奥義書(聖書)信仰を標榜していながらカルト化している教会で説教をする機会が有るとしたら、このタイトルが受け入れられやすいのではないかなと考えました。それで、内容も三つのポイントで組み立ててみました。考えて見ますと、この内容は、普通の教会でも見過ごされている要素も有るような気がします。そんなものが一つでも皆様のお目に留まれば幸いです。ただのアウトラインのようなもので、内容はお粗末ですが、ちょっとしたアイディアメモということでお許しください。
1.奥義書(聖書)は神の言葉と信じること
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。(第二テモテ三章十六節)
忍者でなければこのような記述はただの我田引水と言われるでしょう。そのような場合には、いろいろな資料や根拠を述べることになります。長く内容の変容が無く保存され、伝えられて来たことにその根拠の一部を求めることも有るかもしれません。有名なギリシャ語の著述、たとえばプラトー、アリストテレスなどのものは、その写本も少なく、それが作られた期間も原本の作成から相当経っています。しかし、それはその正確さを信頼されています。プラトーの著述は紀元前四百二十七年から三百四十七年の間に表され、現存する最初の写本はそれからおよそ千二百年後の紀元九百年頃に作られており、残存する写本数は七冊に過ぎません。一方新約聖書は、各巻の原本が書かれてから数十年以内に写本は作成されており、その写本数も四千から五千に至り、その内容の違いは、大きな問題となっている部分を含めても2%に満たないとも言われています。このように求められ、保存された文章であるならば、プラトーの著述と同様に原意を十分に反映したものと考えてもよろしいのではないでしょうか。
さて、私たち忍者はそのようなことはもう宜しいわけで、上記の聖書の言葉をそのまま受け入れる姿勢を持っていると考えて良いかと思います。では、そのような姿勢の現われとはどのようなものでしょうか。私はその一例として、マーリン・キャロザースが著わした「獄中からの賛美」に示された態度を取り上げたいと思います。
マーリン・キャロザースは第一テサロニケ五章十六~十八節を根拠にして、どのような否定的な出来事が生活の中に起きても、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝するように勧めています。いやなことが起きたと感じる時に、それを感謝するのは一般の生活感覚からすると不自然なことです。しかし、それが神の言葉であると信じるならば、そうするのは忍者の取るべき態度でしょう。そして、その言葉に従順したために、多くの人が神の力を体験し、神の栄光が現れました。それゆえに、続編となる「賛美の力」「賛美の応答」という証を多く収録した本も世に出たわけです。私、十八も、この本を通してそのような奥義書の言葉への態度を教えられ、養われました。皆様もそのような奥義書への態度を持っていらっしゃるでしょうか。そして、その態度を通していただいた恵みの経験をお持ちでしょうか。今からでもそのように神の言葉の権威に少しでも従った態度をもって歩みを進めて参りましょう。
2.奥義書(聖書)に聞き、読み込み、調べること
そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。
ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。 ここにいるユダヤ人はテサ
ロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうか
を知ろうとして、日々聖書を調べていた。 そういうわけで、彼らのうちの多くの者が
信者になった。また、ギリシヤの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった。
(使徒行伝十七章十~十二節)
ベレヤという場所でパウロ達が伝道したのは、会堂に集まるユダヤ人達に対してでした。ですから、彼らは旧約聖書の知識が十分に有りました。それにもかかわらず、彼らはその教えを受け入れた後も、「果たしてそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」というのです。調べていたのは、イエス・キリストの救いに関する証や預言の言葉です。イエス・キリストご自身が、復活の後にエマオに向かう二人の弟子達に現れた時、また、集まっている弟子達に現われた時に、モーセ、預言書、詩篇がキリストを証していることを再確認しておられます。それを丹念に調べたということです。実は、このような姿勢が私たちにも重要なものなのです。
皆様は、何か聖書的なメッセージや教えに感銘を受けたり学ばされたと思った時に、ただそれを喜んで受け入れるに留まらず、ベレヤのユダヤ人達のように、「果たしてそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」というような姿勢をお持ちでしょうか。現代の私達に与えられている新旧約六十六巻を調べて、神のみ言葉を求めて行く、そういう姿勢が、神の言葉を敬い、神の言葉に聴こうとする者の持つべき姿勢なのです。
私の体験をお話させていただきます。私は中学生の時に、韓国の伝道者を通して初めて十分の一献金についての勧めを聞きました。マラキ書三章八~十二節の言葉から説き起こし、私達も十分の一を捧げなければ神から奪っているのであり、祝福を得られないが、十分の一を捧げるならば、祝福を得るという主旨のものでありました。当時の韓国では、まだドラム缶やら廃材を平らに加工してつなぎ合わせたもので家らしいものを造って生活している貧しい人達がいたのですが、その人たちも十分の一を捧げて祝福に至っているというような証も付け加えられていたように記憶しています。私は、それまで見過ごしていた大事な教えを学んだと思い、心が燃えるような思いがしました。そして、それを素直に、心から受け入れたわけです。しかし、ベレヤのユダヤ人達の範に倣って、それを丹念に調べるということをいたしませんでした。
ここで、現代の私達が実践することのできる聖書を丹念に調べる作業の例をご説明させていただきたいと思います。
1)テキストの中で、主要な語について、辞典で原義を調べ、且つ、他の聖書箇所ではどのように用いられているかを、全聖書から調べられるコンコーダンスで確認し、その語義の理解を深める。
2)テキストの文化背景、時代背景を聖書辞典で調べ、その記述の理解を深める。
3)テキスト中及び、前後の文脈を確認し、その箇所の主旨を明らかにする。
4)旧約の理解が、新約においてどのように反映され、適用されているかを確認する。
5)締め括りの言葉に注意を払い、テキストの意味を判断する。
6)六十六巻を通して調べ、原則の一致している結論を見出す。
継続的にこのような作業をする習慣を身につけ、ベレヤの信者の姿勢に倣う者となろうではありませんか。
十分の一献金について、私が聖書を丹念に調べる作業をしたのは、ずっと後になってでした。確認するべき内容は、律法の制定以前から有った十分の一を捧げるという文化的背景です。また、マラキ書の記述は、旧約の当時者であるユダヤ人達に対して語っているということです。次いで、十分の一の規定は、律法のどの箇所にどのような記述で出て来るのかをくまなく調べてみることです。貧しい人達を支えるための拠金という面が有ったことも見出されます。そして、十分の一は旧約の律法の一部であったわけですが、新約聖書においてはどのように総括されているかということです。第一エルサレム会議と呼ばれる使徒行伝十八章の記述を確認すると分かります。これは、救いと律法全体との関わりに関するものでした。エルサレム会議の締め括りの宣言を見てみましょう。
「すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。 それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」
そういたしますと、聖霊が決めたことの中には、十分の一献金は入っておりません。ですから、十分の一献金の祝福は語ってもよろしいでしょうが、十分の一献金をしないと神から奪っているとか罪であるとか祝福を受けられないというようなことは語れないわけです。そこまで自力で読み込むような、み言葉を尊ぶ姿勢、理解しようとして耳を傾ける姿勢が、私達には求められているのです。
なお、申し添えておきますと、韓国の牧師が始めたベレヤ運動というものが有ります。ベレヤのユダヤ人クリスチャン達のように、聖書を調べようという姿勢を提唱していますが、系統だった方向付けをする講義が有り、その内容には異端的な取り組みもあるということで問題になっている部分がありますので、ご注意ください。
3.み言葉なるイエス・キリストだけを誇りとすること
神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。(ピリピ書三章三節)
奥義書(聖書)における旧約時代、イエス・キリストの公生涯時代、復活以降の時代という区切りで中心的な問題となっていたことを考えて見ました。
旧約時代において繰り返し問題になっていたことは、偶像礼拝の問題でした。天地の創造主であり、ユダヤ人をエジプトから救い出して約束の地に導き入れた神から離れて、近隣の国々の偶像神を礼拝することでした。それは繰り返し行われました。その中心は、農作物の祝福や国家の平安を神に守っていただけるという約束を信頼しないことにありました。人間的な戦略で、あの偶像を祭っている国の方が豊作で外国からの脅威からも守られているように見えるから、我々もあの偶像を祭ろうという姿勢でした。しかし、偶像は所詮偽物です。預言者を通して、「泉を捨てて水が漏れて溜められない貯水槽を作った」と表現されているように、良い効果は得られず、それでは次にこの偶像と鞍替えしているうちに、偶像で溢れてしまいました。
実際に彼らが歩むべき方向は、真の神との契約に留まり続けることでした。人間的な戦略は役に立たず、ついにバビロン捕囚の憂き目を見ることになりました。
次にイエス・キリストの公生涯時代に繰り返し取り扱われている問題を見てみます。この時期においては、イエス・キリストとパリサイ人、サドカイ人との対決が福音書の随所に見出されます。問題の中心に有ったのは、敵対する彼らが肉を頼りとし、人間的な努力や誇りによって生きており、心の中では神に頼って生きてはいなかったということでした。ピラトにさえ、彼らがイエス・キリストを無き者にしようとするのは、正義ではなく妬みによることを看破されてしまうような状態でした。
実際に彼らが歩むべき方向は、自分のプライドを捨てて、明らかに示されたイエス・キリストがメシアであるという印と預言の成就を受け入れて歩むことでした。
最後に、イエス・キリストの復活後、初代教会内での問題です。乱れたコリント教会の問題や、ユダヤ主義や神秘主義の異端を持ち込もうとする偽教師の問題が有りました。その共通点は、彼らがプライドによって行動しており、完全な神の救いの計画に全幅の信頼を置いていないということでした。彼らも肉の努力、人間的な価値観で自分の価値を高め、守ろうとしていました。
実際に彼らが歩むべき方向は、イエス・キリストによる救いと義だけを追い求め、自分の努力で更に自分の価値を高めようとする高慢を捨てることでした。
皆様も、ご自分の歩みを考えてみてください。何らかの努力をして、もっと良い存在として認めてもらいたいという欲求によってクリスチャン生活を送っている部分は無いでしょうか。十分の一献金をするのは、もっと良い私になるための努力だったりしてはいないでしょうか。しかし、イエス・キリストが仰ったように、良い方は「天の父」の他には無いのです。あなたは善なる存在にはなれないし、善でなくて良いのです。お読みしたピリピ書の三章に有るように、私達にはイエス・キリストだけが義であり、誇りであれば良いのです。あなたの尊厳を、自分の努力で守るのは霊的偶像礼拝です。私達の価値と尊厳は、唯イエス・キリストに贖われているという一点にのみ有ります。その恵みにすがって、ただその霊的事実にのみ満足して生きること、それが奥義書(聖書)に立つ信仰なのです。
もう一度神の言葉に立つとはどういうことかを確認してみましょう。
神の言葉に立つ信仰とは
1.奥義書(聖書)は神の言葉と信じ、敬い、従う信仰です。
2.奥義書(聖書)に聞き、読み込み、調べて歩む信仰です。
3.究極のみ言葉なるイエス・キリストだけを誇りとし、守っていただく信仰です。
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1.奥義書(聖書)は神の言葉と信じること
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。(第二テモテ三章十六節)
忍者でなければこのような記述はただの我田引水と言われるでしょう。そのような場合には、いろいろな資料や根拠を述べることになります。長く内容の変容が無く保存され、伝えられて来たことにその根拠の一部を求めることも有るかもしれません。有名なギリシャ語の著述、たとえばプラトー、アリストテレスなどのものは、その写本も少なく、それが作られた期間も原本の作成から相当経っています。しかし、それはその正確さを信頼されています。プラトーの著述は紀元前四百二十七年から三百四十七年の間に表され、現存する最初の写本はそれからおよそ千二百年後の紀元九百年頃に作られており、残存する写本数は七冊に過ぎません。一方新約聖書は、各巻の原本が書かれてから数十年以内に写本は作成されており、その写本数も四千から五千に至り、その内容の違いは、大きな問題となっている部分を含めても2%に満たないとも言われています。このように求められ、保存された文章であるならば、プラトーの著述と同様に原意を十分に反映したものと考えてもよろしいのではないでしょうか。
さて、私たち忍者はそのようなことはもう宜しいわけで、上記の聖書の言葉をそのまま受け入れる姿勢を持っていると考えて良いかと思います。では、そのような姿勢の現われとはどのようなものでしょうか。私はその一例として、マーリン・キャロザースが著わした「獄中からの賛美」に示された態度を取り上げたいと思います。
マーリン・キャロザースは第一テサロニケ五章十六~十八節を根拠にして、どのような否定的な出来事が生活の中に起きても、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝するように勧めています。いやなことが起きたと感じる時に、それを感謝するのは一般の生活感覚からすると不自然なことです。しかし、それが神の言葉であると信じるならば、そうするのは忍者の取るべき態度でしょう。そして、その言葉に従順したために、多くの人が神の力を体験し、神の栄光が現れました。それゆえに、続編となる「賛美の力」「賛美の応答」という証を多く収録した本も世に出たわけです。私、十八も、この本を通してそのような奥義書の言葉への態度を教えられ、養われました。皆様もそのような奥義書への態度を持っていらっしゃるでしょうか。そして、その態度を通していただいた恵みの経験をお持ちでしょうか。今からでもそのように神の言葉の権威に少しでも従った態度をもって歩みを進めて参りましょう。
2.奥義書(聖書)に聞き、読み込み、調べること
そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。
ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。 ここにいるユダヤ人はテサ
ロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうか
を知ろうとして、日々聖書を調べていた。 そういうわけで、彼らのうちの多くの者が
信者になった。また、ギリシヤの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった。
(使徒行伝十七章十~十二節)
ベレヤという場所でパウロ達が伝道したのは、会堂に集まるユダヤ人達に対してでした。ですから、彼らは旧約聖書の知識が十分に有りました。それにもかかわらず、彼らはその教えを受け入れた後も、「果たしてそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」というのです。調べていたのは、イエス・キリストの救いに関する証や預言の言葉です。イエス・キリストご自身が、復活の後にエマオに向かう二人の弟子達に現れた時、また、集まっている弟子達に現われた時に、モーセ、預言書、詩篇がキリストを証していることを再確認しておられます。それを丹念に調べたということです。実は、このような姿勢が私たちにも重要なものなのです。
皆様は、何か聖書的なメッセージや教えに感銘を受けたり学ばされたと思った時に、ただそれを喜んで受け入れるに留まらず、ベレヤのユダヤ人達のように、「果たしてそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」というような姿勢をお持ちでしょうか。現代の私達に与えられている新旧約六十六巻を調べて、神のみ言葉を求めて行く、そういう姿勢が、神の言葉を敬い、神の言葉に聴こうとする者の持つべき姿勢なのです。
私の体験をお話させていただきます。私は中学生の時に、韓国の伝道者を通して初めて十分の一献金についての勧めを聞きました。マラキ書三章八~十二節の言葉から説き起こし、私達も十分の一を捧げなければ神から奪っているのであり、祝福を得られないが、十分の一を捧げるならば、祝福を得るという主旨のものでありました。当時の韓国では、まだドラム缶やら廃材を平らに加工してつなぎ合わせたもので家らしいものを造って生活している貧しい人達がいたのですが、その人たちも十分の一を捧げて祝福に至っているというような証も付け加えられていたように記憶しています。私は、それまで見過ごしていた大事な教えを学んだと思い、心が燃えるような思いがしました。そして、それを素直に、心から受け入れたわけです。しかし、ベレヤのユダヤ人達の範に倣って、それを丹念に調べるということをいたしませんでした。
ここで、現代の私達が実践することのできる聖書を丹念に調べる作業の例をご説明させていただきたいと思います。
1)テキストの中で、主要な語について、辞典で原義を調べ、且つ、他の聖書箇所ではどのように用いられているかを、全聖書から調べられるコンコーダンスで確認し、その語義の理解を深める。
2)テキストの文化背景、時代背景を聖書辞典で調べ、その記述の理解を深める。
3)テキスト中及び、前後の文脈を確認し、その箇所の主旨を明らかにする。
4)旧約の理解が、新約においてどのように反映され、適用されているかを確認する。
5)締め括りの言葉に注意を払い、テキストの意味を判断する。
6)六十六巻を通して調べ、原則の一致している結論を見出す。
継続的にこのような作業をする習慣を身につけ、ベレヤの信者の姿勢に倣う者となろうではありませんか。
十分の一献金について、私が聖書を丹念に調べる作業をしたのは、ずっと後になってでした。確認するべき内容は、律法の制定以前から有った十分の一を捧げるという文化的背景です。また、マラキ書の記述は、旧約の当時者であるユダヤ人達に対して語っているということです。次いで、十分の一の規定は、律法のどの箇所にどのような記述で出て来るのかをくまなく調べてみることです。貧しい人達を支えるための拠金という面が有ったことも見出されます。そして、十分の一は旧約の律法の一部であったわけですが、新約聖書においてはどのように総括されているかということです。第一エルサレム会議と呼ばれる使徒行伝十八章の記述を確認すると分かります。これは、救いと律法全体との関わりに関するものでした。エルサレム会議の締め括りの宣言を見てみましょう。
「すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。 それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」
そういたしますと、聖霊が決めたことの中には、十分の一献金は入っておりません。ですから、十分の一献金の祝福は語ってもよろしいでしょうが、十分の一献金をしないと神から奪っているとか罪であるとか祝福を受けられないというようなことは語れないわけです。そこまで自力で読み込むような、み言葉を尊ぶ姿勢、理解しようとして耳を傾ける姿勢が、私達には求められているのです。
なお、申し添えておきますと、韓国の牧師が始めたベレヤ運動というものが有ります。ベレヤのユダヤ人クリスチャン達のように、聖書を調べようという姿勢を提唱していますが、系統だった方向付けをする講義が有り、その内容には異端的な取り組みもあるということで問題になっている部分がありますので、ご注意ください。
3.み言葉なるイエス・キリストだけを誇りとすること
神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。(ピリピ書三章三節)
奥義書(聖書)における旧約時代、イエス・キリストの公生涯時代、復活以降の時代という区切りで中心的な問題となっていたことを考えて見ました。
旧約時代において繰り返し問題になっていたことは、偶像礼拝の問題でした。天地の創造主であり、ユダヤ人をエジプトから救い出して約束の地に導き入れた神から離れて、近隣の国々の偶像神を礼拝することでした。それは繰り返し行われました。その中心は、農作物の祝福や国家の平安を神に守っていただけるという約束を信頼しないことにありました。人間的な戦略で、あの偶像を祭っている国の方が豊作で外国からの脅威からも守られているように見えるから、我々もあの偶像を祭ろうという姿勢でした。しかし、偶像は所詮偽物です。預言者を通して、「泉を捨てて水が漏れて溜められない貯水槽を作った」と表現されているように、良い効果は得られず、それでは次にこの偶像と鞍替えしているうちに、偶像で溢れてしまいました。
実際に彼らが歩むべき方向は、真の神との契約に留まり続けることでした。人間的な戦略は役に立たず、ついにバビロン捕囚の憂き目を見ることになりました。
次にイエス・キリストの公生涯時代に繰り返し取り扱われている問題を見てみます。この時期においては、イエス・キリストとパリサイ人、サドカイ人との対決が福音書の随所に見出されます。問題の中心に有ったのは、敵対する彼らが肉を頼りとし、人間的な努力や誇りによって生きており、心の中では神に頼って生きてはいなかったということでした。ピラトにさえ、彼らがイエス・キリストを無き者にしようとするのは、正義ではなく妬みによることを看破されてしまうような状態でした。
実際に彼らが歩むべき方向は、自分のプライドを捨てて、明らかに示されたイエス・キリストがメシアであるという印と預言の成就を受け入れて歩むことでした。
最後に、イエス・キリストの復活後、初代教会内での問題です。乱れたコリント教会の問題や、ユダヤ主義や神秘主義の異端を持ち込もうとする偽教師の問題が有りました。その共通点は、彼らがプライドによって行動しており、完全な神の救いの計画に全幅の信頼を置いていないということでした。彼らも肉の努力、人間的な価値観で自分の価値を高め、守ろうとしていました。
実際に彼らが歩むべき方向は、イエス・キリストによる救いと義だけを追い求め、自分の努力で更に自分の価値を高めようとする高慢を捨てることでした。
皆様も、ご自分の歩みを考えてみてください。何らかの努力をして、もっと良い存在として認めてもらいたいという欲求によってクリスチャン生活を送っている部分は無いでしょうか。十分の一献金をするのは、もっと良い私になるための努力だったりしてはいないでしょうか。しかし、イエス・キリストが仰ったように、良い方は「天の父」の他には無いのです。あなたは善なる存在にはなれないし、善でなくて良いのです。お読みしたピリピ書の三章に有るように、私達にはイエス・キリストだけが義であり、誇りであれば良いのです。あなたの尊厳を、自分の努力で守るのは霊的偶像礼拝です。私達の価値と尊厳は、唯イエス・キリストに贖われているという一点にのみ有ります。その恵みにすがって、ただその霊的事実にのみ満足して生きること、それが奥義書(聖書)に立つ信仰なのです。
もう一度神の言葉に立つとはどういうことかを確認してみましょう。
神の言葉に立つ信仰とは
1.奥義書(聖書)は神の言葉と信じ、敬い、従う信仰です。
2.奥義書(聖書)に聞き、読み込み、調べて歩む信仰です。
3.究極のみ言葉なるイエス・キリストだけを誇りとし、守っていただく信仰です。


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その後は、週に一度だけの断食を継続しておりました(途中、入院したので今はやめてますが・・・)
自分で聖書を学ぶときに有益な信仰書・参考書があれば教えて下さい!!
あとギリシャ語やヘブル語が分からないと、やっぱろ深い意味が解き明かせないのでしょうか??
入院されたとのこと、全き治癒が与えられますように。
聖書の学びのために有益な書物をあまり知りません。何でも鵜呑みにせず、そういう立場も有るのかと考えるならば、フランシスコ会訳の新約聖書の解説が詳しいと思います。新旧約聖書も有りますが、解説が少なくなっていますので、新約だけのものが良いと思います。
ヘブル語はあまり詳しくありませんが、ギリシャ語に関しては、いろいろ調べられるツールが有る方が良いと思います。大学受験の頃に英語長文問題精講といったタイプの参考書に出ていたチャートを自分で書けると大変有効な学びになります。
ネットでは
http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/27968860.html
http://meigata-bokushinoshosai.info/
http://d.hatena.ne.jp/woody_63/
などが参考になるかもしれません。
英語でよろしければ、biblos.com, http://www.biblehub.com/
https://www.biblegateway.com/
なども有ります。