犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

慰安所日記を読む(1) 時代背景

2014-04-24 23:53:41 | 慰安婦問題

 以前、このブログで、韓国の慰安所管理人の日記が発見され韓国で公刊されるというニュースを紹介したことがあります。

 日本語への翻訳作業が進んでいるということでしたから、日本語版が刊行されたら読もうと思っていたのですが、なかなか出ない。調べてみると、日本語版の刊行予定は定かでないかわりに、日本語の仮訳版がネットで公開されており、全文を日本語で読めることがわかりました。

 題して「ビルマ・シンガポールの従軍慰安所」(→リンク)。翻訳者は神戸大学の木村幹教授と京都大学の堀和生教授です。

 日記を書いたのは慶尚南道出身の朝鮮人男性、朴さん。フルネームは伏せられているようです。

 朴さんは1905年生まれで1979年に死去。1922年から57年まで、35年間、日記をつけていたそうですが、うち8年分は欠落。今回、刊行されたのは、朴さんがビルマとシンガポールにいた2年間(1943年1月1日から44年12月31日まで)の日記です。残念ながら、朴さんが慰安婦たちを募集したはずの42年の日記は失われているため、今問題となっている慰安婦募集の様子を日記から知ることはできません。

 日記からわかる朴さんの足どりは以下のとおり。


1942年7月10日 慰安婦約700人、業者約90人で構成された「第四次慰安団」(団長津村)の一員として釜山を出港

11月初めまで、プロームの慰安所で働く。ブロームは現在のピエー。ラングーン(=ヤンゴン)とマンダレーの中間にある町

11月11日から、アキャブの慰安所、勘八倶楽部の帳場で働く。アキャブは現在のシットウェ。インドとの国境近くの海沿いの町

43年1月16日、アキャブを発ち、23日ラングーン到着

5月31日から8月27日まで、インセン(ラングーン近郊の町)にある慰安所、一富士楼(村山氏経営)で帳場の仕事をする

9月11日、ペグー(ラングーンの隣の都市)を出発、シンガポールへ向かう

9月29日、タイを経てシンガポール到着

11月ごろから、偕行社タクシー部勤務

44年2月13日、シンガポールの慰安所、菊水倶楽部(西原氏経営)の帳場で働く

12月16日 シンガポールから帰国の船に乗る(12月31日は洋上)

 朴さんが慰安所で働いていたのは、日記に書かれている2年間に限れば一年とちょっと、その前の期間を含めれば、約1年半です。

 ここで、当時の東南アジアの状況をみてみましょう。

1941年12月8日、太平洋戦争に突入すると、日本は電撃的に東南アジアに進攻。15日にビルマ領南端のビクトリアポイントを占領。

1942年3月8日、ラングーン(現在のヤンゴン)占領

5月1日、マンダレー(ビルマ中部の第二の都市)占領

5月末にはビルマ全域を制圧し、軍政部を設置

6月には、ビルマからタイへの泰緬鉄道着工

 朴さんがビルマで慰安所の営業を始めたのは7月。日本がビルマを制圧し、軍政を敷いたころです。11月に朴さんが慰安所を移転した先のアキャブは、英領インドとの国境近くの最前線。

12月、英印軍はアキャブ奪還を図り、第一次アキャブ作戦を発動します。

 戦火が激しくなったためか、朴さんは単身シンガポールへ。

アキャブでの戦闘において、日本軍は英印軍に大打撃を与え、3月末に英印軍は作戦開始地点まで退却。

8月1日、バー・モウを元首としてビルマ独立。

同じ8月、連合軍はマウントバッテン伯爵を司令官として東南アジア連合軍司令部を創設、東南アジアにおいて反撃を開始します。

 1944年2月、第二次アキャブ作戦で、今度は連合軍が日本軍を破ると、日本軍は太平洋戦争の中で最も愚かな作戦の一つ、インパール作戦を3月に発動。補給のないまま攻め入り、無残に破れて敗走、7月に作戦中止になるまでの間、飢餓と病気で莫大な犠牲者(85,600人のうち3万人が死亡、2万人が戦病者として後送)を出し、屍累々たる退却路は「白骨街道」とも呼ばれました。

 その後、日本軍はビルマ各地で連合軍に破れ、1945年1月3日アキャブ陥落、3月マンダレー撤退、5月2日には連合軍がラングーンを奪回。各地で孤立した日本軍は、終戦まで悲惨な戦いを継続しました。

 一方、シンガポールは、1942年2月に日本軍が占領し、終戦まで日本の統治が続いたシンガポールは、ビルマに比べれば平穏な日々が続きました。ただ、44年10月にレイテ島、45年1月にルソン島に米軍が上陸して以後、シンガポールと日本を結ぶ航路は途絶えましたが。

 こうしてみると、ビルマ占領後まもなくビルマに渡り、形勢が逆転する前にシンガポールに移動、日本・朝鮮への航路が途絶える前に帰郷した朴さんは、実に幸運だったのかもしれません。


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