糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

恥ずかしくない裸、恥ずかしい裸

2023-11-23 20:59:33 | 奥義書講解・旧約
アダムとエバの裸の状態の記述についてです。

恥ずかしくない裸 (創世記 二章二十五節)
 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

恥ずかしい裸 (創世記 三章七節)
 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

 二章の方の裸を表す語は、アロームというような発音になる語で、三章の方の裸を表す語は、エロームというような発音になる語です。
 旧約聖書のヘブル語の辞典を確認しますと、定義はどちらも同じで、単に裸の状態を表しているだけのように見えます。それでは、一体この二つにはどんな区別が有るのでしょうか。コンコーダンスを見ても、いずれの用例も、人間が裸の状態であることをあらわしているだけで、どこに区別が有るのかよくわかりません。
 そこで、他の大忍の解説を探しましたところ、次のような説明を見いだして、成程と思いました。二章の恥ずかしいという語は、水源が枯渇しているというような意味になるということです。恥ずかしくないという状態は、霊的な源である神、命の水との関係が豊かであるという理解ができるということです。恥ずかしくない裸の方のアロームが用いられる場面では、神との正しい関係になることを呼びかけている要素が有るということです。
 更に、アダムとエバが神との関係が豊で、直接会える存在であったことを考えると、彼らも神の与えた栄光を身に纏っていたのではないかと考えられます。モーセが神と会って山から下りると、顔が光っていたために、民が恐れたので、顔に覆いを掛けたという記述があります。神の栄光の光、もしくは雲のようなものが、二人を覆っていたのではないかと考えられそうです。





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