内倉真裕美の晴耕雨読

恵み野は「花の街」と言われています。HP「内倉真裕美のガーデニングダイアリー」もご覧下さい。

1989-10えにわ広報座談会「まち・ひと・ぶんか」

2021年01月20日 13時59分54秒 | まちを舞台に

私は1988年4月に恵庭に移り住みました。子育て真っただ中の30代の私は、お母さんたちと読み聞かせをスタートさせました。そんな私が、まちづくりに目覚めたのは「恵庭まちづくり研究会(恵庭まちけん)」との出会いが切っ掛けとなります。

自宅を開放して、読み聞かせをしたことが新聞に大きく掲載されたことがありました。その記事を見て恵庭まちけんメンバーの中島興世(前恵庭市長)氏が訪ねて下さいました。恵庭市職員で当時恵庭RBPに出向していた中島さんが「是非、恵庭RBPで活動をして下さい」という申し出に、「おはなしさんた恵夢」は何度となく恵庭RBPを使わせていただきました。例会をするごとに会場には200名以上の親子が詰めかけてくれました。

 

翌年の1989年のまちけんの例会に来て欲しい。との申し出をいただきましたが、「子ども3人置いて、夜の会合には出られない」とお断りした所「それじゃあ家に行きますから」と即決!あれっ?

恵庭まちづくり研究会は恵庭市職員の方々で組織されていて、聞くところによると

「別に規約も無し、会費も無し、会員も自由。月1回の例会をする。そんな緩やかな会で、市民の声を聴くのに自らの足で動き、声を聴き市民と共に恵庭をいい街にしていくんだ」中島さんからそんな話を聞いて、私がビックリ!!

恵庭の印象がスッカリ変わって「なんていい街に来たんだろう!!!」と胸をワクワクさせました。

ちなみに「恵庭まちづくり研究会」は全国沢山ある「まちけん」の先駆けでギネスにも掲載された実績を持っています。

その「えにわまちけん」が例会として我が家に来た時に、何か出し物を、といわれて、まちけんの為に講談を披露しました。

それがこちらで、扇子を持ってババンとやりました。

講談 期待を込めて

『まちけんを称える唄』内倉真裕美

恵庭のまちけん知ってるかい

驚きましたねこのまちけん

市の職員とは思えない

「小さな声で言いますが」

警察市役所 堅いとこ

用がなければ行きたくない  

でもでも違うこのまちけん

世なおし市なおしまちづくり

遠山の金さんもあっと おどろく外遊は

市民の声を聞きましょう。

手をつなぎましょう。ポンキッキ

恵庭を愛する心意気 内部のガンもスパーッと切る 

「いいのか いいのかオットット」

 建て前多い世の中で本音で生きるこの姿勢 

男のロマンはまちづくり

時間外も何のその  夢を求めた男達

役者を使えば映画になるよ

『イヨーッ』『金さん』

 これからの行く末は

多難の道も乗り越えて

3歩進んで2歩下がる

 市民の期待を背中にしょって 

そこのけそこのけまちけん通る 

「フレーフレーまちけんガンバレガンバレまちけん」

この時は約20名近くのメンバーが来られていて、7時~9時までの約束で、子ども達のお土産のお菓子に、自分たちの飲み物持参。市役所の部署は様々で、バリバリ仕事をしているみなさんという感じでした。気持ちが良かったのは、9時になったとき「さあ、9時だ帰るぞ~~」と波が引けるがごとく去って行ったこと。 

この時のみなさんとの出会いで、私が直面する様々なまちづくりの出来事に、色々とご支援やご協力いただいたのは間違いありません。

 

1989-10えにわ広報座談会「まち・ひと・ぶんか」

を仕掛けたのは当時広報室長だった林義男さん。林さんには、この後も随分公報に取り上げていただきました。

ちなみに恵庭の広報は林義男さんが室長だった時、広報で「総理大臣賞」を獲得した実績を持っています。

 

ぶんか鍋、ぶんか包丁の イメージしか浮んでこない 文化ってなあーに一

粟津  今度、何人かのお母さん方と一 緒に子供たちの前で即興の寸劇のようなことをやるの。上手にやる秘訣のようなものがありますか?

内倉  まあ、むずかしい.たとえば私 の場合、新しい人が会に入ってくるでし ょう。そうすると、初めての方はどうし てもはずかしがったり、緊張をするのね、 そんな時、私はいつも馬鹿をやってしま うの。すと~んと自分を落すというのかそうすると、自然とはずかしさをぬぐい さって、皆さん、役になりきっていくから不思議。はずかしささえぬぐいされば 皆、役者さんになれると思う。

粟津 まず私がすと~んと落ちればいいのね。 |

内倉 そうですよ。それと粟津さんがちょっと、はじめに、こんなふうにすればと、やってみたらどうかしら。そうしたら、新しい方はとても気持が楽になると思う。

粟津  そうですね。なんだか私があがりそう。(笑い)

内倉  今日のテーマは「まち・ひと・ ぶんか」ですが、文化ってなんでしょう ね。この前、あるグループの方と文化の話しをしたら、どうも文化鍋とか文化包丁のイメージしか浮んでこないって、皆 で笑ってしまったけれど。

掛水  なにか、文化、文化と叫ぶ人は 信用したくない気がします。語源がカル チャーで耕すということだから、内倉さ んや、粟津さんのように子供たちの心を 耕している方が、本当に文化の名にあたいするのではないかしら。

お金を払っても見れない ホタル。あれは自然の バロメーターだった。

斉藤 3人とも、観客とか読者とか対 象がはっきりしていて、その対象を引きのつけるための努力をしているわけだけど、 私の場合、いかにしたら、人が自然に目 を向けて、引き込むことが出来るか、そ れを今、真剣に考えているわけ。

粟津  私は恵庭に来る前、大雪山の見える自然にかこまれた場所に住んでました。でもはずかしい話、木の名前も、植物の名前もあまり知らない。

斉藤 名前を覚えることも大切だけれ 。 ど、私はまず自然の中に入るのが先よっ て言うの。このあいだ、茂漁川を上流から 歩いてみたんです。そうしたら、根の張った太い木があって、そこに子供たちが 基地をつくっている形跡があるのね。私こんな子供たちがまだいたことにとても嬉しくなって。

内倉  以前いたところはすぐ裏が山で、 お寺があって、子供たちは山を駈けまわって遊んでいたの。ところが恵み野に来て、子供たちに、日本庭園も公園を流れる小川もきれいでしょうと言うと、「な んにもきれいでない、嫌だ」というのね。 それでちょっと考えてみたわけ。本物の自然と比べたら、子供たちにとってみれ ば、みおとりもするし、遊ぶのにも限ら れるわけでしょう。子供のいう意味が本当にわかった。

掛水  子供は人工のものの中では十分 に満足しないのね。それよりも、本物の 自然の中に大きな魅力を本能的に感じて いるんですよ、きっと。そういう意味で は、今、恵庭のすすんでいる方向に、私 は危機感を感じている一人よ。 斉藤 川でも山でもきれいになり、整備され、衛生的になっていく。そのことが、近代的、文化的だと今までの開発者 は考え、計画をすすめて来たわけだけど、 今、これでいいのかという議論がでてきたのね。ふるさととか、回帰という言葉が使われだしたのは、やはり、人間が自 分たちの造って来たものに、不都合な部分が出て来たからではないのかしら。

掛水  私は皆さんと違って、恵庭で生 まれ、恵庭で育った。だから、ある時、 娘がホタルを見たいと言ったのね。昔は 川沿や田んぽによくいたの。でも、もういない。見たいものはお金を払えば、な んでも見ることの出来る世の中だけれどホタルはもう、お金を払ってもみれないのね。あれは豊かな自然を象徴するバロ メーターだったわけよ。

斉藤  恵庭はいま、あらゆる面で整備が進んでいる。そんな中で、恵庭の本来持っている豊かさ、よさ、そん なものを切り捨てていってしまっているのではないかと言う気 がします。

掛水  人口が増え、りっぱな建物がたち、都市化が進むことはいいことかもしれないが、私たちが年をとって、横文字だら けで、外に出ても歩くことも出 来ず、電車のキップも買えないような世の中だったら、ぞーッ とするわね。そんな風にだけは

施設はたくさんほしいけど - 禁止の貼り紙や注意事項の 多い建物はいらない

掛水  たとえば公共施設の庭の芝生は とてもきれいだし、広いスペースなので、 そこでお弁当でもひろげて食べたいなあ と思うのだけれど、「芝生には入らない でください」と書いてあるし、すぐにも おじさんが飛んで来そうで、とても気軽 に利用できるという具合にはなっていな いのね。

粟津  みどりのふるさと森林公園も桜公園もそれぞれ素晴らしいのですけど、 車でないと行けないという難点はあります。気軽にぶらっとくつろげる場所は意外とないんです。

内倉  市民のための施設は、本当にたくさんほしいけれど、走ってはだめ。あ れをしてはだめ。禁止の貼り紙や注意事 項の多い建物はほしくないの。やはり建物は人が利用するものだから、ただきれ いにしているだけのものであってほしく ない。絵とか、飾り物的な感覚で建物を管理しているのをみると情けなくなる。

斉藤  市民のための施設ではなくて、 施設を管理する職員のための施設になっ ているのね。行政の方でも、建物をつくったことに意義があるのではなくて、い かに使われているかに意義があるか、と いうふうに発想の転換が必要だと思うの。

内倉  施設を借りるのに、申請書とい うのがあって、印かんを持っていって、 手続をとるのね。それは必要なことだと思うけれど、有料、無料で係の方と一度議論したことがあるけれど、入場料をとったら使用料が有料という発想はおかしいと 思う。いずれにしても、こんなことなら、やめた!と言いたくなることもあるわ。

掛水  施設を管理する人の問題もあると思うの。文化に理解のあろ人が、もっと増えてほしいし、どんどん改革してほしいと思う。

時間をかけて話し合う、 その中から市民同志の 交流が出来て街が一つに

粟津 ふるさと創生資金というのがありましたね。

斉藤  水と緑のやすらぎプラン計画に7千万円と広報紙に書いてありましたけれど、私は個人的に言うと、ソフト面に 使ってほしかったな。

掛水  私もそう思う。たとえば留学資金とか人材育成にね。

内倉  どんなかたちで使われてもいい と思うけれど、決める過程というのかな あ、それがとても重要だと思う。市民が 喧々ごうごうとして討議しながらやって、 結果的には整備面に決めましたというこ とであればいいけれどね。アンケートをとるとか、意見を聞く場がほしかったわ。

粟津 時間もあまりなくて、まとめるにも大変だったでしょうけど.....。

斉藤  でも、時間をかけるということはとても大切なことだと思うわ。施設を 一つ造るのだって、住民の偉い人ばかりで決めるのではなくて、いろ んな人の話を聞いて、造って いく時期にきていると思う。 その中から、市民同志の交流もできて、まちそのものが一つにまとまっていくような気 がするのだけれど...。

|今日はお忙しいところ、 御出席いただき貴重な御意見 をお聞かせいただきありがと うございました。

 

 

 

 

 

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1993-10広報えにわ やったぞ!恵庭てづくり野外劇

2021年01月15日 13時24分21秒 | まちを舞台に

1993年8月28日恵庭市恵み野にある中央公園の野外音楽堂で市民手づくり野外劇を行いました。

準備期間2か月半で本番まで行った無謀といえる大イベントに総勢251名の出演者とスタッフが挑み。2000人の観客動員がありました。

前日の台風を吹き飛ばす程のエネルギーで実現した野外劇「エエンイワ」3日前に書類整理していて見つけた広報は、見返しても色鮮やかに当時のことが思い起こされます。

「エエンイワ」が出来たのだから、なんだってできる!!!と30年前のこのイベントは何時も私の中で残っている。

私、内倉真裕美は演出総括、衣裳担当しました。

※「エ・エン・イワ」は恵庭岳のこと。アイヌ語でとんがった山の意味

台風一過、星空が広がった8月28日夜。市民手づくりの野外劇「エ・エン・イワ」が恵み野中央公園で行 われた。幼児からお年寄りまで、出演者とスタッフを合わせると、総勢251 人が取り組みました。

芝生の観客席には親子づれや若者など約2,000 人が詰めかけ、野外堂開設以来、初めての野外劇を楽しみ ました。今回は、野外劇に携った方々に取材し、手づくり文化のあり方について特集しました。

 

台風11号が道東に上陸。27日夜 半から強い雨が降りだした。

雨は、28日早朝になっても、いっ こうに止む気配がない。それどころか雨 はより激しくテントを打つ。舞台設営の総括を担当する野呂田信義 さんのイライラも頂点に達した。舞台を 設営するために、三日前から泊まり込み で準備にあたって来たが、遅々として進 まないからだ。仲間からも焦りがひしひ しと伝わって来た。それからどれ程の時 間がたったことだろうか、そっとテント を開けて空を見上げると、幾分、小降り になってきたような気がする。

恵庭で初の市民野外劇「工エンイワ... ふるさとは時のながれを越えて」の開演は午後六時三十分。身動きがとれないま ま時間だけが過ぎて行く。このままでは 六月から手弁当で、こつこつと積み上げ て来た努力が無駄になる。 「晴れてくれ!」と、心で祈った。

遅い朝食をすますころ、嘘のように雨 が上がった。どうしてもやりたいという皆 の願いが天に通じたのだ。そして、正午、 「やるぞ!」と実行委員の一人が叫んだ。 作業が開始された。でも開演までに作業 が終えられるだろうかと思った。なんと かしなければと無我夢中で走り回る。

午後6時、ざっと見て1000人はいるだ ろう観衆が、ジーッと開演を待つ。

合言葉は楽しくやろう。 251人の気持が ひとつになった野外劇

「話しは、脚本も無いうちから盛り上が りましてね。そして、やるんだ!やるん だ!エエンイワ!ですね。とにかく人を 探せというところからスタートしたんで す。その根底にあったのは、吉弘さんの 活動してきた実績が、信頼されていると いうことです。いくらいい話しであって も、楽しくならない話しに人は乗らない んです。乗っかったら必ずいいことある よという信頼関係がありましたね」と、 演出総括、衣裳担当の内倉真裕美さん。

5月に、夢音館コンサートや恵夢のメ ンバーが中心となり準備会を発足。

6月10日に実行委員会を結成。80人 の会員が集まった。その後も、広告や会 員の口コミで仲間は増え続けた。

事務局を中心に大道具、会場、記録、 宣伝、プログラムなど9つの部で準備を 進め、それぞれ分担された。運営費は参 加者の入会金でまかなうシステム。大人3000円、中高生1,000円、小学生が500円。 。 しかし、これだけですべてをまかなうの

は難しい。PRも兼ねて市内の仮装盆踊 りに出場。獲得した賞金を運営費にあてた。 「なんで皆、こんなに夢中でやるんだろ うって考えたこともあります。後ろから 何かに押されているみたいに夢中なんで す。衣装や舞台づくりにしても普通は恥 ずかしいって考える仮装盆踊りにしても そうなんですが、外劇という目的に向 かってまっしぐらなんです。一人では弱 くても、目的持った仲間が集まると2倍、 3倍のパワーになっていくんですね」と 企画担当の野呂田佐智子さん。

自分たちで、楽しいことしよう。も 呼んで、楽しい思いをしてもらおう。そ れも、身銭を切って、準備して、演じて、 喜んでもらおうという気持ちが一つにな って、野外劇は創られていった。 「恵庭を、好き、嫌いは別にして、ふる さとの象徴となる山となれば恵庭岳と、 だれしも言うだろう。それは古い人も新 しい人も含めて皆の心のどこかに象徴と してあるだろうと思うんです。皆とコミ ュニケーションを図る基になれればと思 いましたね。もちろん、スタッフの間で

も合い言葉になりました」と、古山克之 さん。 狙いは成功した。ふるさとの野外劇活 動に共感が広がり、はじめは家族的なつ ながりが、やがて地域へ、そしてまち全 体へと大きな輪となっていった。

ふるさとの山 *工・エン・イワ、だから、 皆が集まり、燃えた」

主人公は「エエンイワ」。脚本は、「漁 川物語」や「シランパカムイ...森のカム イ...」などで、子供たちにふるさとの自 然の大切さを身をもって指導している、恵み野小学校教諭の吉弘文人さんが書き 下ろした。

「テーマを恵庭岳にしようと決めた時に、 え~、恵庭岳!市民の人は聞き飽きてる よ。と、僕は反対したんです。しかし、 そうは言っても市民は見てないと諭され、 そうなのかという感じ。要するに、頭で 分かっていてもやっていないことってよ くありますよね。それが恵庭岳なのかな。 市内ではキャッチコピーみたいに、どこ にでも出てくるんですが『ふるさとの山』 として見つめる取組みはどういうものな のかな?と考えたら、もしかしたらこれ かもしれないって思ったんです」と、吉 弘さん。

私たち恵庭市民が、朝な夕な仰ぎ見て きた恵庭岳。最近は、ビルの谷間で見え ない所も増えた。

恵庭岳が工エンイワだと知らない子供 も多い。親たちもそれほど関心がなくな って来ているのかもしれない。 「恵庭岳はこの辺で一番高い山ですよね。 僕は登山が好きで登ってみたいと思って いたんです。工エンイワと聞いたとき、 それは恵庭岳だというのが分からなかっ た。演劇で、山がどういうかかわりを持つ のか興味があったんですが、この山が、 ふるさとの基なんですね。そういうもの がテーマ的に凄くいいなと思いました」 と、種本肇さん。

皆が忘れかけたふるさとを、もう一度 見直す取組みを訴えかけようと脚本も出 来上った。実行委員会は、28日の公演実施を目指し、フル稼働し始めた。

応援にかけつけてくれた お父さんたち。すぐに スタッフとして大活躍

女性スタッフは、午前中恵み野西会館 で衣装づくり。午後は音楽堂や恵み野小 体育館で練習、手の空いてるものは資材 集めに奔走した。大道具担当の男性陣も 練習場に顔を出しては、場面に合う照明 や音響効果のチェックに余念がない。 「う~ん、低いな」と、スタッフ。舞台 バックの工エンイワが、スケッチと現場 イメージが合わないのだ。音楽堂の写真 を撮り、その上にイメージを描く。「奥 行きは」「風に耐えるか?」と、議論が 進む。最初、七mの梯子を三本組む計画 が、11の足場に変更された。

藤棚に敷くコンパネも不足している。 これでは演技に支障が出る。わずかな望 みを頼って交渉にいく。

「この時ばかりは、手伝ってくれたお父 さん方、すごいなと思いました。舞台の 主役である工エンイワは雄大でなければ ならないし、藤棚に敷くコンパネも安全 性に配慮しなくてはだめだとか、本格的 に計算し出したんですね。「出来上った山 は、私たちが初めにイメージしたものと ほとんど同じものが出来上ったんです」 と、事務局長の佐々木容子さんは感慨深げに話す。 「 方々から集められたシーツは、次々と

裁断され衣装に変身する。恵庭北高から 寄せられた学校祭の衣装も改良が進んだ。

公演も押し迫ったある日、「開拓者の 衣装は?」と、中学生が申し出る。衣装 部では用意する時間がない。「自分で考 えて用意しなさい」と、努鳴るスタッフ。 事情を知る中学生には、もう言葉はない。

8月26日に資材を搬入。トラック を運転し、先頭に立つ佐々木事務局長に 女性スタッフが続いた。

27日から舞台づくりに入ったが、 またまた男手が足りない。「助けて」の 悲鳴に、「手伝いますよ」と、お父さん たちが一人、また一人と応援に駆け付け てくれた。初対面のお父さんたちも、十 分後にはもうスタッフになりきっていた。

たがいに教え合い、 助け合う これが本当の教育の姿だ

演じたのは、幼児や小中高校生、大学 生、主婦や会社員など全員が、ステージは初めてという素人ばかり。

白鳥、ガン、鳥・動物、友人、捜索隊 とグループに分けられ、それぞれに分か れてのけいことなった。主婦や子供が多 い白鳥、ガングループは午後から、働い ている人が多い、その他のグループは夜 間に恵み野小体育館や野外音楽堂での練 習に励んだ。 「一番けいこができなかったのは動物さ んグループだったんです。このグループ には役員を兼ねた人が多くて、あちこち 動き回っていて、結局、本番を迎えたと いう人が多かったと思います。反省点で すね」と、振付担当もした内倉さん。

最終的にスタッフ全員が揃ったのは本 番の10日前。4歳から65歳までの二200数10人が出演者となった。連日、夜を 通うしての猛げいこが続いた。真っ暗な 野外音楽堂での練習もしばしば。

割りあてられた役どころには先輩も後 輩もない。皆が心を一つに演じなければ 成功しない。中学生の指摘にも、大人た ちは素直に従う。役にはまろうと必死な のだ。

しかし、台風などの影響で、一場から 十場まで、通しげいこはたった一回。音 合せや、照明の色合せはまったく不可能 だ。不安は残った。

本番の前日、けいこ中の出演者は一箇 所に集められた。 「いいか、もう誰も頼れないんだぞ。役 になりきり、自分で演じ切るんだぞ」と 演出の吉弘さんが皆に言い切った。

 

「練習を見ていたら、これはすごいわと思 ったんですね。教育そのものが目の前で 展開してるんです。互いに教え合い助け 合う。各人がそれぞれの意思で行動する。 盛り上がらせて引っ張って行くリーダー の情熱。それに引きずり込まれました」 と老人役の若浜五郎さん。

小川は漁川に、 藤棚は恵庭岳に みごとによみがえった

会場に一歩踏み込んだ観客は、そこに 造られた「エ・エン・イワ」の舞台に圧 倒されたことだろう。 「え〜!ここがあの野外音楽堂」と、観 客の声。

紺碧の空に向かい、毅然としてそそり 立つ恵庭岳。藤棚は裾野の台地に、ステ ージは広々とひろがる平野に、前を流れ る小川は漁川に変身していたのだ。 「恵み野に住んでみて、野外音楽堂は現 実には愛犬家たちの糞場所になっている んですね。昭和57年に造られ、その 後、活用がないまま古びていったのが恵 み野の野外音楽堂の実態ではないでしょ うか。恵庭の特徴というのか、施設はあ るんだが市民が利用しない。特に、屋外 施設や文化施設はね。これは、だれに責 任があるわけでもないと思うんです。で も、文化を創っていくのはやっぱり市民 じゃないのかなって。それと、施設を造 る時は、いろんな活動してる市民の声を聞いたほうが、よいと思います。

野外音 楽堂で、なにかやりたいって思ってたん です。そんな時、函館の野外劇を見て、 すごく悔やしかったんですね。函館は恵 庭よりボランティア活動盛んじゃないん ですよ。それなのに、あそこまでのもの 創れるんですから。恵庭だってできると 思ったんです。まわりを見渡すと『夢音 館コンサート』を主宰して演劇やミュー ジカル活動してる吉弘さんや、人形劇や ってる『恵夢』の内倉さんがいたんです よ」と、古山克之さん。

2000人の観衆が総立ち 「感動をありがとう」の 聞架が夜空に広がる。

かっさい

午後7時 老人と主人公の少年が立つ 客席中央にスポットがあてられた。この 光に導かれるように、2人はゆっくりと ステージに向かう。251名の願い がやっとかなった瞬間でもある。

物語は、すべての生命に道を示し、敬 愛される山工エンイワ。この山にまつわ る「伝説の火祭り」の真実を確かめよう とする創作劇。主人公の原野(げんや) 「の少年時代から、青年期、そして父親と なるまでを、恵庭ゆかりの人物も登場さ せて描いている。

自然に恵まれたかけがえのない故郷を |みつめ直し、心から愛していこうと、道 を見失いかけている現代人に切実と訴え

たものである。(全十場で構成)

ライトの光もようやく届こうかという 遠くから、ガンや白鳥たちが豊かな水と 大地を求めて飛来する。川をそ上するサ ケの群れ。ひょうきんで注意深い森の動 物たち。次々と繰り広げられる華麗な 「群舞」。イカダが川を行く。 「会場全体を舞台として熱演する出演者 や野外劇ならではの演出に引き込まれま したね」と、観客の一人。

月明りに照らされてうっすらと浮かぶ 工工ンイワの頂上に火が灯る。火祭りの 始まりだ。火は、頂上から裾野へとゆっ くりと広がる。「きれい!」と、女の子 が叫ぶ。さらにステージから会場へと広 がり、幻想の世界をかもしだした。

客席から自然と拍手が沸いた。2000人の観衆の中にもふるさとの山への思いが 広がった瞬間だ。

フィナーレを迎えたのは午後9時過ぎ。 出演者が舞台の中央に立つ。夜空を突い て「うぉ~」という、喚声と拍手。どの 顔も、成し遂げた者だけが得る、充実し た笑顔と涙にあふれている。 「感動をありがとう」

2000人の観衆が総立ちで称賛を送る。 あいさつの度に、かっさいは大きなうね りとなって夜空にこだました。

演技中にケガ でも、治療して参加。 舞台の外でもドラマ。

終演後、観客を見送るスタッフ。 「よかったよ、ありがとう」「またやっ てね」 と、たくさんの声が掛かる。 「上演中にケガをしてしまった中学生が いて、病院に連れて行ったんです。そし たら、病院の中で、最後まで皆と一緒に いたいから、治療がすんだら、会場に連 れていってねっていうんです。驚くやら 嬉しいやら、子供も舞台に魅せられてい たんですね」| と、古山さん。

「とっても良かった。誘われたのに参加 しなかった自分がくやしい。今度、やる 時は絶対声かけてね」 と、泣きつく子もいた。 「私は生まれた時から恵庭に住んでいる んですけど、中学校の時までは恵庭岳を 毎日見て生活していたんです。グランド からも見えました。それがいつの間にか 見なくなって。恵庭岳があることは頭の どこかにあっても、本当に見る機会はな かったです。忘れていたのかもしれませ んね。今回、工・エン・イワの歌詞を作 らせていただいて、もう一度、昔の自分 を思い出せるいいきっかけにさせていた だきました。一人一人がふるさとの山を持 って、その山を見る場所を持つってこと がとても大切な気がしました。それがま ちづくりにも活かされてくると思うんで す。そんな、まちに住みたいな」 と、中村春織さん。

キャプション 暗い舞台のそでで演出効果を高めた合唱団

「エエンイワってなに? という子供も多かった んです。でも、この劇 を通じて恵庭岳のこと だ、これがふるさとの 山だって、子供たちも わかったと思います。 これからも、ふと仰ぎ 見るとき、思い出して ほしいですね」と、野 呂田佐智子さん。

手づくりの温さと先 駆者の開拓者魂がひし ひしと伝わった。

演じた人も、観た人 もそれぞれに何かを感 じた野外劇。

恵庭のまちに広がれ、 手づくり文化のあり方を 示めした野外劇の心意気

「ご苦労さん」と、翌日後片付けに集ま る人々に声をかける佐々木容子さんの声 も明るい。何日もかけて造った舞台も、 あっという間にかたづけられた。 「やったという充実感。これはなにもの にも変え難いことです。自分一人で達成 した喜びでなく、大勢の人と一緒に完成 したという気持は、今の世の中ではあま り体験できないことです。本当に皆さん ありがとうと言いたい」と、佐々木さん。 「舞台が終わって『楽しかったね。また、何かやりたいね』皆がそう言ったんです。

これが何より素晴らしいことでした。そ して、大勢の市民の方々に協力していた だきました。この助けがなければ野外劇 はなかったと思います」と、内倉さん。

「一生記憶に残ることですね。まさしく、 文化が生まれたんですよ。今回の経験が 参加した人たちの人生観を変え、価値観 を高めたことと思います。一人一人が独 自の世界をつくることが大切で、それを つくるために文化があります。明治以来、 日本は文明を文化と勘違いして育ててき ました。文明は生活を便利にする技術な んですよ。ビルや車、テレビがそうです ね。文化は、人の心を育てるんです。価 値観ですね。しかし、文化を育てるのに はお金も掛かります。でも、文化のある 所には人も集まります。楽しいし住みや すいですから。この野外劇が、そういう まちづくりに発展していってほしいです ね」と、しみじみ語る若浜五郎さん。

野外劇「工エンイワ」は、文化の火を 灯した。この火が、あの火祭りのように 恵庭全体に広がる日もそう遠くない。

見てるよりも参加する。やらないより も何かする。そこから何かが生まれる。 それが文化の火かも知れない。 「ね~、恵庭岳登ろうよ」「えっ、いつ いつ」「皆はいつがいい」と、反省会の 席上で9月23日と決まった。

当日、小学校一年生から大人まで五十 人余りが参加。それぞれ一歩、一歩自分 でふるさとの山を確かめるために。

 

 

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市民の情熱にまちが動いた

2020年12月28日 09時34分45秒 | まちを舞台に

恵庭市のプロジェクト

市民の情熱にまちが動いた 花を素材につくりあげた時が経っても美しいまち

文:高橋さやか 写真:斉藤玲子

「花のまち」として、全国的に知られる恵庭市。「恵まれた庭」という地名にふさわしく、花と緑で彩られたまちは、市民が中心となり長い時間をかけてつくられてきました。
人の手がかかる花は、景観を美しくするだけでなく、関わる人の間にコミュニケーションを生み、まちを息づかせてきたのです。

2020年度の完成を目指して整備中の、道と川の駅「花ロードえにわ」周辺エリア。広大な敷地にはガーデンエリアを始め、市民や来訪者の交流場所となるセンターハウスなどがつくられます。新たな花の拠点となるこの場所で、花のまちづくりの中心となって活動してきた内倉真裕美さん(恵庭花のまちづくり推進会議会長)と、恵庭市花と緑・観光課の三浦貴大さんにお話をうかがいました。

 

ーー内倉さんがガーデニングに取り組んだきっかけは何だったのでしょう?

内倉:花とくらし展が1990年に開催された時に、ニュージーランドのクライストチャーチの花のまちづくりについてのお話があって、ガツンときたんです。環境コンサルタントである杉尾邦江さんの基調講演で、美しいまち並みのスライドを見ながら、こんなまちにしたいなと思って。

翌年に恵庭市役所の方と市民の有志の方が視察に行ったんですね。その報告会のスライドを見たときに、さらに感銘を受けて。「これだ!」と

1988年に私が恵庭に引っ越してきた当時は、恵み野という場所が新興住宅地で、信号機も何もなくって。新しい人ばかりでね、小学校も夏休みに1クラス春休みに1クラスと、どんどん増えていくような時期。私の子どもも、ちょうど小学生でしたけど、この子たちが大きくなった時に、ふるさととして誇れるような場所にしたいと思ったんです。ふるさとっていうのは、何もないところに誰かが作っていくことによってできていくから、自分たちで作っていこうと。

クライストチャーチのスライドを見て、理想のまちの姿に出会った内倉さん。思い描く花と緑があふれるまちを実現するため、自らが中心となって活動していきます。

内倉:クライストチャーチ訪問の報告会で、ガーデニングのまちになったのは、ガーデンコンテストをしたからだ、と聞いたんです。それで、「ガーデンコンテストを開催したいんです」と市役所に聞いたら、「造園業の方に相談してごらん」というので相談しに行きました。

お話ししに行ったのが、北集園の内田さん、サンガーデンの藤井さん、リョクサンの手島さん。みなさんちょうどクライストチャーチの視察にいった方だったから、「いいね。いいね」とトントン拍子に話が進みました。

最初の2年間は公募だったんだけど、3年目からは恵み野花探偵団という名前で、素敵なお庭を探して表彰する形に変えて。お祭り会場で表彰式をでやったことで、みなさん興味を持ってくれたみたい。ガーデニングをするお家がどんどん増えていきました。

婦人会なんかで集まる時にも、ニュージーランドで視察してきた上映会も混ぜちゃって。どんどん巻き込んでいくの。素敵なお庭の写真を見たら、みなさんやりたくなるんですよね。

そういった活動に加えて、恵庭というまちがもともと花苗の生産が盛んだったということが大きいですよね。
商店街の前の大きな花壇桝も昔は雑草だらけだったの。

三浦:商店街の花さんぽストリートも内倉さんが周りに声をかけて、みなさんやる気になってくれたんですよね。

内倉:2014年にバリアフリー工事をすることになって、商店街として花壇桝をきれいに管理していくことにしようって。みんなにスライド上映会をしたんです。
「あまり手がかからず、かっこいい花壇にしましょう。ひとりひとりのお店の看板になるような庭をつくりましょう。」とお話ししたら、みなさん参加表明してくれたんです。

まちづくりは、人を巻き込むから楽しい

 

 

内倉さんが中心となって「花の通り」に変貌をとげた恵み野西商店会は、1995年に第1回北海道花と緑のまちづくり賞を受賞。恵み野花づくり愛好会も、同年に第5回全国花のまちづくりコンクールで建設大臣賞を受賞します。
そのポジティブな行動力の源をたずねると、「これだ!と思ったら、すぐに行動しちゃうの。寝てられないくらいに。」と笑顔でこたえてくれました。

ーー内倉さんをはじめとした花のまちづくりに、市役所はどう関わってきたのでしょうか?

三浦:みなさんの思いを形にしたいと、必死に食らいついてきた感じですね。ただ思いがすごすぎて。(笑)

内倉:「内倉さんのやってることは人を巻き込みすぎる」って言われたことがあるの。でも、まちづくりって人を巻き込むものだし。その方が楽しいじゃない。

ガーデンコンテストをするところから始まって、小さな積み重ねですよね。最初は写真も36枚撮りのフィルムで撮っていたのよ。

この花の拠点も、数十年前からの夢。自分の庭づくりに、商店街の整備、オープンガーデン・・さまざまな取り組みをしてきましたけど、こんなにトントン拍子にいくとは。

市役所のかたは、当初から見守ってくれて。冷たいことを言われた時もあったけど、実現するために、計画を作ってくれたり、環境を整えてくれたというのはありがたいですよ。

三浦:恵庭のまちづくりって、もともとは情熱的な市民の方が中心となって進めてきたものに、なんとか行政も同じ方向を向いてやってきた、というところがあります。当時の担当者が「花のまちを盛り上げていきたい」という強い思いを持っていたことも大きいですね。

雑誌のガーデニング特集で取り上げられるなど、恵庭が「花のまち」として全国的に知名度を上げていく中で、来訪者のマナーの悪さで住民が困るという問題も生じるように。また、一緒にまちづくりを盛り上げてきた仲間からも、不満の声があがり、花のまちづくりについて、市民と行政が向き合うきっかけとなりました。

内倉:ガーデンコンテストで写真を撮って紹介していたら、市民の方から「あそこに花を植えていいのか?」という声があったり。商店会の会長が、「俺たちが花を植えて、行政からは補助金も何もないんだ、内倉さん市役所に行ってこい」と言われたりね。その都度、市の方に相談してきました。
紆余曲折を経て、1998年には、えにわ花のまちづくりプランができて、花と緑の課が新設されたんです。時間がかかっても一緒に盛り上げてくれるんですよね。

三浦:情熱に押されたんだと思うんですよね。何か問題が起こったからといって、全部なしにするのではなく、ルールづくりだったり、うまく見てもらえたり楽しんでもらうにはどうしたら良いのかを行政として一緒に考えてきました。

 

ステップアップしていく花のまちづくり

市民の情熱が行政を動かす形で進んできた恵庭の花のまちづくりは、あらたな過渡期へときています。

ーーまちづくりは、20年30年の下地があって花開くものですが、今後、花のまちづくりをどうつないでいくのでしょう?

三浦:いま恵庭市の花のまちづくりは、ステップアップしていくところにあります。2020年の花の拠点「はなふる」の完成、2022年の全国都市緑化北海道フェアと大きなイベントが控えています。1990年の花とくらし展が起爆剤となって、花のまちづくりが加速したように、ステージが上がるものになっていけば・・と話していますね。

私たちとしても、10年20年先を想像し、市民のみなさんから要望をいただきながら、一緒にやっていけることを考え、取り組んでいるところです。
内倉さんのようにバイタリティある方は稀有な存在ですが、若い方も増えてきているので未来は明るいのではないかと。

 

内倉:30代40代のみなさん、すごく良い方ばかりで。リーダー的な方がたくさんいらっしゃるの。今は働いてる女性が多いから、社会の仕組みを理解してるのね。みんな知的ですよ。

三浦:内倉さんの思いにみんながついていった時代を経て、今は、みんなが意見を出して、今後の花のまちをどうしていくのか、話し合いながら進んでいます。議論できる場がつくられている印象ですね。まちづくりとしては、色々な方の意見が入ってきているので、すごく良い形になってきて。もっともっと盛り上がっていくと思います。

「通過するまち」と言われることもある恵庭ですけど、札幌へ向かう途中で、一度足をとめて見てもらえたらいいですね。

内倉:恵み野に子ども達が戻ってきてくれてるんですよ。商店街も息子たちが入ってきて。第二世代が育ってきたということは大きいですね。戻ってくるなんて思ってもみなかった。

昔は「ふるさとがどこなの?」って言われた時に、恵庭ってわからない人が多かったんだけど、今は「花で有名なところね」って言われるようになって。息子の友達が東京の大学に進学した時にそう言われて、その子のお母さんがすっごく喜んでいました。30年前は想像もつかなかったですね。

花は材料。まちづくりが主たるもの。お花って怒る人いないし、心が安らぐでしょ。老若男女みんなが良いと思えるもの。だから、素材がよかったんです。

子どもたちにふるさとを残したい。何もないところに誰かが作っていくことで、それが実現できるのなら、自分たちで作っていこうと始まった、花のまちづくり。30年の時を経て、恵庭は子どもたちが戻ってくるまちになりました。
「少なくとも衝突ゼロではなかった」と、これまでの歩みをふり返る内倉さんと三浦さんですが、時にぶつかり合いながら市民と行政が一体となって、進んできました。新しい世代へと引き継がれ、育っていく花のまちのこれからが楽しみです。

写真⑮ キャロット前で

 

https://www.takibi-connect.jp/town/eniwa/project/49

タキビコネクト作成 

 

 

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鬼滅の刃

2020年11月15日 22時51分42秒 | こんな時はバーバにお任せ

1、バーバと孫の関り、今回は120点の出来!

孫との関りで大事にしていることがあります。それは時代の波に乗る努力を怠らないこと。あやしておんぶして、クリスマスプレゼントを買って、お年玉を上げたりしている内に、孫はいつの間にか大きくなって、社会性が出来てきて、バーバは段々見捨てられていく。だからこそ時代の波に乗り遅れないように努力するのです。それがバーバの心得のひとつ。

アニメ映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』を孫たちと見に行くことにしました。

ヤフーニュースでは、アニメ映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の人気が衰えない。公開からもうすぐ1カ月を迎える現在も、各映画館ではバスの時刻表並みの上映回数が続き、客足も絶えることなく盛況が続く。10月16日に公開されたアニメ映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の最新の興行収入が9日、発表された。初日から24日間(8日まで)の動員数1537万3943人、興行収入204億8361万1650円を記録した。歴代興行収入ランキング(邦画と洋画含む)では、『ハリーポッターと賢者の石』(2001年)の約203億円を超え、5位にランクインした。きっとハリーポッターと賢者の石も超える位の勢いがあります。

 

孫たちと一緒に見に行くにあたって予備知識も大事。今回は「無限列車編」調べると単行本8巻まで読んでいるとバッチリのようです。バーバは孫が可愛い。その孫が「このくそババー」なんていう日が来たら悲しすぎます。だから時代に取り残されないようにと頑張ります。そんなわけで少しばかり下心あって読みだした「鬼滅の刃」でした。最初は人物や鬼の種類が多いので混乱したのですが、読み進むうちに面白みにハマっていきました。

 

ネタバレから

「鬼滅の刃」は、大正時代を舞台にした和風ファンタジーで、主人公・竈門炭治郎(かまど・たんじろう)の家族が鬼に殺され、そして鬼にされてしまった妹・禰豆子(ねずこ)を人間に戻すため一緒に旅に出るという物語。そして禰豆子を人間に戻す手がかりを掴むため、炭治郎は鬼を討伐する「鬼殺隊」に入るべく、鱗滝左近次(うろこだき・さこんじ)に弟子入りし、2年にわたる修行に励みます。そして「最終選別」と呼ばれる、鬼殺隊入隊の最終試験に臨みます。炭治郎は見事ここで生き残り、鬼殺隊への入隊を果たします。

鬼殺隊入隊以降、ブラック企業のように、傷つきながらも休み無しで鬼狩りの任務をこなし続けます。その過程で、鬼達のボスであり、自分の血を人に分け与えることで、鬼を生み出す元凶である鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)の存在を突き止めます。

同時に、鬼でありながら無惨に抵抗をする医師・珠世(たまよ)と出会い、禰豆子を人間の戻す手がかりを掴むため、無惨の血が濃い「十二鬼月」と呼ばれる側近の血を集めるというミッションが課せられます。

続いて元十二鬼月の響凱(きょうがい)を倒す、「鼓屋敷編」と呼ばれる任務の過程で、炭治郎は2人の仲間と出会います。鬼殺隊同期の我妻善逸(あがつま・ぜんいつ)と、嘴平伊之助(はしびら・いのすけ)です。

善逸は金髪で女好きで、極端に臆病者のヘタレという性格をしています。伊之助はイノシシのかぶり物をかぶっている見た目が特徴で、幼少期を山の中でイノシシに育てられたという設定から、「猪突猛進」をそのまま体現したかのような野性的な性格をしています。

「鼓屋敷編」以降、3人は行動を共にするようになり、映画の「無限列車編」に至るまで寝食を共にするようになります。それまでは炭治郎は孤独の戦いを強いられていましたが、強くなるための修行まで仲間と共に過ごすようになります。劇場版でも、3人は見事な共闘を演じます。

こうして、炭治郎、善逸、伊之助の3人と、禰豆子を加えた4人が主要登場人物となり、物語は劇場版で描かれる「無限列車編」へと進むことになります。「無限列車編」はこの4人がはじめて共闘するミッションでもあります。

後半部分では、主人公の竃門炭治郎は直接戦いに参加しません。主人公属する鬼殺隊でも指折りの強さを誇る「炎柱」煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)が戦います。対する相手も、敵方の鬼勢力の中でも五本指には入る強さの「上弦の参」猗窩座(あかざ)が戦います。

劇場に入るときは、やはりポップコーンとドリンクは欠かせません。私は普段コーラは飲まないのに映画館では必ずポップコーンとコーラのセットと決めています。

孫たちには押し付けにならないように自分達で好きな物を選んでもらい、さあ劇場に向かいます。

無限列車編の主人公は竃門炭治郎よりは「炎柱」煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)といえます。煉獄杏寿郎は父との確執がありました。そんな杏寿郎は幼少の時に母を亡くします。その母が杏寿郎に言った言葉に泣かされます。

杏寿郎は鬼の「上弦の参」猗窩座(あかざ)と戦っているときに幼少のころを思い出します。

病床の母が幼い杏寿郎に言います。 母「杏寿郎」  杏寿郎「はい母上」  母「よく考えるのです。 母が今から聞く事を  なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか?」  正座をした幼い杏寿郎は考えます。考えて、考えて杏寿郎は「わかりません」と応えます。   母「弱き人を助けるためです。 生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。 天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは、強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。 決して忘れることなきように。 私はもう長く生きられません。 強く優しい子の母になれて幸せでした。 あとは頼みます」

 

杏寿郎は戦いに敗れる間際につぶやきます。「母上俺の方こそ、貴方のような人に生んでもらえて光栄だった」

 

煉獄さんは鬼との戦いで目もつぶれ、鬼の腕がお腹に貫通しながらも、炭治郎、善逸、伊之助の3人を呼び、伝えます。「俺がここで死ぬことは気にするな 柱ならば 後輩の盾となるのは当然のだ 柱ならば誰だって同じことをする そして今度は君たちが鬼殺隊を支える柱となるのだ 俺は信じる 君たちを信じる」

 

杏寿郎は死の淵で母を見ます 「母上 俺はちゃんとやれただろうか やるべきこと 果たすべきことを、全う出来ましたか?」   母「立派に出来ましたよ」 煉獄杏寿郎は笑みを浮かべて息をひきとる。

私は映画を見ながら涙でぐしょぐしょになりました。

孫たちも面白かった~~と大喜び。

私は隣の席に座った気弱で泣き虫の1年生のギンジに言います「煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)さん優しくて強くてカッコよかったね」 ギンジも頷く   バーバ「お母さんも優しくて、いいお母さんだったね」   ギンジが「キレイな人だったね」と言う。

ここですかさず「ギンジのママと一緒だね」と付け加える。  ギンジ「うん」と頷く。

孫と一緒に行った、アニメ映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』はバーバとしては120点の価値がありました。まさしく道徳を教えるチャンスに恵まれました。

●孫と想いを共有出来た。

●孫に優しくて強い子になって欲しいとやんわりとさり気なく伝えることが出来た。

●孫も優しくて強い人にきっと憧れるだろう。

●大好きなママが更に好きになったに違いない。優しくて強い僕のママは、優しくてキレイでカッコいいママなのだ。『僕も杏寿郎のように優しくて強くならなきゃ』と心の中に芽生えるのを期待しよう。

こんなことは中々言葉で教えられるものじゃありません。タイミングが大事だと思います。人は自分で感じて行動をおこします。いくら良いことだからと言い続けても本人が自分で感じて受け止めなくては伝わらないのです。今回はバーバはこんな風に、芽生えた感情にほんの少しだけ一押しすることが出来ました。

帰りの車の中では劇場版のCDを購入し大音量で聞いて来ました。6年生のハナちゃんと、今回2度目のマッピーも一緒になって歌ってたよ。楽しかったね。孫とのデートは実に楽しい時間です。

 

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2019.10.13千歳民報 渡辺篤さん記者コラム

2020年11月14日 15時26分06秒 | テレビや雑誌に紹介

2019年10月13日

千歳民報千歳支局の渡辺さんが記者コラム「風」に私の事を書いてくれました。


自転車に乗って恵み野ガーデンコンテスト審査用の写真を、

学校や幼稚園に通う我が子を送り出してから店(きゃろっと)の開店前まで、約2時間。
何日もかけて20年近く続けてたかな~
写真を撮って回ったあの時を思い出しました。


あれから30年が経ったんですね。
あの時は私も30代、今の子ども達の年齢。
若かったよね~


そして、飽きっぽかった私が、ほゞボランティアで、
今も「花のまちづくり」に没頭していられるのは、何故?
何が私を突き動かいしているのかな・・・


私の中の「花のまちづくり」の原点を思い出しました。


渡辺さんどうもありがとうございました。

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⑦1992.8.18今年のキャンプ ⑧1992.8.4夏まつり 

2020年11月04日 08時23分29秒 | コラム

⑦1992.8.18【今年のキャンプ】

一番最初のキャンプは虻田町(現在洞爺湖温泉町)に住んでいたとき、シンゴも大輔も虻田町の保育園に通っていたころでした。

家族で大磯の浜に行って購入したてで箱に入ったままのテントを広げると、パーツが足りなくて片側だけの足で、傾いたテントスタート。主人の盆休みにはこのテントを持参して洞爺村の浮御堂付近キャンプを想像しての試しテントでしたが腰砕け。しかし、この年からキャンプが始まります。

虻田町に住んだ6年間は勿論、恵み野に移り住んでからもシンゴが中学校3年までの約10年以上は洞爺村に通い詰めたはず。

毎年キャンプでは必ずと言っていいくらい雨に当たっていたので、主人の雨対策は万全で親戚家族や友達家族と一緒の時でも、大きなブルーシートでテントを丸ごと覆い、快適空間で食事をしたり、大雨時には知り合いのペンションに逃げ込んだり、モ―タ―バイクに乗せてもらったり。子ども達は穏やかな湖で一日中、海老を捕ったり泳いだり

そのころの洞爺湖は今みたいにお客さんも多くなく、温泉街で行われる花火にはモーターボートで近くまで行って船上花火を楽しんだり、村の盆踊りに参加したり、思い出多いキャンプでした。

キャンプを再開したのは、子ども達がそれぞれ家庭を持つようになってから、支笏湖キャンプに行きました。近年は第2次キャンプブームが到来したこともあり洞爺村に挑戦しましたが、あまりにも人が多くあきらめ掛けたころシンゴの知り合いが仲洞爺でペンションとカレー屋さんをしていた場所にテントを張らせてもらって洞爺湖キャンプを実現したものの、それからは森のキャンプに変更。今年のえこりん村キャンプは大正解!シンゴの子どもの頃の領土のような漁川の遊びも加わって孫たちも大はしゃぎで迎えることが出来ました。

キャンプ事情もこうして時代と共に変わるものですね。変わって嬉しいのが、ワンタッチテントにキャンプ道具の進化です。オシャレで機能的でこれならキャンプが大流行するのも頷けます。

 

⑧1992.8.4【夏まつり】

恵み野夏祭りは当初恵み野西商店会が開催していました。ショッピングモールの方々で始めていたのを商店会も参加し主催するようになりました。2月には恵み野駅で冬祭りも行い雪像を造ったりしたことも。現在はキャンドルナイトに変わっています。

コラムのにも書いていますが、虻田町に住んでいたころ伊達市大滝で開催された渓流まつりに行った時、水色の大きな石畳の上に桟敷席が組まれていて、その上で焼肉を食べたり演歌歌手が歌ったり。今、インターネットで調べてもあの時の写真を見つけることは出来ません。

バブル時代だったから出来たのでしょうか?

 

 

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⑤1992年7月7日花と暮らし展 ⑥1992年7月21日むかしは良かった

2020年10月31日 10時43分18秒 | コラム

千歳民報ゆのみ

⑤1992年7月7日花と暮らし展

恵庭市政施工10周年を記念して開催されたのが「えにわ花とくらし展」でした。

昭和55年1980年に恵み野開発の分譲開始し、私もその時に土地購入、1988年に新居を構えました。
恵み野に移り住んだイメージは毎日タケノコがニョキニョキ生えるような新築ラッシュで、小学校は毎年春休みと夏休みに一クラス分の生徒が増える勢いで、来た2年後には特別クラスもなくなりプレハブでクラスを増設。
現在恵庭市7万人の内恵み野は1万2千人になり、新しく造成する土地も「恵み野」の地名を入れることで販売も進み地域の名前がブランドとなっています。
私は子供たちにここ恵み野を故郷となる場所にしたいと考えました。
その第一歩が読み聞かせやお芝居で子供たちに文化香るまちを育てる事。
もう一つが花の暮らしがある家々。ここで暮らす人々はガーデニングを楽しみ、美しい花や緑の街並みがある。
 
そんな街を夢見て1991年、30年前に『恵み野ガーデンコンテスト(途中からガーデニングコンテストに改め)』をスタートさせました。1軒ずつ自転車で廻り写真を撮り「勝手に審査、勝手に表彰」するやり方でガーデニングが広がりました。
其のキッカケを作ってくれたのが恵み野で1990年開催した『花と暮らし展』
進士五十八先生が「恵庭」と言えば「恵まれた庭」。正しくガーデンシティじゃないか?ガーデンでまちづくりをしなさい。その言葉で始まりました。
 
夢のようにステキなイベントでその時、杉尾邦恵さんが紹介してくれたニュージーランドクライストチャーチの「女性たちの庭」。
それを受けて、恵庭市の職員と市民13名でクライストチャーチに行きます。帰国後それを見た私は、同市を真似た『恵み野ガーデンコンテスト』を開催します。コンテスト開催後は、恵み野の夏祭り会場でガーデンコンテストの写真展プラス大きな紙芝居や人形劇の開催。
文化活動とガーデニング普及の発表の場となって行くのです。
その後、休む事なくガーデニングの街になるべく活動を加速させていきます。

 

 

⑥1992年7月21日「むかしは良かった」

兄が2人いる私は、子供のころから、どちらかと言えばおてんば。

山や川でよく遊んだものです。長男が中学生、次男が小学校高学年の頃、

畑を借りていた直ぐそばに廃墟のような大きな建物がありました。

二人の息子と友達で、その廃墟を探検に行った様子を描いたもの。

悪乗りの私は息子たちの好奇心に拍車をかけて、ゲキを飛ばしカメラを貸して報告を楽しみにしていたのですが

学校や教育委員会でも問題になったそうで。またまた子どもにも学校にも謝りに行ったお話し。

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③1992年6月9日サハリンから人形劇団がやってくる。④1992年6月23日サハリンから人形劇団がやって来た。

2020年10月29日 06時25分05秒 | コラム

私は、恵み野に住む前の6年間、虻田町に住んでいました。

そこで読み聞かせサークルと出会い、図書館で活動をして、

1988年3月、恵み野に移り住み、その年から親子の文化サークル「おはなしサンタ恵夢」が出来た。

 

1992年6月23日サハリンの人形劇団を「おはなしサンタ恵夢」で招いたことがありました。

新聞にこのことが掲載されたとき、千歳警察署から電話が鳴りました。

「新聞でサハリンから人形劇団が来る事を見たのですが、

どのような経緯で呼ばれるようになったのですか?」という内容。

ちょっぴり国際的になった「おはなしさんた恵夢」は警察から問い合わせが来るようになったのです。

 

迎えるために、ロシア語で親子であいさつも練習しました。

ズドラーストブィーチェ「こんにちは」

スパシーバ. 「ありがとう」

ダスビダーニャ. 「さようなら」「また会いましょう」

小学校での交流会と恵庭RBPの2回公演と、子供たちと家族の温かいもてなしもあって、素晴らしい公演になったのはいうまでもありません。

その時の写真や新聞の切り抜きは見つかったら載せることにします。

 

 

 

 

 

 

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92.5.①新たなる挑戦 ②恵み野少年少女野球大会 

2020年10月27日 19時02分07秒 | コラム

①「新たなる挑戦」1992年5月12日

そろそろ今までの活動を纏めなきゃいけないと、開かずの扉を開けて見たところ、

気が遠くなるくらい膨大な量の書類が詰まっていました。

 

やっとの思いで重い腰を上げた理由は

94歳になる母が手書きした自初伝を打ち込み、娘に誤字脱字、文章の手直しを頼んだところ

「お母さんも自分のもそろそろ纏めてね。私は出来ないからね」とやんわり言われたのが切欠でした。

娘とは有り難い物で、前へ前へ進み終わった物の整理整頓が苦手な私の性格をチャンと知っていて

チクリと針を刺してくれるのです。

と言うわけで最初に書いた1992年5月から千歳民報に掲載したコラム記事をスキャナ

で呼び込み、ブログ配信してみようと思います。

とにかく、今までしたことがガーデニングだけじゃなく多岐に渡る活動で、

ジャンルごとにまとめるにしても、時系列が訳が分からなくなっているのです。

では、一番最初のコラム。38歳のデビューです。

 

 

②「恵み野少年少女野球大会」1992年5月26日

何故、恵み野で「恵み野少年少女野球大会」をやる羽目になったのかを少しお話しします。

1989年町内会育成部を手伝ってくれないかと育成部長の草野さんからお誘いを受けます。

何も分からずにお手伝いした所恵庭市町内会育成部主催の野球大会があるので、子ども達を集めて欲しいと頼まれます。

長男シンゴの友達3人に声を掛けて9人集め、何度か練習をして大会に臨みます。

「何だ?町内会対抗と言うのにピッチャーの球は早いし、ルール知ってるし、チームのレベルが違いすぎる」

第1回戦で、ボロボロのコールド負け。

子ども達は話が違うと大騒ぎ!

そりゃそうだ、相手チームは皆、野球少年団チームの子ども達ばかりなのだ

帰りにラーメンをご馳走したが、子ども達の怒りは収まらない。

私も同じ気持ちだった。

おばさん(私)は子ども達に謝りに謝った。涙も出ないくらい悔しさと怒りも込み上げてきた。

私の子どもの頃の、町内会主催の野球大会と言えば

男の子も女の子もみんなキャッチボールしていて、

下手でもへなちょこでもみんなでチーム作って野球大会したものだ

完全なる私の思い込みで、連れて行った野球大会は大人で言うと草野球チーム対プロ野球選手の戦いくらいの開きがあった。

 

「冗談じゃない。こんな野球大会の出場はまっぴらごめん。来年からは絶対に出場なんかさせるもんか」

私は子ども達の前で担架を切った。恵み野流の野球大会をしよう。

男の子も女の子もやりたい子はみんなで野球大会しよう。

やったことのない子も野球大会に向けて練習すればいい。好きな子同士でチームを組んで、

お父さんでもお母さんでも監督になってもらえばいい。

このころになると、恵み野の空き地あちこちで、野球少年少女が練習する姿が見れた。

あるお母さんは

「うちの子運動音痴だからまさか野球するなんて思わなかったけれど、

自分からすると言い出し、亭主も喜び一緒にグローブ買いに行ってキャッチボールするようになった」

と喜びの声を伝えてくれた。

 

小学校の先生にも相談して行った野球大会は、兄弟が入っていたり、女の子もいたりバライティーに飛んでいた。

ルールの中には野球少年団に入っている子の人数制限を付けたりもした。

チームの名前はこちらで決めて旗をお母さんたちで手作りもした。

恵み野流野球大会は、チーム名をくじで引き当てるところから始まるのだ。

3回目にして総勢200名の野球大会になって大盛り上がりとなった。

そんなの様子を書いたのがこちらのコラムになります。

スタッフのお母さんたちになります。

第5回大会で小学生7チーム、中学生5チームになりました。

今思うと私ってお祭りの天才(天災)かも知れないね。

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4.ここでチョッピリ子育ての悩み

2019年10月01日 01時22分45秒 | まちを舞台に

恵み野に移り住んで家は新築で気持ちは良いし、このまちに移り住んだ子ども達はみんなが始めての場所だったから、直ぐにお友達も出来たようで親の私はホッとした。


虻田町に住んでいた時は、高台に住んでいたので毎日海が見えて、周りには川があり森の緑に囲まれていた。
自然大好きのシンゴは学校から帰ると直ぐにダイスケを従えて川や森に向かい、ザリガニやドジョウを取りに行ったり、森を掛け廻って遊んでいた。だから我が家には、川や森の収穫物が集まったし、外であった出来事もつぶさに教えてくれた。直ぐそばの神社のおじいさんが落ち葉で焚き火をして、蛇を焼いて食べていたことも口を尖らせながら我先にと伝えてくれた。

二人して「おかあさ~ん。おかあさ~ん。大変だ~。リスさんが、リスさんが~死んじゃった~」と泣きじゃくって帰ってきた時があった。あまり大きな声なので、外に出て見ると頭からしっぽまで30㎝はありそうな丸々太ったネズミだった。

恵み野に慣れた頃、シンゴが「ここは、自然が無いから嫌だな〜」とポツリと言った。
確かに恵み野は、造られた街なので川が流れていても自然の川とは違う。
『そうか〜』と思ったが、恵庭には少し行くと漁川もあるし緑も沢山ある。タダ家の周りは住宅ばかりで中央公園に流れている川は、キレイに整備されていて自然の川とは感じ難い。前いた場所の環境とはかなり違う。

しかし私は、恵み野に来て安心していた。以前いた学校は、読み聞かせが盛んで、お母さん方が読み聞かせをする日が設けられていて、教育熱心な学校とも言えるのだが、生徒指導というか家庭での生活や個人の出来不出来がグループ評価によってなされていた。


シンゴは、忘れ物が多いし、宿題もしていかない日も多い。個人評価だと「困ったね~~」で終わることも、これが
グループでの評価になるとそうはいかない。

グループの長(班長)は立候補と推薦からなり、班長になった子が初めの1人の子を選び、順繰りに班ごとに次々に仲間を選ぶやり方だった。だから、班の足を引っ張る子は、必ず残って最後に選ばれる仕組みになっていた。

グループ評価は、模造紙にグラフが書かれていて、みんなが出来ていると棒グラフが伸びていく。シンゴが入ると棒グラフは進まない。ほんとグループに取っては、大変迷惑な存在なのだ。だから、班選びの時はシンゴはいつも最後の1人だった。

正義感のある班長さんや班の仲間からは、毎日順番でシンゴに電話が掛かって来た。「シンちゃん、宿題忘れないでね。ティシュ、ハンカチ忘れないでね。爪もちゃんと切って来てね」連帯責任なのだから班の仲間だって大変だ。

イヤイヤ・・私も悩んだ。シンゴに絶対使っちゃいけないハンカチ・チリ紙セットを持たせた。爪も伸びたら直ぐ切るように心がけた。タダ一つ宿題だけは、どうする事も出来なかった。シンゴもしなきゃいけないという気持ちは心の底に残っているらしい。夕食を終えて
「さあ〜シンゴそろそろ〜」と私が言うと、シンゴの頭にシャッターが下りるようである。シャッターが下りると宿題なんて全然進まない。テーブルに何時間座っていてもエンピツは、シンゴの指の中でクルクル回っているだけだった。

私にも経験がある。言われたら「今やろうと思ったのに・・・」と言って中々進まない。私の子だからな~と思っても、宿題していかなきゃ本人も責められるし、みんなにも迷惑かけちゃうし。でも、出来なくなる気持ちもわかるし・・・。「う~ん?」3年間、親子して悩んだ。

ダイスケは何にも言わなくても、テレビを見ていてコマーシャルになった瞬間、宿題をこなせる子だったから何も云う事なし。

だから恵み野に来て、グループ評価が無くなり個人の責任になったとき、自由がやって来たような開放感が私の中で生まれていた。でも、友だちと元気いっぱい遊べる今よりも、シンゴには自然いっぱいの場所の方が良かったのかな~とも考えた。が、いやいやいやいや考えまい。

それから暫くすると、シンゴも学校になじんでいった。4年生の担任はベテランの葭川先生でシンゴの資質をよく見てくれて忘れ物が多いのは違うものに集中しているから大丈夫。人と違うのはその子の個性だから大丈夫と褒めてくれた。5、6年生になった時、自然大好き、音楽大好きの吉弘先生が担任になった。


教訓1ー人はやりたい事はいつまでも出来るけれど、押し付けられることは出来ない。

教訓2-親も悩むし、子も悩む。ともに悩んで成長しよう。

教訓3-同じ親から生まれても3人3様みんな違う。みんな違って面白い。

教訓4-人の出会いは宝なり。

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3、こどもたちのふる里に!恵み野の歴史を作る!

2019年09月30日 08時09分37秒 | まちを舞台に

1988年3月子ども達が入学する恵み野小学校の説明会に向かう。

玄関の受付には沢山の人だかりが出来ていて、ココにいる人たちが、みんな転入手続きだということに驚いた。恵み野小学校は、春休み、夏休みの度に1学級の転校生が増え続けていた。

4年で入学したシンゴの学級は3クラスだったのに、6年の時には5クラスになっいて、特別教室は全て教室になり、それでも足りなくてプレハブの教室が増設された。マンモス校を解消すべく翌年、恵み野で2校目の小学校、旭小学校が新設された。

 

恵み野のまちも、新築ラッシュさながらで新しい家が建っていった。「タケノコ、ニョキニョキと同じ・・・」と本州出身者から聞いたが、タケノコはこんな風に出て来るのかと、北海道では見ることのない孟宗ダケの出る様子を建築ラッシュを想像しながら反対に思い浮かべた。

私が入った1988年3月には、恵み野の中に信号機が1つもなかったが、その年の秋、もしかしたら翌年だったろうか、駅の交差点に第1号基が付いてから、次々に信号機も建ち始めた。

 

ニュータウン恵み野に住み着いた人たちは、このように若い家族や定年退職になって家を建てた人、2世帯住宅も少なくなかった。

若い街は活気に満ちていた。誰でも受け入れてくれる空気も流れていた。学校の役員決めの時も、みんなが初顔合わせだったのに、専業主婦が多かったせいか役員も直ぐ決まった。

数年前から住み着いていた人から「恵み野は元気だけれど、恵庭には何もないのよね~~」という言葉が聞かれた。

「何もなければ自分たちで作ればいい。パリは1日にしてならず。歴史はそこに住む人たちが作ればいいのだから私たち新住民が恵み野の歴史をつくる!」私はそう宣言した。

私は自分で出来ることを考えた。恵み野に来る前に虻田町に6年住んでした。現在の洞爺湖町である。そこで、読み聞かせグループに入って虻田図書館で毎月活動をしていた。

恵み野に子ども達のふる里を作りたい。文化のかおるまちづくりの第一歩として、読み聞かせを開催することにした。

 

シンゴの4年生のクラスのお母さん方に声を掛けして、お話し会が始まった。クラスPTA会長の玉置さんは声楽を勉強して自宅でピアノ教室を主宰していた。話す言葉も音楽を奏でるように目を大きく開けて「いいわね~~」と胸に両手を握って話す彼女は、生涯お姫様の心を持つ人だろうと感じた。

彼女に恵み野でお話し会を作りたいと相談するとやはり「いいわね~~」の一言で沢山の人たちが集まった。きっとここに住むお母さんたちは、このような集まりを求めていたに違いない。毎月の例会はドンドン人が増えて親子で紙芝居や読み聞かせを楽しんだ。

新聞に掲載された布に書いた大きな巻物の紙芝居「大きな木がほしい」や大型紙芝居は虻田町で読み聞かせをしていた時に作った物で、車を走らせ虻田町まで借りにいったもの。口コミだけで80人が我が家に集まったのでふすまを外し、立ち見も出た。

面白い、面白いまちづくりの始まりです。

 

 

 

 

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2、恵庭市と恵み野の歴史

2019年09月29日 06時52分14秒 | まちを舞台に

恵庭市はJR函館本線にあって、北海道の玄関口千歳空港の隣で北海道の政令指定都市

札幌に向かう途中にあることから、北海道の中で最もJRの本数が多い場所で、利便性が高い位置にある。

恵み野は恵庭市と島松の間に作られた住宅街で札幌までJRで35分、札幌のニュータウンと呼ばれていた。

 

ここで、恵庭市の歴史を少し辿ってみよう。

1969年(明治02年)蝦夷地を北海道と改称して11国86郡が置かれ、胆振国千歳群なった。

1873年(明治06年)中山久蔵が島松で水稲(赤毛種)の栽培に成功。

  北海道でお米が作られるようになったのは中山久蔵の努力の賜物。

1880年(明治13年):漁村、島松村が千歳郡千歳村外五ヶ村の管轄となる。

1886年(明治19年)山口県岩国・和木地方から団体移民が漁川沿岸に入植。

1906年(明治39年):漁村と島松村を合わせて恵庭村とし、北海道二級町村制施行。

1970年(昭和45年):市制施行し、恵庭市となる。

1980年(昭和55年):恵庭ニュータウン恵み野分譲開始。漁川ダム竣工。

1982年(昭和57年):恵み野駅開業。イトーヨーカ堂オープン。恵み野小学校開校


恵庭市は明治39年漁村(いざりむら)島松村(しままつむら)が合わさり恵庭村になりその後、恵庭市になった。

漁村島松村は小さな政権争いがあって、漁村のある地域に北海道二級町村制施行され、恵庭村になった。

島松村は、ある意味漁村に敗北したことになる。

恵庭ニュータウン恵み野分譲は、島松と恵庭市の中心に出来た住宅街で、

仲が悪かった漁村(恵庭のある場所)と島松村の縁を取り持つ役割を持っていた。と聞いたことがある。

こうして1980年ニュータウン恵み野の分譲が開始。

分譲の2年後1982年、恵み野駅が出来、恵み野駅の隣にイトーヨーカ堂がオープン、恵み野小学校の開校となる。

37年間、恵み野の歴史と共に歩んできたイトーヨーカ堂が住民から惜しまれながら、

2019年9月29日、本日閉店となる。

やはり寂しい~~!

 

2013年東4丁目に「イーストガーデン恵み野」完成

2016年 北5丁目に「ノースガーデン恵み野」完成。人口12,023人、5,182世帯

2018年南5丁目に「スマートタウンふれる恵み野」完成

恵み野はこうして伸び続けてきた。

 

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まちを舞台に①はじめに

2019年09月28日 10時53分09秒 | まちを舞台に

恵み野に新居を構え移り住んだのが1988年3月。

今では「花のまち恵み野」と呼ばれるようになった恵み野。

私がここに来て「まちを舞台に」楽しい時を過ごしてきた31年の歴史。

少しづつまとめた方が良いかな、という気になって、

少しづつ、少しづつ記憶をたどりながら始めましょう。

 

 

1988年3月

長男シンゴ10歳4年生、次男ダイスケ8歳2年生、長女サユリ2歳

恵み野に決めたのは昭和55年5月、実家に戻り次男が生まれたばかりの病院のベットにいたときのこと。

主人(春男さん)が新聞を持って来て「恵庭に分譲住宅が出来ることになった。抽選会があるようだけど行ってみようかな?」

その言葉に、私は迷わず賛成!

 

そうして・・・

第1期の抽選会で恵み野の住宅地を引き当て、8年後の1988年、恵み野の住人となった。

 

「ホビーショップきゃろっと」を同時オープン。

きゃろっとは商店街に面していて、店舗付き住宅。

元々購入した場所は一般住宅で、ココに場所を変えるのを希望したのは私。

「駅に近く便利だし、趣味を生かしながらお店をしたい」と主人を説得。

どっちでも良かった春男さんは、面倒な手続きは自分ですることを条件に承諾してくれた。

 

そのころ虻田町(洞爺湖町)にいた私は、隣町の伊達市の銀行と恵み野にある住宅公社に

1日がかりで3人の子どもを連れながら、書類をそろえては何度も往復した。

時には書類が足りなかったり、ちょっとした不備で一日を棒に振ったこともあった。

お店をするにあたっても、独身時代仕事で取引のあった

札幌の手芸材料や生地を扱う問屋さんにも何度も何度も足を運んだ。

 

手芸店にしたのは取引先を知っていたのはもちろんだが、

物が腐らないし、子ども達が病気になったり行事があってお店を休んでも、

自分に負担が少ないこと、お客様にもそれほど迷惑を掛けなくて済むと見込んでの事だった。

 

住所移転と共に私と子どもの3人の生活と、会社員の春男さんの単身赴任生活がスタートを切った。

 

さて、1990年恵庭市恵み野を会場にして

第1回の「えにわ花と暮らし展」が開催された。

元々花や植物が好きだった私は、店舗前に花を植えた。

お洒落なコンテナもない頃で白いプランターと、なんちゃってハンギングバスケット。

ワイヤー型も2基制作して飾っていた。

ハンギングバスケット協会がまだ、ないころの話。

 

 

「この梁りは、まだ家が完成じゃないの?」とよく聞かれたが、建築デザイナーさんのデザインで

花を飾るのにはちょうど良かったのだが、

その後、カフェになることでデッキにしたり、

壁から雨水が入り込んで柱が腐敗して壁を張り替えたり、

コンサバトリーが出来たりと、表からの風景も何度も変って来た。

こちらが、現在2019年の「珈琲きゃろっと」の店構え。

31年経つとコノテヒバが大きくなっているのが良く分かる。

 

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新年明けましておめでとうございます。

2019年01月01日 01時07分43秒 | 家族

2019年を迎えました。

2018年は色々な出来事がありました。

2018年

3月29日 きゃろっと工房火災に遭いました。火災によって多くの方々から励ましを頂いて人の温かみを知りました。

5月14日 右足の骨折。当日は中学校の千人植え活動と幼稚園、小中学校生900名が参加するアジサイいっぱい運動の日。陣頭指揮をとらなきゃいけないのに不覚にも骨折。傘を松葉杖代わりに頑張りました。前日藤枝から帰宅したばかりで慌てて準備している最中の出来事でした。

6月、7月、8月 毎年恒例の花さんぽストリート祭、花と暮らし展、恵み野花の案内人、各地のガーデンツアーなど多くの方々にお世話に成りながら松葉杖で何とか切り抜くことが出来ました。沢山の方々に感謝!

9月 記録的な台風と9月6日胆振東部地震がありました。北海道全域が停電になりました。真っ暗な空を見上げると星が降るように輝いてました。

厚真町や安平町にコーヒーの炊き出しに通いました。1杯のコーヒーを飲んで笑顔で有難うの言葉を聞いた時、とても幸せな気持ちになりました。

6月できゃろっと創業30周年を迎えていました。12月に創立30周年記念号WAKKO通信が発行されました。

2018年は異例と言えるくらい雨の多い年でしたが、運の良いことに私が出るイベントや行事の時は殆ど晴れていて「なんて私ってついているんだ!」と思えた年でした。

12月31日は毎年恒例となった主人の打った蕎麦をお昼に食べて、夜は子どもの頃から母が作っていたおせちの料理が私の料理となって食卓に並びました。紅白を見てゆく年くる年を見て、さだまさしを見ながらブログ更新。孫たちのお年玉を用意してから寝ることにします。

 

 

 

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「スペース土チャント」チャリティファミリーライブ結果

2018年12月14日 13時22分42秒 | 3.11ガーデンチャリティー

 11月18日開催した「スペース土チャント」チャリティファミリーライブで集まった義援金とスペース土チャントが全国のツアーで集めて来た義援金+コテージの梅木さんから預かった義援金、合計20万円を
12月12日(水)はやきた子ども園に行って「安平町子ども未来義援金」に贈呈してきました。
 
義援金にご協力いただいたみなさん、どうもありがとうございました。
  
はやきた子ども園では、スペース土チャントの演奏も一緒にプレゼント。
座っていた子供たちも、徐々に立って、園内は楽しい音楽と踊りの輪で熱気いっぱいになりました。
 
子ども達元気で良かった~。まだまだ地震の影響で沢山の課題が残されている地域安平町ですが、
沢山の知恵と多くの人の協力で前向きに動いている様子を見聞きして、反対に勇気を貰って来ました。
 
又、お邪魔させて下さいね。
頑張れ!安平町の子ども達。

 

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