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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

私が密かに?尊敬する大忍の記事

2024-07-18 13:18:36 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
時々閲覧しに行くブログです。(リンクをクリックすると該当の記事をご覧いただけます。)
奥義書の文脈を考慮せずに部分だけ読んで異なった理解をすることについての考察が掲載されています。
後半の記述にもご留意いただけると良いと思います。

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違うと言ってるじゃないの、ホッホ~

2022-07-26 17:00:28 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
講義所に入る前にしていた仕事で、出張旅行中の自由時間に、余興で中森明菜の「飾りじゃないのよ涙は」の替え歌を歌った人がいました。「ウナギじゃないのよドジョウは」というタイトルで、一行はかなり笑わせられたように記憶しています。その歌詞の中に、「違うと言ってるじゃないの、ホッホ~」という一節が有ったのです。

私は「あれれ?な奥義書(聖書)引用」というカテゴリーを設定していますが、そこで取り上げたものが、比較的頻繁に目に着く時が有ります。最近も、「新しい皮袋」という表現が、新しい教会運営の方式に関連付けて用いられていて、表題のように、「違うと言ってるじゃないの、ホッホ~」というような気持ちになりました。

イエス・キリストが言われた、新しいブドウ酒とは、イエス・キリストの神の御国の福音であり、新しい革袋は、その原則を反映した生き方のことです。ですから、それ以外の形式の新しさを説明するために引用できる内容ではありません。このことを、是非心に留めていただければと思うのです。

これまでに新しい皮袋に関連してアップしたエントリーのリンクを貼っておきます。

新しい皮袋って新しいスタイル?
新しい革袋って新しい「スタイル」? 付録

神の道を人の道に当てはめようとしてはならない(ルカ伝五章三十三~三十九節)





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小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実だから、何事にも几帳面に? ルカ伝十六章十節

2022-07-22 12:56:27 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
このような表現は、マタイ伝とルカ伝に出て来ます。

『その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ伝二十五章二十一節、二十三節)

『小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。』(ルカ伝十六章十節)

  これらの奥義書の言葉を検索してみますと、このことを根拠にして、私たちの日常の生活態度が忠実で几帳面なものでなければならないかのような説明がされている記事が見つかることが有ります。実際に、私の母や、お世話になった単里の方から同様な勧めをされたことが有り、私も長い間そのような原則をこれらの言葉の示すもののように考えていました。
  私が講義所で学んでから、実際にこれらの言葉について研究してみると、そういう原則は二次的なものであって、イエスが直接伝えようとしたこととは異なることを発見しました。
  どちらの奥義書の言葉においても、設定や文脈から考えると、小さい事とは、現世の信仰の歩みのことであり、大きい事というのは天の御国の事であることが判ります。ですから、重要なのは、イエス・キリストが私たちを罪と滅びからの救い主であるということ、それに伴う様々な信仰の要素と教えに忠実に歩むということです。これらの奥義書の言葉を引用して、日常の生活態度が几帳面なものでなければならないと勧めるのは、誤った適用だと言えます。






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大忍・中忍(牧師)を先生と呼んではいけないのか? (マタイ二十三章八節)

2021-04-08 15:34:35 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
  マタイ二十三章八節を根拠にして、大忍・中忍(牧師)は先生と呼ばれてはならないと主張する人たちがいますが、果たしてそういう理解になる聖書箇所なのでしょうか。

  このことを、聖書箇所の文脈、ギリシャ語辞書による定義、新約聖書全体から判る理解を通して確認してみたいと思います。

聖書箇所の文脈
  この箇所は、イエスが律法学者やパリサイ人たちの有様を非難し、弟子たちがそのような有様に倣わないようにという戒めを与えている箇所です。すると、これは、七節に示されているように、彼らが「先生」と呼ばれることを好み、自尊心を満足させようとする態度を問題にしていることになります。それは、この部分のまとめである十一節、十二節からも判ります。先生と呼ばれることで、自分を偉い者のように考えて振る舞い、高慢な態度を示すことが戒められていることになります。
  更に読みますと、イエスは、弟子たちの教師は一人しかいないということを述べています。すなわち、イエス・キリストだけが旧約聖書を正しく解釈する上での師であるということです。

ギリシャ語辞典による定義
  「先生」と訳された語は、ラッビというような発音になる語で、私たちにはラビという表記で馴染みの有るものとなっています。その定義は、ユダヤ人の聖典(旧約聖書)の解釈の専門家と認められる学者や教師というものです。この定義は、キリスト教における牧師とは内容が異なります。
  八節で、「教師」はただ一人だからだという説明が付加されています。この「教師」と訳された語は、ディダスカロスというような発音になる語で、一般的に幅広く教師、先生を表す語として用いられています。
  十節には、補足のようにして「師」と呼ばれてはいけないという戒めが加えれれています。「師」と訳された語は、カセイゲイテイスというような発音になる語で、案内する、説明するという動詞から派生して、先生という意味を持つものです。この戒めの理由も、キリストだけが師であるからだとされています。つまり、弟子たちはキリストの位置に立つような高慢な態度を持っていてはいけないということになります。

  これらの語の用いられている箇所を、コンコーダンスで調べてみます。
  ラビの用例は、「主」と訳されるものを含めて十七回用例が有ります。ラビと訳された用例は、八回有り、その内訳は、今回の一般的ユダヤ人の聖典の教師を指す箇所で三回、イエスに対するものとして四回、バプテスマのヨハネに対して一回です。私たちがこの意味で牧師を先生と呼んでいないことは明白です。
  説明の都合上、次はカセイゲイテイスを説明します。用例は少なく、四回です。しかも、すべて今回の聖書箇所であるマタイ二十三章の用例です。複数の聖書辞典から確認した印象では、単純に教師、先生というよりは、導師のような印象の語に思えます。英語の翻訳では、master という訳を当てていたりします。これも、牧師を先生と呼ぶ時の語感ではありません。
  ディダスカロスの用例は、六十回程有り、一般的な語であることがうかがえます。多くの場合は、イエスに対して用いられています。

新約聖書全体から判ること
  ここでは、もう一度、用例が多くて一般的なものであるディダスカロスを通して確認してみたいと思います。
  イエス以外の人物にも用いられている用例を確認します。第一テモテ二章七節では、パウロが自分が神に「信仰と真理を異邦人に教える教師」に任じられたと述べています。第二テモテ一章十一節でも、パウロが同様のことを述べて、自分の立場の中に「教師」という語を入れています。また、複数形での用例が八回程有ります。その中で、教会の中で正当な働き手としての教師への言及と考えられるものは、六回有ります。
  ここで興味深いのは、ヘブル五章十二節です。「あなたがたは年数からすれば、教師になっていなければならないにもかかわらず」という記述になっています。教会の中に教師と呼ばれる立場が存在し、そういう立場になることが当然のように期待される人々がいるということになります。


まとめ
  これらのことを確認した結果、私たちは牧師を「先生」と呼んではいけないという結論に至るでしょうか。
  第一に、私たちは大忍・中忍(牧師)をユダヤ教のラビと認識はしていません。また、異教の高位の指導者のイメージになったりする導師という認識もしておりません。ですから、イエスが「先生」と呼ばれてはいけないと戒められた中で、この部分は除いて考えて良いでしょう。
  次に、ディダスカロスの部分への考察が必要になります。イエスは、弟子たちの先生(ディダスカロス)は一人だからだと説明されました。一方で、新約聖書には、教会の中の働き手としてディダスカロスの語が当てられている人たちがいました。先に見たヘブル書では、寧ろ、教師、先生になるべき人たちがいることが指摘されています。すると、イエスの戒めに対する使徒たちの理解は、単に呼称の問題として捉えていなかったのだと理解できます。
  そこで、もう一度マタイ二十三章の文脈に重点を置いて確認する必要が出てきます。この章は三十九節中三十六節を律法学者、パリサイ人たちへの批判・非難に割いています。該当の箇所では、彼らが見栄のために栄誉を求める姿勢が避難されています。そして、その締め括りの十一節、十二節においては、イエスはその反対の姿勢を弟子たちに求めて、次のように戒めています。『あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。』このことからも、大事なのは呼称ではなくて、弟子たちの心構えであったことがわかります。したがって、書簡に見いだされる記述も、イエスの教えと矛盾することはないのです。

  最後に、日本の文化の考察を追加しておきたいと思います。私たちはいろいろな立場の人々を先生と呼ぶ習慣が有ります。必ずしもそれは尊敬の念をこめてのことではありません。そういう文化の中にいる忍者として、私たちが大忍や中忍を先生と呼ぶことに問題は無いと思います。
  勿論、大忍や中忍が、先生と呼ばれないと気分を害するような人たちであったりすれば、イエスの戒めに反する態度ですので、その部分は責められ、改められる必要が有ります。

  結論としては、この奥義書(聖書)の記述を根拠にして、大忍・中忍(牧師)を先生と呼んではいけないと教えるのは、間違った理解や取り組みであると言えます。


お断り
  私は、自戒をこめ、謙遜な態度を保つための努力の一環として、大忍・中忍を先生と呼ばない里や個人の取り組みを否定するものではありません。単純に上記奥義書の記述を根拠にして、機械的に大忍・中忍を先生と呼んではいけないと教えるのは間違った取り組みであるという理解を示したものです。






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「聖戦をふれよ」それは神の民の戦いなのか?(ヨエル書三章九節~十二節)

2021-03-04 22:24:25 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
この奥義書の表現を引用して書かれたワーシップソングが英語にも日本語にも見いだされます。しかし、これは私たち忍者への語りかけとして書かれた言葉なのでしょうか。聖戦をふれよ、という表現が有るために、神の民が戦いに出て行くように招集され、激励されているかのように誤解してしまいますが、少し注意を払って文脈を確認すれば、そうではないことがわかります。順を追って見てみましょう。

先ず、一節から八節までの内容を確認します。ここでは、ユダの人々にした悪行の故に、神が諸国の民を裁く、罰するという宣言が理由と共に述べられています。ヨシャパテの谷というのは、実際には存在せず、ヨシャパテという語の「神は裁く」という意味に注目するべきところです。

神が諸国の民を裁くという前提を確認した後で、該当の箇所を見ますと、九節に「諸国の民の間で、こう叫べ。」と書かれています。十一節では、「回りのすべての国々よ。」という呼び掛けになっており、十二節では、「諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。」と書かれています。つまり、ここで「聖戦をふれよ」と呼び掛けられているのは、神の民ではなく、ユダを苦しめた諸国の民なのです。

昔の世界観においては、戦争というのは、自分の国の祀る神と敵国の神の戦いだと理解されていました。ですから、諸国の民へ戦争への備えの呼び掛けにも、聖戦という表現を用いることができました。彼らのすべてが神の裁きの対象なので、すべての戦士を集めよということです。十節の「鋤を剣に、かまを槍に打ち直せ。」とか、「弱い者に勇士だと言わせよ。」という表現も、有無を言わせず全員来いというような意味と、同時に、お前たちは決して太刀打ちできないのだという皮肉の意味が有ると考えられます。

彼らがそこに上っていくのは、そこで神の裁きを受けて、打ち滅ぼされるためです。十二節では、神が「わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。」と宣言しています。

神の民を苦しめた国々に対して、これから裁くから来いという神からの召喚の言葉なのですから、これを、私たち忍者の信仰を奮い立たせる歌に用いるのは間違った引用です。





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セカンド・チャンスの根拠にはならない

2020-01-28 14:38:46 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 1ペテロの手紙には、死んだ人に福音を聞く機会が有る、所謂セカンド・チャンスを示すのではないかと考えられる箇所が有ります。しかし、他の聖書箇所にはそれを補強する材料は見当たりません。ペテロはパウロに比べると、論述の手順が整理されていなくてわかりにくい場合が有りますが、きちんと背景、文脈、時制、目的語等を詳細に確認するとセカンド・チャンスの根拠に成り得ないことがわかります。順番に確認をしてみましょう。

 一つ目は三章十九節、二十節です。

『その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。(新改訳)』

 先ず、時制に注目してみます。「行った、宣べられた」の部分は過去時制です。過去に限定された動作ですから、現在も死んだ人がキリストのみことばを聞くということは述べられていないのです。
 次に、目的語です。キリストのみことばを聞いたのは「霊たち」です、しかも、どの霊たちかということが二十節に示されていて、対象が限定的であることが示されています。やはり、死んだ人が一般的に皆キリストのみことばを聞く機会が有るという理解はできません。
 更に、用例の研究をしますと、「霊たち」という複数形の用例は、超自然的な力を持つ霊、天使や悪霊に用いられていることが判ります。二十節の説明も、人間について語っている調子ではないことがおわかりいただけると思います。
 では、キリストが宣べられたみことばとは何でしょうか。宣べるという動詞は、福音宣教にも用いられるものなのですが、反逆する悪霊に対して福音を宣べることは有り得ません。ペテロの記述をたどっていくと、その内容は二十二節に出て来ていると考えて良いと思います。キリストは、それらの悪霊たちに対して、ご自身が最後の審判の時にすべてを裁く権威を持ち、更に加えて考えれば、イエスを信じた者に救いを得させる贖いの業を完成させたのだということを宣言したのだということになります。


二つ目は、四章六節です。

『というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。
(新改訳)』

 ここでは、「死んだ人々」と書いてあります。しかし、動詞の時制は「宣べ伝えられていた」という過去時制です。やはり、一般論として、死んだ人がキリストの福音を聞くという判断はできません。そして、その「人々」が肉体において「さばきを受ける」という表現はアオリスト時制で、過去の終わった動作を表します。肉体を持っていた、すなわち生きていた時にさばかれたということになります。
 この部分はどう理解したらよいでしょうか。先に背景の確認をすることが助けになると思います。この当時のローマ皇帝は、キリスト教徒を激しく迫害したネロであると考えられています。また、ペテロが手紙を書いた目的は、小アジア、現代のトルコにいる、迫害に苦しむクリスチャンを励ますことに有りました。ですから、今回の一連の記述にも、そういう意図が反映されていることを前提として理解しなければなりません。
 これらのことを総合して考えると、これは迫害されたクリスチャンについての記述と考えるべき箇所です。ネロの迫害の時代に、肉体において、すなわち生前、社会や法廷でキリスト教の信仰の故に悪者、あるいは有罪と断じられ、迫害の中で生涯を終えたり死刑になったりした人々も、霊においてはキリストにある永遠の命を受けるのだという希望の確認をし、ペテロはクリスチャンたちを励ましているのです。

 このように、背景、文脈、時制、対象・目的語を詳細に確認すると、対象は信仰を持たないで死んだ人たちではないし、宣べ伝えるという動作は継続的、一般的状況ではないことがはっきりしてきます。ですから、これらの聖書箇所を、セカンド・チャンスの根拠として用いることはできないのです。





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新しい革袋って新しい「スタイル」? 付録

2018-04-10 15:41:17 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
以前にこのことについてこのカテゴリーで記事をアップしましたが、このことについて親しい特別大忍の方に説明させていただく機会が有りました。その時の説明をここに付録として残しておこうと思います。表現等は一部変更されています。


 講義所の師匠が、奥義書中心主義を標榜するアメリカの福音派の中でも不正確な奥義書の引用が多いと言って忍士に注意を促していました。例として挙げられたのは、マタイ伝十八章の「二人でも三人でもわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいるからである。」が、祈りを促す時に引用されることでした。文脈的には、この箇所の祈りは諫められても悔い改めない兄弟の処遇をめぐる決定をする時の祈りですから、一般的な祈りの勧めに引用するのには文脈を無視した引用となり、相応しくない箇所ということになります。それに、キリストは、マタイ伝六章において自分の部屋に入り、戸を閉じて祈りなさいとも言っておられます。 
 そういう注意深さで読む時、新しい革袋を新しい「スタイル」「手法」というところまで適用させ、且つそれが一般的に最初にクリスチャンの考えに上がる理解になってしまうことは問題が有ると私は思っているのです。
 断食問答に端を発するこの問題の中心は心の霊的状態の問題です。この箇所における革袋は、直接的には断食という実践になります。新しい革袋の生き方をしている弟子もいずれは断食します。しかし、ユダヤ人たちの断食は古い革袋であり弟子たちの断食は新しい革袋となります。同じ行動をしているのに古いのと新しいのとの区別がされるわけですから、外面的なスタイルは二次的な問題であって、大事なのはその心構えだということになります。人を潤す神の恵みである葡萄酒と、それを保つ革袋と、どちらが大事かと問われれば、当然葡萄酒の方が大事ということになるでしょう。
 対比されるべき霊的状態・心の問題は、神に信頼し、神の義を求めているかどうかです。パリサイ人の義は、律法に定められていないことまで守ることによって得られる自己満足であり、罪でした。これが古い葡萄酒です。その現れとなる革袋は、必要以上の断食をし、それを見せびらかして誇ることです。キリストの弟子の義は、神の義を求めてそれに全き信頼を置くことであり、自分の業によるものではありません。これが新しい葡萄酒です。その現れとなる革袋は、真に神の国と神の義を求め、大事な問題を神の前に注ぎだして、御心を求めて断食することです。
 この二つの心の有様の原点はエデンの園に有ります。堕落前のアダムとエバは、神への全き信頼に生き、神の栄光をまとって生きていました。そこに、誘惑が来て、神によらず、自分の方法でより良い自分を目指すという罪を犯して堕落しました。この様がパリサイ人の様と同じなのです。皮肉なことに、この順序で見れば、古い葡萄酒と古い革袋の方が後から来たものであり、「新しい」のです。あくまで例話ですから、「新しい」という言葉に独り歩きさせてはいけないように思います。
 キリストは、もう一度霊的な心のエデンに生きるように弟子たちを整えました。神に全き信頼を置き、神の義だけを求めるならば、見せびらかしたり、自己満足を求めるための断食はしませんが、本当に神との親密な時間を求め、大事な問題に神の介入を求める祈りにおいては断食をします。同じ断食でも前者は堕落以降の人間の性質である罪に根差しているので、古い革袋であり、後者は天から下られたキリストによって新しく神の義に目を向けさせる教えに基づいているので、新しい革袋なのです。しかし、それは原点回帰であって、その意味においては新しくはないのです。
 新しい革袋は福音の忍者と里における現れだと考えます。別の切り口から言えば、イエスの戒め「神を愛し、互いに愛し合いなさい」及び、御霊の実の忍者の中における結実だと思います。すなわち、たずね求めるべき忍者としての生活・人生の総体ということになると思います。
 その原動力は、イエス・キリストに在る義によってのみ生きるという姿勢です。やはり、革袋よりは葡萄酒の方が大事なのです。この大きな絵を意識しないで、「新しい」「スタイル」に焦点が集まる、部分的で特化された用い方、引用の仕方が多用されている現状は、忍者の意識を中心的な意味から引き離すことになっていないかと危惧しているのです。
 なお、断食がこの奥義書の箇所の問答の発端であっただけで、実際の革袋の有様が断食に限定されたものではないことを再確認させていただきたいと思います。





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祈りの態度のことではない(マタイ七章七節~十四節)

2018-02-13 17:32:32 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 マタイ七章七節の「求めなさい、捜しなさい、たたきなさい」という命令を、忍耐深く祈り続けることを導くために用いられているのを聞いたことが有ります。この箇所は、はたしてそのような祈りの態度についての言及と考えて良いのでしょうか。

 二つの点で、そのような用い方は相応しくないと私は考えています。
 第一に、黄金律として知られるキリストが示された十二節のこの箇所の結論が、祈りの姿勢と関連が無いことを確認するべきであると思います。「何事でも自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」というまとめ、結論が、祈りに関係有るとすれば、更なる説明が必要だと思われませんか。
 第二に、8節では、「だれであれ、求め、捜し、たたく者は受け、見つけ出し、開かれる」ということが述べられています。しかし、キリストが他の箇所で示された祈りの原則は、「御心にかなった祈りならば」ということであって、だれであれ求めれば与えられるということとは少し違います。パウロが第二コリント十二章で、肉体のとげ、しかもサタンの使いと描写されているものを去らせてくださるように三度も祈ったのですが、神はそれをかなえてはくださいませんでした。

 それでは、この箇所は何について書いているのでしょうか。七章は六章までの山上の垂訓の補遺のようなものであると考えられています。大事な結論は直前の六章三十三節に示されました。「神の国とその義とをまず第一に、求めなさい。」ですから、この聖書箇所も神の国とその義を求めることについての記述として理解されるべきです。そして、本当にその思いをもって「求め、捜し、たたく」ならば、神の国とその義は誰にでも分け隔てなく与えられるのです。

 そういうわけで、この聖書箇所を、忍耐深く祈り続けて神に応えていただくことを勧めるために引用することは不適切であると考えられます。忍耐深くいつも祈るべきであることは、ルカ十八章一節~八節に示されていますから、むしろこちらを引用するべきでしょう。
 しかし、ここでも注意しておかなければならないことが有ります。この箇所でも祈ったらかなえられるということは示されていません。キリストの結論は、「神を呼び求める選民のためにさばきをつける。」ということに焦点を持っているのです。

 






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万人祭司なら牧師は不要? リンクのまとめ

2017-11-16 11:48:23 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
今年は、宗教改革500周年記念ということで、様々な取り組みが見られました。日本の改家においては、新しい翻訳の奥義書が刊行され、普及版は売り切れ状態になっています。

あるキリスト教雑誌を見ましたら、やはりこの宗教改革500周年記念に因んだ特集がなされていました。その中で、比較的著名な大忍が、万人祭司を取り上げて、牧師と信徒は上下関係ではないということを述べておられました。確かにその通りなのですが、私、糸田がこれまで述べてきましたように、それと万人祭司の原則は基本的には関係無いというのが私の立場です。また、組織系統的上下関係は聖書にも見出されます。ここで、改めて、このことを扱ったエントリーのリンクをまとめて提示しておきたいと思います。タイトルではなく、そのままのリンクですがご勘弁ください。

http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/0a1fbf894905ee9f77c2f328855bd37b
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/4a98712f6748d0df01ea73275b17631a
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/32868c9553d080fe7091903bf97489ec
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/c815b03dee4df5fb8d8cbaa201af9bd3
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/0a8df6a0af10467ca6f01e98bb74bd8b
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/a71e25c2263f89dceaf9351dc1801b49






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牧師を訴えると罪?其ノ二(詩篇百五篇十五節)

2017-08-17 10:49:11 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
以前に牧師を訴えると罪?というタイトルでサムエル記の記述から確認をしましたが、詩篇にも同様な表現が有りますので取り上げておこうと思います。

「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」(新改訳)

この箇所ではどのような文脈でこの表現が用いられているかを確認する必要が有ります。アブラハム、イサク、ヤコブに対する契約のゆえに、イスラエルの民が少人数で会った時から、寄留の他国人であった時から、神の守りが有ったということが書かれています。ということは、この箇所は約束の民であるイスラエル民族への神の守りを表しているのであって、牧師の取扱についての言葉ではありません。この箇所の続きには、イスラエルがエジプトに寄留し、後に神の守りの中で脱出することが述べられています。

神の選びが有り、またイスラエル民族の中では直接神との交流を通して契約を得た人物としてアブラハムなどは預言者とも考えられている事実に基づいた表現であって、これを牧師に適用することはできません。

この聖書箇所の引用をもって、どんな牧師でも訴えてはいけないような教えを導くことはできません。





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