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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

受胎告知 (ルカ伝一章二十六節~三十八節)

2011-10-19 21:17:09 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
 ルカは検証されて本当だと確証されたことを順序立てて記すという姿勢で福音書を書きました。天使ガブリエルによるバプテスマのヨハネの誕生の予告の記事の次に記されているのが、マリアへの受胎告知でした。節を追って確認してみます。奥義書を見ながらお読みください。

二十六節
 エりサベツの妊娠から六ヶ月目のことです。ガブリエルの予告は実現して確実に進んでいたということになります。神のなされることは確実に進むのです。
 さて、その同じガブリエルが再び遣わされました。ガブリエルの役割は、特に神の意思を伝えることにあるとも言われています。今回ガブリエルが遣わされた場所は、普通の人たちからはあまり見向きもされない町でした。しかも、その訪れた先は無力な女性のところでした。処女と訳された言葉は、結婚できる年齢に達した女性という意味が有り、だいたい十三歳ぐらいからそう考えられたようです。この時のマリアは十四歳かそれ以下であったろうという注解もあります。

二十七節
 結婚適齢期ということを裏付けるように、この女性には婚約者が居ました。具体的な名前が記録されているのは、それが実在の人物であり、当時であれば本人はすでに死亡していたとしても、まだ取材が可能であるという示唆でもあったように思われます。

二十八節
 ガブリエルの挨拶は、原語では「喜べ」という意味を持つ命令形ですが、挨拶の言葉として割合幅広い意味で用いられたようです。「喜び、平安があなたに有るように」という意味を持っていたと考えられます。おめでとうという意味は有りません。
 恵まれた者という表現が有りますが、神の好意を得た者、誉れ有る者という意味を含んでいます。それは主があなたと共におられるということとつながると思われます。
 私たち忍者も、神の好意を得、キリストにあって誉れ有る者となり、神が共におられる存在とされました。その意味では、同様の恵みに与っていると言えるのではないでしょうか。

二十九節
 マリアの胸騒ぎは、一重にガブリエルの挨拶の意味が良くわからなかったことによるものでした。どこの世界にも独特の挨拶の言葉が有り、その挨拶に相応しい場面が有ります。「永遠に生きられますように」と言えば王に対する挨拶だったりしましたし、「ようこそ」などと言えば、歓迎されていることがわかります。しかし、ガブリエルの挨拶の言葉は、一般によく聞かれる挨拶や口上ではありませんでした。ですから、その後に何が起きるのか彼女には想像がつかなかったのです。大事な場面や仕事でマナーがわからなかったり次に何が起きるのかがわからなければ、身の処しようがわからず不安になります。マリアの状況はそんな感じであったと考えて良いでしょう。しかも、この時は天使と対面していたのですから。

三十節
 「恐れるな」という言葉は聖書に三百六十五回出てくると言われます。神と共に在る者は一年中三百六十五日恐れる必要が無いのです。ガブリエルもその言葉をマリヤにかけました。しかし、この場合はそれ以上の理由が有りました。マリアは特別な神からの恵みをいただいているというのでした。

三十一節
 生まれる前から神の使いによって名前を与えられた者は特別な存在です。今回も子の名前がガブリエルによって告げられました。イエスというのは「主は救い」という意味が有る名前です。それは、一般的な希望としてではなく、本当にこの子を通して実現することになるのでした。

三十二節
 生まれる子は大いなる者となると言うのですが、そこからが普通の内容ではありません。「いと高き者」というのは、神ということです。生まれてくる子供は「神の子」であるというのです。しかも、その神が彼を王にするというのです。

三十三節
 キリストは人間的な家系から言えば、ダビデの子孫でした。神はまたダビデに対してもその王座に着くものは絶えないことを約束していました。マリヤから生まれてくる子が「とこしえに」「限りなく」ヤコブの家、つまりイスラエル人を支配するということは、その約束に合っています。しかし、今回は、その一人の子の支配がとこしえに続くというものです。その子供が神であるということを述べていると理解できます。
 ルカは、ここで神の約束と結びついた生まれて来る子についてのガブリエルのメッセージを記録することによって、キリストの神性を確認させようとしています。

三十四節
 ガブリエルが告げた神のメッセージは、それが自分に起きるとは想像ができないような途方も無い内容でした。マリアの口から「どうして、そんな事があり得ましょうか。」という質問が出るのも無理からぬことのように思えます。しかし、この訳はあまりその原意を伝えていないように思います。むしろ、「どのようにして、そのような事は起きるのでしょうか。」という感覚が強いと考えられます。質問はガブリエルのメッセージに対する不信というものではありませんでした。その焦点は「どのようにして」という、方法や手段に有ったのです。マリアに不信の思いが無かったことは、ガブリエルがザカリアの時のようにマリアが話しができなくなるようにしたりしなかったことでもわかります。
 確かにマリアが考える時、ガブリエルの言葉が実現できるような状況ではありませんでした。第一に、生物学的に無理が有りました。婚約者はいましたが、まだ成婚という状況ではありませんでした。第二に、社会的状況的に無理が有りました。未婚の女性が懐妊することは大変不利な状況で、その子が人々の認知を受けて王にまで成るというのは難しいことだと言えました。

三十五節
 そこでガブリエルは、「どのようにして?」という方法に関する疑問に答えます。聖霊が彼女に臨み、神の力が彼女をおおうという方法によってであるというのです。人間的な方法によらず、聖霊と神の力によって子供が生まれるのだから、その子は聖なるものであり、神の子というわけです。これは、後に成就する十字架の贖いにおいて、大変重要な要素でありました。

三十六節
 ここでガブリエルは次の節に示される結論につなげるための身近な例を示します。神の力によれば、不妊で老齢であったエリサベツも妊娠し、流産もなく健やかに六ヶ月になっているということです。

三十七節
 エリサベツの妊娠は、旧約のサラの妊娠と同じぐらい難しいことでした。しかし、それが実現して今も順調に進んでいるのです。それは「神には何でもできないことはない。」という結論を示すのに十分な例証であったでしょう。
 マリアの「どのようにして?」という疑問は、生物学的な障害と社会的な障害などを考えたことから来るものでした。しかし、人間的に考えた時にどのような障害が有ろうとも、神には不可能は無いのです。

三十八節
 ここまでのガブリエルの言葉を聞いたマリアには、もう何も言うことは有りませんでした。彼女の自己認識は、「主のはしため」ということでした。ですから、聖霊によって事が起きるというのが、具体的にどういうことかたとえ理解できなくてももう関係なかったのです。ただ、神の心、神の計画が成れば良いのです。それが、「主のはしため」の立場であり、とるべき態度でした。はしためと訳された語は、自発的であるか否かに関わらず奴隷や僕であることを表す名詞で、女性名詞の語尾になっています。
 ガブリエルの使命はマリアがこの信仰の告白に至ったことで果たされ、その場を去って行きました。


 さて、ここでルカが伝えたかったことから考えてみます。以下の四つを挙げることができるように思います。

1.キリストの誕生は、宣教されている福音の通り、罪の無い神の子としての誕生であったということ。

2.ガブリエルの伝えた内容は、旧約聖書の預言に合致しており、且つ宣教されているキリストによって人々にもたらされた神の国の有様と合致していること。

3.神には何でもできないことは無いということ。

4.マリアの態度は、福音を信じた者たちの態度でもあるということ。

4.は、私の考え過ぎかもしれませんが、そういう願いも含まれていたのではないかと思います。


 続いて、現代に生きる忍者(クリスチャンという意味です)はどのようなことを学ぶことができるかを考えてみます。この箇所に登場する人物中で、我々が倣うことができるのはマリアです。天使ガブリエルに倣うなどということはできませんから。

 マリアは天使ガブリエルによる特別な啓示を受けましたが、そのような経験をする人は今日ほとんどいないことでしょう。しかし、私たちには同様な、いやそれ以上の特別啓示である聖書が有ります。その中心的なメッセージはイエス・キリストです。

 マリアは肉体的にイエス・キリストをその胎に宿し、また世に送り出しました。また、その子が永遠の王となるという預言がありました。それがどのような方法で起きるかということがマリヤの疑問でした。しかし、マリヤがその方法を心配する必要は無かったのです。神には何でもできないことは無いからです。
 私たちは、ガブリエルがマリアに告げたキリストの永遠の支配の一部に加えられた存在です。しかし、時にはそんなことがどうして起こりえるだろうかという疑問がわいたりします。キリストが私たちのうちに生きるとか、聖霊の実が私たちのうちに結ばれるというのは無理ではないかとか、いろいろなことを考える時が有るかもしれません。

 マリアは、ガブリエルが「神には何でもできないことはない」と告げた時に、それを受け止めました。それが信仰であると言えるでしょう。マリアの「どうして、どのようにして。」という疑問は無用なのでした。同様に、私たちにもいろいろな疑問が有るかもしれません。また、将来に対する心配なども有るかもしれません。しかし、そういうことも含めて、神は私たちに恵みを与え守ると言われました。どうしてそのようなことが起きえるだろうかなどという心配をする必要は無いのです。神には何でもできないことはないからです。私たち忍者はそれを信じることに決め、神からの応答の経験を積み重ねて生きているのです。
 この過程は、福音を聞いて、これから信仰に入ろうとする人たちにも起きることであると思います。


次のようにまとめてみたいと思います。
1.私たちには聖書の言葉が与えられています。それは私たちの一般常識には合わないことも有るでしょう。しかし、私たちにはそういう神様の言葉は届いているのです。

2.私たちには、神の言葉がどのように自分自身や自分の人生に実現しえるかという疑問が有るかもしれません。しかし、神の御心は、私たちがキリストの永遠の支配の中に入ることです。マリアにはエリサベツという神からの証拠が有ったように、現代に生きる私たちにも後押しとなるような経験や情報をくださることでしょう。

3.聖書を通しえ与えられた福音や神の言葉が、どのように実現可能かという疑問は必要有りません。神には何でもできないことは無いからです。神の力は私たちにも及び、イエス・キリストの血潮の贖いと聖霊の内住が私たちを覆い支えているのです。そのことを信じて告白する神の僕となり、マリアの模範に倣う者となりましょう。




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