糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

万人祭司なら牧師は不要? リンクのまとめ

2017-11-16 11:48:23 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
今年は、宗教改革500周年記念ということで、様々な取り組みが見られました。日本の改家においては、新しい翻訳の奥義書が刊行され、普及版は売り切れ状態になっています。

あるキリスト教雑誌を見ましたら、やはりこの宗教改革500周年記念に因んだ特集がなされていました。その中で、比較的著名な大忍が、万人祭司を取り上げて、牧師と信徒は上下関係ではないということを述べておられました。確かにその通りなのですが、私、糸田がこれまで述べてきましたように、それと万人祭司の原則は基本的には関係無いというのが私の立場です。また、組織系統的上下関係は聖書にも見出されます。ここで、改めて、このことを扱ったエントリーのリンクをまとめて提示しておきたいと思います。タイトルではなく、そのままのリンクですがご勘弁ください。

http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/0a1fbf894905ee9f77c2f328855bd37b
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/4a98712f6748d0df01ea73275b17631a
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/32868c9553d080fe7091903bf97489ec
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/c815b03dee4df5fb8d8cbaa201af9bd3
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/0a8df6a0af10467ca6f01e98bb74bd8b
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/a71e25c2263f89dceaf9351dc1801b49






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シャリアについて 其の三

2017-11-15 20:26:05 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。


シャリアが基本的人権の尊重の精神と相容れない五つのことがら

一.冒涜に関する罰則
  神に対する冒涜と認識される行動には厳しい罰則が有ります。神によって制定されたと考えられ、改定することはできません。具体的な罪状と罰の例-姦淫罪:百回の鞭打ち、もしくは石打による死刑。嘘の姦淫罪の告発:八十回の鞭打ち。窃盗罪:手の切断。飲酒:四十回もしくは八十回の鞭打ち。公道での強盗:投獄、手足の切断もしくは死刑(重罪であれば磔)。イスラムからの棄教:死刑。
  多くの学者や支持されている教師は、真のイスラム教の復興の印としてこのような罰則を支持しています。2005年にタリク・ラマダンというイスラムの教授がこれらの罰則の一時的な停止を提案しましたが、著名なイスラム教の学者たちに反対されました。シャリアを緩めるようなことは、西洋のキリスト教的価値観への妥協とみなされます。

二.ユダヤ人、キリスト教徒、その他の非イスラム教徒の扱い
  宗教の違いによる差別はシャリアの基本路線です。イスラム教が圧倒的支配をしていなければならず、イスラム教徒だけがすべての市民権を行使できるのです。従って、イスラム教徒は他のすべてに勝る存在として取り扱われなければなりません。
  ユダヤ人とキリスト教徒はディミス、すなわち生きることを許された者たちとみなされます。しかし、それは武装しない、社会の下層階級であることに甘んじる、イスラム教徒に敬意を払う、特殊な人頭税を払う、偉そうな振る舞いをしない等の条件付きです。日々の生活に卑しめられるような数限りない制約が課せられます。教会堂では宗教活動ができますが、公の場所では禁じられています。教会を新築することや、既存の教会堂の修繕は認められていません。法廷でイスラム教徒に反訴する内容の証言はゆるされず、イスラム教徒の上に立つ公務員などの職に就くことはできません。
  今日、比較的世俗化したようなイスラム圏の国で、一般的に全ての国民に平等を保障する憲法を持っている場合でも、非イスラム教徒への差別は様々な形で存在します。古典的なシャリアにおいては、異教徒は死か改宗かの選択を迫られました。

三.イスラムの異端と棄教者
  異端とされるイスラムの教えを受け入れると、正統的なイスラム教徒からは異教に改宗したとみなされ、死刑が相応しいとされます。当然別の宗教に改宗しようものならば、背信者として死刑に処されます。シャリアの形成に関わったすべての学派が他宗教に改宗した成人は死刑に処されるという立場を取っています。たとえ死刑にならなかったとしても、結婚は解消され、国外追放、遺産相続権の剥奪、所有物の没収、殴打、拷問、投獄などの厳しい刑が科せられます。
  進歩的なイスラム教徒たちは、異端者とみなされて、生命の危険に晒される状況に有ります。

四.聖戦(ジハド)
  シャリアは聖戦を最も基本的な宗教的義務と位置付けます。実際的な戦争として理解されています。ジハドの概念は、世界をイスラムと非イスラムにはっきり二分し、非イスラムに聖戦を仕掛けてイスラムに変えようとするものです。現代のイスラム教徒の中には、そのような攻撃的な聖戦の理解を拒絶する立場も有りますが、それでも、聖戦の義務はイスラム圏の領土を守ること、イスラム教徒を暴力的攻撃から守ることを含むと考えます。そうしますと、イスラム教徒を巻き込むどのような対立や紛争も防衛的聖戦の適用の範疇と解釈されます。それでイスラム教のテログループは、ジハドを名目にその行動を正当化することができるのです。

五.女性の地位
  シャリアは性的な差別をします。男性の方が優れた存在とされています。女性は知性、道徳性、宗教性が劣っているとされ、ゆえにその弱さに陥ることから守られなければならない存在とされます。慎ましい装い、異性と同席しないことなどを強く求めます。女性は親族の男性の法的庇護のもとに置かれます。法的な様々な取り決めにおいても男性よりも価値が低いものとされています。男性は四人まで妻を持てますが、女性は一人の夫に限定されます。男性は簡単に離婚できますが、女性が離婚を求める時には大きな障害が立ちはだかります。女性の相続割合は男性の半分となり、法廷での証言の有効性も男性の半分とされています。殺人事件の場合、女性に対する償いは男性に対する償いよりも少なくなります。
  多くのイスラム社会では、公の場所では男女が別々に行動することを求めます。イスラム法廷は明らかに性差による判決の偏向が有ります。一例としては、性的暴行の被害女性を、不適切な性関係を持った女性として告訴することが幅広く行われています。この場合の量刑は、投獄、鞭打ちから石打による死刑まで含まれています。このようにして、被害者が犯罪者に仕立て上げられてしまうのです。パキスタンでは多くのレイプ被害者が投獄されています。
  それでも、トルコやチュニジアの法では女性の地位が割合向上しています。モロッコではかなり幅広く女性を平等に扱う、進歩的な形態の家庭の規定に関するシャリア法が施行されました。




 

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シャリアについて 其の二

2017-11-15 13:45:27 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

十九世紀以降、現代の生活に合わせてシャリアを整備しようという考えは有ります。そういう人たちは、イスラムの文献に返ることが後ろ向きで弱体化しているイスラム社会の改善にとって重要な鍵であると考えます。彼らはシャリアを形成してきた学派や後世の伝統の権威を少し軽く見ようと考えます。そうすることによって、各学派の解釈の良いところを組み合わせ、イスラム社会の唯一のガイドラインを作り出すことが可能になるからです。このような改革派の人たちは、より理知、理論に強調点を置き、普遍的で永続的なシャリアの価値と社会世俗の事柄を扱う部分を変更可能なものとして分離していこうと考えます。

しかし、イスラム社会では伝統主義者たちが圧倒的多数を占めており、それが平均的な意見になっています。改革派は西洋社会に少数派として存在するだけです。伝統主義者たちは、こういう少数派を背信者として退けており、言葉、法律、暴力での弾圧を行っています。

イスラム教徒は、シャリアは、それが形成された七世紀から十世紀の社会基準において適切で穏健であったということを主張します。しかし、それ以来一切の改革はなされないできました。そのため、現代の特に西側諸国の社会基準に照らすと極端に厳しいものになっています。今日の人権、宗教の自由や法の下の平等などの多くの原則を侵害したものになっています。シャリアは本質的に女性、非イスラム教徒、異端的イスラム教徒及び他宗教への改宗者に対して差別待遇をします。

次回はシャリアがのどの部分で西側諸国の基準と相容れないかということを確認してみます。






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シャリアについて 其の一

2017-11-13 19:54:45 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
ヨーロッパは、イスラム教徒の割合が高い地域で、シャリア・ゾーンを勝手に設定して、警察ともめたりするようなことが起きているということです。アメリカでもイスラム教徒がシャリアを適用することを法的に認めるようにと呼びかける指導者が出てきていたりします。このイスラム法、シャリアについて、神尾貴夫博士のパンフレットから確認していこうと思います。

お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。


シャリアは、アラビア語で「道」という意味が有ります。今日では「イスラム法」という意味で用いられます。これは、イスラムの始まった初期に、三百年ほどかけてイスラム学者が発展させた細かい決まりの体系です。この決まりがイスラムの生き方を説明しており、イスラムを理解するうえでは、場合によってはコーランよりももっと重要なカギとなるものです。

シャリアは生活全般に関わっており、世俗と宗教という区別をしません。するべきこと、してはいけないこと、祭儀、掟を規定します。

シャリアはイスラム教徒を罪から守る垣根のようなものです。イスラム教徒としての自覚を与えるものであり、イスラム文化やイスラム法の影響が一切無い国家に居ても、彼らの行動と世界観に多大な影響を与えるものです。

殆どのイスラム教徒はシャリアを神の啓示によって与えられた法であり、完全で永遠のものであると考え、個人、社会、国家を詳細にわたって拘束力が有ると考えます。従って、イスラム教徒にとってはシャリアに対するいかなる批判も異端・異教の考えということになります。シャリア自体は解釈の幅の余地を持たせ、新しい環境に適応させることを認めていますが、多くのスンニ派は変更不可能なものと考えています。

イスラム教徒がシャリアの有効性を否定したり、いかなる批判でもしようものなら、伝統主義者からは非イスラム教徒であり、異教徒、背信者とみなされます。そう判断された人たちは、シャリアにおいては背教者であり、死刑を宣告される罪を犯したものとして扱われます。






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悔い改め

2017-11-13 19:47:55 | 忍者的思索・忍界
悔い改め、もしくは懺悔という言葉のイメージは、どのようなものでしょうか。何か惨めで悲し気な感じがするとしたら、少し認識を改めると良い部分が有るかもしれないと思います。

悔い改めるということは、神に向かって方向を修正することです。私たちが愛し、崇拝し、信頼する神に方向修正することですから、喜ばしいことであると言えるでしょう。また、イエス・キリストの贖いと執り成しを繰り返し仰ぐことができるということは、神の子とされた私たちの特権とも言えるのではないでしょうか。

悔い改めは私たちの喜びであり特権であるという部分にも目を留めるべき時が有るのではないかと思います。






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イスラム教徒が守り行うべきこと 其の三

2017-11-08 14:29:47 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

ラマダンの他に、もっと大事だとされるお祭りが幾つか有ります。

・エイド アルーアハド:アブラハムが神の言葉に従って自分の息子を捧げようとした心を記念する祭りです。聖書と異なり、捧げるように告げられた
 のはイシマエルということになっています。多くに人々に一年中で最も聖なる日と考えられ、特別な祈りが捧げられ、友人や家族を訪問します。

・エイド アルーフィトル: 断食の月が終わったことを祝い、特別な祈りが捧げられ、菓子や食物を贈り合います。

・レイラト アルーカドル: ラマダンの27日目に、モハメッドが初めて神の啓示を受けた記念日として祝われます。多くの人が徹夜の祈りをします。

・マウリド アルーナビ: モハメッドの誕生日。明るい色の服を着、贈り物を贈り合います。香を焚き、ロウソクを灯して祝います。一部のムスリム
             は祝いません。

・アシュラ: シーア派が、四代目カリフの息子フセインの殉教を記念して行います。男たちは血が出るまで互いを打ちたたきます。


*イスラム暦は12か月30日と29日の月が交互に配置され、一年は354日です。西暦の一年により11日少ないために、イスラム暦では同じ日付けでも、西暦では年毎に異なった日付になります。イスラム暦は西暦632年に、遡って622年7月16日始まるものとし、メジナへの遷都を元年として採用されました。






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イスラム教徒が守り行うべきこと 其の二

2017-11-08 13:55:48 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

イスラムの五つの柱とされ、全てのイスラム教徒が実践しなければならないことが有ります。

一、信仰告白: 先に掲載しました信条を繰り返し告白しなければなりません。

二、祈り: 着衣、清潔さ、姿勢、動作、方向(メッカに向かって)についての細かい決まりが有ります。祈りはアラビア語でささげられなければなら  
  ず、一日に五回決められた時刻に祈らなければなりません。

三、断食: イスラム暦の第九月、ラマダンの時には、日の出から日の入りまでの時間断食しなければなりません。食物の他に飲み物、香水、煙草、性
  交も断たなければなりません。晩餐はお腹がはちきれるほど出されます。幼い子供は断食を免除されます。また、病人、妊婦、旅人は、次の機会ま
  で延期することができます。

四、施し: 全ての自由人、健常者は、収入の一定額を貧しい人に施さなければなりません。自身が貧しい場合は免除されます。スンニ派であれば、
  2.5%となっています。

五、巡礼: 全てのイスラム教徒は一生に一度は、イスラム暦の第十二月にメッカに巡礼しなければなりません。

あるイスラム教徒たちは、これに六番目としてジハドを加えます。ジハドは精進、努力という意味ですが、様々な異なった解釈が有ります。ある人たちは、それは罪や誘惑に対する個人的な戦いだと考えます。別の人たちは、善行のことだと考えます。しかし、イスラム興隆の初期においては、イスラムによる支配を防衛したり拡張するための戦争を意味しました。現在でもこのようにジハドを理解している人たちがたくさんいます。






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イスラム教徒が守り行うべきこと 其の一

2017-11-07 14:37:31 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

イスラムの信条を簡潔に述べますと、「アラーの他に神は無く、モハメッドは神の預言者である」ということになります。忍者にとりましては、キリストの神性と神の子であることや、キリストが神の特別啓示であるということと相容れない部分になります。しかし、イスラム教徒が実際に守り行わなければならない事柄は他にも無数に有ります。

イスラム教徒が信じなければならない六項目

一、神は唯一である。(すなわち三位一体の神という概念は否定される)

二、天使と対照をなすジンという霊が存在し、あるものは善であり、あるものは悪であったりします。サタン(イブリスとかシェイタンと呼ばれます)は天使と呼ばれたりジンと呼ばれたりします。

三、聖典は神がその意思を預言者を通して書き表したもので、百四存在したが、今日現存するものは四つである。それは、モーセ五書、詩編、四福音書、コーランである。しかし、イスラム教徒は、最初の三つについてはユダヤ人とキリスト教徒が内容を恣意的に変えてしまったと信じており、実際には読むことはない。

四、預言者には多くの旧約聖書の預言者やイエスが含まれており、他にもイスラム教徒の間でしか知られない預言者たちが有る。モハメッドは最後の預言者である。

五、審判の日は、戦争や災害などの印の後に来る。反キリストが現れるが、マーディという人物が現れてこれと戦い、地上にイスラム教を完全な形に回復し、神の国を打ち立てる。キリストはイスラム教徒として再臨し、マーディを助けて反キリストを打ち負かし、キリスト教徒を全てイスラム教徒に改宗させ、全ての十字架を破壊する。その後全人類の復活が有り、最後の審判が有る。イスラム教徒は全て天国に入り、それ以外は全て地獄に行く。ただし、一部の伝統では、多くのイスラム教徒が一度は地獄で一定の期間を過ごさなければならないとする。

六、神が善悪すべての宿命を掌握しており、人類は神の意志と運命を受け入れなければならない。






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イスラムの経典等 其の二

2017-11-06 20:39:38 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。


二番目に大事な書物は、ハディスです。モハメッドや初期の弟子たちが言ったり行ったりしたことの回想録を含んだ伝統を記したものです。
伝統というのは、数世代にわたって伝承されたものが、後に様々なイスラム学者によって編集されたものです。
ハディスはコーランの説明や解釈のために用いられます。

スンナという語がモハメッドの行動を示すものとして用いられ、イスラム教徒が倣うべき模範とされています。ハディスはそのスンナを記録したものという面が有ります。

シャリアについては別にアップしますが、コーランとハディスを元にして八、九世紀のイスラム学者たちが細かい生活の規定として発展させたものです。





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イスラムの経典等 其の一

2017-11-06 17:50:16 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

コーランは114章で構成されています。第一章はムスリムが毎日唱える神への祈りになっています。第二章からは文章の長い順に配置されています。つまり第二章が一番長い章ということになります。章は番号でも区別されますが、月の章、象の章というような呼び方も有ります。

コーランにはユダヤ人やキリスト教徒への言及も多数有り、聖書に登場する人物も多く登場します。聖書と共通の内容は殆どが少しずつ異なった記述になっており、キリストの神性、十字架刑等は否定されています。

章の長さを基準にして編纂されているため、単純に通読しても理解が難しくなっています。理解が難しい理由の一つは、原典が子音だけで記されていたために、原意が明確でない場合があるということです。また、モハメッドの態度や教えがメッカからメディナへの遷都の後で異なっていたりする点も理解を難しくしています。イスラムの教師はコーランに矛盾と思える部分が出てきたら、新しい啓示が古い啓示を無効にするとしています。多くのイスラム教徒は、アラビア語で暗唱することに重点を置き、暗唱している語句の意味や理解自体には重点を置いていません。

コーランはいろいろな編集方針で印刷されるために、章、節の番号が版によって異なったり、解説が本文に挿入されるものや欄外の注となるものが有ります。また非イスラム教徒にイスラムの信仰を魅力的伝えることに特化した版も有ります。






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