数十年前は安楽死という表現が一般的であったと思いましたが、現在は尊厳死という表現の方がより多く使われていると思います。単に楽に死を迎えるということに留まらない事柄だという理解に至ったからでしょう。最近尊厳死を扱ったテレビ番組やネット上の記事に続けて触れる機会が有りました。その中で思うことが有りましたので記しておこうと思います。
法的な整備をして尊厳死を可能にしている国々はヨーロッパに多いように思います。それで、尊厳死を望む人がそういう国に移動したり、アメリカ合衆国の場合は法制化した州に移動するということが有ります。
法的な条件としては、治療ができない難病を持っていること、それが耐え難い苦痛をもたらすと認められること、死期が近いこと、家族や親族の同意が得られることなどが挙げられます。私が見た記事では、治療の見込みの無い癌の方や認知症を発症する人が多い家系の高齢者の方が取り上げられていました。
番組や記事のインタビューの中で、実際にそいう決断をした方々や準備を進めている方々、またそういう生き方を支援する方々が異口同音に言っていることが、私にとっては忍者的にしっくり来ないことに気付きました。
くり返し尊厳死の重要な点として人々が述べていたことは、「自分で死ぬことや死に方を決定できること」とうものでした。それが尊厳を保った死に方、自己の尊厳を守ることであるということになるのだと考えられます。そこで私には二つのことが気になって来るのです。
第一に、病気で苦しんだり臓器の不全が進んで命を落とすとか、認知症が進んで空間把握ができなくなるとか下の世話を他人にしてもらわなければならないということは残念なことではありますが、人間の尊厳を損なうことではないと思うのです。乳幼児は下の世話をしなければなりませんし、大人のような方向感覚が備わっていなくて迷子になったりします。けれどもそれは当たり前のことであって別に人間としての尊厳が損なわれるような事柄ではありません。大人や高齢者が病気で命を落としたり認知症になるのも普通に有り得ることであって当たり前な事柄ではないのでしょうか。勿論乳幼児にはこれから成長して行くという展望が有り、大人や高齢者にはそういう展望は有りません。しかし、どちらの場合も人間の一生の中の当たり前な一要素にしか過ぎないはずです。大人や高齢者は皆が平穏に所謂畳の上で最期を迎えるという保証は有りません。一方乳幼児とて必ず順調に成長して人生を全うできるとは限りません。そういう当たり前なことが尊厳を損なうこととして捉えられるとしたら、それこそ人間の尊厳を軽んじた物の見方ではないかとさえ思うのです。それは、別の角度から言えば感性偏重の捉え方であると思います。人間の尊厳とか気高さは、宗教的な部分を除いて考えると、高い徳性とか人生を勇敢に受け止める意志的部分に有ると思うのですが、恥ずかしいとか何かが嫌だというようなことを避けることが尊厳を守ることのように考えるのは過度に感覚的であるように私には思われます。自然に死ぬことに尊厳を認めないのはいかがなものかと思います。
第二に、自分の命だから自分にその締め括りの決定権が有るという考え方が誰にも納得されるべき考え方であろうかという疑問を感じます。選択権の問題というのであれば、終わりだけでなくて始まりについても考えてみるべきではないかと思います。実際問題として、自分の選択権を行使して生まれてきた人は一人も存在しません。命の倫理の問題も絡んで来ることですが、生まれる時は産む方の人間たちの「選択」が優先で死ぬ時はこの世を去る人たちの「選択」が優先されるというのも一貫性が無いと感じます。死とは実際にはいつどのような形で訪れるのかわからないものです。不慮の事故、突然の災害などで命を落とすことも有ります。しかし、例えそれが比較すると悲惨な死であったとしても、それは当然この世の中に存在する幾つも有る死に方の一つにすぎません。(そうお考えにならない人達が、やや強引な新興宗教の勧誘などで、話を聞いたのにぐずぐず入信しなかったら鉄道事故で亡くなったなどという強迫めいたお話で入信してしまったりします。)それに、突然の災害などで亡くなった方は誰もそれを「選択」されたわけではありません。ことさらそういう亡くなり方をした人達は不幸で、所謂尊厳死を選べる人達やその死に方がより尊いなどと考えられるべきではないと思います。
さて、忍者的随想という点からすると、やはり私たちの命は「主与え、主取りたもう。主の御名はほむべきかな。」とヨブが告白したように、神様の御手に有り、私たちの自由意思を超えた決定権が神に有るという部分に帰るべきであると思います。人間が堕落したために、いろいろな形態の死が人類にもたらされましたが、それは総合的に全て同等の死でしかなく、また、それは次のライフステージへの出発でしかないと考えるものではないかと思います。
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法的な整備をして尊厳死を可能にしている国々はヨーロッパに多いように思います。それで、尊厳死を望む人がそういう国に移動したり、アメリカ合衆国の場合は法制化した州に移動するということが有ります。
法的な条件としては、治療ができない難病を持っていること、それが耐え難い苦痛をもたらすと認められること、死期が近いこと、家族や親族の同意が得られることなどが挙げられます。私が見た記事では、治療の見込みの無い癌の方や認知症を発症する人が多い家系の高齢者の方が取り上げられていました。
番組や記事のインタビューの中で、実際にそいう決断をした方々や準備を進めている方々、またそういう生き方を支援する方々が異口同音に言っていることが、私にとっては忍者的にしっくり来ないことに気付きました。
くり返し尊厳死の重要な点として人々が述べていたことは、「自分で死ぬことや死に方を決定できること」とうものでした。それが尊厳を保った死に方、自己の尊厳を守ることであるということになるのだと考えられます。そこで私には二つのことが気になって来るのです。
第一に、病気で苦しんだり臓器の不全が進んで命を落とすとか、認知症が進んで空間把握ができなくなるとか下の世話を他人にしてもらわなければならないということは残念なことではありますが、人間の尊厳を損なうことではないと思うのです。乳幼児は下の世話をしなければなりませんし、大人のような方向感覚が備わっていなくて迷子になったりします。けれどもそれは当たり前のことであって別に人間としての尊厳が損なわれるような事柄ではありません。大人や高齢者が病気で命を落としたり認知症になるのも普通に有り得ることであって当たり前な事柄ではないのでしょうか。勿論乳幼児にはこれから成長して行くという展望が有り、大人や高齢者にはそういう展望は有りません。しかし、どちらの場合も人間の一生の中の当たり前な一要素にしか過ぎないはずです。大人や高齢者は皆が平穏に所謂畳の上で最期を迎えるという保証は有りません。一方乳幼児とて必ず順調に成長して人生を全うできるとは限りません。そういう当たり前なことが尊厳を損なうこととして捉えられるとしたら、それこそ人間の尊厳を軽んじた物の見方ではないかとさえ思うのです。それは、別の角度から言えば感性偏重の捉え方であると思います。人間の尊厳とか気高さは、宗教的な部分を除いて考えると、高い徳性とか人生を勇敢に受け止める意志的部分に有ると思うのですが、恥ずかしいとか何かが嫌だというようなことを避けることが尊厳を守ることのように考えるのは過度に感覚的であるように私には思われます。自然に死ぬことに尊厳を認めないのはいかがなものかと思います。
第二に、自分の命だから自分にその締め括りの決定権が有るという考え方が誰にも納得されるべき考え方であろうかという疑問を感じます。選択権の問題というのであれば、終わりだけでなくて始まりについても考えてみるべきではないかと思います。実際問題として、自分の選択権を行使して生まれてきた人は一人も存在しません。命の倫理の問題も絡んで来ることですが、生まれる時は産む方の人間たちの「選択」が優先で死ぬ時はこの世を去る人たちの「選択」が優先されるというのも一貫性が無いと感じます。死とは実際にはいつどのような形で訪れるのかわからないものです。不慮の事故、突然の災害などで命を落とすことも有ります。しかし、例えそれが比較すると悲惨な死であったとしても、それは当然この世の中に存在する幾つも有る死に方の一つにすぎません。(そうお考えにならない人達が、やや強引な新興宗教の勧誘などで、話を聞いたのにぐずぐず入信しなかったら鉄道事故で亡くなったなどという強迫めいたお話で入信してしまったりします。)それに、突然の災害などで亡くなった方は誰もそれを「選択」されたわけではありません。ことさらそういう亡くなり方をした人達は不幸で、所謂尊厳死を選べる人達やその死に方がより尊いなどと考えられるべきではないと思います。
さて、忍者的随想という点からすると、やはり私たちの命は「主与え、主取りたもう。主の御名はほむべきかな。」とヨブが告白したように、神様の御手に有り、私たちの自由意思を超えた決定権が神に有るという部分に帰るべきであると思います。人間が堕落したために、いろいろな形態の死が人類にもたらされましたが、それは総合的に全て同等の死でしかなく、また、それは次のライフステージへの出発でしかないと考えるものではないかと思います。
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