米国での中絶についての判決にいろいろな反応が出ていますが、中には、pro-choiceの立場を推したいだけで、実際には判決に関係無いことまで持ち出してデモをしていたりする様子が見受けられます。そういうデモにおいては、元来中絶は、母体の健康を損ない、命の危険が有る場合に求められるものであったはずですが、単に新しい家族は要らないという理由からなされるものも、女性の権利だという主張になっているように見受けられます。Pro-Life を持ち出すと、忍界のような、特定の宗教の影響だと考える方もいますが、実際には無宗教の立場で運動されている方々もいます。そういう場合の思考も知られているべきではないかと思います。
このような思考において土台となっているのは、生命倫理です。命は尊く、場合によっては、地球よりも重いなどと表現されることも有ります。胎児は母体を離れては生存できませんが、それでも一つの独特の存在であり命です。仮に何等かの状況で、DNA情報が遺跡などから発見された時、それが胎児のまま死亡したものか、成人してから死亡したものかに関わらず、解析すればそれがどのような特徴を持った個人あったかは確認することができます。ですから、その命を尊重する立場から、中絶を推奨することはしません。
中絶の時の具体的な施術は、どの方法においても非人間的であると私は考えます。特に掻爬は、胎児の体を取り出しやすい大きさに切り刻んで取り出し、頭部をつぶしてしまうものです。その残忍さに耐えきれず、現場を離れる看護師などもいます。エコーで、その時の胎児の状況を確認すると、恐怖に心拍数が上がり、狭い胎内で逃げ惑う様子が見られます。生命倫理の立場からは、受け入れられない内容であると思います。
動物愛護団体は、様々な動物の扱いについて、大変神経を使い、保護活動に勤しんでいます。同様の命を尊ぶ姿勢が、どうして胎児には適用されないのでしょうか。矛盾した現実であると思われます。
人間は全て平等だというのが、広く共有される現代的考え方であると思います。(実際にはそうでない場面も有りますが)そこには、機会の平等や選択の自由が含まれていると思います。人間は誰も自分の選択で生まれて来ていません。自分も選択しないで産まれ育ったにも関わらず、胎児の生存に関しては、親が決定権を行使することは、平等の原則に反していると思われます。その視点からすると、出生に関しては、等しく機会が与えられて然るべきだと考えることになります。
現代社会は、平等と尊重の視点から、マイノリティーを支援しようとします。胎児は、最も弱く被害を受けやすく、その立場を代弁してもらえる機会が殆ど無いマイノリティーであると言えます。他のマイノリティーには配慮をするのに、胎児は一切顧みないというのは、矛盾した在り方だと思います。米国のPro-Lifeの指摘では、中絶されるのは、主に黒人で女子であるとして、人種的性的差別の最たるものだという指摘もされています。
Pro-Choice の方のプラカードで時々見るのは、My Body, My Choice, (私の体、私の選択)というものです。子宮はその女性の体の一部であります。しかし、胎児とその命はその女性のものではありません。その女性の体の一部であるならば、その女性と同じDNA情報を持っていなければならないのではないでしょうか。確実に胎児は母体とは異なるDNAのセットを持った個体です。その主張は通らないと思います。実際に、Pro-Life側は、その事実を指摘する図やプラカードを作成しています。
Pro-Lifeの立場から取り上げられる記事がネットに幾つか存在します。私が見たものでは、南米の女性が16歳の時に性的暴行を受けて妊娠しましたが、悪いのは暴行を働いた男性であって、胎児ではないのだから、どうして私のお腹の子が罰を受けなければならないのか(中絶によって死刑にならなければならないのか)、と言って出産したというものが有ります。最近、
11歳で同じ決断をした女性の記事を紹介されました。他にも
中絶を免れて生を受けた人たちの記事がPro-Lifeの立場のウエブサイトにアップされています。
ここまでご紹介したPro-Lifeの思考は、忍界の思考とは関係有りません。無宗教の立場からも、Pro-Lifeの思考は出て来ることを心に留めていただければと思います。
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