goo blog サービス終了のお知らせ 

糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

リバイバルの背景の比較から考える

2014-02-02 23:58:33 | 日本のリバイバル考
 リバイバルが日本に起きるという話を繰り返している人達がいます。しかし、そういう人達が根拠としているのは、預言の賜物が有ると特定のグループの人達が認めている何人かの人物の預言や、世界の人々が日本のために祈っているというようなことであったりします。

 顕著なリバイバルの記録を振り返っても、そういう預言や各国の祈りでリバイバルが起きたという記録は私はでくわしたことは有りません。そういう状況や方法でリバイバルは起きるものではないはずであると考えます。また、預言の中には外れたもの有るのですが、引き続きそういう預言を信じるという姿勢はいかがなものかと私は思います。

 以前のエントリーでも述べましたが、ヨーロッパ、北米、南米等で記録されたリバイバルや運動は、キリスト教の背景を持った国の人達の間で起こりました。社会的な変化へのキリスト教的反発や、時にはいかに自分達がキリスト教的価値から離れた行動をしてしまったかということへの反省、悔い改めから始まったものも有るように認識しています。啓蒙主義とか、北米ではセーラム魔女裁判などもそういうリバイバルの背景になっていたりすると私は講義所の授業で聞きました。そういう背景を持った国のリバイバルは、日本のリバイバルの参考にも根拠にもなり得ません。日本のキリスト教会がとにかくあらゆる分野で悔い改めの祈りをするとかいうことでリバイバルが起こるというようなことでも有り得ません。

 アジアのリバイバルと言えば、韓国とインドネシアが話題に上がります。また、中国、ベトナムなどの地下教会のリバイバルの話も聞かれます。しかし、これらのリバイバルの要因も日本のリバイバルを考える時には背景が違い過ぎます。
 共産圏の地下教会のリバイバルは、そういう霊的な活動が抑圧されていることから来る部分も有りますし、社会的な動きへの失望からキリスト教こそ希望の持てる教えだと考える気持ちが伝播するということも有るだろうと考えられます。しかし、そういう要素は日本には有りません。
 韓国については、プロテスタントが入った時、王妃の病気を治したということで寛大に受け入れられたということや、日本からの圧力に目が向いていたので、欧米からの侵略の手先であるというような意識で見られず、受け入れられ易かったという背景も有ります。(韓国系の神学校の講義でそう教えているのを実際に耳にしました。)
 インドネシアのリバイバルはかなり特殊であると思います。私が読んだ資料によれば、畑で仕事をしていた女性に天使と思われる人が現れて、「これからあなたがたを教える人が来る。そのの教えを聞いて守りなさい。このことを人々に知らせなさい。」と語ったというのです。それでその女性がビックリ仰天してその話を人々にしていると、宣教師が来たのだそうです。それで、人々は一生懸命その話を聞いて信じたのだという話でした。どれぐらい信憑性が有るのかは知りませんが、その他のことが記述されていませんでしたし、著者はインドネシア人でしたから、それが共通の認識なのかもしれません。講義所のインドネシア人の先輩にその著者のことを尋ねたら、「あのリバイバルの人ね。」というような、ちょっと付き合いきれないような素振りを見せましたが、同時にインドネシアのリバイバルは継続しているとも言っていました。インドネシアに宣教にでかけた複数の日本人がその影響を受けていることは間違いないと思われます。しかし、このような展開も現代の日本には当てはまらないことではないでしょうか。

 このように、諸外国の例から考えても、日本にはリバイバルが起きる背景が無いと思われます。リバイバル的日本の教勢の拡大を考えるならば、先ず、既存の教会が基本に帰ってキリストの証人としての歩みをどのように確立するべきかを考え直すことではないかと思います。神を愛し隣人を愛する取組の現代的適用や現れを真剣に考えて取り組み、あの教会がこの地域から無くなっては困ると思われるような世の光、地の塩として認識されること、また、真っ直ぐに聖書を説き明かすこと等の、基本に立ち返ることが必要だと思います。それこそが、私たち忍者の最初に見るべき日本のリバイバルなのではないでしょうか。是非ご一考いただき、着実な日本のリバイバルへの第一歩に、皆様の教会が進んでおられる状態になることを願って止みません。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

時が満ちて初子を産んだ

2013-11-17 22:14:14 | 日本のリバイバル考
 以前もこのカテゴリーで同じ内容のことに簡単に触れていますが、もう一度時字数を割いて書いておこうと思います。

 ルカによる福音書二章六節から七節にかけて「時が満ちて初子を産んだ」という内容の記述が有ります。「時が満ちて」というのは、直接的には母親の胎内で九ヶ月ほどが経ってということを示していますし、それ以外に聖書の記事が意味するところはありません。おわかりと思いますが、マリヤがイエス・キリストを産んだ場面の記述です。
 しかし、人類の歴史から考えても「時が満ち」という状況であったと考えることができる状況であったと思います。創世記に記された神のお考えからすると、人類の歴史の初期から救いが人類にもたらされることははっきりしていました。しかし、それはすぐさまもたらされることはありませんでした。然るべき期間が必要だったのです。では、それはどのような期間であったのでしょうか。
 第一に、神の性質と人間の性質を明らかにし、その上でどのような救いに向けた関係を築くことができるのかということを、しっかり確認する期間であったと思われます。そのために、神は全地を見わたし、神の全知と予知に従ってアブラハム、イスラエル民族を選び出して、徹底的にそれを教え備えていくということをなされました。
 第二に、神の救いの計画が広く人類に伝播するための環境が整うための期間であったと思われます。ユダヤ民族の政治的勢力やへブル語という原語には、そういう資質は無かったと考えてよいと思います。ですから、幅広い地域で通用する共通言語が確立されるアレキサンダー大王の時代まで神は待っておられました。これにより、新約聖書が書かれたコイネー・ギリシャ語が発展しました。更に、原語が確立されて直ぐではなく、ギリシャ帝国の後により政治的に安定したローマ帝国の時代になるまで、神は待っておられたのです。この背景により、キリストの弟子たちは遠くまで伝道に出かけることが可能になりましたし、福音書をはじめとする新約聖書が書かれて各地で読まれ、保存されることになりました。

 さて、私がここで申し上げたいことは、神様も人類の歩みに合わせて「時が満ち」るまで待たれるということをされたということです。そして、その「時が満ち」たということは、状況から判断することができたのです。
 このカテゴリーは日本のリバイバル考です。日本にリバイバルが来るということを明言する人達が出てくるようになって三、四十年経ちました。しかし、それは聖書を読んだ時にインスピレーションが与えられたというようなものや、他国でリバイバルが起きた時の人々の心の状態に近いとかいう判断基準によるものが殆どです。きちんと状況から判断した時に、本当に「時が満ち」ていると考えることができるでしょうか。私にはそう思えません。
 神様は戦略的な神様です。効果的に神様の救いの計画が人類に広がる環境が整う「時が満ち」るまで待たれました。同様に、日本のリバイバルを考える時も、そういう環境がもう少し整うまでの戦略も必要であり、それがある程度積み重ねられた時にプチ「時が満ち」という状況が出来上がり、その実を持って再び戦略的な取り組みが重ねられるというループが生じ始める時に、日本のリバイバルは始まっていますとか、日本にはリバイバルが来ますという宣言が、ただのスローガンではなく、具体的な展望をもってなされるようになるのだと思います。
 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

「後の雨」を待つ条件

2013-11-17 19:02:29 | 日本のリバイバル考
 日本のリバイバルを求める集会において、主が「後の雨」を注いでくださるようにという表現を聞く時が有ります。しかし、日本はこの表現は気軽に用いることができる状況にないと思います。お考えの異なる方々もいらっしゃることでしょうけれども、私の考えを述べておこうと思います。

 「後の雨」の雨が有るということは、「前の雨」も有るということです。当時のイスラエル地方の農耕においては、穀物の種を蒔く頃に一度雨が降り、それから刈り取りの時期の前にもう一度まとまった雨が降るということでした。それで、この収穫の前の雨が「後の雨」ということになるわけです。この雨の降り具合によって、その年の収穫が左右される部分が有ったわけです。
 さて、イスラエル民族は北王国も南王国も最終的には偶像礼拝に傾いて行ってしまいました。申命記に記された主との契約の通り、主は空を閉ざし、農作物がよく穫れないということが出て来たわけです。そこで、主に帰れば主が「後の雨」を降らせてくださるという告白がなされたりしたわけです。

 さて、ここでタイトルに示したように、「後の雨」を待つ条件を考えてみましょう。「後の雨」を期待するということは、前提条件として麦なり穀物が畑に蒔かれ、きちんと発芽して育ったということが必要になります。そして、その仕上げとなる雨が必要な時期になったという判断がされるということです。
 翻って日本のキリスト教宣教において、そういう霊的な収穫としての大覚醒が起きて、多くの人々の心が主に向き、信仰告白をして主に従う生活をするということが間近であるという判断はできるのでしょうか。まったくそういう状況にないというのが私の考えです。いや、もしかしたら、日本のキリスト教会は、ここ十数年は蒔きすらあまり効果的にせず、麦の穂もろくに見ていない状況なのに、「後の雨」さえ降れば収穫が有ると思い込んでいる虫のいい農夫のような状態になっていはしないかと思います。

 「後の雨」を待つならば、その条件として、きちんと耕して種を蒔き、それが「前の雨」のおかげできちんと発芽して育ったという前提条件が必要です。皆様にはそれが見える、見込めるのでしょうか?私は疑問に思います。先ず、襟を正してもう一度耕作と種蒔きの部分で努力をし、そこに「前の雨」と言える主の働きを期待するところから始めなければならない状況にないでしょうか。ご一考いただければ幸いです。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

あれも、これも 

2013-05-06 12:43:48 | 日本のリバイバル考
 日本のリバイバルということについて、今までも何度か書いたことが有りました。今回は、私ができるだけ避けている主題説教のような形で述べてみたいと思います。


伝道者の書 十一章一~六節

 あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るからである。
 あなたは一つの分を七つまた八つに分けよ、あなたは、どんな災が地に起るかを知らないから
だ。
 雲がもし雨で満ちるならば、地にそれを注ぐ、また木がもし南か北に倒れるならば、その木は
倒れた所に横たわる。
 風を警戒する者は種をまかない、雲を観測する者は刈ることをしない。
 あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨にはいるかを知らない。そのようにあな
たは、すべての事をなされる神のわざを知らない。
 朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、
あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである。


 この箇所の直接的な理解から述べてみます。一節から六節までの記述は、「あなたは知らない」という共通項で括られています。私たちには知らないことが多く有るわけです。取り上げられたことの殆どは、自然の営みや災害に関することですが、五節だけは霊的な内容になっています。自然なことも私たちはよく知りはしないし、予測が困難だったりします。私たちが如何にして命を得、霊的存在になったかなどという自己存在についての理解は更に遠く理解が及ばないわけです。自分の子供が生まれてくるということについても同様です。そして、この部分が我々に語りかけていることは、知らないからこそ、主を認め、主の元に生きる者として、順境でおいても逆境においてもいろいろできることをしておきなさいという勧めです。ユダヤ人の伝統による理解によれば、それは貧しい者への施しや善行も視野に入ったもののようです。


 現在の日本におけるリバイバルについて、この箇所を元に考えてみたいと思います。

 リバイバルに備えるためには、水の上にパンを投げるかと思うような、一見無駄に見える努力も厭わないことが必要だということが言えるのではないでしょうか。確かに無駄に終わることも有ることを箴言の記者も認めています。一節は、収穫が確実かどうか不明である畑地に穀物の種を蒔くことの暗喩であるとか、貧しくて悲しみに暮れているような人々への施しの暗喩であるという理解も有ります。リバイバルを思えば、霊的には乾いている人々に伝道の手を尽くしても、霊的覚醒が起こらないかもしれないという理解にもつながるかもしれません。にも関わらず、その努力は総体的には報われるということが断言されています。多くの日の後にあなたはそれを得ると言うのです。同時に、それは「多くの日の後に」であることを覚悟する必要が有るかもしれないわけです。 
 リバイバルのために努力しても、いろいろな邪魔が入ることも有るでしょう。それは、自然災害のように、当然起こり得ることであり、同時に私たちの手に負えないことであるかもしれません。だからと言って、手をこまねいているわけには行きません。財産なり善行を七つや八つに分けよと理解できる指示に有るように、いろいろな手立てを講じて、どれかが結実するように、少しだけやって全滅するようなことを避ける努力と知恵が必要なのではないでしょうか。実際に、80年代から90年代にかけて、日本のリバイバルには大きな期待が有りましたが、きちんとした結実を見ていないと私は思います。その原因の一つは、いろいろな手立てを講じることなく、一定の方式や原則に従っていればそれで良いとしてしまった部分に有りはしないかと思います。そして、偽教師と思えるような人々や働きのために、むしろ害が有ったと言えるような現象も散見されていると思います。
 一体私たちが考え、また求める、人が神に立ち返る、救われるということは、どのようにして起きているのでしょうか。それは不思議な神の導きとしか言いようが無いのではないでしょうか。私たちはそれがどのようになっているのか、実際には知りません。しかし、だからこそ、あれもこれもと手を打っていかなければならない部分が有るのではないでしょうか。

 ここ数十年間のリバイバルを求める動きを振り返りますと、六節に有るような態度が欠けている部分が有ったのではないかと思います。先ほども述べましたが、あれもこれもという態度ではなく、この原則さえ守っていればというような、一つの方向性のみを追い求めて、その実りが少なかったということが起きているように思います。その具体的な有様とは何でしょうか。
 それは、リバイバルの要素と実践における理解が狭かったということではないかと思います。その大元に有るのは、いつもリバイバルの手本が外国に有るということではないかと思います。北米の教会史に残るようなリバイバルは、著名な3名ほどの説教者の働きに大きく影響されていました。それ以外の説教者たちも、入れ替わり立ち代り天幕集会で信仰への回帰を訴えて、広告的な手法や心理的な手法まで交えて大きな動きになりました。すると、そういう手法がリバイバルへの道だと決めてしまうわけです。
 また、悔い改めと待望の祈りのムーブメントによって聖霊の顕著な働きが起こった地域も有りました。すると、リバイバルへの道はそういう祈りを熱心に繰り返せば良いと決めてしまったりする人たちが出てきます。
 他には、賛美の集会の中で神の著しい働きが起きる教会などが有名になると、それに追従しようとし、これこそがリバイバルへの道という態度になる人たちも出てきたりしました。アジアを見ても、韓国は祈りのリバイバル、台湾は賛美のリバイバルなどと表現し、その要素を取り入れた取り組みを考える人たちもいたわけです。

 もう一つの限定的態度は、エゼキエル書に有る乾いたおびただしい骨の幻と、ペンテコステの聖霊降臨などを元にして、圧倒的な神の霊の働きだけに期待する態度です。神の息が吹くと、幻の中で、おびただしい乾ききった人の骨に筋や肉が着き、更に神の霊が働くと生きておびただしい群集になったという話のように、霊的に死んだ国民が、神に立ち返ることを期待するわけです。しかし、これは聖書的考察が乏しいと思います。骨の幻にしても、ペンテコステの聖霊降臨にしても、日本の状況とは異なります。そして、この態度は、祈りや賛美に支えられているかもしれませんが、受動的です。ペテロ、ヤコブ、ヨハネ達は、聖霊の働きの後にも手をこまねいていたのではなく、証をし、その結果として数千人の信じる者達が起こされたことを考えに入れるべきではないかと思います。神がしてくださると言って、ただ祈って待つ。信仰が大事ということで、すでに日本にはリバイバルが起きたと宣言して、クリスチャンの間だけで集会を開いている。そういう態度が果たして聖書的なリバイバルの姿でしょうか。

 上記の内容にも関係が有りますが、もう一つ欠けている要素が有ると思います。それは、日本の歴史と、宣教戦略という視点です。ある方のブログを読みましたら、日本は国民がほぼ全員実態はともあれクリスチャンであるという前提が嘗て有った諸外国とは状況が違うのであるから、信仰復興という意味におけるリバイバルは有り得ないではないかとうことと、種蒔きをしないでリバイバルという刈り取りをしようとすることは土台無理であるということを表明しておられました。まったくその通りであると思います。
 もう一つは、神様が戦略的な方であるということの理解であると思います。神の似姿に創造されて、その回復を地上でも求める私達が、そういう神の側面を無視してリバイバルを求めるということは、不遜とも言える部分が有りはしないかと思います。
 神が戦略的な方であることを、二つの面から確認しておきたいと思います。第一に、神は旧約聖書において、イスラエルの民を導くに当たって、モーセというエジプトの宮廷に通じた人物を用意しました。そして、ヨシュア記や列王記に出てくる戦闘においては、神がその戦い方を指示しているものが幾つか有ります。伏兵を置くなどの具体的な指示がされています。神が知的で戦略的な存在であることは明らかです。リバイバルにおいても、ただ神の導きだけを待つのではなく、戦略的な面も考える必要が無いと、どうして断言できるでしょうか。
 最も大事なのは、神の福音の拡大における神の戦略です。時いたってイエスキリストが地上に送られました。どういう状況になるように神は計画をし、または待たれたのでしょうか。イスラエル民族を起こし、神のご性質の理解と契約を明示しました。それから、その地域を含む一大勢力を、アレキサンダー大王によって確立させ、ギリシャ語という共通言語を設定されました。その後に、ローマによる支配と安定という舞台を整えられました。これが有ったからこそ、現代に至る福音の拡大は可能であったのです。伝承によるトマスのインド宣教も、こういう背景が有ってこそ可能だったわけです。このように、神が歴史に戦略的に関わられたのですから、ましてや私達はそのような関わりを模索せずにいられるでしょうか。使徒パウロも、そういう戦略的取り組みをして、なんとかローマに届こうとしていたではありませんか。

 ここで、日本のリバイバルのための「あれも、これも」という態度で考える時に必要な戦略とは何かを、私なりに考えてみました。
 日本のリバイバルが、真に「復興」であるためには、人々が福音に触れた経験を持たなければなりません。そのことのためには、私は二つのことを考えます。
 一つは、人材と資材をきちんと投入して、児童伝道と教会学校の充実に努めることです。日本の日曜学校教材は、以前よりはましかもしれませんが、まだまだ無味乾燥であると思います。商業主義的だという批判が無いわけではありませんが、アメリカの教会学校の教材を輸入するなり提携事業を起こすなりの工夫をすることも一つの方法だと思います。少なくとも、どうやって子供の目を教会に向けさせるかという努力を、そういう諸外国の方が幅広く真剣に取り組んでいると思います。リバイバルの集会的手法は外国の真似なのに、そういう戦略においては真似しないというのはどういうことでしょうか。改められるべきであると思います。
 最近ある牧師に聞いたことです。統計的にどうであるかは不明ですが、このところ、4,50代の人が教会に来る傾向が観察されているそうです。その大半は、子供の頃に教会学校に行ったことが有るというのです。もしそういうことが起きているならば、これこそ、信仰復興、リバイバルと言えるのではないでしょうか。厳密な理解は別として、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」(マタイ25章45節) という聖書箇所から、「小さい者」というのは社会的弱者であると考えます。そして、ユダヤ人社会で一番無力で無価値だったのは子供でした。そういう点を考えても、子供に届こうとしてもっと努力し、その後の信仰復興を見ようとする取り組みは、聖書的であると考えられないでしょうか。
 もう一つは、文書伝道の中身に別の工夫をすることではないかと思います。以前、社会科の先生が進路指導をしている場面を見たことが有りました。生徒はミッションスクールを受験し、面接が有るということでした。先生は、ミッションスクールでの面接であるからキリスト教の精神について自分の理解を述べる用意が必要だとして、一点だけ「博愛の精神」を例に挙げていました。私はその時点で少し心配になりました。キリスト教を理解する時に、果たして博愛の精神という要素は中心的であろうかと疑問に思いました。もっと中心的な教義や理屈が当たり前の様に理解されていることの方が重要であると思います。例えば、少々挑戦的ではありますが、「知っているつもり?」というようなタイトルのパンフレットを作り、中心的な教義や誤解に対する応答を盛り込んで、一度は日本中全戸に配布するというようなことが有っても良いのではないかと思います。ソフトで取り付きやすい証などを掲載したトラクトやパンフレットは割合用いられ、配布されていますから、違った切り口のものが有っても良いと思います。ブログなどで幅広くキリスト教文書が人々の目に留まるようになりましたが、ピンポイントでそういう部分を扱うことも大事ではないかと思います。

 これらとは別に、日本のキリスト教界が反省し、決別しなければならない部分が有ると思います。それは、過度にピューリタニズムに影響された日本の教会の在り方です。それは、主にアメリカの宣教師によって持ち込まれました。しかし、本国アメリカでは、そういう部分への反省がなされ、「宣教とはアメリカ文化を伝えることではない」という言葉が聞かれています。アメリカには禁酒時代が有りました。また、WASPの価値観が支配的で、ピューリタニズム的実践の無いカトリック系移民を蔑んでいたりしたことが有りました。それを反省してきちんと整理したプロテスタント団体では、それが福音派であっても、聖書神学的に確認する時、クリスチャンが飲酒するかどうか自体は問題でも罪でもないということを明らかにしていたりします。
 一方、日本のキリスト教界は、そういう反省をせず、非聖書的な基準で非現実的な聖潔の実践を追求したり、仲間を裁いたりしている部分がまだまだ見受けられます。そして、そういう実践こそが神の心に適っていると思い込んでいたりします。実際は、自分の義を立てるために汲々としていて、自己尊厳を守るためにキリストに在る自分ではなく、行動様式によって自分を義とし、それを誇るような律法主義的取り組みになっていて、多くの人々が傷ついたり離れたりすることが起きてきています。私が読んだある本は、難病を持つお子さんの治療に取り組みながら、信仰の支えで養育の努力をしておられるご両親の手記でした。しかし、心無い教会員達の言葉や姿勢によって、お子さんの病気が一段落した時でしたか、亡くなられた時でしたか、信仰と決別する意思表明をされていました。そういうようなことが、現在でも少なからずあちこちで起きていると思います。そういうことに心を痛めておられるクリスチャンのブログなども散見されます。日本のリバイバルを考える時の、「あれも、これも」の中には、こういう反省をしっかりすることも入っているのではないかと思います。


 いかがでしょうか。皆様はクリスチャンとして日本のリバイバルを願っていらっしゃるでしょうか。願っていらっしゃるとしたら、これまでの画一的な取り組みだけではなく、もっと多角的で戦略的な取り組みも視野に入れてみてはいかがでしょうか。そして、先ず、自分は塵灰に過ぎず、キリストだけが自分の義であり、早急に仲間を攻めたり戒めたりするのではなく、受容しあって、知恵を尽くし互いに教え戒めという聖書の命令に従った手順をよく考える姿勢を持とうではありませんか。そして、受けた教えについては、きちんと聖書神学的な手順で自分も調べ直して、はたしてその通りかどうかを確かめる謙遜で慎重な姿勢を持つべきであると思います。そういう部分から取り組むことこそが、リバイバルの第一歩であるかもしれません。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

聖書の学びとリバイバル 其ノ二

2008-12-02 07:46:40 | 日本のリバイバル考
前の「聖書の学びとリバイバル」に、二戒庵さんが下さったコメントが、日頃私が考えていたこととほとんど一致しましたので、許可をいただいて転載し、私のコメントを添えさせていただきたいと思います。


・日本語だけで組織的に聖書の学びができるリソースやシステムの充実
英語が読める人にとっては、保守派も含めさまざまな立場から書かれた聖書研究のリソースが(多くの場合無料で)入手可能です。しかし、信徒レベルで教会の聖書知識の充実を図るのであれば、日本語だけで聖書がしっかりと学べるシステムがどうしても必要になってくると思います。しかも、誰でも気軽に、安価で学べるような環境作りも必要でしょうね。その意味では、ここのブログのようなウェブ上のリソースがもっと増えてくることを願っています。

完全版のコンコーダンス、BDAG、BDBなどのギリシャ語辞書、へブル語辞書の日本語版などが必要ではないかと考えていました。かなり労力が要りますが、ご指摘のようなオンライン・リソースでよいので、実現したらと思います。J-BIBLEなどのソフトが有りますが、英語ソフトなどと比較すると高い買い物になる印象が有ります。また、日本語の聖書で、ストロングズ・ナンバーがついたものが聖書ソフトに収録されると、かなり助かるはずだと思います。有志が起こされて、早く実現すると良いと願います。


・信徒向けの基礎的な聖書解釈学のプログラム
ある人々は、「聖書はただ読めばすぐに分かるもの」「注解書などのツールを用いるのは邪道」という理解を持っています。解釈の必要性を説き、基本的な理論と方法を身につけるようなコースを教会で設けていく必要があると思います。こちらも日本語だけで完結する必要があるでしょう。

このような間違った理解が早く払拭されるべきだと思っています。どうして、時間的、文化的、言語的ギャップが有るということを考慮に入れないのだろうかと思ってきました。ケイ・アーサー女史の「帰納法的聖書研究方」の本が日本で出版されたときには、内心拍手喝采したものです。そのような学びが、全ての信徒に提供されることが大事だと思います。


・暗唱聖句、デボーション、聖書通読だけでは不十分であることを知る
保守的な聖書信仰に立つクリスチャンは一般に熱心に聖書を読みますが、時としてその「熱意」と「理解度」が必ずしも比例していないのを感じます。上に挙げた3つのポピュラーな読み方の有効性を否定するつもりは毛頭ありませんが、聖書の読み方がこれだけだと、非常に主観的な聖書理解に陥ってしまう危険性があります。自分の経験から言っても、これらの手段にのみ頼って長年聖書を読んでいても、「どこに何が書いてある」ということは良く知っていても、肝心のその箇所の意味を取り違えている、ということがよくあります。

これは、私が教会の忍士達と度々話し合ってきた事柄でした。私も神学院に入る前に二十数回聖書通読をした経験が有りましたが、実際の聖書研究は全く別物であるということを痛感しました。意味の取り違えを多く発見するに至って、今まで何をしていたのだろうかとか、もっと早く学ぶべきであったと思いました。


・牧師が説教において模範を示す
牧師がどのように聖書を読んでいるか、ということは信徒に多大な影響を与えます。たとえば牧師がアレゴリー的解釈を多用したり、文脈を無視した一節主義的な聖書の用い方をよくしている教会は、信徒もそのような読み方になっていくでしょう。礼拝説教が釈義論文のようになっても困りますが、なぜこの箇所がこのような意味になるのか、歴史的背景や前後の文脈、語句の意味などの説明を時々でも説教に含めるようにすることは大いに意味があると思います。日曜日が難しければ週日の祈祷会でも良いでしょう。その際、ふつうの信徒の人がすぐに理解し、自分でも適用できるような内容にしないと、かえって聖書解釈を縁遠いものに感じさせ、逆効果になるおそれもありますので、専門的な釈義のプロセスは舞台裏にとどめ、信徒が理解できる内容のみを表に出していく必要があると思います。

ここは、私には難しいところで、しっかりした考えは有りません。講解説教が中心に有るべきではないかという気持ちが日々強くなってきていますが、それが必ずしも信徒の自分でする聖書研究に直結しないかもしれないという不安があります。

いずれにしても、二戒庵さんが同じ思いを共有されていることを知るに至り、自分の考えが的外れではなかったと確信できました。







にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

聖書の学びとリバイバル

2008-11-26 17:11:43 | 日本のリバイバル考
先の記事で、其々の教会や其々の国が、神様からの設計図を受け取って宣教に励むべきであって、他国や他の教会に与えられた神様の設計図を、単なる猿真似をすることによって盗んではならないということを書きました。
  台湾のクリスチャンは集まれば賛美の歌を歌う、韓国のクリスチャンは集まれば祈る、日本のクリスチャンは集まると会議をする、というような言い方を聞いた事が有ります。日本のケースは、否定的な意味で取り上げられているのですが、はたしてそういう見方で良いのかという疑問が有ります。もし、神様がお造りになった日本人の特性がそういう部分に有るならば、むしろそれを肯定的に捉え、神様が日本に与えられた設計図の一部として取り上げるべきではないかと思います。こういった日本の国民性を考える時、日本のリバイバルは、理屈と聖書の学びによるリバイバル、もしくは宣教の拡大という部分も考慮しなければならないのではないかと思います。(それが全てではないのが言うまでもありません。)

以前弐戒庵さんのコメントで、リバイバルに関しては、各国共通の項目もあるのではいないかという指摘が有りましたが、この聖書の学びという部分が、日本の国民性に合っているだけでなく、各国共通の要素でも有ると思います。私の乏しい資料から北米の大覚醒と韓国のリバイバルの要素における聖書の学びの位置を確認してみました。
  アメリカのリバイバル、大覚醒も、説教の連続の集会によってなされた部分があります。娯楽が無かったから、そういう集会に集まったという背景も有るようですが、彼らが聞いたのは聖書からの説教でした。それに、多くの会衆が聖書の話を聞きたがったそうです。2時間ぐらい説教して集会が終わってしまいそうになると、もっと話してくれとせがまれる時代であったそうです。また、巡回説教師の活躍も挙げられます。後半になると意図的な心理戦略も使われたそうですから、そのような人為的操作は評価できないと思います。しかし、リバイバルの中心に有ったのは、聖書の言葉であるということだと言えると思います。
  韓国の初期のリバイバルにおいては、宣教師達が実践した幾つかの事柄の中に、全信徒が組織的な聖書の勉強をするというものが有りました。日本のある大学の文献によれば、それは牧師養成的なものから信徒訓練的なものまで幾つかの段階が有ったということです。この全信徒の組織だった聖書の勉強が、個々の信仰を強め、宣教の力にもなりました。韓国では信徒の数が急増したので、直ぐ宣教師だけでは対応できない状況になりましたが、この実践のために、韓国人のリーダーが直ぐ起こされ、成長が停滞することがなかったということです。韓国の場合はいろいろな世情も要素として挙げられますが、リバイバルの中心に聖書の学びが有ったことには違いないと思います。

先に述べた通り、欧米諸国のリバイバルは、クリスチャンでなければ国民ではないというような背景を持った社会から出てきました。そんな社会がほんの二、三百年ほど前まで存在したのです。ですから、キリスト教の背景が有る人々の中からリバイバルが起きるのが基本であると思うのですが、それを日本に当てはめるならば、最初の段階は、既存の教会の中のリバイバルであると思います。日本は宣教による拡大のリバイバルを第二段階として考えなければならない状況のように思います。その前の段階として、既存の教会とクリスチャンがリバイブされなければ、宣教によるリバイバルを望むのは無理であろうと思います。そうすると、各教会が先ず取り組むべきことは、全教会員が取り組む組織的な聖書の勉強ではないでしょうか。ブログや掲示板には、クリスチャンによる間違った解釈が溢れており、困ったことに、それが講壇から語られた解説を通して学んだものであったりする場合まで有るのです。組織だった聖書の勉強とその手順を学んだ者は、そのような間違った解釈に惑わされないし、仮に抵抗無く聞いたとしても、確認をする習慣が着いていれば、間違いにはすぐ気付けると思います。そういう聖書の学び方ができる人の割合が増えれば、個々のクリスチャンの霊性の安定も、正しい聖書の理解によって深められ、教会に力が与えられてくるのではないでしょうか。そういう真摯に聖書を学ぶ姿勢が有るところに、聖霊も更に力強く働かれるのです。

リバイバルを語る時に、人々の霊的飢え渇き、聖霊の働き、賛美、祈りなどの要素が多く語られます。しかし、聖書の学びを強く訴える立場にはまだ出会ったことが有りません。しかし、これこそが見落としてはならない要素だと思うのです。
  賛美、祈り、聖書の学びの三つを、私は個人や教会が力づけられ、成長し、リバイバルを体験する要素であると思っています。私の個人的な観察を通してそう考えるということですが、同様な発言をなさる方は他にもいらっしゃるのではないかと思います。賛美と祈りは、聖霊の働かれる場として、頻繁に取り上げられます。しかし、より深い聖霊の働きは、聖書の学びからしか与えられないというのが私の持論です。理由が二つ有ります。
  第一に人間の側の要素を挙げようと思います。賛美と祈りは自分の考えが入り込む時間が多くなるのです。意図せずとも、神の御心ではなく自分の心に焦点が当たっていることが多くなります。それは、聖霊の働きを妨げます。歌を通して賛美する時には、音楽性にも心を向けたり、自分の発声に心が向いたりします。祈りは神の御心を探るより自分の願いが強く出る場合が有ります。そして、これらは神に対する霊的応答であり礼拝でありますが、主に人間から発する部分が多くなります。
  私はこのことを考えた時に、旧約聖書中に何度も形を変えて出てくる、サムエルによって語られた霊的原則のことを思い出しました。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ、聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(第一サムエル記十五章二十二節 新改訳)勿論私達の状況は、この箇所のサウル王とは違います。しかし、人間の方から発出する行いより、神の法から発出する事柄の方が大事であり、それに聞き従う姿勢がより神に喜ばれるという原則を読み取り、信仰生活に適用しようとする姿勢は大事ではないでしょうか。そして、この原則を賛美、祈り、聖書の学びに当てはめるなら、聖書の学びの方がよりまさった道であると言えるのではないかと思います。(あくまで比較の問題です。賛美と祈りがおろそかになってよいということではありません。)
  第二に聖書は神の言葉という要素を挙げたいと思います。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(第二テモテ三章十六-十七節 新改訳) 聖書の言葉のすべてが神の霊感によるものであるならば、聖書の言葉を学ぶ時、私達は聖霊と対話しているのと同じことになります。そこから聖霊の助けによって得た知識や恵みを生活に反映させ実行に移す時、助け手なる聖霊がまたそこに働かれます。聖霊に満たされた歩みの出発点は、賛美の歌や祈りではなく、聖霊によって書かれた聖書の言葉を学び、心に豊かに住まわせ、それを生活に反映させることです。
  聖霊はペルソナが有り、人格的交わりが大事だと教えられます。ではその人格的交わりはどうするのでしょうか。聖霊を歓迎すると告白して、後に続く何かが無いとしたら、それは交わりとは言えません。祈りや賛美の歌で語りかけても、聖霊の言葉に耳を傾けなければ、一方的に話したり、ひどい場合は利用しているだけで、交わりとは言えません。本当に聖霊の言葉は何を伝えようとしているのか、それをどう生きたらいいのだろうかと求め、対話していく中に、より深い聖霊との交わりが有り、その結果より深い聖霊の働きが与えられるのです。聖霊充満を願うなら、そういう地道で真摯な交わりを、聖書を通して聖霊とし続け、従順しなければならないのです。
  ですから、力強いリバイバルは、全てのキリスト教徒の熱心な聖書の学びからでなければ始まらない面が有るのではないかと考えます。使徒行伝二章ではペンテコステの聖霊降臨の記録が有りますが、その結果主を信じた人達の行動は、「彼らは使徒達の教えを固く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」というふうになっています。第一に来るのは、「使徒達の教えを固く守り」なのです。使徒達の教えは、人間的な教えではなく、旧約聖書とキリストの口から出た教えです。私達にとっては、新旧約聖書と同じことになります。これが有ったことが、その後の四章四節に見出される新たな五千人の入信、六章の弟子の数が非常に増えたという記録を支える底力になっているはずなのです。単純に聖霊の圧倒的で一方的な働きだけによったと考えるべきではないと考えます。

日本の教会は、賛美と祈りの力に目覚めて来ました。でも、それだけでは不完全です。もっと大事な要素がまだ置き去りにされています。私達には本当にリバイバルへの飢え渇きが有るでしょうか。もし有るとお思いでしたら、指導者達は、信徒が高慢になっては困るとか、苦手意識を持つ信徒に牧会的配慮をしなければならないなどという心配はかなぐり捨てて、お金と時間をかけて、きちんとした聖書の学びを全教会員に広げることに労力を費やすべきではないかと思います。信徒も、直ぐに何かの効果を求めて祈りや賛美の聖会をはしごしたりすることではなく、きちんとした聖書の学びができる訓練を受ける地道な努力をする決心をするべきではないかと思います。

これが現在の糸田十八の持論です。








にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

第一義的リバイバルを目指すとしたら?

2008-08-28 16:21:38 | 日本のリバイバル考
最初に示した通り、リバイバルは「信仰復興」が第一義です。では、日本のクリスチャン人口が、「信仰復興」と呼べる形で増えるには、何が必要なのでしょうか。諸外国の信仰復興に近いものとなるための地均しが有るとすれば、それは、子供の時に、聖書物語などに幅広く触れるようにするということではないかと思います。

最近私が他の里(長老改革派の教団)の目標などをインターネットで見たところ、日曜学校、子供への伝道に力を入れるというものを発見しました。実際に、大人になって教会に来て信仰の決意をする人達の中には、子供の時に日曜学校を経験した人がかなり居ます。その個人には、「信仰復興」もしくは「覚醒」と呼べるだけの背景が有ったということになります。このような状況をもっと押し広げるためには、子供の時に伝統的な聖書の神観にふれてもらう機会を多くする努力をしなければいけないということだと思います。

子供に対する伝道的機会というと、キリスト教系の学校(保育園、幼稚園を含めて)、日曜学校、教会の特別活動、キリスト教的映画・書籍の普及などが有るように思います。学校関係は、今これ以上の取り組みができるのかどうか、私には妙案は有りません。日曜学校については、児童伝道協会や現在教材が多く使われていると思われる二つの出版社などが協力して、もっと現代的で子供の視覚や感覚に訴える教材を開発し、多くの教会がそれを使って見るのはどうかと思ったりします。また、MEBIGのような、「楽しさ」も要素として取り上げることが大事なように思います。

教会がこの世の風潮に迎合するのはよくありませんが、宣教魂をもって、戦略の取り組むためには、イベントを打つことも無視してはいけないのではないかと思います。クリスマス、イースター、感謝祭(ハロウィンに対抗して)を利用することは、一部の教会が既に行っています。

その他に、複数の教会が合同で市民クリスマスを開催するのと同じように、複数の教会が協力し合って、夏のイベントであるとか、何かを学ぶキャンプもしくはデイキャンプを開催するなども、子供に信仰を伝え、教会の敷居を低くし、教会のイメージを良くするなどの効果が有るのではないかと思います。

そういう原体験が有って、初めて、他の国々で言うところのリバイバルと同様のことが起きる基礎ができるのではないでしょうか。すると、日本のリバイバルを目指す気持ちが有る諸団体は、こういう、基礎的で正攻法的な部分に力を注ぐという観点を持っても良いのではないかと思います。他国のリバイバルも、そういう基礎が有ってこそ出てきたことであって、特効薬的な、インスタントに結果を期待できるものは決して無いと思うのです。




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

大きく違うリバイバルの前提

2008-08-22 08:49:00 | 日本のリバイバル考
日本のリバイバルという表現は有りではないかと前の記事で書きました。でも日本のリバイバルは、先に書いた掲示板の主張のように、信仰復興や大覚醒(Great Awakening)と呼ばれるものとは質を異にすると思うのです。日本には、そう表現出来るほどのキリスト教的土壌が有りません。

信仰復興や大覚醒と表現される西洋諸国でのリバイバルは、キリスト教的歴史的伝統が背景に有ります。信仰が有ろうが無かろうが、聖書的・神学的理解が有ろうが無かろうが、とにかく幼児洗礼を受けて、クリスチャンとして生きるのが当然という世界が、数百年前まで存在した彼らにとっては、キリスト教的知的遺産も霊的遺産も全く異なります。

そういうキリスト教的背景が無かったインドネシアや韓国などのリバイバルは、奇跡的なことが多く起こったとか、キリスト教が列強の戦略という印象を持たずにすむ状況であったなど、西洋とは別な環境要因によって起きています。

そうすると、外国で賛美の運動の中でリバイバルが起きた、祈りの運動の中でリバイバルが起きたからといって、それをそのまま日本に持ち込むのは短慮であると思われます。勿論、リバイバルを願って、その中で神の示しを受けたという確信を持っている団体や個人が、外国と同じ方法論で運動を展開することには異論はありません。それが導きであるならば、熱心にそうするべきです。しかし、それが全てだ、それこそがリバイバルの原動力だという思いが有ったら、それは勘違いではないかと思うのです。

日本には、その土壌に合ったリバイバルの道があるはずです。また、神様の方でも、日本ならではのリバイバルの方向を持っておられるはずです。それが何であるかを尋ね求めるべきではないでしょうか。私の恩師の一人は、「神様の設計図を盗んではならない。」と言っていました。諸外国、他教会に神様が与えられた設計図、ご計画を、何も考えずに自分も使うということは有ってはならないというのです。神様の導きによって自分に与えられた環境は、諸外国、他教会のそれとは違うことの方が多いはずです。私達の持っている前提、私達の置かれた環境はどんなものであるか。神様が私達に望んでおられる方法とは何であるか。そういうことを、もう一度確認する必要が有るのではないかと思います。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

リバイバルであり得る?

2008-08-21 01:14:25 | 日本のリバイバル考
日本のキリスト教徒人口が増えることを願って、日本にリバイバルを、と祈っている人達がいます。

ある掲示板で、「リバイバルとは、信仰復興のことであるから、キリスト教の土壌の無い日本では、キリスト教徒が激増したとしても、リバイバルでは有り得ない。」という主張を読んだことが有りました。気になって調べましたら、いくつかの英英辞典では、三つ目ぐらいの項目で、「新しい事象の勃興」というような説明がありました。そうすると、「日本のリバイバル」という表現を使っても、差し支えないであろうと思いました。

用語として、リバイバルを日本のキリスト教界に対して用いるのは構わないと思うのですが、そのリバイバルを考える時に、十八としては少し首を傾げたくなる取り組みが無いわけではありません。このカテゴリーで、三回程に亘って、私見を述べていこうと思っています。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。