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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

商業的思考をしない単里

2011-02-05 05:09:06 | 目指したい単里の在り方
タイトルを見て、どういうことだろうと訝しく思われた方もいらっしゃるかもしれません。これは、私が忍士だった時に講義所で倫理学の時間に取り上げられた内容から書こうと思ったことです。


単里の中で、里の仲間は皆共に忍者としてこの道に精進しなければなりませんが、いつの間にか、人間的な打算が入って来てしまうことが有ります。それを商業的思考と表現しています。
 例えば、恵まれた単里では大人数のゴスペルコワイアが有ったりします。地域では有名だったりすると、いろいろイベントを打ったりして、練習もたくさんするかもしれません。そういうことは、単里全体が一致協力して地域にこの道を広げるために取り組むならば良いことです。ところが、こんな考え方をする忍者がいたらどうでしょうか。「ゴスペルコワイアチームは単里のためにこんなに貢献しているんだから、他の忍者達が練習の間子供の面倒を見てくれるのは当然だ。あ、食事の用意もしておいてくれなくちゃ。」「お疲れ様とか、素晴らしいご奉仕でしたねとか、労いの言葉をかけてくれなくちゃ。」
 さて、こういう考え方をどうして、商業的思考と言うのでしょうか。こんな考え方をしている忍者は、自分達のゴスペルコワイアーの奉仕を、投資として判断していることになります。投資すれば、当然リターンを求める気持ちが生じます。共に頑張る里という共同体ではなく、投資して利益を得る場所になってしまうのです。だから商業的思考と言うことになるのです。それは単里の正しい在り方とは言えません。私達の主は、商売人を神殿から追い出して宮清めをなさいました。私達の中に、現代の宮清めが必要な心の持ち方をしている瞬間が無いでしょうか。敬虔を利得の手段と考える者達が初代教会にも居たことが奥義書には記録されていますが、先に挙げた例も、そんなことの一つと言えると思います。

奥義書の理解を共に確認しながら、商業的思考をしない単里を目指したいものだと思います。








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皆が礼拝の形式や表現を理解している単里

2011-01-28 21:00:22 | 目指したい単里の在り方
本家筋の里も、離れ里も、伝統的もしくは現代的な礼拝の次第を持って主日には礼拝をしています。それぞれの順序や形式には、礼拝の意味が込められています。しかし、どうしてそうなっているのかがよくわからないまま礼拝の次第がずっと用いられている場合も有ります。そうなってしまう理由は、それが語り継がれないからです。もしくは、新しい礼拝の次第を使うことに決めた時に、礼拝学的に、もしくは礼拝の表現として、どんな意味が有るのかということを確認しなかったからです。それでは、心を込めて礼拝に臨み、主に心を向けて行くことが難しくなったり、焦点が定まらないような状態になってしまったりします。時には礼拝の流れを壊していると感じるものまで有ります。

私、糸田十八としては、各礼拝の次第に、どのような礼拝の精神が込めれらているのかを、折に触れて説明したいものだと思います。また、礼拝の心は、建物や典礼色やお花まで、いろいろな所で表されているのです。皆が、誰に説明されなくても、ああ、ここに礼拝の心が有るということを、自ら見つけ出すことができるような人々の集う単里を形成したいものだと思います。別カテゴリーの奉樂の覚書で書いてきたようなことが、皆の共通理解となるような里を目指したいと思います。








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奥義書を求める単里

2011-01-27 05:40:22 | 目指したい単里の在り方
私、糸田十八は、中忍ではございますが、いつかは主のお導きをいただいて、大忍になりたいと思うものでございます。もし大忍になったならば、こんな里を形成したいなどと考えたりすもするわけです。それで、このカテゴリーを新設して、少しずつ書き留めておこうと思います。

初代の里の形成においては、多くの信徒達はその後奥義書を一生懸命研究し、使徒の教え、すなわちキリスト様からの教えを守ったということがわかっています。ですから、現代の里も、奥義書を熱心に読み、その意味するところが何であるかを、汲み取ることに時間を費やす姿勢が必要であります。

この道に入ったばかりの忍者は、とにかく奥義書を全て読み通すことを心がけるようにしたいものです。大忍は、説教の時に、どのような手順で考えながら奥義書を読み、その意味を汲み出すのかが、忍者達によくわかるようにしたいものです。奥義書を読み通した経験をした忍者達は、次の修業としては、奥義書の深い意味を、自ら大忍が説教を通して示したような内容の汲み出しを、自分でも時間をかけてできるようにしたいものです。

このような修業のためには、奥義書神学の手法と説教学の手順を、忍者達も学ぶ必要が有ると思います。
 奥義書神学の手法というのは、この道を歩む者として奥義書の言葉の判断や、里での行儀振る舞いについて判断や決定をする時に、奥義書に従った判断と決定ができるにはどうしたら良いのかということを順を追って確かめていく手順、作法というようなものです。これを抜きにして、常識とか自分の好みで判断や決定をして行くと、我々の天敵の思うつぼなのです。
 説教学の手順は、あるまとまった奥義書の章や段落の内容を細かく知るために、原語の意味であるとか、文脈であるとか、文化背景であるとかのいろいろな要素を調べて、その部分の主となる内容は何かを判断して行く手順です。その中で、欠かせない要素は、現代の忍者である私達は、その原則を具体的にはどのように生活の中で生きなければならないのかを考えることです。

大事な奥義書の内容を、ただのお話だとか、自分の印象で解釈引用したりして、その深さを汲み出せていない様子を見る時、十八は残念に思います。忍者皆が、もう少し奥義書の有り難味を感じ、その深さを自分でも探り出したいという熱意を持つことができるようにしたいと思います。一人一人が、自分で汲み出した奥義書の恵みに驚いて、ますますはまっていくことができるように導けないだろうかと夢見るものであります。







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