1980年に恵み野開発の分譲開始し、私もその時に土地購入、1988年に新居を構えました。
恵み野に移り住んだイメージは毎日タケノコがニョキニョキ生えるような新築ラッシュで、小学校は毎年春休みと夏休みに一クラス分の生徒が増える勢いで、来た2年後には特別クラスもなくなりプレハブでクラスを増設。
現在恵庭市7万人の内恵み野は1万2千人になり、新しく造成する土地も「恵み野」の地名を入れることで販売も進み地域の名前がブランドとなっています。
私は子供たちにここ恵み野を故郷となる場所にしたいと考えました。
その第一歩が読み聞かせやお芝居で子供たちに文化香るまちを育てる事。
もう一つが花の暮らしがある家々。ここで暮らす人々はガーデニングを楽しみ、美しい花や緑の街並みがある。
 
そんな街を夢見て1991年、30年前に『恵み野ガーデンコンテスト(途中からガーデニングコンテストに改め)』をスタートさせました。1軒ずつ自転車で廻り写真を撮り「勝手に審査、勝手に表彰」するやり方でガーデニングが広がりました。
其のキッカケを作ってくれたのが恵み野で1990年開催した『花と暮らし展』
進士五十八先生が「恵庭」と言えば「恵まれた庭」。正しくガーデンシティじゃないか?ガーデンでまちづくりをしなさい。その言葉で始まりました。
 
夢のようにステキなイベントでその時、杉尾邦恵さんが紹介してくれたニュージーランドクライストチャーチの「女性たちの庭」。
それを受けて、恵庭市の職員と市民13名でクライストチャーチに行きます。帰国後それを見た私は、同市を真似た『恵み野ガーデンコンテスト』を開催します。コンテスト開催後は、恵み野の夏祭り会場でガーデンコンテストの写真展プラス大きな紙芝居や人形劇の開催。
文化活動とガーデニング普及の発表の場となって行くのです。
その後、休む事なくガーデニングの街になるべく活動を加速させていきます。

 

 

⑥1992年7月21日「むかしは良かった」

兄が2人いる私は、子供のころから、どちらかと言えばおてんば。

山や川でよく遊んだものです。長男が中学生、次男が小学校高学年の頃、

畑を借りていた直ぐそばに廃墟のような大きな建物がありました。

二人の息子と友達で、その廃墟を探検に行った様子を描いたもの。

悪乗りの私は息子たちの好奇心に拍車をかけて、ゲキを飛ばしカメラを貸して報告を楽しみにしていたのですが

学校や教育委員会でも問題になったそうで。またまた子どもにも学校にも謝りに行ったお話し。

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③1992年6月9日サハリンから人形劇団がやってくる。④1992年6月23日サハリンから人形劇団がやって来た。

2020年10月29日 06時25分05秒 | コラム

私は、恵み野に住む前の6年間、虻田町に住んでいました。

そこで読み聞かせサークルと出会い、図書館で活動をして、

1988年3月、恵み野に移り住み、その年から親子の文化サークル「おはなしサンタ恵夢」が出来た。

 

1992年6月23日サハリンの人形劇団を「おはなしサンタ恵夢」で招いたことがありました。

新聞にこのことが掲載されたとき、千歳警察署から電話が鳴りました。

「新聞でサハリンから人形劇団が来る事を見たのですが、

どのような経緯で呼ばれるようになったのですか?」という内容。

ちょっぴり国際的になった「おはなしさんた恵夢」は警察から問い合わせが来るようになったのです。

 

迎えるために、ロシア語で親子であいさつも練習しました。

ズドラーストブィーチェ「こんにちは」

スパシーバ. 「ありがとう」

ダスビダーニャ. 「さようなら」「また会いましょう」

小学校での交流会と恵庭RBPの2回公演と、子供たちと家族の温かいもてなしもあって、素晴らしい公演になったのはいうまでもありません。

その時の写真や新聞の切り抜きは見つかったら載せることにします。

 

 

 

 

 

 

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92.5.①新たなる挑戦 ②恵み野少年少女野球大会 

2020年10月27日 19時02分07秒 | コラム

①「新たなる挑戦」1992年5月12日

そろそろ今までの活動を纏めなきゃいけないと、開かずの扉を開けて見たところ、

気が遠くなるくらい膨大な量の書類が詰まっていました。

 

やっとの思いで重い腰を上げた理由は

94歳になる母が手書きした自初伝を打ち込み、娘に誤字脱字、文章の手直しを頼んだところ

「お母さんも自分のもそろそろ纏めてね。私は出来ないからね」とやんわり言われたのが切欠でした。

娘とは有り難い物で、前へ前へ進み終わった物の整理整頓が苦手な私の性格をチャンと知っていて

チクリと針を刺してくれるのです。

と言うわけで最初に書いた1992年5月から千歳民報に掲載したコラム記事をスキャナ

で呼び込み、ブログ配信してみようと思います。

とにかく、今までしたことがガーデニングだけじゃなく多岐に渡る活動で、

ジャンルごとにまとめるにしても、時系列が訳が分からなくなっているのです。

では、一番最初のコラム。38歳のデビューです。

 

 

②「恵み野少年少女野球大会」1992年5月26日

何故、恵み野で「恵み野少年少女野球大会」をやる羽目になったのかを少しお話しします。

1989年町内会育成部を手伝ってくれないかと育成部長の草野さんからお誘いを受けます。

何も分からずにお手伝いした所恵庭市町内会育成部主催の野球大会があるので、子ども達を集めて欲しいと頼まれます。

長男シンゴの友達3人に声を掛けて9人集め、何度か練習をして大会に臨みます。

「何だ?町内会対抗と言うのにピッチャーの球は早いし、ルール知ってるし、チームのレベルが違いすぎる」

第1回戦で、ボロボロのコールド負け。

子ども達は話が違うと大騒ぎ!

そりゃそうだ、相手チームは皆、野球少年団チームの子ども達ばかりなのだ

帰りにラーメンをご馳走したが、子ども達の怒りは収まらない。

私も同じ気持ちだった。

おばさん(私)は子ども達に謝りに謝った。涙も出ないくらい悔しさと怒りも込み上げてきた。

私の子どもの頃の、町内会主催の野球大会と言えば

男の子も女の子もみんなキャッチボールしていて、

下手でもへなちょこでもみんなでチーム作って野球大会したものだ

完全なる私の思い込みで、連れて行った野球大会は大人で言うと草野球チーム対プロ野球選手の戦いくらいの開きがあった。

 

「冗談じゃない。こんな野球大会の出場はまっぴらごめん。来年からは絶対に出場なんかさせるもんか」

私は子ども達の前で担架を切った。恵み野流の野球大会をしよう。

男の子も女の子もやりたい子はみんなで野球大会しよう。

やったことのない子も野球大会に向けて練習すればいい。好きな子同士でチームを組んで、

お父さんでもお母さんでも監督になってもらえばいい。

このころになると、恵み野の空き地あちこちで、野球少年少女が練習する姿が見れた。

あるお母さんは

「うちの子運動音痴だからまさか野球するなんて思わなかったけれど、

自分からすると言い出し、亭主も喜び一緒にグローブ買いに行ってキャッチボールするようになった」

と喜びの声を伝えてくれた。

 

小学校の先生にも相談して行った野球大会は、兄弟が入っていたり、女の子もいたりバライティーに飛んでいた。

ルールの中には野球少年団に入っている子の人数制限を付けたりもした。

チームの名前はこちらで決めて旗をお母さんたちで手作りもした。

恵み野流野球大会は、チーム名をくじで引き当てるところから始まるのだ。

3回目にして総勢200名の野球大会になって大盛り上がりとなった。

そんなの様子を書いたのがこちらのコラムになります。

スタッフのお母さんたちになります。

第5回大会で小学生7チーム、中学生5チームになりました。

今思うと私ってお祭りの天才(天災)かも知れないね。

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