内倉真裕美の晴耕雨読

恵み野は「花の街」と言われています。HP「内倉真裕美のガーデニングダイアリー」もご覧下さい。

3、こどもたちのふる里に!恵み野の歴史を作る!

2019年09月30日 08時09分37秒 | まちを舞台に

1988年3月子ども達が入学する恵み野小学校の説明会に向かう。

玄関の受付には沢山の人だかりが出来ていて、ココにいる人たちが、みんな転入手続きだということに驚いた。恵み野小学校は、春休み、夏休みの度に1学級の転校生が増え続けていた。

4年で入学したシンゴの学級は3クラスだったのに、6年の時には5クラスになっいて、特別教室は全て教室になり、それでも足りなくてプレハブの教室が増設された。マンモス校を解消すべく翌年、恵み野で2校目の小学校、旭小学校が新設された。

 

恵み野のまちも、新築ラッシュさながらで新しい家が建っていった。「タケノコ、ニョキニョキと同じ・・・」と本州出身者から聞いたが、タケノコはこんな風に出て来るのかと、北海道では見ることのない孟宗ダケの出る様子を建築ラッシュを想像しながら反対に思い浮かべた。

私が入った1988年3月には、恵み野の中に信号機が1つもなかったが、その年の秋、もしかしたら翌年だったろうか、駅の交差点に第1号基が付いてから、次々に信号機も建ち始めた。

 

ニュータウン恵み野に住み着いた人たちは、このように若い家族や定年退職になって家を建てた人、2世帯住宅も少なくなかった。

若い街は活気に満ちていた。誰でも受け入れてくれる空気も流れていた。学校の役員決めの時も、みんなが初顔合わせだったのに、専業主婦が多かったせいか役員も直ぐ決まった。

数年前から住み着いていた人から「恵み野は元気だけれど、恵庭には何もないのよね~~」という言葉が聞かれた。

「何もなければ自分たちで作ればいい。パリは1日にしてならず。歴史はそこに住む人たちが作ればいいのだから私たち新住民が恵み野の歴史をつくる!」私はそう宣言した。

私は自分で出来ることを考えた。恵み野に来る前に虻田町に6年住んでした。現在の洞爺湖町である。そこで、読み聞かせグループに入って虻田図書館で毎月活動をしていた。

恵み野に子ども達のふる里を作りたい。文化のかおるまちづくりの第一歩として、読み聞かせを開催することにした。

 

シンゴの4年生のクラスのお母さん方に声を掛けして、お話し会が始まった。クラスPTA会長の玉置さんは声楽を勉強して自宅でピアノ教室を主宰していた。話す言葉も音楽を奏でるように目を大きく開けて「いいわね~~」と胸に両手を握って話す彼女は、生涯お姫様の心を持つ人だろうと感じた。

彼女に恵み野でお話し会を作りたいと相談するとやはり「いいわね~~」の一言で沢山の人たちが集まった。きっとここに住むお母さんたちは、このような集まりを求めていたに違いない。毎月の例会はドンドン人が増えて親子で紙芝居や読み聞かせを楽しんだ。

新聞に掲載された布に書いた大きな巻物の紙芝居「大きな木がほしい」や大型紙芝居は虻田町で読み聞かせをしていた時に作った物で、車を走らせ虻田町まで借りにいったもの。口コミだけで80人が我が家に集まったのでふすまを外し、立ち見も出た。

面白い、面白いまちづくりの始まりです。

 

 

 

 

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2、恵庭市と恵み野の歴史

2019年09月29日 06時52分14秒 | まちを舞台に

恵庭市はJR函館本線にあって、北海道の玄関口千歳空港の隣で北海道の政令指定都市

札幌に向かう途中にあることから、北海道の中で最もJRの本数が多い場所で、利便性が高い位置にある。

恵み野は恵庭市と島松の間に作られた住宅街で札幌までJRで35分、札幌のニュータウンと呼ばれていた。

 

ここで、恵庭市の歴史を少し辿ってみよう。

1969年(明治02年)蝦夷地を北海道と改称して11国86郡が置かれ、胆振国千歳群なった。

1873年(明治06年)中山久蔵が島松で水稲(赤毛種)の栽培に成功。

  北海道でお米が作られるようになったのは中山久蔵の努力の賜物。

1880年(明治13年):漁村、島松村が千歳郡千歳村外五ヶ村の管轄となる。

1886年(明治19年)山口県岩国・和木地方から団体移民が漁川沿岸に入植。

1906年(明治39年):漁村と島松村を合わせて恵庭村とし、北海道二級町村制施行。

1970年(昭和45年):市制施行し、恵庭市となる。

1980年(昭和55年):恵庭ニュータウン恵み野分譲開始。漁川ダム竣工。

1982年(昭和57年):恵み野駅開業。イトーヨーカ堂オープン。恵み野小学校開校


恵庭市は明治39年漁村(いざりむら)島松村(しままつむら)が合わさり恵庭村になりその後、恵庭市になった。

漁村島松村は小さな政権争いがあって、漁村のある地域に北海道二級町村制施行され、恵庭村になった。

島松村は、ある意味漁村に敗北したことになる。

恵庭ニュータウン恵み野分譲は、島松と恵庭市の中心に出来た住宅街で、

仲が悪かった漁村(恵庭のある場所)と島松村の縁を取り持つ役割を持っていた。と聞いたことがある。

こうして1980年ニュータウン恵み野の分譲が開始。

分譲の2年後1982年、恵み野駅が出来、恵み野駅の隣にイトーヨーカ堂がオープン、恵み野小学校の開校となる。

37年間、恵み野の歴史と共に歩んできたイトーヨーカ堂が住民から惜しまれながら、

2019年9月29日、本日閉店となる。

やはり寂しい~~!

 

2013年東4丁目に「イーストガーデン恵み野」完成

2016年 北5丁目に「ノースガーデン恵み野」完成。人口12,023人、5,182世帯

2018年南5丁目に「スマートタウンふれる恵み野」完成

恵み野はこうして伸び続けてきた。

 

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まちを舞台に①はじめに

2019年09月28日 10時53分09秒 | まちを舞台に

恵み野に新居を構え移り住んだのが1988年3月。

今では「花のまち恵み野」と呼ばれるようになった恵み野。

私がここに来て「まちを舞台に」楽しい時を過ごしてきた31年の歴史。

少しづつまとめた方が良いかな、という気になって、

少しづつ、少しづつ記憶をたどりながら始めましょう。

 

 

1988年3月

長男シンゴ10歳4年生、次男ダイスケ8歳2年生、長女サユリ2歳

恵み野に決めたのは昭和55年5月、実家に戻り次男が生まれたばかりの病院のベットにいたときのこと。

主人(春男さん)が新聞を持って来て「恵庭に分譲住宅が出来ることになった。抽選会があるようだけど行ってみようかな?」

その言葉に、私は迷わず賛成!

 

そうして・・・

第1期の抽選会で恵み野の住宅地を引き当て、8年後の1988年、恵み野の住人となった。

 

「ホビーショップきゃろっと」を同時オープン。

きゃろっとは商店街に面していて、店舗付き住宅。

元々購入した場所は一般住宅で、ココに場所を変えるのを希望したのは私。

「駅に近く便利だし、趣味を生かしながらお店をしたい」と主人を説得。

どっちでも良かった春男さんは、面倒な手続きは自分ですることを条件に承諾してくれた。

 

そのころ虻田町(洞爺湖町)にいた私は、隣町の伊達市の銀行と恵み野にある住宅公社に

1日がかりで3人の子どもを連れながら、書類をそろえては何度も往復した。

時には書類が足りなかったり、ちょっとした不備で一日を棒に振ったこともあった。

お店をするにあたっても、独身時代仕事で取引のあった

札幌の手芸材料や生地を扱う問屋さんにも何度も何度も足を運んだ。

 

手芸店にしたのは取引先を知っていたのはもちろんだが、

物が腐らないし、子ども達が病気になったり行事があってお店を休んでも、

自分に負担が少ないこと、お客様にもそれほど迷惑を掛けなくて済むと見込んでの事だった。

 

住所移転と共に私と子どもの3人の生活と、会社員の春男さんの単身赴任生活がスタートを切った。

 

さて、1990年恵庭市恵み野を会場にして

第1回の「えにわ花と暮らし展」が開催された。

元々花や植物が好きだった私は、店舗前に花を植えた。

お洒落なコンテナもない頃で白いプランターと、なんちゃってハンギングバスケット。

ワイヤー型も2基制作して飾っていた。

ハンギングバスケット協会がまだ、ないころの話。

 

 

「この梁りは、まだ家が完成じゃないの?」とよく聞かれたが、建築デザイナーさんのデザインで

花を飾るのにはちょうど良かったのだが、

その後、カフェになることでデッキにしたり、

壁から雨水が入り込んで柱が腐敗して壁を張り替えたり、

コンサバトリーが出来たりと、表からの風景も何度も変って来た。

こちらが、現在2019年の「珈琲きゃろっと」の店構え。

31年経つとコノテヒバが大きくなっているのが良く分かる。

 

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