〇パリ人肉嗜食事件(1人)~1981年(昭和56年)6月11日、パリ第3大学で学ぶ留学生のS(32)は、自分のアパートに、同じ大学で学ぶオランダ人留学生のLさん(25)を呼び出し、関係を迫ったところ、彼女から強く拒否されたので、カービン銃で背後から射殺。尻、太ももなどをナマで食べたあと、死姦。死体を運搬するために解体。
その間にも人肉をビフテキのように焼いて食べ、冷蔵庫に死体の一部を保存していた。13日、パリの西方にあるブローニュの森の湖畔に棄てた。同日夕方、死体を詰めたスーツケースが発見され、15日に逮捕、犯行を自供。
1983年4月、フランスの予審裁判所は、事件当時Sは心神喪失状態であったとする医師の鑑定にもとづき不起訴を決定した。Sは1983年4月からパリ郊外の精神病院に入院していたが、1984年5月、帰国すると同時に精神科に入院。
1985年8月の退院後、小説を出版しマスコミにも登場した。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇深川通り魔殺人事件(4人)~1981年(昭和56年)6月17日、東京、深川の商店街で、元すし職人K(29)が主婦二人(33)(29)、幼児二人(3、1)を包丁で刺殺、女性二人に重軽傷を負わせた。さらに別の主婦を人質に中華料理店に立てこもった。約7時間後に逮捕。就職を断られたことが直接の動機だが、血液と尿から覚醒剤が検出された。
また立てこもっているときも「黒幕を出せ」「電波を送られる」などと叫んでいた。心神耗弱という鑑定結果から、検察求刑無期懲役、東京地裁判決もその通りになった。当初は控訴する予定だったが、担当の国選弁護人が説得してやめさせ、一審で判決確定。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
1981年(昭和56年)6月17日午前11時35分頃、東京都江東区森下二丁目の商店街の路上において発生した川俣軍司による無差別殺人事件。
茨城県出身の川俣軍司(当時29歳)が商店街の路上で、主婦や児童らを包丁で刺し、児童1人と乳児1人を含む4人が死亡、2人が怪我を負った。男は主婦や児童を刺した後、通行中の女性を商店街の中華料理店に引き連れ、女性と中華料理店の店員や家族などを人質にとった(中華料理店営業時間外)。家族は店の裏口から逃げ、難を逃れたが、男は店の2階に立て篭もった。中華料理店は駆けつけた警察官に包囲され、男の説得に当たった。
しかし、男は全く応じなかった。午後6時50分頃、男の隙を見て人質の女性が逃走した。これを機に警察官が突入し、柳刃包丁を振り回し抵抗する男を取り押さえ、現行犯逮捕した。女性に怪我は無かった。白いブリーフにハイソックス姿で連行される男の様子がテレビ中継され、世間の耳目を集めた。
男は傷害事件などで7回に及ぶ逮捕歴があり、覚醒剤を常用していた。男は逮捕後、取り調べで「寿司職人になろうと面接を受けたが、断られて腹が立った。子供を持つ家族が羨ましかった」と供述。
1982年12月23日に東京地裁で行われた判決公判で、裁判長は「犯行当時、覚醒剤中毒による心神耗弱状態にあった」としたが、刑事責任能力は問えるとして、無期懲役の判決を言い渡した。
当時、覚醒剤の第2次乱用期にあたり、中毒患者による事件が多発して社会問題化していた。また、犯人の男が逮捕された時の異様な風体や男の供述に出てくる電波という言葉が世間の耳目を集め、薬物中毒者が起こした象徴的事件となる。本書に記載あり。(wikipedia)
〇西成覚醒剤常習者通り魔事件(4人)~1982年(昭和57年)2月7日午前9時過ぎ、大阪市のアパートの2階に住むH(47)は、妻(34)が食事の用意もせず外出しようとしたのに激怒。台所から刺身包丁を持ってきて妻の胸を刺した。妻は出血多量で死亡。さらに止めようとした一人息子(11)も刺した。
錯乱したHは隣の部屋に押し入り、Aさん夫婦をめった刺しにした。Aさん夫婦は血まみれになりながらも、廊下に逃げ出した。Aさんの妻は後に死亡。
同じ二階に住むBさんはAさん夫婦を見付け仰天、慌てて自分の部屋に駆け込み、夫に向かって救急車を呼んでと叫んだ。Hはその声を聞きつけ、Bさん宅に飛び込み、たまたま一緒に食事をしていた同じアパートの住人C子さん(49)の胸を刺して殺害。
一階に駆け下りたHは出勤しようとしていたDさん(56)の娘E子さん(20)と鉢合わせ。HはいきなりE子さんの顔に切り付けた。悲鳴を聞いて飛び出したDさんの胸にも包丁を刺し、Dさんは死亡。そのまま、表の路地に飛び出したが、通報で駆けつけた警官に逮捕された。
Hは覚醒剤の常習者で、7年前にも幻覚症状から妻を切り付け、逮捕されていた。生活保護を受けていたが、どこからか金を工面し、覚醒剤を続けていた。近所の人々も彼が覚醒剤常習者だと気付いていて、半年ほど前にも連名で警察に何とかしてくれと届けていた。心神耗弱が認められ、無期懲役が確定。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇広域重要指定112号事件(5人)~1982年(昭和57年)5月27日、F(当時20)は藤沢市の会社員Hさんの長女(当時16)との交際を断られたことを根に持ってHさん方に押し入り、長女、次女(当時13)、妻(当時45)の母娘3人を次々と刺し殺した。
さらに6月、犯行の手助けをし、一緒に逃亡していた元ゲームセンター店員の少年(当時19)を兵庫県尼崎市内で、犯行の発覚を恐れて刺殺した。
Fはこれに先立つ1981年10月、横浜市戸塚区のキャベツ畑で、金のいざこざから盗みの仲間の無職男性(当時20)を刺殺している。
1988年3月10日、一審死刑判決。控訴するも1991年4月、Fは控訴を取り下げた。1995年6月29日、最高裁で控訴取り下げが無効になった。2001年、控訴審でも死刑判決。2004年6月15日、上告棄却、死刑確定。2007年12月7日、死刑執行。47歳没。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇松山ホステス殺害逃亡事件(1人)~1982年(昭和57年)8月19日、愛媛県松山市のマンションからホステスA子さん(31)が失踪。間もなく、郊外の山林に埋められていた遺体が発見された。
捜査の結果、店の同僚だった福田和子(34)がA子さんを殺し、現金13万円と家具など956万円相当の品物を盗み、逃亡。犯行から2週間後の8月30日には東京の美容整形外科で隆鼻と二重瞼の手術を受けた。その後、大阪でも鼻と口元の美容手術を受け、各地を転々とした。
1985年には石川県の和菓子店主Bさんの内妻に納まっていた。Bさんは入籍の話を持ち出すも、福田は返事を保留。1988年にBさんは親戚に事情を説明。
ひとりが知り合いの警官に相談を持ちかけ、会ってみようと店を訪ねたら、近くの学校の行事の手伝いをしているという。学校に行くと既に帰ったとの返事。福田は警官の来訪を知り、そのまま自転車で逃亡していた。
時効直前、愛媛県警や整形外科医は福田に懸賞金をかけ、それをマスコミが大々的に報じた。福井市内のおでん屋の女将と常連客は、手配写真が時々現れる客にそっくりであることに気付き、通報。1997年7月29日、福田は逮捕された。時効成立の3週間前だった。
福田は裁判で、強盗目的ではなくA子さんとの競争心、嫉妬心が動機であることを主張。二審ではさらに同性愛からのもつれである偶発的犯行と主張した。しかし裁判所は強盗目的として一審、二審とも無期懲役判決。2003年12月、上告棄却、確定。
福田受刑囚は、和歌山刑務所に服役中の2005年2月末、刑務所内で倒れ、和歌山市内の病院に搬送されたが、3月11日、脳梗塞のため死亡。57歳没。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇勝田清孝連続殺人事件(7人)~勝田清孝は、72年に京都市で飲食店従業員の女性を殺害し現金を奪った後、80年までに京都、大阪などで7人を殺害。さらに82年10月には名古屋市で警察官を車ではね、奪った短銃で殺人、強盗など一連の警察庁指定113号事件を起こした。
1983年(昭和58年)1月31日、逮捕。
1986年3月24日、名古屋地裁で死刑判決。1988年2月19日、名古屋高裁で控訴棄却。1994年1月17日、最高裁で死刑確定。2000年11月30日死刑執行、52歳没。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
その後、Sさんは転居を再び拒否。引き渡しが出来ない場合、違約金3000万円を支払うことになる。焦った朝倉はSさんのところへ何回も訪れるも、家族の反応は冷ややかだった。
1983年(昭和58年)6月27日昼、再びSさん宅を訪れた朝倉は妻のS子さん(41)をいきなり金槌で殴り殺し、続いて次男(1)、三女(6)を殴殺、絞殺。まもなく帰宅した次女(9)も絞殺。夜、Sさんが帰ってくると、持ってきた鉞で切り付け、失血死させた。
その後、死体をバラバラにし、ミンチ状にした。家を出たところを近所から不審の電話をもらった警察官に見とがめられ逮捕。「骨まで粉々にしてやりたかった」と自供した。次男は翌日死亡。長女(11)だけは林間学校に行っていたため、命拾いした。
1985年12月20日、東京地裁で死刑判決。1990年1月23日、東京高裁で控訴棄却。1996年11月14日、最高裁で死刑確定。2001年12月27日、死刑執行。66歳没。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇北海道男児行方不明事件(1人)~1984年(昭和59年)1月10日午前9時35分ごろ、札幌市豊平区の自宅で電話を受けたH君(当時9)が「ワタナベさんのお母さんが、ぼくの物を知らないうちに借りた。それを返したいと言っている」と家族に伝えて外出し、行方不明になった。
1988年6月、Kが以前住んでいた農家の納屋からポリ袋に入った人骨片などが見つかった。行方不明となった当時、H君の自宅近くに住んでいたKは任意の事情聴取に対し、関与を否定した。
殺人事件の時効成立2ヶ月前である98年11月、道警はDNA鑑定により人骨片がH君のものと断定し、Kを逮捕した。 借金636万円の返済を迫られていたために身代金目的で誘拐したが、犯行発覚を恐れて殺害したというのが動機とされた。
しかし「詳細な殺害方法は不明」であり、Kは完全黙秘を続けたため、事件の全容については明らかになっていない。
2001年3月、札幌地裁において検察側は無期懲役を求刑するも証拠不十分により無罪判決。検察側は事実誤認を理由に控訴するも2002年3月19日、札幌高裁は一審判決を支持。K被告の無罪が確定した。
Kは2002年5月1日までに、1998年11月の逮捕から2001年5月の釈放までに至る928日分について、1日あたり12,500円、合計1160万円の刑事補償と裁判費用を札幌地裁に請求。11月18日、1日10,000円、計928万円の刑事補償が決定した。裁判費用については約250万円を認めた。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇夕張保険金目当て放火殺人事件(6人)~H夫婦(41、38)は1984年(昭和59年)5月5日、暴力団員に命令し、保険金目当てに自分の会社の従業員宿舎に放火させ、約1億3800万円を騙し取った。また従業員4人、子供2人が焼死した。殺害されると思った暴力団員の訴えにより、H夫婦が逮捕。H夫婦は放火こそ認めているが、殺意は否認した。
1987年3月、一審死刑判決。共犯の暴力団員は分離公判で無期懲役判決確定。H夫婦は控訴したものの、1988年10月11日、昭和天皇崩御に伴う恩赦を期待して控訴取り下げ、死刑確定。しかし、恩赦はなかった。1997年8月1日、死刑執行。夫54歳没、妻51歳没。夫婦ともへの死刑判決、及び執行は戦後初。妻は戦後3人目の女性死刑執行者となった。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)
〇元警官強盗殺人事件(元警官広田雅晴殺人事件)(2人)~1984年(昭和59年)9月4日、京都市上京区の船岡山公園を巡回中の京都府警西陣署巡査(30)が元同府警巡査部長の広田雅晴(41)に襲われ、刃物で刺されたうえ携帯していた短銃で撃たれて死亡した。
短銃を奪った広田は、約3時間後に大阪市都島区のサラ金店に押し入り従業員(23)を射殺し、現金73万円を奪って逃走。警視庁広域重要指定115号事件に指定される。翌日、千葉県の実家に戻ったところを逮捕された。広田は現職警官だった6年前に郵便局強盗をして服役、8月30日に仮出所したばかりだった。
1988年10月25日、大阪地裁で死刑判決。1993年4月30日、大阪高裁で控訴棄却。1997年12月19日、最高裁で死刑確定。無実であると訴え再審請求中。(http://www.geocities.jp/hyouhakudanna)