聖書講解というよりは、背景の研究・確認のようなものですが、このカテゴリーでお願いします。
1)二つの初穂―過ぎ越しと五旬節:大麦と小麦の初穂の供え物
ユダヤ教の三大例祭のうち、過ぎ越しの祭りと五旬節の祭りは、巡礼者たちにとっては一組のようなものでした。間が50日しか開いていないので、二回の往来をするよりはエルサレムに滞在して両方を祝ってから自分達の国に帰ることが通常でした。
この二つの例祭には、初穂を神に供えるという共通点が有ります。
過ぎ越しの祭りの期間最初の安息日の次の日、日曜日に、大麦の刈り取りをして一オメルの束にして神殿に運びました。大麦の束は揺祭として神の前で揺り動かされました。同時に、種を入れないパンの要領で大麦の粉と油を混ぜたものを捧げました。
キリスト教においては、これらの大麦の供え物は、全人類の初穂となって死人の中からよみがえったイエス・キリストと、罪の無い存在であったイエス・キリストが罪の贖いのために父なる神に供えられたことの象徴になっています。イエスの十字架の死によって、例祭の意味が完成したのです。
五旬節は、過ぎ越しの安息日から七週(四十九日)経った次の日、日曜日(五十日目)に、小麦の初穂の供え物として、種を入れて焼いたパンを神の前で揺祭として揺り動かしました。種入れるのは、人間の罪の性質をも含めて神の民が受け入れられることを象徴しています。この時、パンは二個供えられます。それは、ユダヤ人と異邦人を象徴しています。エジプト滞在中にエドム人に一部が合流したり、出エジプトの時にもケニ人などが一緒に行動したように、ユダヤ人と異邦人が共に神に受け入れられてきたことを示していると考えて良いと思います。
キリスト教においては、その日に神殿にいた人たちが認識できるように、激しい風のような音と響き、炎のように別れた舌(理解困難ですが、視認できたことが大事です。)、ガリラヤ人が学んだことのない諸外国語で神の偉大な業を語るという印を伴って聖霊の力が弟子たちに臨んだ日と重なります。人々が言ったように、そこにはユダヤ人も改宗者・異邦人もいました。そして、ペテロの説教の後に三千人が信仰に入ったと記録されています。彼らが、新たに聖霊の働きによって神の民となる初穂となったのです。
当時の五旬節の祭りの実践には、もう一つ象徴的なものがありました。旧約聖書のルツ記が朗読されたのです。それは、ナオミとルツが大麦の初穂の頃にユダの領地に戻り、ボアズとルツが小麦の初穂の頃に結婚することになったという理解に基づきます。ここにも、ユダヤ人と異邦人の結合の物語を見るのです。そして、家系的にはこのボアズとルツの子孫としてイエス・キリストが生まれたのです。イエスが信仰の創始者であり完成者であるということに、この事実も関わっていると言って良いのではないでしょうか。律法の定めた祭りの意味が、イエスにあって成就し、完成したのです。
イエスの復活と、五旬節の聖霊の降臨による教会の誕生はどちらも日曜日でした。ですから、主の日として、日曜日を尊ぶことが初代クリスチャンから始まりました。(このことは、安息日である土曜日を尊んで礼拝する実践を否定するものではありません。)
2)二つの目に見える印―復活のイエス(信じる者に)とペンテコステの印(未信者に)—
復活のイエスは、イエスに従っていた者たち五百人以上に姿を現し、食事を一緒にしたりして、ご自身の体を伴った復活を証明しました。だからこそ、イエスのことを信じなかったイエスの兄弟たちもイエスを信じるようになり、弟子たちと一緒に集まって祈りに専念したのです。
しかし、神の御計画はそこに留まりませんでした。忠実に律法を守って例祭に集まるユダヤ人と異邦人の神を敬う人々にも著しい印を見聞きさせて、イエスがメシアであることを証明することが御心でした。神がそのように取り計らってくださったからこそ、ペテロの説教の後に三千人の信じる者が起こされたのです。
3)神の約束の到来(ヨエルの預言の成就と、約束の聖霊の力)
イエスに従う者たちと使徒たちに聖霊の力が臨んで、神の偉大な働きを宣べ伝えさせたことは、ペテロの説明の通りに、ヨエルの預言の成就でした。ペテロは聖霊の導きによって確信をもってこのことを断言しました。神のみ言葉は必ず成るのです。
ヨエルの預言の言葉から判ることがあります。このような目的のための聖霊の力は、旧約の士師や預言者の時と異なり、老若男女問わず、身分を問わず与えられるということです。これが、イエスが弟子たちにエルサレムに留まって待ちなさいと命じられた、神の賜物だったのです。
旧約の預言という約束でも、イエスが弟子に与えた聖霊の約束でも、神の約束は必ず守られ、履行されるのです。そして、この流れの中で最も大事な結論は、「主のみ名を呼ぶ者はみな救われる」ということなのです。私たちは、この約束を握って生きているのです。
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1)二つの初穂―過ぎ越しと五旬節:大麦と小麦の初穂の供え物
ユダヤ教の三大例祭のうち、過ぎ越しの祭りと五旬節の祭りは、巡礼者たちにとっては一組のようなものでした。間が50日しか開いていないので、二回の往来をするよりはエルサレムに滞在して両方を祝ってから自分達の国に帰ることが通常でした。
この二つの例祭には、初穂を神に供えるという共通点が有ります。
過ぎ越しの祭りの期間最初の安息日の次の日、日曜日に、大麦の刈り取りをして一オメルの束にして神殿に運びました。大麦の束は揺祭として神の前で揺り動かされました。同時に、種を入れないパンの要領で大麦の粉と油を混ぜたものを捧げました。
キリスト教においては、これらの大麦の供え物は、全人類の初穂となって死人の中からよみがえったイエス・キリストと、罪の無い存在であったイエス・キリストが罪の贖いのために父なる神に供えられたことの象徴になっています。イエスの十字架の死によって、例祭の意味が完成したのです。
五旬節は、過ぎ越しの安息日から七週(四十九日)経った次の日、日曜日(五十日目)に、小麦の初穂の供え物として、種を入れて焼いたパンを神の前で揺祭として揺り動かしました。種入れるのは、人間の罪の性質をも含めて神の民が受け入れられることを象徴しています。この時、パンは二個供えられます。それは、ユダヤ人と異邦人を象徴しています。エジプト滞在中にエドム人に一部が合流したり、出エジプトの時にもケニ人などが一緒に行動したように、ユダヤ人と異邦人が共に神に受け入れられてきたことを示していると考えて良いと思います。
キリスト教においては、その日に神殿にいた人たちが認識できるように、激しい風のような音と響き、炎のように別れた舌(理解困難ですが、視認できたことが大事です。)、ガリラヤ人が学んだことのない諸外国語で神の偉大な業を語るという印を伴って聖霊の力が弟子たちに臨んだ日と重なります。人々が言ったように、そこにはユダヤ人も改宗者・異邦人もいました。そして、ペテロの説教の後に三千人が信仰に入ったと記録されています。彼らが、新たに聖霊の働きによって神の民となる初穂となったのです。
当時の五旬節の祭りの実践には、もう一つ象徴的なものがありました。旧約聖書のルツ記が朗読されたのです。それは、ナオミとルツが大麦の初穂の頃にユダの領地に戻り、ボアズとルツが小麦の初穂の頃に結婚することになったという理解に基づきます。ここにも、ユダヤ人と異邦人の結合の物語を見るのです。そして、家系的にはこのボアズとルツの子孫としてイエス・キリストが生まれたのです。イエスが信仰の創始者であり完成者であるということに、この事実も関わっていると言って良いのではないでしょうか。律法の定めた祭りの意味が、イエスにあって成就し、完成したのです。
イエスの復活と、五旬節の聖霊の降臨による教会の誕生はどちらも日曜日でした。ですから、主の日として、日曜日を尊ぶことが初代クリスチャンから始まりました。(このことは、安息日である土曜日を尊んで礼拝する実践を否定するものではありません。)
2)二つの目に見える印―復活のイエス(信じる者に)とペンテコステの印(未信者に)—
復活のイエスは、イエスに従っていた者たち五百人以上に姿を現し、食事を一緒にしたりして、ご自身の体を伴った復活を証明しました。だからこそ、イエスのことを信じなかったイエスの兄弟たちもイエスを信じるようになり、弟子たちと一緒に集まって祈りに専念したのです。
しかし、神の御計画はそこに留まりませんでした。忠実に律法を守って例祭に集まるユダヤ人と異邦人の神を敬う人々にも著しい印を見聞きさせて、イエスがメシアであることを証明することが御心でした。神がそのように取り計らってくださったからこそ、ペテロの説教の後に三千人の信じる者が起こされたのです。
3)神の約束の到来(ヨエルの預言の成就と、約束の聖霊の力)
イエスに従う者たちと使徒たちに聖霊の力が臨んで、神の偉大な働きを宣べ伝えさせたことは、ペテロの説明の通りに、ヨエルの預言の成就でした。ペテロは聖霊の導きによって確信をもってこのことを断言しました。神のみ言葉は必ず成るのです。
ヨエルの預言の言葉から判ることがあります。このような目的のための聖霊の力は、旧約の士師や預言者の時と異なり、老若男女問わず、身分を問わず与えられるということです。これが、イエスが弟子たちにエルサレムに留まって待ちなさいと命じられた、神の賜物だったのです。
旧約の預言という約束でも、イエスが弟子に与えた聖霊の約束でも、神の約束は必ず守られ、履行されるのです。そして、この流れの中で最も大事な結論は、「主のみ名を呼ぶ者はみな救われる」ということなのです。私たちは、この約束を握って生きているのです。

