内倉真裕美の晴耕雨読

恵み野は「花の街」と言われています。HP「内倉真裕美のガーデニングダイアリー」もご覧下さい。

92.5.①新たなる挑戦 ②恵み野少年少女野球大会 

2020年10月27日 19時02分07秒 | コラム

①「新たなる挑戦」1992年5月12日

そろそろ今までの活動を纏めなきゃいけないと、開かずの扉を開けて見たところ、

気が遠くなるくらい膨大な量の書類が詰まっていました。

 

やっとの思いで重い腰を上げた理由は

94歳になる母が手書きした自初伝を打ち込み、娘に誤字脱字、文章の手直しを頼んだところ

「お母さんも自分のもそろそろ纏めてね。私は出来ないからね」とやんわり言われたのが切欠でした。

娘とは有り難い物で、前へ前へ進み終わった物の整理整頓が苦手な私の性格をチャンと知っていて

チクリと針を刺してくれるのです。

と言うわけで最初に書いた1992年5月から千歳民報に掲載したコラム記事をスキャナ

で呼び込み、ブログ配信してみようと思います。

とにかく、今までしたことがガーデニングだけじゃなく多岐に渡る活動で、

ジャンルごとにまとめるにしても、時系列が訳が分からなくなっているのです。

では、一番最初のコラム。38歳のデビューです。

 

 

②「恵み野少年少女野球大会」1992年5月26日

何故、恵み野で「恵み野少年少女野球大会」をやる羽目になったのかを少しお話しします。

1989年町内会育成部を手伝ってくれないかと育成部長の草野さんからお誘いを受けます。

何も分からずにお手伝いした所恵庭市町内会育成部主催の野球大会があるので、子ども達を集めて欲しいと頼まれます。

長男シンゴの友達3人に声を掛けて9人集め、何度か練習をして大会に臨みます。

「何だ?町内会対抗と言うのにピッチャーの球は早いし、ルール知ってるし、チームのレベルが違いすぎる」

第1回戦で、ボロボロのコールド負け。

子ども達は話が違うと大騒ぎ!

そりゃそうだ、相手チームは皆、野球少年団チームの子ども達ばかりなのだ

帰りにラーメンをご馳走したが、子ども達の怒りは収まらない。

私も同じ気持ちだった。

おばさん(私)は子ども達に謝りに謝った。涙も出ないくらい悔しさと怒りも込み上げてきた。

私の子どもの頃の、町内会主催の野球大会と言えば

男の子も女の子もみんなキャッチボールしていて、

下手でもへなちょこでもみんなでチーム作って野球大会したものだ

完全なる私の思い込みで、連れて行った野球大会は大人で言うと草野球チーム対プロ野球選手の戦いくらいの開きがあった。

 

「冗談じゃない。こんな野球大会の出場はまっぴらごめん。来年からは絶対に出場なんかさせるもんか」

私は子ども達の前で担架を切った。恵み野流の野球大会をしよう。

男の子も女の子もやりたい子はみんなで野球大会しよう。

やったことのない子も野球大会に向けて練習すればいい。好きな子同士でチームを組んで、

お父さんでもお母さんでも監督になってもらえばいい。

このころになると、恵み野の空き地あちこちで、野球少年少女が練習する姿が見れた。

あるお母さんは

「うちの子運動音痴だからまさか野球するなんて思わなかったけれど、

自分からすると言い出し、亭主も喜び一緒にグローブ買いに行ってキャッチボールするようになった」

と喜びの声を伝えてくれた。

 

小学校の先生にも相談して行った野球大会は、兄弟が入っていたり、女の子もいたりバライティーに飛んでいた。

ルールの中には野球少年団に入っている子の人数制限を付けたりもした。

チームの名前はこちらで決めて旗をお母さんたちで手作りもした。

恵み野流野球大会は、チーム名をくじで引き当てるところから始まるのだ。

3回目にして総勢200名の野球大会になって大盛り上がりとなった。

そんなの様子を書いたのがこちらのコラムになります。

スタッフのお母さんたちになります。

第5回大会で小学生7チーム、中学生5チームになりました。

今思うと私ってお祭りの天才(天災)かも知れないね。

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