川村湊氏が小説『軍艦島』の解説で参照している「三菱高島炭鉱への朝鮮人強制連行」は、竹内康人著『調査・朝鮮人強制労働〈1〉炭鉱編』(社会評論社、2013年)です。これは「人権平和・浜松」というホームページ(リンク)にも掲載されています(リンク)が、図表はありません。
川村氏が「解説」で書いている、端島炭坑の朝鮮人の数、年齢、朝鮮人売春婦などに関する情報は、ほぼここからとられているようです。
朝鮮人の年齢に関し、川村氏は解説の中で、
年齢的には14、5歳を下限に、10代の青少年が多く、20代がそれに次いでいると見られている。
と書いています。「見られている」と不確実な書き方ですが、「20代よりも10代が多かった」と断定している。
ところが、竹内氏の「三菱高島炭鉱への朝鮮人強制連行」では、
連行された集団のなかには10代の青年も多く、14歳の少年がいたこともわかる。
となっていて、必ずしも「20代よりも10代が多かった」とは読み取れない。
原文は以下。
四二年八月、槐山郡出身の連行者のなかには一五歳が一人、四二年一〇月の延白と碧城郡を中心とする連行者をみると延白一一人・碧城二四人・他八人の計四三人が一〇代である。碧城郡出身者の残留者は五三人であり、半数近くが一〇代となる。
四三年一月の和順郡からの連行者をみると残留者一〇九人中、八一人が二四~二五歳であり、和順郡の各面から二四~二五歳の青年たちを駆りあつめてきたことがわかる。同年五月の信川郡などからの連行者をみると一〇代が一八人、同年一〇月の金堤郡からの連行者をみると一〇代が一四人である。
四四年一月の慶南からの連行者のなかにも一〇代が一九人含まれている。七月の宜寧郡からの連行者をみると残留者二三人中、一〇代が八人であり、一人は一五歳、五人が一六歳である。八月の密陽郡からの連行者は残留者一四人のうち七人が一〇代であり、内一五歳が二人、同月の富川郡からの連行者のなかには一四歳の少年もいる。
四五年一月の順天郡からの連行をみると残留者九二人のうち二四~二五歳五九人、三四~三五歳二〇人、一七~一八歳一五人となり、二四~三五歳を中心に一〇代をふくめて地域から集団的に駆りあつめてきたことがうかがえる。三月の益山郡からの連行をみても三四人中一四人が一六~一八歳の青年である。
これらは、厚生省勤労局「朝鮮人労務者に関する調査」長崎県分(1946年調査)の中にある高島炭鉱分(端島を含む)の1299人の名簿を、竹内氏が分析したものです。
名簿は、1942年8月から45年3月までに連行され、1945年8月15日まで残留した朝鮮人であり、42年7月以前に来た人々、サハリンからの転送されてきた者、逃亡者、高島から三菱長崎造船へ転送されていった者、死亡者、8月15日以前の朝鮮への帰国者は含まれていないとのことです。
本にある「図表6-3 三菱高島炭鉱への朝鮮人強制連行(厚生省名簿)」には、連行年月日、主な出身郡、8月15日の在籍者数、退去日だけがあり、年齢は載っていません。竹内氏は、厚生省名簿の原本から、上記の数字を取り出したものと思われます。
整理すると、
42年8月、槐山郡から、15歳が1人
同年10月、延白郡から11人、碧城郡から(53人中)24人、他から8人の計43人が10代。
43年1月、和順郡から、(109人中)81人が24~25歳。
同年5月、信川郡などから、18人が10代
同年10月、金堤郡から、14人が10代。
44年1月、慶南から、19人が10代。
同年7月、宜寧郡から、(23人中)8人が10代、うち1人が15歳、5人が16歳。
同年8月、密陽郡から、(14人中)7人が10代、うち2人が15歳。同月、富川郡からは、14歳もいる。
45年1月、順天郡から、(92人中)24~25歳が59人、34~35歳が20人、17~18歳が15人。
同年3月、益山郡から、(34人中)、14人が16~18歳。
図表6-3には、21回の「連行」年月日があります。その中から上記を取り立てて記述した正確な理由はわかりませんが、「連行」の事例の中から、特に10代が多いケースを選んだように思われます。
上記では、母数が記載されているものといないものがあります。表にはすべて母数が載っているのでそこから補充すると、
42年8月、槐山郡、88人中1人
同年10月、延白郡、35人中11人、
同年同月、碧城郡、53人中24人、
同年同月、他地域、29人中8人
43年5月、信川郡など、107人中18人
同年10月、金堤郡、125人中14人
44年1月、慶南、90人中19人
同年7月、宜寧郡、23人中8人
同年8月、密陽郡、14人中7人
同年同月、富川郡、13人中1人
45年1月、順天郡、92人中15人
同年3月、益山郡、34人中14人
10代の人数の合計は140人。母数は、703人。比率は19.9%になります。厚生省の名簿にある朝鮮人の総数は1299人です。1299を母数とすると、比率は10.7%。実際には、残りの598人の中にも10代の朝鮮人はいたと思われるので、10代比率は、約15%程度ではないかと思われます。
いずれにしても、川村氏の
年齢的には14、5歳を下限に、10代の青少年が多く、20代がそれに次いでいると見られている。
という記述のうち、「10代の青少年が多く、20代がそれに次いでいる」という部分は誤りです。表を参照せず、ネットの資料だけを読んだために誤読したのではないでしょうか。
一方、竹内氏は、この数字から、
連行された集団のなかには10代の青年も多く、14歳の少年がいたこともわかる。
と書きました。
『調査・朝鮮人強制労働〈1〉炭鉱編』には、竹内氏が収集した全国の炭鉱の統計が載っていますが、その中には連行時・死亡時・負傷時の年齢がわかる資料もかなりあります。
連行時の年齢に関しては、
●北炭万字・美流渡炭鉱に連行された朝鮮人(1940.8.27、1943.4.22、1945.5.26)
106人中30人(19歳13人、18歳12人、17歳4人、16歳1人)
●麻生久原炭鉱の朝鮮人(1945.2.22、1945.6.13)
65人中8人(18歳2人、17歳6人)
●常磐炭鉱朝鮮人名簿(1942.9)
62人中10代は0人
上記を合計すると、
233人中10代は38人(16.3%)
死亡時・負傷時の年齢に関しては、
●住友赤平・歌志内炭鉱朝鮮人死亡者(1940.1~45.12)
97人中2人(19歳)
●北炭夕張炭鉱朝鮮人死亡者(1940.1~45.9)
56人中5人(19歳3人、18歳2人)北炭万字炭鉱朝鮮人死亡者(1939.12~1945.10)
65人中6人(19歳、18歳、17歳各2人)
●北炭万字炭鉱朝鮮人負傷者(1942.1~1944.11)
102中13人(19歳5人、18歳3人、17歳3人、16歳2人)
●麻生炭鉱朝鮮人死亡者(1919~1945.7)
162人中17人(19歳10人、18歳5人、17歳2人)
●高島炭鉱(高島坑、二子坑、端島坑)朝鮮人死亡者(1919~1945.11)
101人中4人(19歳3人、18歳1人)
●三菱崎戸炭鉱朝鮮人死亡者(1923.11~1945.9)
129人中9人(19歳2人、18歳5人、17歳2人)
上記を合計すると、
712人中10代は56人(7.8%)
になります。ただしこれらは死亡時・負傷時の年齢ですから、就業開始時の年齢はこれより多少低くなるでしょう。
こうして見ると、高島鉱(含端島)の朝鮮人の10代の比率がとりわけ高いわけではありません。
朝鮮の鉱山における年齢別構成は19.6%(1942年)ということなので、これと比べても、高島鉱に特別に10代が多かったわけではありません(リンク)。
特徴的なのは、「14歳の少年がいた」という部分なのでしょう。
全国の統計の中で、年齢が判明している朝鮮人の中に、14歳、15歳は一人もいません。高島鉱(含端島)には、14歳が1人、15歳が4人いました。
なお、日本の労働関係の法律では14歳未満の就業禁止、16歳未満の「坑内労働禁止」が定められていましたが、14歳、15歳の坑夫の「坑外労働」は不法ではありませんでした。
映画『軍艦島』には、少年坑夫が働く姿が描写されており、監督は「当時の取材によるもの」と述べているそうです。
ここからは私の推測ですが、リュ・スンワン監督は、小説『軍艦島』の2009年版に載っていた川村湊氏の「解説」を読み、
年齢的には14、5歳を下限に、10代の青少年が多く、20代がそれに次いでいると見られている
という誤りの記述をもとに、映画『軍艦島』を「創作」したのではないでしょうか。(※)
※8月6日にソウルで韓国語版『軍艦島』を確認したところ、川村湊の「解説」は載っていないことがわかりました。
「必ず必要」に違和感を感じるのは、歳のせいかもしれません。
それに対するWeb上の韓国でのコメントを見てみると、彼らの中で如何に、「日帝強占期」の韓国は無謬である!という意識が強いか、垣間見えます。
この圧力の中では、軍艦島という地獄で、たとえば朝鮮出身者が専用の慰安所に通っていた事実など、あってはならない妄言となってしまうのでしょうねえ。
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重言の冗長性に対する韓国での感覚、面白いです。ただ、日本でも議論にはなりますが、"必ず必要"の表現はまま目にします。
Web上の政府関連で絞っても、これだけ該当しているのだから、重言そのものを強く避ける意識は弱そうです。
https://www.google.co.jp/search?q=%22%E5%BF%85%E3%81%9A%E5%BF%85%E8%A6%81%22+site%3A*.go.jp&oq=%22%E5%BF%85%E3%81%9A%E5%BF%85%E8%A6%81%22+site%3A*.go.jp
しかし、「募集」や「官斡旋」は従わなくても罰則がなかったので、強制というのはおかしいと思います。
また、「連行」は、警察が犯人、容疑者を警察署につれていくことをいうので、徴用を連行と呼ぶのもおかしい。
ただ、韓国人にとって、「日帝強占期」は、その期間すべてが「不法占領」なので、その期間に起こったあらゆることが「強制」なのでしょう。
日本が韓国を植民地にしていた時代を「日帝強占期」といいますが、強占は強制占領の略語。強制占領も冗語だと思います。
韓国語で、「パンドゥシピリョハダ」とよく言いますが、逐語訳すると「必ず必要だ」。日本語では冗語になるので、たんに「必要だ」か、強める言葉を入れるなら「ぜひ必要だ」のように訳します。
韓国語は、冗語を必ずしも「美しくない」と感じるわけではないのかもしれません。
彼はほぼ日本映画だけで日本語をマスターした変わり者で、戦前戦中の日本をある程度冷静に見ていました。その彼の答えは、「まず、その徴用する社会は当時の韓国人にとって押し付けられたものだった。そしてそこに、差別と直接の暴力があった。だから強制なんだ」というものでした。
日本人から見ると「いやいや、たとえそうであっても、その行為は徴用であって、強制連行という言葉は捻じ曲げた表現になる」と感じましたし、現在日本では、当時の徴用を強制連行と呼ぶ例は大きく減ったと感じます。
一方で韓国では、むしろ以前よりも強烈に強制連行という表現が重要性を増しているように見えます。そこに国家としての被害者戦略は当然ありますが、答えてくれた彼同様の理がそこにあるようです。
そしてそういった理の根底には、併合そのものが一切、違法で罪であり、現在を以て贖われるべきものなのだ、という認識を強く感じます。
これらの理は、論理ではなく共同体をつなげる理ですから、恐らく論理で書き換えは無理でしょう。日本で強制連行という語を使う者が減るだけでも、随分ましになった印象です。
おはようございます。
強制連行という言葉をよく見かけますが、そもそも「連行」には強制的という意味合いがあるので、これは「女の女性歌手」みたいに聞こえます。なんでこんな言い方するのかな。
「連行」という警官が犯人をしょっ引く感じですね。「動員」とか「徴用」と言い換えることはできないのでしょうか?