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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

ペンテコステに関して覚えておくべきこと

2025-06-11 19:30:47 | 奥義書講解・新約
聖書講解というよりは、背景の研究・確認のようなものですが、このカテゴリーでお願いします。

1)二つの初穂―過ぎ越しと五旬節:大麦と小麦の初穂の供え物
  ユダヤ教の三大例祭のうち、過ぎ越しの祭りと五旬節の祭りは、巡礼者たちにとっては一組のようなものでした。間が50日しか開いていないので、二回の往来をするよりはエルサレムに滞在して両方を祝ってから自分達の国に帰ることが通常でした。
  この二つの例祭には、初穂を神に供えるという共通点が有ります。
  過ぎ越しの祭りの期間最初の安息日の次の日、日曜日に、大麦の刈り取りをして一オメルの束にして神殿に運びました。大麦の束は揺祭として神の前で揺り動かされました。同時に、種を入れないパンの要領で大麦の粉と油を混ぜたものを捧げました。
  キリスト教においては、これらの大麦の供え物は、全人類の初穂となって死人の中からよみがえったイエス・キリストと、罪の無い存在であったイエス・キリストが罪の贖いのために父なる神に供えられたことの象徴になっています。イエスの十字架の死によって、例祭の意味が完成したのです。
  五旬節は、過ぎ越しの安息日から七週(四十九日)経った次の日、日曜日(五十日目)に、小麦の初穂の供え物として、種を入れて焼いたパンを神の前で揺祭として揺り動かしました。種入れるのは、人間の罪の性質をも含めて神の民が受け入れられることを象徴しています。この時、パンは二個供えられます。それは、ユダヤ人と異邦人を象徴しています。エジプト滞在中にエドム人に一部が合流したり、出エジプトの時にもケニ人などが一緒に行動したように、ユダヤ人と異邦人が共に神に受け入れられてきたことを示していると考えて良いと思います。
  キリスト教においては、その日に神殿にいた人たちが認識できるように、激しい風のような音と響き、炎のように別れた舌(理解困難ですが、視認できたことが大事です。)、ガリラヤ人が学んだことのない諸外国語で神の偉大な業を語るという印を伴って聖霊の力が弟子たちに臨んだ日と重なります。人々が言ったように、そこにはユダヤ人も改宗者・異邦人もいました。そして、ペテロの説教の後に三千人が信仰に入ったと記録されています。彼らが、新たに聖霊の働きによって神の民となる初穂となったのです
  当時の五旬節の祭りの実践には、もう一つ象徴的なものがありました。旧約聖書のルツ記が朗読されたのです。それは、ナオミとルツが大麦の初穂の頃にユダの領地に戻り、ボアズとルツが小麦の初穂の頃に結婚することになったという理解に基づきます。ここにも、ユダヤ人と異邦人の結合の物語を見るのです。そして、家系的にはこのボアズとルツの子孫としてイエス・キリストが生まれたのです。イエスが信仰の創始者であり完成者であるということに、この事実も関わっていると言って良いのではないでしょうか。律法の定めた祭りの意味が、イエスにあって成就し、完成したのです。
  イエスの復活と、五旬節の聖霊の降臨による教会の誕生はどちらも日曜日でした。ですから、主の日として、日曜日を尊ぶことが初代クリスチャンから始まりました。(このことは、安息日である土曜日を尊んで礼拝する実践を否定するものではありません。)

2)二つの目に見える印―復活のイエス(信じる者に)とペンテコステの印(未信者に)—
  復活のイエスは、イエスに従っていた者たち五百人以上に姿を現し、食事を一緒にしたりして、ご自身の体を伴った復活を証明しました。だからこそ、イエスのことを信じなかったイエスの兄弟たちもイエスを信じるようになり、弟子たちと一緒に集まって祈りに専念したのです。
  しかし、神の御計画はそこに留まりませんでした。忠実に律法を守って例祭に集まるユダヤ人と異邦人の神を敬う人々にも著しい印を見聞きさせて、イエスがメシアであることを証明することが御心でした。神がそのように取り計らってくださったからこそ、ペテロの説教の後に三千人の信じる者が起こされたのです。

3)神の約束の到来(ヨエルの預言の成就と、約束の聖霊の力)
  イエスに従う者たちと使徒たちに聖霊の力が臨んで、神の偉大な働きを宣べ伝えさせたことは、ペテロの説明の通りに、ヨエルの預言の成就でした。ペテロは聖霊の導きによって確信をもってこのことを断言しました。神のみ言葉は必ず成るのです。
  ヨエルの預言の言葉から判ることがあります。このような目的のための聖霊の力は、旧約の士師や預言者の時と異なり、老若男女問わず、身分を問わず与えられるということです。これが、イエスが弟子たちにエルサレムに留まって待ちなさいと命じられた、神の賜物だったのです。
  旧約の預言という約束でも、イエスが弟子に与えた聖霊の約束でも、神の約束は必ず守られ、履行されるのです。そして、この流れの中で最も大事な結論は、「主のみ名を呼ぶ者はみな救われる」ということなのです。私たちは、この約束を握って生きているのです。






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パウロ書簡におけるぶどう酒のイメージ (ピリピ二章十四節-十六節)

2024-10-10 17:42:45 | 奥義書講解・新約
 二章の冒頭で、パウロはピリピの聖徒たちに一致するように呼びかけています。その実践のために必要なことが続けて書かれているのですが、十四節で、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」という指示をします。そして、目的が、続く十五節から十六節の中間まで示されています。
 十五節では、非難されることのない純真な者になること、傷のない神の子となることだと述べています。「純真な」と訳された語は、水割りされていない、混ぜ物のないぶどう酒を指して用いられるものだということです。それは、イエスの新しいぶどう酒と新しい皮袋の例話を思い起させます。新しいとは、イエスを信じる信仰によって義とされるという福音のことばです。イエス・キリストの福音のことばは、混ぜ物がない状態で保たれなければなりません。
 続いて十六節では、いのちの言葉をしっかり握って、曲がったこの世の人々の間で世の光として輝くためだと述べています。神の子供は、神のためにこの世から取り出された聖徒です。聖徒は神の掟、神の基準によって生きなければなりません。この世の基準ではなく、神の基準で生きていることが現れることが、聖徒が光であるということです。(光と言う表現についてはイザヤ42章6節も参照)そして、神の子どもであるということの中心的な要素は十六節の「いのちのことばをしっかり握って」と言う部分に示されているのです。
 「握って」と訳された語には、宴会で客にぶどう酒をすすめる、振る舞うという語感が含まれるということです。神の子どもは霊的な新しいぶどう酒である聖書の言葉の真理、イエス・キリストの福音をすすめるのです。勿論、しっかり握りしめるという語感も有ります。聖徒として、神の言葉をしっかり握りしめて、聖書の言葉に従って生きて行かなければなりません。この二つの意味が聖徒の中で車の両輪のように相互に働かなければなりません。(1ペテロ1章23節、2章三節、ヨハネ1章1節-5節参照)





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わたしは神だ、わたしを礼拝しなさい (イエスの神宣言 其の二)

2024-08-22 22:13:46 | 奥義書講解・新約
イスラム教徒が忍者に挑戦する時に、イエスが「わたしは神だ、わたしを礼拝しなさい。」と言っている聖書箇所を示せと要求することがあります。
この質問は不毛であると考えます。処女降誕を信じるというなら、聖書に「処女降誕」という表現が有るのかと尋ねるのと変わらないのではないでしょうか。
同等、同質の事実が他の表現で述べられていれば、そう聖書に述べられている、書かれていると言うことができるからです。

イエスが自分を神だと述べたと断定できる聖書箇所は幾つかあります。神を表す語がよくわかるので、英語で示します。'I AM" という表現は、神が燃える柴の中からモーセに語られた時にその名を「わたしはある」と告げた表現の英訳です。(出エジプト三章十四節)ギリシャ語の旧約聖書によるこの部分の表現と、新約聖書(原典はギリシャ語)のイエスの言葉は同じ表現になります。
John 8:24 - “Therefore I said to you that you will die in your sins; for if you do not believe that I AM [He], you will die in your sins.”
John 8:58 - Then Jesus said to them, “Most assuredly, I say to you, before Abraham was, I AM.”

また、ユダヤ人の反応を見ればイエスの言葉が彼らに伝達した内容は明白です。
John 10:30-33 - Jesus answered them, “I and My Father are one.” Then the Jews took up stones again to stone Him. Jesus answered them, “Many good works I have shown you from My Father. For which of those works do you stone Me?” The Jews answered Him, saying, “For a good work we do not stone You, but for blasphemy, and because You, being a Man, make Yourself God.”

弟子に語られた言葉からも、イエスは自分が神だと言ったことが理解できます。
John 14:9-11 - Jesus said to him, “Have I been with you so long and yet you have not known Me, Philip? He who has seen Me has seen the Father; so how can you say, 'Show us the Father'?”

次に、イエスが自分を礼拝する者たちを咎めず、その礼拝を受けられたことが述べられている聖書箇所に目を留めましょう。
Matthew 28:9 And behold, Jesus met them and said, "Greetings!" And they came up and took hold of his feet and worshiped him.
John 20:28 Thomas answered him, "My Lord and my God!" イエスは私の「神」と表現したことについて、トマスを叱らず、受け入れています。

故に、これらの聖書箇所を示せば、イエスが「わたしは神だ、わたしを礼拝しなさい。」と言ったのと同等の内容が読み取れなければならなりません。





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なぜ「野蜜」と表記するのか(マタイ三章四節)

2024-05-17 19:25:45 | 奥義書講解・新約
 バプテスマのヨハネについての記述を見ると、「その食べ物はいなごと野蜜であった」という部分が有ります。(マタイ三章四節)そこで、どうしてわざわざ「野蜜」と表記するのかということが気になります。「蜜」と表記するだけで十分ではないかと思うのです。
 先ず、バプテスマのヨハネの箇所で野蜜と訳された語を確認します。メリと言う発音になるギリシャ語が用いられています。英語の聖書もwild honeyという訳を当てています。コンコーダンスを見ますと、同じ語が、黙示録において、小さな巻物が蜜のように甘いという記述の所でも用いられています。
 次に、旧約聖書で蜜と訳される語を数か所確認し、それがギリシャ語旧約聖書ではどの語で表されているかを確認してみます。すぐに思い出すと思われるのは、神がイスラエルの民を「乳と蜜の流れる地」に導くという表現です。(申命記六章三節等)七十人訳ギリシャ語旧約聖書を見ると、その場面でもメリという語が用いられています。旧約と新約で同じギリシャ語が用いられるならば、バプテスマのヨハネの場面だけ野蜜と訳すことにどんな意味が有るのかわかりません。
 ここで、旧約聖書で最初に蜜が出て来る場面を見てみます。ヤコブが飢饉の時に、エジプトに行って食料を買って来るように二度目に息子たちに命じた時、ベニヤミンを連れて行くことが条件だという場面で、エジプトの支配者(実際にはヤコブの息子のヨセフ)に持って行くようにヤコブが命じた土産の中に蜜が入っています。ギリシャ語の旧約聖書では、やはりメリが用いられています。そこで、注解書はどう説明しているかを見てみます。すると、複数の註解書に、ブドウジュースを煮詰めたものだろうという記述が出て来ました。
 そうすると、当時のユダヤ人にとっては、蜜という言葉から想起されるものが、人工的に果汁を煮詰めて作ったものと蜂蜜の巣から採取したものの二種類になることがわかります。それで、その背景を考慮に入れて、人工的に作ったものではないということを示すために、「野蜜」という普段日本語では使われない表現が当てられたのだと考えることができそうです。






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ヤコブの鏡の例話を実感する

2023-08-23 22:28:05 | 奥義書講解・新約
ヤコブの手紙の1章には、鏡を見る男の例話が出て来ます。

23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
24 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
25 ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。(新改訳第三版)

私には、この例話は長い間ピンと来ないものでした。実際に私たちが鏡を使う場面とその目的を考えると、この例話の雰囲気が実感できるようになりました。

私たちが鏡を用いるのは、どういう時でしょか。自分の顔を鏡に映し、寝ぐせがないか、目ヤニはついていないか等を確認して直します。また、化粧をする時には、シミやソバカスをきちんと隠せているかを確認し、アイライン、リップ等がきちんとのったかどうかを確かめます。その時は、「一心に見つめる」のではないでしょうか。

そういう鏡の用途を考えると、生まれつきの顔というのは、いわゆるスッピン、素顔のことで、化粧をしていないとか、洗顔をしないという感覚で捉えてよいのではないかと思います。洗顔や化粧をするつもりがないなら、鏡を見ることに何の意味が有るでしょうか。

ここで、ヤコブは、鏡をみことばに置き換えます。一心にみことば、奥義書を読むと、私たちの直すべき霊的な姿、罪の性質、行動が判り、それを直していくことができるのです。私たち忍者が、生まれつきの顔、すなわち罪の性質を正して行こうとしないなら、みことばである奥義書を読むことに何の意味が有るでしょうか。むしろ、その目的のために、「一心に見つめて離れない」ことが必要になってくるのです。そうすれば、適切に行動を正すことができ、それが、事を実行する人ということになります。

なお、ヤコブがここで述べている事を実行するという直接的な文脈上の内容は、迫害にあっても怒りに任せて不適切な言葉を使わないことです。手紙のその前の部分にまで広げて確認すれば、天の国の法則と希望に基づいて、試練をこの上もない喜びとするということまで含めることができるでしょう。






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イエスの神宣言(其の一) (ヨハネ伝五章二十七節)

2018-08-03 22:00:26 | 奥義書講解・新約
 時々、イエスは自ら神であると言ったことはないという主張に出くわすことが有ります。後に弟子たちがイエスを神格化してしまったのであって、それはイエスの本来の目的や意思とは異なっているというような言い方をするわけです。しかし、これは、ユダヤ的な背景を理解していないことから来る誤解です。このことは、二千十七年に召天されたNabeel Qureshi氏も自身の体験として語っていました。彼はイスラム教徒でしたが、忍者である友人に同様な意見を述べたということでした。しかし、忍者である彼の友人がじっくり解説してくれたことで、ついに彼も忍者になったのでした。 
 さて、表題の奥義書の箇所で、イエスはどのように神であると宣言しているのでしょうか。

 また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。

 ユダヤ人は「主の日」に神が最終的な裁きをすると理解していました。さばき、審判を下すのは神のすることです。しかし、その権限はイエスに与えられたと言っています。それだけならば、まあ預言者に委任されたのかな、などと考えることも可能ですが、そこにたたみかけるように、自分は「人の子」なのだから、という宣言を付け加えているのです。
 この「人の子」という称号を自分に対して用い、自分が「人の子」であると述べたことが、すなわち神宣言となるのです。その理解には、旧約聖書のダニエル書七章十三、十四節の描写を理解する必要が有ります。

 十三節 私がまだ、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

 十四節 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去る

   ことがなく、その国は滅びることがない。

  この箇所に見る「人の子」のような存在、元来の意味では人間のように見える存在は、天の雲に乗って来るのですから、単に人間であるとは考えられません。更に、諸国の民が彼に仕えるというのです。仕えると訳された語は、他に栄誉を与える、礼拝するという意味が有ります。ですから、英語の聖書ではworshipという訳が当てられていたりします。礼拝をうけるべき存在は神しかいません。ですから、この「人の子」は神性を持った存在であるということになるのです。「人の子」は神の前に進み出るのに神でもあるというのは理解が難しいことでしょうけれども、そう理解するしかない表現がされているのです。そして、イエスは「わたしがその人の子なのだよ。」と宣言していることになります。言い換えれば、「私は神だから。」と宣言したことになります。
 ユダヤ教の考え方では、この箇所の理解は未解決の部分が有るように思われますが、キリスト教的には三位一体の教義で説明がつくということになると思います。私が講義所で学んでいたいた時、学長も兼任されていた師匠が、昔のラビの中にも三位一体的理解を論じた人がいるのだという話を聞いたことが有ります。どのラビがどのように述べたのか知りたいと思ったのですが、機会を得る前に師匠は召天してしまわれました。

 さて、ここに挙げたのは一例です。他にもイエスの表現が自分は神であると述べたことになるものは幾つか有ります。何故ユダヤ人指導者たちがイエスを殺そうとしたかを説明する聖書箇所を研究すると、イエスのされたこと、言われたこと、またその表現が自分が神であることを宣言したことになるのだということが判ってきます。後に弟子たちがイエスを神格化したなどという考えは、福音書の記述と決して相容れません。

 




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「熱く愛し合う」(ペテロ第一の手紙一章二十二節)

2015-12-02 09:25:57 | 奥義書講解・新約
「互に心から熱く愛し合いなさい。」(口語訳)

 「心から」と訳されている部分は、原文のニュアンスでは「きよい心から」というものになっています。「きよい」というのは、「きれいである、手入れがされている」という意味が有ります。前半の「真理に従うことによって、たましいをきよめ」という記述を受けた内容と言えます。


 さて、ここで私が確認しておきたいのは、「熱く」と訳されている語についていです。原文ではエクテノースと読める語が用いられており、「強く、熱心に」という意味が有ります。辞典で確認しますと、「止めることなく」という語感が有り、「全力で、努力して」というニュアンスを伴うということです。 
 愛するという行為は、感情によるのではなく理性であり選択なのだということがここから判ります。イエス・キリストは愛のゆえに十字架に架かられましたが、それは感情によったのではなく、選択でありました。人間としてのイエス・キリストの感情は十字架には架かりたくない部分が有りました。ですから、ゲッセマネの園では「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイによる福音書二十六章三十九節)と祈っています。しかし、天の父なる神への従順とご自身の使命と選択によって、逃げたりすることなく十字架に架かられたのです。
 ですから、感情が伴わないのに愛するという行為を偽善的だとか思う必要は全く無いのであります。むしろ、従順のゆえに努力して愛することが求められており、それがイエス・キリストに従う者の姿のです。一般的な生活においても、やる気が起きなくてもしなければならないから義務感等で行動することはたくさん有ります。その時に、自分のことをなんと偽善的かと嘆く人はいません。私達忍者の「熱く愛する」というのも、そういう態度で理解されるべき事柄です。








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本当に、本当に、本当だよ!(パウロは使徒)

2013-11-29 23:16:32 | 奥義書講解・新約
パウロが使徒であるかということは、敵対するユダヤ主義者やその他の偽教師の攻撃の的になっていました。ですから、パウロは繰り返し自分はイエス・キリストによって使徒となったということを主張し続けました。以下の各書簡でそれを見ることができます。
・ キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから(ローマ人への手紙一章一節)
・ 神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、(コリント人への第一の手紙一章一節)
・ 人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ(ガラテヤ人への手紙 一章一節)
・ 神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから(エペソ人への手紙)
・ 神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから(コロサイ人への手紙)

さて、彼が使徒となった直接的個人的証言は使徒行伝の中に見出されます。後の伝道に同行することになったルカが彼から聞いたり目撃したりしたこととしてそれを記録に留めています。そして、それが記録の上の偶然であったのかもしれませんが、三回記録されているのです。三回というのは、繰り返しによる強調の要素や完全で充分であることを示す要素が含まれていると考えられますし、正にユダヤでは三人の証言は真実な証言とされていましたから、神様もその導きとルカに対する霊感を通してパウロの使徒性を保証してくださったのだと考えることができそうです。以下の聖書箇所でご確認いただけます。
・ 使徒行伝九章一節~十七節
・ 使徒行伝二十二章一節~二十一節
・ 使徒行伝二十六章九節~十八節

このことは、私たちにとっても大事なことです。と言いますのは、パウロが伝えたキリスト教やパウロが書き残した神学は彼が考えて発展させたことと主張して、神様やイエス・キリストの完全性を否定するような立場が有るからです。

使徒という言葉は、主人が伝える言葉を忠実に伝える者という意味が有ります。そして、パウロは自分がそういう存在であるということを一生懸命弁明してきたわけです。ですから、彼が自分で考えて発展させたことを主張していたとしたら、とんでもない嘘つきということになります。しかし、反対に、新約聖書の記事を総合的に確認すると、いろいろな場面で聖書の記述はパウロの使徒性を彼の自己主張という枠を超えて示していると考えることができます。

それは、パウロの教え、戦って守り通した信仰の中心的価値が、イエス・キリストがパリサイ人達を敵に回しながら敢然と宣べ伝えた神の福音の中心的価値と完全に一致しているところに見出されます。律法や行いによる義ではなく、ただ神により頼む信仰によって義とされ、生活も守られる。神を愛し人を愛する。そういう部分が完全に一致していると考えることができます。パウロの書簡を研究して、彼の述べていることのポイントを探っていくと、はっと気づく、表現が違っていても本当にイエス・キリストの弟子、使徒であるなぁと感嘆させられる原則を述べていることが判る瞬間が有ります。

パウロは書簡で何度も自分の使徒性を主張してきました。しかし、神様は本人ではなく別の人物を通して三回の証言を記録させました。そうなさることで、パウロに勝って神様ご自身が「本当に、本当に、本当だよ。」と保証してくださっているかのようです。そこに神様の介入とパウロに対する愛を感じることができると思います。







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パウロが戦友に遺す言葉(使徒行伝二十章十七節~三十六節)

2013-07-15 13:57:21 | 奥義書講解・新約
 十七節に有るように、パウロはエルサレムに上る前に、宣教のためにそれまでに一番長く滞在したことのあるエペソの長老達を招集して、遺言と言えることを託しました。エペソの一帯に教会を維持するために共に戦ってきた彼らは、弟子でありまた戦友と言える存在であったでしょう。
 十八節から二十七節までは、彼がどのように奉仕してきたかということを長老達に思い出させ、また、彼らがそれをよく知っていることを確認しています。更に、パウロ自身の心構えや立場を語っています。中でも大事なのは、彼がキリストと聖霊の力によって「神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。」と言い切れる働きを終えていたということでしょう。
 続いて、彼の長老達への遺言の中心的内容が述べられています。長老、牧師の立場の人への警告、また、現代に生きる教会のリーダー達への戒めとして、私なりの整理の仕方でまとめてみたいと思います。

1.気を付け、気を配り、目を覚ましていなさい
 そうしなければならない理由は、二十八節、二十九節に述べられています。教会の外からも内からも、間違った教えを激しく広げていこうとする勢力が働こうとするからだというのです。ユダヤ主義やヘレニズム主義系の偽教師、偽使徒の働きが及ぶことが予測できたということです。
 多くの教会は、まさかそのような働きが自分の教会に有るとは思わないかもしれません。しかし、いろいろな教えの風に惑わされ、間違った教えを仲間同士で語り合ったりする信徒も実際には出てきます。また、牧師が異端的な教えに傾倒したり、会衆をマインドコントロールして、破廉恥な行為をしたりお金を巻き上げたりしている例も聞かれています。ですから、リーダー的な立場の人は、自分がどのようなものを任されているかをきちんと自覚していなければなりません。パウロも冒頭でそのことを確かめています。すなわち、「聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。」ということです。いかに尊いものを委ねられ、託されているかということを肝に銘じなければなりません。

2.御言葉の力に立ちなさい  
 この原則は三十二節に述べられています。「今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。」
 パウロは、御言葉に、彼らと教会の人々を守る力が有ると信じていることになります。どのようにしてそう理解することができるのでしょうか。
 第一に、間違った教えは、正しい教えによって正されなければならず、それは正しい御言葉によってなされるからです。これは、長老の働きのみならず、忍者一人一人が思いの中でし続けなければならない作業です。
 第二に、御言葉は長老と聖徒たちの徳を立てることができるからです。原文では「建てる」ということを意味する語が用いられているだけで、「徳を」というのは口語訳聖書編纂における補足です。ですから、「徳を」という言葉に縛られずに、もっと幅広く捉える方が意義が深いと思われます。コンコルダンスでパウロによる他の用例を確認すると、やはり、もっと幅広い理解になるように思われます。徳を建てるのみならず、正しい信仰の姿勢を建てる、神の国の現れを生き様の中に建てる、というような部分まで考えに入れて良いようです。勿論、徳を建てるということもそれらの中に含まれる要素ではありますが、あまりに限定的に捉えないようにしたいと思います。
 第三に、御言葉は上記一、二の結果として、聖徒が受け継ぐ永遠の命や天国とその報酬をもたらす力が有るからです。

 このような警告を与えることによって、パウロは長老達に偽教師の働きがこのような姿勢や戒めに反するものであることを確認している部分も有ると考えることができます。「徳を」という語が補われたのも、偽教師達がいろいろな意味で不道徳であったことを読者に確認させるためになされたという部分が有ると考えられます。
 パウロ自身がそのことをよりはっきりさせるために、一例として偽教師と自分の態度の対比をここで述べています。偽教師は金目の物や良い暮らし向きなどを欲しがって、それを教会の信徒たちに要求していたことがわかります。反対にパウロは二倍の尊敬に値する人物で、正当な報酬を得られる立場であったにも関わらず、自分で働き、しかも、他の人の分のお金の工面のためにも働いたというのです。このような全く異なった取組からも、偽教師が区別できるというものです。


3.弱い者を助けなさい
 パウロは自分の例を挙げた後に、三十五節で、その関連として長老達にこのような指示をしています。「あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならない」
 以前にアップした記事で、パウロが「弱い者」と表現する時は、信仰の弱い者と経済力の弱い者とを指す場合が有ることを示しました。この箇所では、両方考えられますが、文脈からは経済力の弱い者の方により重点が有ると判断できます。偽教師達は、信仰の弱い者を迷わせるばかりか、経済的に弱い者からもむしりとって、不適切な利得を求めていたと考えることができます。
 長老達が偽教師達と異なっているべき理由、またそういう行動の根拠は、2.とも共通する点が有りますが、キリストの御言葉に土台して行動するという部分に有りました。それは、「『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきこと」という部分に表されています。そこに立とうすればこそ、偽教師のように利得を得ようとするのではなく、助けようとすることになるのです。長老達、教会のリーダー達の行動原理は、自分の利得ではなく、聖書の御言葉になければならないのです。因みに、このキリストの言葉は福音書等には記録されていません。しかし、当時のキリスト者達の間では広く知られていたのでこのように引用できたのであろうという解説を聞いたことがあります。
 更に「万事において教え示した」とパウロは言っています。長老達にはそうしてきたということでしょう。締め括りの言葉として述べていますから、神の国の価値を守り、偽教師の影響を排除するためという目標を明確に持って、繰り返し示してきたということがうかがえます。


4.長老の働きは祈りに支えられていなければならない(付加的考察)  
 ややこじつけの感が有るかもしれませんが、大事な要素であると考えることができます。パウロは自分の遺言を伝え切ったことをもって良しとはしませんでした。一同と共に跪いて祈ったというのです。祈りの内容は、いろいろ有ったでしょうけれども、これまで見てきた内容についての神様の助けを得られるようにという祈りも含まれていたことでしょう。気を付けていられるように、神の教会の聖徒たちをきちんと導き養えるように、聖徒達を御言葉に立たせることができるように、弱い者達を助けることができるように、などのことです。


まとめ
  パウロがエペソの教会の長老達に遺した言葉は、現代の教会のリーダー達にも意義のある言葉です。実際に、偽教師達が多く入り込んできていることを、私たちはキリスト教界の新聞やネットの記事でも見ています。あなたが、教会のリーダー的立場にあるならば、人間関係の平穏さをお求めるのではなく、イエス・キリストの御血をもって贖われた教会を守ることを求める心構えの上に自らを建ててください。パウロの遺言の要点は
1.気を付け、気を配り、目を覚ましていなさい
  (偽教師が内外から出現しないように、出現しても治めることができるように)
2.御言葉の力に立ちなさい
  (真理の方向を明確にすることができ、偽りの教えを退けられるよう)
3.弱い者を助けなさい
  (イエス・キリストの律法と神の国の価値観を守り、証を立てられるように)
そして、付加的ではありますが、重要な要素として
4.長老の働きは祈りに支えられていなければならない
                       ということになると思います。





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終末的記述の研究 1 (マタイ伝二十四,二十五章から)

2011-06-06 22:54:05 | 奥義書講解・新約
先日列挙した項目の最初の二つを扱います。(二十四章一から三節)

 キリストが神殿の石が一つとして積み重なることのない日が来ると述べました。ヘロデによる第二神殿は、その荘厳さで周囲の国々の人々にも印象深いものであった様子が、当時の文献からもうかがえるそうです。ギリシャ人の中には自分達の神々の神殿の方が素晴らしいということを述べた者もいるということです。その建築への評価はいずれにしても、それが壊れてしまうということでした。
 そういうことを聞いたキリストの弟子たちは、驚いたはずです。神殿はイスラエルの象徴的なものであり、間もなくキリストによってイスラエルが再興されるのではと期待していた彼らには、神殿が崩されるということは想像できなかったことになります。
 しかし、その後弟子たちはキリストに近づいて先ず、何時それは起こるのかを尋ねました。マタイはその部分への答えを記録していませんが、ルカの方は、二十一章二十節で「エルサレムが軍隊で囲まれるのを見たら」という記述をしており、それが70年のエルサレム崩壊であることを預言したものであると理解できます。
 弟子たちの質問は更に発展していきます。「あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか。」と尋ねています。どうしてこのような質問に発展したのだろうかと思ったのですが、手元の注解によると、弟子たちの頭にはザカリヤ十四章一、二節が有ったであろうとしています。
 ザカリヤ書を見てみると、十二章からエルサレムに関する預言になっていることがわかります。エルサレムが包囲されることへの言及も有ります。また、嘆きが有り、偽預言者が取り除かれ、人々の信仰が試されることが書かれています。そして、その十四章では、エルサレムが敵に打たれることが書かれています。三節には「主が出て来られる」という記述が有ります。弟子たちはそれをキリストであると考えていたという理解のようです。
 一節には「主の日が来る」ということが書かれていますし、主がすべての王となった時の記述は、奇跡的な内容になっていますから、それを「世の終わり」と考えることもできます。
 これらのことを合わせて、弟子たちの質問は発展したのだと考えることができそうです。





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