内倉真裕美の晴耕雨読

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父の思い出

2010年12月02日 10時07分42秒 | 日々の出来事
11月28日9:45分、私の父が天国に旅立ちました。
85歳でした。

自由奔放に生き抜いた父は、頼りになる良い妻を持ち、多くの人に愛され、いい友人に恵まれ、孫たちからも慕われ、いい人生を送りました。
剣道教士6段、字も上手く、カッコよかった父は孫たちの憧れだったようです。


若かりし頃の父は、お洒落でダンディーだったと誰もが、口を揃えます。
葬儀には、孫たち(9人)が合作で作ったスライドショーとお別れの言葉がありました。


その中の1枚がトップの写真です。韓国旅行に行った60代の父は颯爽と歩いています。
70歳からリュウマチになり、若かりし頃のシャキとした姿から徐々に病人の姿に変化してきました。

毎年恒例で行われる井村家の正月イベントは、写真撮影も恒例でした。
最初は5名だった写真に1人2人と人が加わり、井村家の実家の壁に飾られていきます。
その中心にいるのが、いつも父母です。

2006年の正月は16名(父母、と3兄妹の家族たち)


そのとき、主人が「じいちゃんとばあちゃんはどうやって知り合ったの?」なんて聞いたら
「そうだ、そうだ、じいちゃん話してよ」とみんなが囃し立て、壇上に上がった二人。
父が、母との馴れ初めを語り出しました。


終戦後、根室に疎開し、初めて母を見た父は一目ぼれだったそうです。
「それは、それは、めんこかったな~(可愛かった)」と父が話します。
家族は大盛り上がり。じいちゃんも絶好調の語り口でした。


最初の孫の結婚式は、我が家の次男坊、大輔の結婚式でした。
大輔抜きで我が家の家族と記念撮影。


孫5人に囲まれて御満悦の父


二番目の孫の結婚式は、上の兄の長男の結婚式。
父・母・私と3ショット


金婚式のお祝いの時も、みんなが勢ぞろいしました。恵庭の料理屋さんでの会食。帰りにみんなで「きゃろっと」に寄ってくれました。そしていつもの様に記念撮影会。


2008年のお正月は22・5名になりました。
孫のお嫁さんが4人増え、お姉さんのお母さんが1人増え、二人のお嫁さんのお腹に新しい命が宿りました。


毎年毎年行われる井村家のお正月には、仕事を持った孫たちも都合の付く限り、顔を出します。
親戚から言われた「井村家は結束が強いね~」という言葉も、この正月に行われる恒例行事、という習慣がそうさせたのかも知れません。

我侭な父は、超個性的。自分が決めたことに、みんなが都合を合わせるのが基本です。

私が小さいときから、我が家には人の出入りが多く、月の半分は自宅が宴会場になっていました。
時には、翌朝、知らない人が起きて来て、父も「この人だ~あれ?」と首を傾げながらも、挨拶がなされた事もありました。

酔ったら、外に出て梯子は当たり前の父。
「さあ、行くぞ~」と背広に着替えて、飲み仲間を連れ立って出かけます。

お友達や従業員のみなさん、口を揃えるのが、スナックでお酒を注文して酒が運ばれると一口飲んだところで
「さ~行くぞ~」と次のスナックへ移動するはなし。
最低2件、通常4件が当たり前。

そして、電話魔の父は、だれ彼かまわず、何処にでも電話を入れ、今ここに誰だれといると報告するのだそうです。
携帯電話のナイ時代。勿論、スナックの移動の度に、自宅にも電話を入れる変な父でした。
私が電話に出ると
「父さん、今ここにいるからね~」と上機嫌。

午前様になって帰宅した父は、時々子どもたちにプレゼントも持参します。
そして、寝ていても、むりやり起すのが父流で、
「とうさん、帰ったぞ~。お客さんも来ているから起きろ~」と大声で叫びます。
直ぐに起きなければ、布団を剥がされ、たわしのような髭面を寝ている私たちに擦りつけ無理やり起すのです。眠い目を擦りながらもお客さんの前に出て、両手をついて御挨拶したところで
「良し、よく出来た。これ食べて寝なさい。わはは・・・」と大きな声で豪快に笑いながら、布団に入る許可をもらう訳で・・。

父曰く。剣道や書道などの「道」がつく「武士道」なるものは「あいさつ」が基本だそうで、人が来たら「あいさつ」は基本中の基本。
酔っ払って人を夜中に連れて来ても武士道を貫く父は立派な人だったのでしょうか?
子供心に少々の疑問を持った一瞬でもありましたが口答えは出来ない私でした。

お土産は、お寿司や果物などバラエティーに富んでいましたが、出来れば起きている時に食べたかったな~とつくづく思うわけで、真夜中のお土産は子どもたちにとっては少々迷惑でもありました。
大きくなったときは、狸寝入りをして諦めさせるのですが、どうしても食べさせたいとき等は、寝ている状態でも、突然口に押し込める父でした。

一番の衝撃は、アイスクリームのお土産の時でした。
あれは、発泡のクーラーボックスに入ったアイスクリームで、
スッカリ眠っている私の口をこじ開け、巨大なアイスクリームを投入した父は優しい人だったのでしょうか。
眠っている私の神経は、口の中に冷たい物体が混入されたことに意標を付かれたようでした。
それもいきなり、大量の冷たいアイスクリームでしたから。
私の体は思わぬ出来事で、体中が硬直したのでした。
それは、それは、本当に恐ろしい出来事でした。

子煩悩な父は、私たちのことを、とても可愛がってくれました。
厳しいし、自分流の理屈を通し、不条理極まりない父でしたが、自分なりに精一杯子どもたちを愛してくれましたホント愛すべき父でした。

葬儀で弔辞を詠んでくださった中井先生とは、剣道仲間で兄(次男)の担任の先生でした。
意気投合し、由仁町に剣道同好会を作り子どもたちの指導をし、45年以上のお付き合いで、中井先生が引越しされたり、何かあるごとに家族ぐるみでお付き合いさせて頂いていました。

仮通夜の夜は、父の話で持ちきりでした。
自分勝手で不条理な父だけど、ひょうきんな一面や面倒見の良さが憎めません。

ですが、そんな父の一番の被害者は母でした。
兄妹はそんな母のことも知っています。
「かあさん、本当に有難うね」

実際の出来事とは思えないくらいの奇想天外な、逸話が残る父の人生は母からすれば悲劇だったと思います。側の人からすると良いやつであり、孫の目にも優しいおじいちゃんであり、他人からすれば、豪快でありユニークな人でありました。
いわゆる外弁慶と言いますか、外面が言い人で、最大の被害者は最も近い身内に被害が被るわけで、それが母でした。
でも、今となっては全てが許せる可愛らしい父でした。

「じいちゃん」本当に幸せな人生でしたね
安らかに眠って下さい。

妻1名、子ども3名、嫁2名、婿1名、孫9名、孫の連れ合い4名、曾孫4名。総勢24名




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2 コメント

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御苦労さま (さちこママ)
2010-12-04 22:31:57
真裕美さん 素晴らしいお父様に感謝ですね。
これからも娘の様子を天国からしっかり見ていますよ。
頑張って~。
返信する
ありがとう (まゆみ)
2010-12-04 22:57:59
今年、さっちゃんもお母さんを・・・・。
お互い、最も近い人が逝っちゃうのは辛いですね。こうなると、色々な出来事がツイこないだのように思いおこされます。
やっぱ辛いね。
返信する

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