臨死体験や夢などで天国を見て来た人(時には子供)の話が時々話題になります。中には映画化されたりするものが有り、内容や描写が聖書的ではないと批判を受けるようなことも起きています。私、糸田十八は、そのようなことを取り上げることに忍者的意義は無いと思っております。
先ず、パウロは自分が第三の天にまで引き上げられた人のことを知っていると述べている箇所の記述を考えます。第一、第二の天は人間が知覚できる成層圏までとそれより向こうの範囲の天空のことで、第三の天というのは、神の臨在の場所、すなわち天国ということになります。パウロはなんと、その導入部ではっきりと「無益なことですが」と断っているのです。
パウロは十一章、十二章で、福音のためにしてきた経験や霊的な経験を誇って見せているのではなく、そういう誇りの持ち方は意味が無いということを述べていると考えられます。
以前、ある霊的指導者が、自分たちの祈祷会が大変祝福されて、ある信徒は第三の天まで行って来る経験をしました、と誇らし気に話しているのに出会ったことが有りますが、聖書の示すことを理解していない無意味な誇りであると思いました。
私達忍者は、主イエス・キリストが継続的にお示しになった戒め、「神を愛し、互いに愛し合いなさい。」「神への全き信頼を持ち続けなさい。」(山上の垂訓等)「復活の信仰を持ちなさい。」と言う点に集中して取り組んでいることの方が遥かに大事で「有益なこと」です。
次に、私はヨハネ伝三章十三節の言葉を思います。「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」(新改訳)と書いてあります。この意味するところは、天国の奥義を人類に啓示できるのは主イエス・キリストだけであるということです。故に、神の言葉なる主イエス・キリストが聖書に啓示した天国の記述以外の天国に関する記述に信頼を置いたり素晴らしいもののように取り扱うことは聖書的ではないと考えます。
天国の見聞に関わるお話は、天国が現実的に身近に感じられるようになり、確信を与えるから良いという意見を聞くことが有りますが、それは忍者の取るべき態度ではないと思います。我々は、信仰によって歩むのです。ですから、そのようなものが無くても天国を確信して歩み続け、天国で主イエス・キリストの栄光を仰がせていただく恵みを楽しみにしていれば十分です。
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先ず、パウロは自分が第三の天にまで引き上げられた人のことを知っていると述べている箇所の記述を考えます。第一、第二の天は人間が知覚できる成層圏までとそれより向こうの範囲の天空のことで、第三の天というのは、神の臨在の場所、すなわち天国ということになります。パウロはなんと、その導入部ではっきりと「無益なことですが」と断っているのです。
パウロは十一章、十二章で、福音のためにしてきた経験や霊的な経験を誇って見せているのではなく、そういう誇りの持ち方は意味が無いということを述べていると考えられます。
以前、ある霊的指導者が、自分たちの祈祷会が大変祝福されて、ある信徒は第三の天まで行って来る経験をしました、と誇らし気に話しているのに出会ったことが有りますが、聖書の示すことを理解していない無意味な誇りであると思いました。
私達忍者は、主イエス・キリストが継続的にお示しになった戒め、「神を愛し、互いに愛し合いなさい。」「神への全き信頼を持ち続けなさい。」(山上の垂訓等)「復活の信仰を持ちなさい。」と言う点に集中して取り組んでいることの方が遥かに大事で「有益なこと」です。
次に、私はヨハネ伝三章十三節の言葉を思います。「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」(新改訳)と書いてあります。この意味するところは、天国の奥義を人類に啓示できるのは主イエス・キリストだけであるということです。故に、神の言葉なる主イエス・キリストが聖書に啓示した天国の記述以外の天国に関する記述に信頼を置いたり素晴らしいもののように取り扱うことは聖書的ではないと考えます。
天国の見聞に関わるお話は、天国が現実的に身近に感じられるようになり、確信を与えるから良いという意見を聞くことが有りますが、それは忍者の取るべき態度ではないと思います。我々は、信仰によって歩むのです。ですから、そのようなものが無くても天国を確信して歩み続け、天国で主イエス・キリストの栄光を仰がせていただく恵みを楽しみにしていれば十分です。
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主イエス・キリストのみ名をこころから賛美します。
いつも興味深い話と解説をありがとうございます。
わたしはろう者でがんを患っています。
たしかにこれらはきついことですけど、だからといって天国を見てきた話には、まったく共感も関心も抱けません。
<信仰によって歩むのです。ですから、そのようなものが無くても天国を確信して歩み続け>
それで十分なのではありませんか。
わたしには聞こえない耳とがんを与えられた。だから天国に入れる約束だとか天国を見たとか大真面目な顔で言うのではなく、キリストを信じるからこそこれらのものを与えられたことの意味を問い続け、信仰によって聞こえない耳とがんのあるからだで日々を生きていこうではありませんか。それで十分です。ほかに何が必要でしょう?
明確な信仰告白のコメントをくださりありがとうございます。主の恵みと平安がいつもともに有りますように。
スマイルです。
前回のわたしの書き込みに対しまして身にあまるおほめをお送りくださり、とても言葉に言い表せない思いでおります。ありがとうございます。
このようなコメントにふさわしいものであるよう、自らを律していかなくては。
さて、「天国の見分に関わるお話は、天国が現実的に身近に感じられるようになり、確信を与えるから良いという意見」があるということですね。
それはスマイルも「おかしい」としか言いようがありません。信仰は自分に引き合わせて考えることも大切ですが、「現実的に身近に感じられる」ということと信仰は別でしょう。心情としてわからなく
ないけれど、それは自分中心というか信仰を自分の都合よく考えることになりかねないと思います。そういう信仰理解は危険でありキリスト教の本来の姿から逸脱すると感じますが、糸田先生はいかがおかんがえでいらっしゃいますでしょうか?
スマイル
ご指摘の通りだと思っています。
信仰は感覚を超えた心の作業ですから、「感じられる」ということに焦点が向くと逸脱することが出て来るからです。
勿論「感じる」という機能は創造主が備えてくださったものではありますが、その用いられ方はまた違った有様であろうと思います。