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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

父母を離れ(創世記二章二十四節)

2016-11-29 21:48:35 | 忍者的思索・忍界
忍界で且私糸田十八の仲間である皆様との内輪ネタであることを先にお断りしておきます。

この聖書箇所は、結婚カウンセリングにおいては、自分の親から独立していることを確認するために用いられます。今回は自分が考えたことがなかった用い方をしている方の記事を読み、「おお、そうであったな。」と思ったのでお分かちしておこうと思う次第です。

ある女性が同性愛の生活を25年程経た後、神に出会い、旧家(カトリックのことです)の忍者になりました。それで、忍者の視点を得て考えたら、過去の生き方は大変な内なる葛藤や闇と言えるようなものが有って苦しんでいたというのです。その体験に基づいて語ると、教会の指導者達が同性愛であるとか同性婚を正そうとしないならば、また、そういう人々に愛を持って接してその内面に届き導いてい行こうとしないならば、それは「冷酷」であるというのです。あまり個人の具体的で深い葛藤の内容までは語られていない記事でしたが、それがその記事の主旨でした。

その記事の中で、その忍者が上記の奥義書の言葉を引用していました。「父母」を離れるのであって、「父と同性パートナー」「母と同性パートナー」を離れるのではないのだということを示す用い方をしていました。私はこれまでにそういう用い方に出会ったことがありませんでしたし、自分でも思いつきませんでしたので、少々驚きを持って読みました。





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妻の理想像というよりは(箴言三十一章十節~三十一節) 補足

2016-11-22 11:05:30 | 奥義書に見る結婚関係のあれこれ
 先のエントリーで、人間は堕落前に持っていた神の賞賛を取り戻したいという内なる欲求が有る故に、この世の生活においても無意識のうちに賞賛を求めており、特に女性にその必要が高いことを述べました。それを、夫婦の間では性差として理解しておくことが大事にあ要素の一つになることもお分かちしました。

 さて、そこで、一つ気を付けておかなければならないと思うことが有りますので補足しておきたいと思います。それは、過度に賞賛を追い求めたり、賞賛を要求することを正当化するような態度です。これはカウンセリングの領域でも、承認依存、アプルーバル・ジャンキーというような表現が当てはめられ、問題の有る傾向としています。私たちはそのような傾向に陥らないように注意する必要が有ります。
 このことの、忍者的問題点は何でしょうか。それは、神への信頼による平安、神からの承認を喜ぶこと、キリストによる完成と聖徒としての歩みを遠ざける行為だからです。それは、思考的偶像礼拝になっています。奥義書も次のように警告しています。

あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。 (イザヤ書二章二十二節 口語訳)

神からいただいた聖徒、神の子としての存在に満足しようとせず、人間からの賞賛を貪欲に求めることは、偶像礼拝であり、価値の無いことです。


主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。
彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。(エレミヤ書十七章五節~七節 口語訳)

ここでは更に踏み込んで、そのような態度であることは、「のろわれる」ことになるとしています。実際に、そのような態度に陥った人は、いつまでもその心が満たされず、無限に賞賛を求めますから、それこそのろわれ、また塩地にいるような心の状態と言えます。悔い改めて、心を決めて、神にのみ自己尊厳を見出す信仰の姿勢を保持することが必要になります。その結果は、さいわいで、ひでりの年にも憂えることがないものだとこの箇所の後半は私たちに語り掛けています。


 私たちは忍者として、互いに賞賛し、褒めたたえ、感謝し合って生きることが必要ですが、同時に、その姿勢が間違った方向に行かないように注意していなければならないこともご留意いただきたいと思います。






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妻の理想像というよりは(箴言三十一章十節~三十一節)

2016-11-21 18:38:48 | 奥義書に見る結婚関係のあれこれ
 上記箴言には、敬虔な女性の有様等のサブタイトルがつけられていたりします。そして、この記述を妻の理想像であると考える方々が多いと思います。極端な場合には、奥義書講義所の先輩である大忍に聞いた話ですが、これに見合うような生活をすることを義務付けているような家も有るということです。二人でとんでもない話だと言い合ったことを思い出します。
 さて、私、糸田十八は、この箇所については少々異なった理解をしています。妻の理想像を語っているという理解は違うのではないかと思うのです。その理由と、私の理解をご説明させていただこうと思います。

 先ず、理由です。神様は私たち人間を色々な性格、賜物、資質を持った存在としてこの世に送り出してくださいました。どの女性でもこの箇所に表されているような女性になることができるということは有りません。それはどだい無理な要求というものです。本気でそのように生活してみようとしたら、余程体力に恵まれているか、大変効果的な健康法を心得ているかしないと、たちまち健康を害して倒れてしまうだろうと思います。創造主である神様は、そういうことは全てご存じですから、非人間的な無理な要求をなさるはずがありません。それに、夫となる人の仕事なども様々で、皆がこの聖書箇所に出てくるような状況になるとは限りません。ですから、この聖書の記述の要点は別のところに有ると考えるのが適切であると思います。

 では、どのような理解をすることになるのかということになります。十節は「しっかりした妻」という表現をもって始まります。その「しっかりした」ということのまとめとなる言葉が、三十、三十一節に示されていると考えられます。その中心的な要素は、「主を恐れる女」であることです。神を敬い、全き信頼を持って、自分の為すべきことを行う妻であれば、「ほめたたえられる」に値する女性であるということに焦点が有ると考えられます。
 私はこの箇所を更に次のように考えます。天地創造の時、神は人類を創造された時これを「非常に良かった」とされました。(創世記一章三十一節)堕落前の人類は神の賞賛の対象でもあったのです。しかし、罪を犯したために人類は神から与えられていた栄光を取り去られ、その称賛を受けることができなくなってしまいました。その評価は、「人が心に思い図ることは、幼い時から悪だからである。」というものに変わってしまいました。(創世記八章二十一節)ですから、人類は魂の深い所で何等かの賞賛に飢え乾いているのですそれをもう一度満たしていただくためには、「主を恐れる者」となって、イエス・キリストによる神の義を着せていただくしかないのです。
 さて、このカテゴリー、結婚関係のあれこれの観点から述べます。夫婦の間でも褒め合うことは大変大事なことです。主に贖われた同士である男女は、イエス・キリストの救いを受けたという意味で完全にされたのですから、賞賛の関係も回復されなければなりません。そして、堕落の時には女性が真っ先に非難の対象になったことと関係が有るかもしれませんが、女性の方は男性よりも賞賛されることを必要としているのです。女性のそういう傾向は、結婚カウンセリングの授業でも指摘され、性差の理解として重要であると言われました。
 今回の奥義書の箇所に戻って考えますと、この箴言は、妻をその家庭を築く努力に相応しく、褒めるべきであることを示していると考えることができます。そして、それは場合によっては夫婦だけでなく、コミュニティーの中でも知られるような有様でなされるように夫は気配りをしなければならないという忠告を含んでいます。それが最後の三十一節の「その手の働きの実を彼女に与え、その行いのために彼女を町の門でほめたたえよ。」という部分に現れていると考えられます。






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