糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

五千人の給食の旧約的イメージ

2018-07-23 18:29:36 | 奥義書講解・福音書
 五千人の給食の奇跡の物語は、四福音書全てに収録されている数少ない出来事のうちの一つです。実は、この物語は、ユダヤ的背景を持った読者には、明らかな王、もしくはメシアのイメージが重なっています。特にそれをはっきり示したのが、ヨハネによる福音書ではないかと思います。(ヨハネによる福音書六章一節~十三節)
 
 そのことを示すのは、先ず十節です。
 
 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい(横にならせなさい)。」その場所には草が多かった

 続いて、十一節もそのことを示しています。

 彼らにほしいだけ分け与えられた。
こと
 これらのことが想起させるのは何でしょうか。詩編二十三編です。十節は、「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」という詩編二十三編二節の内容を想起させます。五千人の給食の時、イエスは彼らを草の上に横にならせたのです。山の上ではありますが、それはガリラヤ湖に近い所でありました。十一節の内容は詩編二十三編五節の内容を想起させます。「あなたは私のために食事をととのえ」「私の杯はあふれています。」イエスは五千人のために食事をととのえ、杯ではありませんが、人々が欲しいだけ食物を与えました。十二節でも「十分に食べた」ということが記されていますし、十三節では余ったもので十二のかごがいっぱいになったが記されています。

 この五千人の給食を通して、イエスは、ご自身が詩編二十三編に表されている神、主と同じ存在であるということを証されたことになるわけです。




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倒木の教訓

2018-07-23 18:12:56 | 忍者的思索・奥義書より
 伝道者の書十一章三節の後半は
 
 「木が南風や北風で倒されると、その木は倒れた場所にそのままにある。」(新改訳)

 となっています。

 私の確認では1節から6節までがひとまとまりで、交差配列法による記述がなされており、この部分は中心に配置されています。考えようによっては、そこがこの記述の中心ポイントということになります。
 この部分の述べるところは、人間は人生に起こる様々な事柄に対して実は大変無力であるということです。また、そのサポートと言える内容として、二、五、六節には「知らない」ということが繰り返し指摘されています。人間は無知で無力であるということをきちんと自覚することが大事であるという教訓になっていると理解することができます。
 その裏返しの教訓になっているのは、神に信頼し、神に委ねて生きる生き方こそが人間の確かな人生の歩みであり、永遠に続く命の道なのだということになります。それは、続く七節から十節が、神に目を留めない人生は虚しいと述べていることによってサポートされているという展開になっています。
 キリストも、山上の垂訓で、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と教えられました。謙遜に神の加護無しには生きていけませんと告白する姿勢を持っている者こそ、神の御国の生き方ができるのだという理解を示している注解が有りますが、伝道者の書の記述と合致していると考えられます。
 私たち忍者は、自分の力でなんとかするのだと気負うのではなく、倒木のように、場合によっては「どうにでもなれ。すべては神の手の中にある。」と思って生きることが大事な部分が有ると思います。




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忍者と愛国心

2018-07-19 22:16:06 | 忍者的思索・一般
 忍者は一世紀から愛国心の無い者とか無神論者とか、いろいろなレッテル貼りをされてきました。神の国に国籍が有るという考え方、あるいはユニバーサル、もしくはコスモポリタンな性質の有る部分が自国をないがしろにしているような印象になったのかもしれません。また、皇帝崇拝が当たり前だったり、各民族に特有な神々を誇りを持って仕えるということが当たり前であった時代に、皇帝礼拝や偶像礼拝をしなかったということで、神をも敬うことをしない不敬な輩という受け取り方をされたりしたことが有ったということです。
 さて、愛国心という点でも忍者は少々立場が異なっています。何が何でも自分のこの世の国籍の有る国に誇りを持ち、国の名誉をどうしてでも守ろう、立てようというような姿勢は有りません。手段を選ばず国を良く見せようということは考えません。そこには偽りも多く入って来ることが有りますし、虚栄も混ざることが有ります。それは神の方法ではなく、罪もしくは世に属する価値観だからです。
 それでは、忍者としての愛国心の在り方というのはどういうものになるのでしょうか。忍者にとっては創造主なる神の存在とその教えが国を考える上での前提となります。国籍を自分で選んで変える人がいないわけではありませんが、基本的には最初の国籍を自分で選んで生まれるということはできません。ですから、自分の国というものは、神の賜物であって、自分が築き上げたものでも自分の努力で勝ち取ったものでもありません。ですから、過度に自分の自己もしくはアイデンティティーと結び付けて考えることはしません。あくまでそれは神からの賜物です。
 さて、それでは忍者の愛国心というものはどういうものでしょうか。神の賜物としてその国に生きる、もしくはその国籍を持って生きる者として、その国の最善のために生き、祈り、義務を果たすことです。また、忍者として奥義書の教えを少しでも反映させた生き方をし、それを示していくことです。自国の文化や国力や先人の成し遂げたことは、神の賜物として感謝するものであって、徒に誇ったりするものではないと思います。
 もし国力とか文化に誇りを持つことが愛国心であるならば、最貧国とか発展から取り残されたような国に生まれた場合、どうやって愛国心を持つことができるでしょうか。実際にはそれでも国を愛してその発展に尽くすという姿勢が求められると思います。しかし、その土台となるべきものは何かということを考えるならば、忍者でない方々でも、先人の努力や歴史誇ったり、逆に恨めしく思ったりするのではなく、その国が存在しているという運命、もしくは神の摂理というようなことに思いを馳せるべき部分が有るのではないかと思います。





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