goo blog サービス終了のお知らせ 

糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

年齢に関わる7の倍数

2024-10-08 16:57:54 | Weblog
随分前のことですが、人間の体細胞は、7年で全部入れ替わるという記事を読みました。その後に読んだ記事では、性差が有って、男性は8年という記述が有りましたが、体験的には7年の方が当てはまるように思います。7年ごとの変化について、体験したことを書き残しておこうと思います。勿論個人差が有りますから、当てはまらないことも多いと思います。

高校、大学の体育の授業などで教えられていましたが、人間の体は24歳まで発達していくということです。それ以降は下降線をたどるということで、いかにその下降の度合いを緩やかにするかということが健康維持の課題になるということです。ですから、第三周期の21歳までは発達していく、充実していく感覚が有ると思います。問題は24歳を超えてからです。化粧品関連で言われていることは、24歳はお肌の曲がり角ということです。そこから肌は衰えていくということです。ですから、第四周期の28歳周辺から体の衰えが認識されてくることになります。

28歳頃-人によっては、冬の寒さなどの感じ方が変わってくるようです。寒さがそれ以前よりひとしお体にしみるように感じるかもしれません。

35歳頃-筋肉痛が現れるのが遅くなり始めるという話題がよくあがります。

42歳頃-老眼が始まる。

49歳頃-筋力が落ち始めて、以前力任せに動かせた荷物が動かしずらくなる。ごく小さい耳鳴りが始まる。

56歳頃-周囲の人や物の気配が少し判り辛くなる。皮膚が薄くなって、ちょっとぶつけたりこすれたりするだけで、擦過傷ができる。

63歳頃-物事の名称がすぐに思い出せないことがある。気力がやや後退して面倒くさいと感じる。目の前のことにとらわれて、直前の行動が念頭に無くて失敗をすることがある。

この先は私にもまだ未知の領域ですが、気を付けて生活したいと思います。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

Pro-Life の思考

2022-07-01 16:36:01 | Weblog
 米国での中絶についての判決にいろいろな反応が出ていますが、中には、pro-choiceの立場を推したいだけで、実際には判決に関係無いことまで持ち出してデモをしていたりする様子が見受けられます。そういうデモにおいては、元来中絶は、母体の健康を損ない、命の危険が有る場合に求められるものであったはずですが、単に新しい家族は要らないという理由からなされるものも、女性の権利だという主張になっているように見受けられます。Pro-Life を持ち出すと、忍界のような、特定の宗教の影響だと考える方もいますが、実際には無宗教の立場で運動されている方々もいます。そういう場合の思考も知られているべきではないかと思います。
 
 このような思考において土台となっているのは、生命倫理です。命は尊く、場合によっては、地球よりも重いなどと表現されることも有ります。胎児は母体を離れては生存できませんが、それでも一つの独特の存在であり命です。仮に何等かの状況で、DNA情報が遺跡などから発見された時、それが胎児のまま死亡したものか、成人してから死亡したものかに関わらず、解析すればそれがどのような特徴を持った個人あったかは確認することができます。ですから、その命を尊重する立場から、中絶を推奨することはしません。
 中絶の時の具体的な施術は、どの方法においても非人間的であると私は考えます。特に掻爬は、胎児の体を取り出しやすい大きさに切り刻んで取り出し、頭部をつぶしてしまうものです。その残忍さに耐えきれず、現場を離れる看護師などもいます。エコーで、その時の胎児の状況を確認すると、恐怖に心拍数が上がり、狭い胎内で逃げ惑う様子が見られます。生命倫理の立場からは、受け入れられない内容であると思います。
 動物愛護団体は、様々な動物の扱いについて、大変神経を使い、保護活動に勤しんでいます。同様の命を尊ぶ姿勢が、どうして胎児には適用されないのでしょうか。矛盾した現実であると思われます。

 人間は全て平等だというのが、広く共有される現代的考え方であると思います。(実際にはそうでない場面も有りますが)そこには、機会の平等や選択の自由が含まれていると思います。人間は誰も自分の選択で生まれて来ていません。自分も選択しないで産まれ育ったにも関わらず、胎児の生存に関しては、親が決定権を行使することは、平等の原則に反していると思われます。その視点からすると、出生に関しては、等しく機会が与えられて然るべきだと考えることになります。 
 現代社会は、平等と尊重の視点から、マイノリティーを支援しようとします。胎児は、最も弱く被害を受けやすく、その立場を代弁してもらえる機会が殆ど無いマイノリティーであると言えます。他のマイノリティーには配慮をするのに、胎児は一切顧みないというのは、矛盾した在り方だと思います。米国のPro-Lifeの指摘では、中絶されるのは、主に黒人で女子であるとして、人種的性的差別の最たるものだという指摘もされています。

 Pro-Choice の方のプラカードで時々見るのは、My Body, My Choice, (私の体、私の選択)というものです。子宮はその女性の体の一部であります。しかし、胎児とその命はその女性のものではありません。その女性の体の一部であるならば、その女性と同じDNA情報を持っていなければならないのではないでしょうか。確実に胎児は母体とは異なるDNAのセットを持った個体です。その主張は通らないと思います。実際に、Pro-Life側は、その事実を指摘する図やプラカードを作成しています。

 Pro-Lifeの立場から取り上げられる記事がネットに幾つか存在します。私が見たものでは、南米の女性が16歳の時に性的暴行を受けて妊娠しましたが、悪いのは暴行を働いた男性であって、胎児ではないのだから、どうして私のお腹の子が罰を受けなければならないのか(中絶によって死刑にならなければならないのか)、と言って出産したというものが有ります。最近、11歳で同じ決断をした女性の記事を紹介されました。他にも中絶を免れて生を受けた人たちの記事がPro-Lifeの立場のウエブサイトにアップされています。

 ここまでご紹介したPro-Lifeの思考は、忍界の思考とは関係有りません。無宗教の立場からも、Pro-Lifeの思考は出て来ることを心に留めていただければと思います。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

ご理解いただけなかった絆

2022-02-18 18:51:36 | Weblog
  且つて、私がお仕えする単里に、養護老人ホームから週日も含めて頻繁に来られるご婦人がいらっしゃいました。日曜日には二回の礼拝の両方に出席することも多く、帰りに私が自動車で施設までお送りすることが度々ありました。そのうち、だんだん足が弱ったりしてくるのがわかりました。里に来られるようになって10年目ぐらいになったころ、体力の低下が目立ってきて、私も何度か施設にお見舞いに行きました。お年のせいもあって、なかなか良くならず、違う施設に移りました。そこにも二度程お見舞いに行きましたが、呼吸が荒く、話が殆どできないようになっていました。妹さんがいろいろな調整や決定をしておられました。もう回復の望みは無く、臨終が近い時には、電話口で泣いておられました。

  告別式は、妹さんの関係する里の大忍が司式をされ、私には奥義書朗読を一つ割り当ててくだいました。思い出の時間に写されたスライドが素晴らしいと思いましたので、ご婦人に優しく接してくださった里の皆様にも見せてもらえたらと思って、妹さんに依頼のeメールをしました。ところが、直接私には回答をくださらず、執事の一人に電話でお断りの連絡をしてこられました。執事が言うには、「家族の思い出の写真なので」と、何と言えば良いのわからないような複雑な様子で言っておられたとのことでした。私たちの里も、家族のような絆が有ったのにと思って、悲しい気持ちになりました。仕方ないことだと理解できますが、10年近い歳月を、毎週何日も里で会う関係であった私たちの絆を理解していただけず、そういう形で否定されたような形になったことを時々思い出しては残念に思う時が有ります。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

ボアズとヤキン

2017-05-31 21:38:51 | Weblog
ソロモンの神殿に有った二つの柱にはボアズとヤキンという名前が付けられていました。柱という印象だけで注意して読んでいなかったことに最近やっと気づきました。私はてっきり入口の門柱で、梁や上部構造を支えるものだと思っていました。しかし、実際は門の前にモニュメントのように配置されているものでした。

参考になる図はこちらからご覧ください。 図1wikipedia より 図2  The Messianic Evangelicals より

奥義書の記述からもそれはわかるようになっています。(引用は新改訳第二版より)

列王記上 七章二十一節 「この柱を本堂の玄関広間の前に立てた。」

歴代誌下 三章十七節  「それから、彼はこれらの柱を本堂の前に、一つを右側に、もう一つを左側に立てた。」


この二つの柱の意味合いについて調べますと、いろいろな考察が見出されますが、簡単に言いますと、二本併せて「主は確立される」という意味になるようです。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

日本国憲法をめぐって

2015-07-27 21:02:21 | Weblog
  私は日本国憲法について深く語る資格の無い忍者でありますが、それでも判断材料と申しましょうか、このような理解が有るということは広く知られて良いと思っていることが二つ有ります。

  一つ目は、ある割合博識な大忍もブログで述べておられますが、日本国憲法は実質的には国産品であって、GHQに押し付けられたものではないということです。その背景には明治の自由民権運動も関わっており、当時の総理大臣幣原喜重郎の平和主義の希求の態度にも拠っているものであることを示す記録が有ります。反論も有りますが、虚心坦懐に資料を理解すれば、日本国憲法はGHQ経由であっても国産品と考えることができるはずだという立場が有ることは理解しておいていただきたいと思います。

http://www.ndl.go.jp/constitution/  国立国会図書館サイト

http://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/revision.html#s3  様々な人々が起草に関心が有った

http://homepage2.nifty.com/kumando/si/si010515.html
http://www.ndl.go.jp/modern/cha1/description14.html   日本帝国憲法以前にも有った民主的憲法草案

http://kenpou2010.web.fc2.com 幣原喜重郎とマッカーサーの対話資料を含む九条を世界に広める立場のサイト
 


  二つ目は、私が直接お聞きした話です。聖隷福祉事業団を創設された長谷川保先生をゲストにお迎えした茶話会でのことでした。当時先生は日本社会党籍の衆議院議員でしたが、最初の当選が日本国憲法発布前の1946年でしたので、司会者が、当時の議論の様子はどうであったか聞かせて欲しいとお願いしました。細かいことは記憶に残っておりませんが、一つ印象的に覚えていることが有ります。
  先生の話によると、草案が提示されると、九条を巡って激論が交わされたそうですが、最終的には当時の各政党の人達は、自民党も含めて九条に賭けてみようという方向で一致したそうです。唯一最後まで、自国の軍を持たないとは何事かと抵抗したのは、共産党であったということでした。(現在は、自民党が憲法改正を視野に入れた取組をし、共産党が強くこれを守ろうとしていることは皮肉であると思います。)


  当時は、お仕着せの日本国憲法を渋々受諾したというよりは、喜んでこれにかけてみようとうする流れが有ったということを無視することは、当時の国政を預かった人達に失礼なことではないかと思ったりします。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

同性婚の法制化をめぐって 其ノ二

2015-07-04 20:52:11 | Weblog
 其ノ一において、忍者でない人達であっても共通に考えられる土俵において議論や主張をする必要が有ることを述べました。そして、その要素の最も重要な部分を取り上げたつもりです。即ち、同性婚の法制化が、同性婚に賛同しない意見の人間の平等権、思想信条の自由、良心の自由、言論の自由を侵害する性質のものになってはいけないということです。

 さて、今回は別な部分から同性婚の法制化に反対する立場を取り上げてみたいと思います。
 
 今年(2015年)五月にアイルランドで国民投票で同性婚の法制化が多数の支持を得ました。しかし、この投票の前に宗教的ではない理由で反対の運動をしていた人達がいました。その中でも、特に、自分自身が同性愛者でありながら、同性婚を法制化まですることには反対の立場を表明した人達の考えには注意を払う必要が有るように感じています。

 彼らは現在自身が同性愛者であるにも関わらず、同性愛恐怖症であるかのように非難されると言っています。それでも彼らは同性婚の法制化には反対しています。一つは、制度的にはいちいち結婚を再定義しなくても、アイルランドでは伝統的な男女の結婚と同等の権利を既に得ているではないかということです。それをわざわざ結婚という一つの位置づけに押し込まれることは根本的に間違っていると彼らは言っています。これは当事者でなければ語れないことですが、同性同士の親密な関係は男女の関係とは異なったものだというのです。それを同等なものとして認知させようということには無理が有るのだそうです。違いを認め合い、多様性を寿ぐということが大事なのであって、区別のない同じものと位置づけてしまうことには問題が有り、馬鹿げたことだというのです。

 その次に、そして私にとっては大変重要であることは、子供の権利です。同性に親密な関係が有るというのと結婚は異なるというのです。結婚においては子供は父親と母親に養育されるということが基本だと信じているということです。愛されているかということ、父母がいるかということはまた別な問題だと彼らは言っています。そういう違いに敏感であること、区別をすることは差別とは違うと言っています。同性婚の法制化は、家族の定義を変えてしまうということに反対しています。
 更に子供に目を向けて彼らは発言しています。「私のようにゲイであるならば、子供を得るには養子を取るか、代理出産を依頼するかということになります。しかし、代理出産では、子供の商品化の問題が出て来るのです。子供の権利を大人の欲望と取り換え、妊娠を注文に置き換え、母胎を賃借物に置き換えてしまいます。そういう取組を許した国々でいかに物事が酷い展開になり、法廷闘争に持ち込まれたりしているかという現実が有ります。そういう現実のどこに子供への最善の福祉が有るというのでしょうか。」「同性婚の夫婦による養子縁組では、父と母によって育てられるという自然の特権を奪われるのです。それは公平なことではありません。」

 更に、彼らは付け加えて警告しています。きちんと整理して理由を示しているにも関わらず、嫌がらせをするような人達や勢力が存在するということです。こういう運動がそのような勢力になってしまってはいけません。職場や学校が政府のビジョンだけを刷り込むことを強制するような場所になってはいけません、と言っています。最近カナダで同性婚の親に育てられた人が、アメリカへの警告として発信している記事を読むと、2005年に同性婚を法制化した後のカナダでは、この件に関する思想信条の自由、言論の自由が著しく制限されているということです。活動家たちが教会に出席して、同性婚に反する言葉が使われないか監視して、何かあると人権委員会に訴える取組をしているそうです。そういう勢力に負けて、教会なども罰金や慈善団体の資格はく奪などの不利益を被らないように政治的な方針に合わせてしまっているということです。大変恐ろしい状況だと私は思うのですが、皆さんのご感想はどうでしょうか。(其ノ一で述べたことと重複する内容になってしまいました。)

 彼らの運動のスローガンには、子供を第一にしよう これまでの結婚を維持しよう 父母の存在が大事ですというメッセージが組み込まれていました。

 実際にはアイルランドの国民投票の結果は同性婚の法制化が多数の票を獲得し、彼らの声は届かなかったということになり、私としては残念な結果になっています。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

同性婚の法制化をめぐって 其ノ一

2015-07-01 17:24:40 | Weblog
 同性婚の法制化の動きに対して米国などでは聖書を基準に反対をする人達がいますが、私にはそれは無意味なことであると思われます。政教分離の法則に反するからです。また、聖書は信仰を持たない人達には何ら拠り所とする意義が有りません。ですから、私たち忍者が同性婚の法制化に関して意識しなければならないことは、信仰を持たない人達と共通の土俵で扱える、もっと別の所にある物事を認識するべきであると思います。

 一番大事なのは、人権としての平等が守られる体制が維持できるかということです。人間同士が平等でなければいけないということを、神抜きにきちんと説明している文章には出会ったことが有りませんが、自由主義国家においてはそれは前提であると思われますので、そういう部分は無視して考えて良いだろうと思います。
 同性婚の法制化に伴って、思想信条の自由、良心の自由、言論の自由が侵害されることが起こってはなりません。最近読んだカナダからの投稿は、すでに同性婚を法制化して10年経過した国に住む者からの警告という姿勢になっていました。同性婚を見直すなどの発言や意見を述べることが違法であるような扱いになっていて、一切口にすることが憚られる状況になってしまっていると述べています。そういう風になってはいけない、そういう部分に注意して慎重に進めるようにという思いがそこに表されていたと思います。
 アメリカにおいては、多分同じことが起こるであろうという感想を私は持っています。最近ネットで明らかにされましたが、オレゴン州で同性婚のためのウェディグケーキを焼くことを拒絶したベーカリーが閉店に追い込まれました。周囲から酷い中傷の言葉を浴びせられ、また訴訟を起こされた上に、約千七百万円を支払うことを命じられたからです。ところが、そういう決定をした司法関係者が、同性婚を認める運動をしている人達と裏で交流が有ったということが判ってきました。そして、最高裁判所がどの州においても同性婚が法制化されるべきであるという決定をしました。これからそういう状況にどういう風に対応していくのかということが、忍者であってもそうでなくてもよく考えられなければならない情勢になってきています。この例では、そのベーカリーの対応がお粗末であったという感想を私は持っています。全く共通の理解の無い相手に、同性婚は罪深くて不道徳だと言ったというのです。それでは嫌悪感を持たれ、侮辱されたと思われて訴訟を起こされるのは無理からぬことです。しかし、丁寧に共感を持って接しても、攻撃的に手当り次第訴訟を起こされ、且つ、全て敗訴するような言論の自由や思想信条の自由を圧殺するような社会になることは恐ろしいことだと私は思います。

 我々が法の下に平等で思想信条の自由、良心の自由、言論の自由が保証されるのであるならば、相手を憎んだり差別したり侮辱したりする意図が無い限り、同性婚には反対であるとか、同性婚のために自分の事業所はサービスを提供できないということを表明することに身の危険、立場が危うくなることの恐れを感じさせられるようなことが有ってはならないのです。そういう部分に注意を払った慎重な取組が日本においては進められることを強く希望しています。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

10代の子供達に送る言葉 その後

2013-01-07 22:07:26 | Weblog
以前アップした写真の記事を更に検索をしましたら、別の締め括りの言葉も見つかりましたので、それを加えてとりあえず私流に日本語にしてみたものを貼っておこうと思います。これがアメリカのネットの中では最近まである程度話題であったようです。ただ、記事は1969年ぐらいに書かれたものだそうです。


ノースランド大学学長のジョン・タピーンが、恒常的に青年事件を扱っている裁判官の、次のような談話を寄せてくれた。

 我々はいつも「どうしたらいいのですか。どこに行けばいいのですか。」という青年の叫びを聞きます。私の回答は次の通りです。
 家に帰りなさい、庭の手入れをしなさい、窓を拭きなさい、料理を習いなさい、就職しなさい、病人を見舞いなさい、勉強して卒業できたら、その後も本を読みなさい。
 行政は君たちに娯楽施設を与える義務を負ってはいないし、君たちの親たちは君たちを楽しませる義務を負ってはいないのです。社会が君たちの生活保障の義務を負っているのではなく、君たちが社会に何か貢献して行かなければならないのです。君たちの方が、人々が困難に直面したり病気になったり孤独を味わうことのないように、時間と精力と才能を社会のために用いる義務を負っているのです。言い換えれば、大人になりなさい、泣きごとを言うのを止めなさい、非現実的な自分の夢から抜け出して、願望ではなく意志力を養いなさい、ということなのです。責任を取れる人間として行動をし始めなさい。君たちは重要であり必要とされているのです。ぶらぶらして何時か誰かが何かをしてくれるのを待っていたりしてはいけません。何時かではなくて今行動するのであり、誰かではなくて君が行動するのです。
 君たちは親たちが何年も負ってきた責任を同様に引き受けられるだけ十分に成長することが求められています。彼らは君たちがあらゆる利益を得られるように、養い、護り、助け、君たちのためにお願いしたり弁明したり、自分が受けるべき利益も時には我慢してきました。君たちが大事な存在だから、彼らは進んでそうしてきたのです。
 しかし、今はもう君たちには、社会常識よりも自己中心な考えがもっと強いからなどという理由で、親がいちいち君たちの気まぐれや夢を叶えてくれることを期待する権利などは無いのです。

成長しなさい





にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。