糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

基本と応用?二つの湖上の嵐

2024-02-22 23:48:24 | 忍者的思索・奥義書より
イエスの弟子たちがガリラヤ湖で嵐に遭う場面は、奥義書では二回有ったことになると考えられます。

 一度目は、マタイ八章、マルコ四章、ルカ八章に記録が有ります。イエスが「向こう岸に行こう。」と言われて、弟子たちと一緒に船に乗って出かけました。向こう岸というのは、ガダラ地方ということです。この時は、イエスがご一緒に船に乗っていましたが、嵐の中でも眠っておられたということです。
 ここでは、弟子たちは、イエスが向こう岸に行こうと言われ、また、共におられるのだから、嵐の中でも信仰を持って、恐れずにいることを学んだことになります。
 因みに、マタイとルカの記述では、昼間に船に乗ったのではないかと思われる記述になっていますが、マルコだけは夕方であったと記録しています。ガリラヤ湖は夕方から夜にかけて強い風が吹き、嵐になるので、わざわざ夕方にでかけることはありません。ユダヤ人の表現では、夕方は二種類、あるいは二つの時間に分けて理解されていたので、まだ日が高いうちの夕方ということであったのかもしれません。

 二度目は、マタイ十四章、マルコ六章、ヨハネ六章に記録が有ります。この時も、イエスの指示によって弟子たちは船に乗って移動しようとします。三つの記録は、これが夕方であったことを明示しています。この時は、弟子たちだけで、イエスは同行しませんでした。しかし、この後、イエスは湖の上を歩いて、向かい風で漕ぎあぐねていた弟子たちの側を通られました。ご自身が側にいることを意図的にお示しになられたのだと思います。残念なことに、弟子たちは幽霊を見たのだと思って半狂乱になってしまいました。イエスは直ぐに声をかけてくだいました。その時の表現が、ギリシャ語の旧約聖書では、柴の箇所で神がご自身の名前を表すのに用いられた表現と同じです。イエスはご自身が神であると言われたと考えられます。

 弟子たちは、二度、ガリラヤ湖の嵐を経験しました。一度目はイエスが一緒にいました。そこで学んだことが基本であるとすれば、二度目の経験は応用であったと言えそうに思います。全能の神の子であるイエスに従っているのだから、イエスが船に同乗していなくても、守られ、導かれるのだという信仰を働かせるべきところでした。
 ヨブ九章八節には、神は「海の大波を踏まれる」という表現が有ります。この嵐は五千人の給食の直後でした。弟子たちは、その奇跡の時に、イエスが詩編二十三編に示された神であることを理解しなければなりませんでした。また、水の上を歩く姿に、神を見出さなければなりませんでした。一度目よりも多くの裏付けが有ったにも関わらず、弟子たちはこの応用編に良い対応をすることができませんでした。

 私たちも、実はこの弟子たちのような状態であることが多いのです。前に神様が示された恵みをよく心に留めて、人生の海の嵐に、いつも神を見いだして、信仰を持って耐える心構えが、私たち忍者の心構えであるべきです。






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