9月23日(土) 24日(日)の二日間 北九州無法松ツーデーマーチに参加しました
地元のツーデーですが、実は参加は2回目。二日間とも歩くのは初めてなんです
遠方からもウォーキングのお友達も参加されると聞いていますので、皆さんとお会いできるのも楽しみの一つですね
[ 23日(土) ] 文化と歴史の東コース 門司往還散策コース(20キロ)に参加です
スタートの勝山公園に到着です。いつものガンバル!ポーズでパチリ
飛び跳ねてみましたが・・・・体が重いwwwww
開会式
九州マーチングリーグの方々 それぞれの旗を持っての登壇
小倉祇園太鼓の音が会場内に響きます そろそろスタートです!(^^)!
スタート!!!だけど、すごい人です。ぞろぞろとウォーカーさんの集団が進んで行きます
北九州市健康イメージキャラクター"スマッキー"くんのお見送り
今日は、勝山公園から小倉の街中を通り、妙見神社経由で門司方面へ向かいます
紫川沿いを歩きますが、遠くから見ても人・人・人の列
無法松の碑
ここは、いつも綺麗に掃除されているんですよ
小倉の作家岩下俊作が、小説「富島松五郎伝」の中に作り出した男、松五郎(無法松)は、北九州人の代表というより、情義に生きた、日本人のあこがれの庶民像として全国的に慕われています。
この碑は、無法松を愛する土地の人々によって、昭和34年、彼が住んでいたこの古船場の地に建てられました。
碑銘は岩下俊作の筆で、碑の下には昭和33年ベネチア映画祭でグランプリを受賞した稲垣浩監督の「無法松の一生」のシナリオが埋められています。毎年3月4日には碑前で供養が行われ、小倉祇園太鼓をたたき、無法松の好きだった酒をそそぎます。月命日の4日にも毎月行われています。
小倉の街中を歩きますが、小倉城下の名残で、色々な門の跡の表示が有ります
この門の跡を回るだけでも、10キロ位のウォーキングコースになります
市街地を抜けて、妙見神社に向かう道 だんだん坂道になって来ました
緩やかだけど、ずっと上る・・・・・
ようやく、妙見神社に到着 最初のチェックポイントになります
◎足立山妙見宮◎
宝亀元年(770年)和気清麿が創祀した全国唯一の神社で、全国妙見神社の総本宮となっています。また、和気清麿の足が立った御神徳が受け継がれ足の神様として厚く信仰されています。清麿は、宝亀元年四男磐梨為綱(出家して妙運)を造化天神降臨の地、足立山に送り、足立山妙見宮を創建。 772年、国司大伴百世の助けを得て、足立に下宮足立山平癒寺を建立。817年、清麿の三男参議真網卿が、宇佐の帰り、下宮に清麿公と祖先の神霊を祀る。853年、太政大 臣藤原良房(804~872)が、虚空蔵、釈迦、薬師、阿弥陀の仏像四体を妙見宮へ寄進。1520年頃、後柏原天皇より、全国神社の紋章としては妙見宮だけのものである「うら菊」を授かる。この紋は、和気氏の流れ、和気明親が後柏原天皇(1501~1526)から、和気氏の家紋として授かったものです。1601年、細川忠興が、眼病平癒を祈願し、この成就により妙見宮を下宮として現在地に移す。 その時、日向から取り寄せた松を植樹。1870年頃、平癒寺を御祖(みおや)神社と改称。1945年、足立山妙見宮を再称。
HPです → http://myouken.or.jp/page-62/
階段の上がチェックポイントなので、大勢の人が上がっり下ったりです
飴と給水
お参りもね 今日も楽しく完歩できます様に!
和気清麻呂伝説にもある様に、弓削の道鏡の天皇就任を阻止のために宇佐神宮の託宣を確認した和気清麻呂は足の筋を切られ大隈国に流される途中、救出されて宇佐神宮のお告げで小倉の足立山に行って、足の治療をして、さらに足立山頂で天皇の安泰を願ったら、その通り叶えられたので神社を創建したそうです。
この為、ここは「健脚・健康の神様」としてもご利益が有るようです ツーデーにはぴったりのチェックポイントですね!(^^)!
沢山の健脚祈願が有りました
今にも走りそうだ~
和気清麻呂像
猪に乗っています (わかるかな???)
ここからは、足立山の中腹に通っている道を歩きます(足立山森林公園)
JR九州ウォーキングでも、この辺は歩いたことが有りますが、やはりアスファルトの道より土の道の方が歩いていて楽しいです
◎小文字焼き◎
北九州の盆行事の一つとして親しまれる暑い真夏の夜を彩る風物詩。 盆の迎え火として、8/13の夜に山頂に青竹300本で描かれた「小」の火文字が現れます
この辺りから、色々なルートで散策できるようですが、今回は、山には上がらずに若干のUP/DOWNは有りますが、門司方面に歩いて進みます
どこかで行ってもまだまだ人が多い!
◎手向山公園入口◎
ここを過ぎると、門司区に入ります。今回はコースに入っていませんが、公園まで上がれば、関門海峡や巌流島が望めます
そして、宮本武蔵と佐々木小次郎の碑があります。低い山ですが、上がると意外と大変です。今回はその横を通過で良かった(笑)
門司区を歩きます。この道を真っ直ぐ下ると「JR門司駅」
JR病院の先に見えるのは、「戸ノ上山(標高517.8m)」
上まで上ると、北九州空港など、新門司方面や周防灘まで眺めることが出来ます
40キロの人は、ここからさらに門司港まで歩き、関門トンネルの人道を歩いて、下関のみもすそ川で折り返しとなりますが、
私たちは20キロなので、左折して関門海峡に向かいます
安徳天皇 柳御所 御所神社 に着きます
今回は、裏から回ったので、「稲荷神社」の鳥居をくぐってから柳御所に出るようになっています
金ぴかの狐が座ってる! なんだか商売繁盛って思えますね
源平合戦で知られる平家一族が、合戦の間、海上生活を送っていた一時期、安徳帝の仮の御所があったと伝えられる神社。 御所のことを内裏(だいり)というので、この辺の地名はその名残りで大里(だいり)とよびます。場所:大里戸ノ上1丁目。 柳の御所ともいう。 平家ゆかりの地です。
ここでもお参り
◎九月十三夜の歌読の事◎ 平家の公達が詠んだ歌の歌碑がありました
表から出ます(笑)
海岸沿いに向かって進みます
◎大里宿◎
門司から現在の国道3号・国道199号を小倉方面へ向かうと、まもなく大里の町があります。
古くは、「柳」や「柳ヶ浦」と呼ばれていましたが、寿永3年(1183年)都を追われた平家一門が、安徳天皇を擁してこの地に「柳の御所」を設けた事で「内裏」と呼ぶようになり、それが江戸時代に今の大里と改められました。
関門海峡に面したこの町は、関門橋が架かる早鞆の瀬戸に次いで下関側と接近しており、比較的に潮流も穏やかな事から古くから関門を渡る港として利用されていました。
江戸時代、譜代大名の小笠原家が寛永9年(1632年)に小倉藩主として転封し、やがて参勤交代の制度も始まった事で、大里は海峡を渡る大名や旅人の宿場町として賑わいます。
今も残る街道筋は、海側の国道199号と山側の国道3号、JR鹿児島本線とほぼ平行に通っており、道筋には当時を偲ばせる民家や街道の松が残っています。
歩くコースには、長崎街道に関するいくつかの石碑を見ることが出来ます
◆人馬継所跡◆
参勤交代の大名に人足や馬を提供する人馬継所跡などの碑
◆一里塚跡◆
大里宿は江戸への玄関口であり長崎街道の始終着駅でした。藩政期街道要路には里程の目安として一里塚標石を設けていました
◆大里宿跡◆
大里宿は長崎街道に沿った直線五町五十二間(約646メートル)の町並みで、ここには本陣、脇本陣、番所、郡屋、人馬継所、旅籠屋が建ち並んでいました。また、この碑の西隣には長崎番所が設けられていました。
◆御番所跡◆
本土との渡海口に当たりここの在番役人は舟の出入り、人馬の切手改め、荷抜けの取り締まりを行っていました。当時、御番所はこの碑のある海側にありました
◎門司麦酒煉瓦館◎
サッポロビールの跡地
以前、工場の見学で中に入ったこともあります。現在は、サッポロビール工場は日田に移転しています
冷たいのが飲みたいね ☆☆
栄養補給も大切ね
イラストレーターのわたせせいぞうさんは、北九州市の出身です
壁画が門司駅裏にあります
関門海峡沿いを歩いて、小倉方面に向かいます
この辺では、ウォーカーさんはほとんどいません。 潮風を受けながら気持ちよく歩きます
海沿いでは、釣りを楽しんでいる方も沢山いましたよ
鯛(だよね??)が釣れた!!
お世話になります
ゴールまで、あとわずかです
◆岩松助左衛門生家跡◆
岩松助左衛門は、明治初頭、長浜(小倉北区)の、小倉沖の白洲(しらす)付近で船の遭難が相次ぐことを見て灯台を建てようと、私財を投じ義金を募って建設にかかったが、私設灯台禁止により政府の手ですすめられ、完成前に灯台を見ることなく亡くなりました。
北九州市が作成しているHPにも詳しいことが載っています
http://www.city.kitakyushu.lg.jp/kokurakita/file_0079.html
西顕寺の本堂前に灯篭型の助左衛門の墓があります(小倉駅前のコレットのすぐ近くです)
この手前で、10キロとも合流してきて、周囲にウォーカーさんが増えてきました
この先は、ミクニワールドスタジアム北九州 ギラヴァンツ北九州のホームグラウンドです
四国の松山に行く時には良く利用します 小倉松山フェリー乗り場
小倉駅の裏を通り、紫川沿いに勝山公園へ戻ります
新幹線の高架と鹿児島本線の下を通ります
ソニックだ
◎常盤橋◎
常盤橋は、長崎街道の起点、『常盤橋』は、細川忠興公が小倉城下町を建設する際、東曲輪(町人町)と西曲輪(武家屋敷)を結ぶ重要な橋として架けられました。
第8代将軍徳川吉宗のときには、将軍に献上するためにベトナムからやってきた象もこの橋を渡りました
象が渡っても壊れない橋だったんでしょうね~~
現在の常盤橋は、木の橋として江戸時代の姿を再現したもので、当時のくいの一部は、今も橋のたもとに残されています
北九州市のHPにも詳しいことが掲載されています
http://www.city.kitakyushu.lg.jp/kokurakita/file_0093.html
◎常盤橋の広告塔◎
明治23年頃に建てられたものであるが、平成15年に再建されました
当時は現在の約3倍の大きさあったといわれており、高さは約12.5メートル、総幅は約4.2メートルであったとされているそうです
森鴎外の小説「獨身」に広告塔は西洋から直接小倉に伝わり、「東京にないもの」のひとつとして、「常磐橋の袂(たもと)に圓(まる)い柱が立っている。これに広告をはりつけるのである。」と記されているとのことである
伊能忠敬もここに立ち寄っています。日本全国を測量した「測量日記」には、1810年(文化7年)1月12日に、「室町の三つ辻より、常盤橋を渡り、常盤門をとおり...」と、記録が残されています。
勝山公園に帰ってきました!これでゴール
20キロ完歩です
お疲れ様でした!
この日の参加者
40キロコースの参加者が一番多い!ビックリです
10月に開催される、行橋~別府100キロウォークの参加者の丁度良いトレーニングのツーデーだからなのでしょうね~
ゴールの後は、神戸と加古川から参加のウォーキングお友達と小倉城をプチ観光
「迎え虎」と「送り虎」
小倉城が消失した慶応2年寅年(1866)に因んで描かれた雌雄一対の「迎え虎(雄虎)」(左)と「送り虎(雌虎)」(右)。各・高さ4.7×幅2.5m 昭和35,36年作
迎え虎はいずれの位置より見るも真正面に見えるところから八方睨みの虎とも言われています
う~~ん 睨まれてる!
迫力あり!
迎え虎と送り虎をモチーフにして誕生したのが・・・・・
小倉城のオリジナルマスコットキャラクターは、カブトからはみ出すほどの大きな頭がチャームポイントの「とらっちゃ」
こっちは可愛い ❤
今日の実績です
一日目も、曇り空で、ウォーキングにはぴったりの天候でした。ゴール手前位からは、日差しも照りだして、やはりそうなるとまだまだ暑かった!
翌日も天気予報では、雨の心配なし 良かった良かった
ゴールでも、色々な方にお会いでき、楽しい一日でした
<二日目に続く>