タイトルを見て、どういうことだろうと訝しく思われた方もいらっしゃるかもしれません。これは、私が忍士だった時に講義所で倫理学の時間に取り上げられた内容から書こうと思ったことです。
単里の中で、里の仲間は皆共に忍者としてこの道に精進しなければなりませんが、いつの間にか、人間的な打算が入って来てしまうことが有ります。それを商業的思考と表現しています。
例えば、恵まれた単里では大人数のゴスペルコワイアが有ったりします。地域では有名だったりすると、いろいろイベントを打ったりして、練習もたくさんするかもしれません。そういうことは、単里全体が一致協力して地域にこの道を広げるために取り組むならば良いことです。ところが、こんな考え方をする忍者がいたらどうでしょうか。「ゴスペルコワイアチームは単里のためにこんなに貢献しているんだから、他の忍者達が練習の間子供の面倒を見てくれるのは当然だ。あ、食事の用意もしておいてくれなくちゃ。」「お疲れ様とか、素晴らしいご奉仕でしたねとか、労いの言葉をかけてくれなくちゃ。」
さて、こういう考え方をどうして、商業的思考と言うのでしょうか。こんな考え方をしている忍者は、自分達のゴスペルコワイアーの奉仕を、投資として判断していることになります。投資すれば、当然リターンを求める気持ちが生じます。共に頑張る里という共同体ではなく、投資して利益を得る場所になってしまうのです。だから商業的思考と言うことになるのです。それは単里の正しい在り方とは言えません。私達の主は、商売人を神殿から追い出して宮清めをなさいました。私達の中に、現代の宮清めが必要な心の持ち方をしている瞬間が無いでしょうか。敬虔を利得の手段と考える者達が初代教会にも居たことが奥義書には記録されていますが、先に挙げた例も、そんなことの一つと言えると思います。
奥義書の理解を共に確認しながら、商業的思考をしない単里を目指したいものだと思います。
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単里の中で、里の仲間は皆共に忍者としてこの道に精進しなければなりませんが、いつの間にか、人間的な打算が入って来てしまうことが有ります。それを商業的思考と表現しています。
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さて、こういう考え方をどうして、商業的思考と言うのでしょうか。こんな考え方をしている忍者は、自分達のゴスペルコワイアーの奉仕を、投資として判断していることになります。投資すれば、当然リターンを求める気持ちが生じます。共に頑張る里という共同体ではなく、投資して利益を得る場所になってしまうのです。だから商業的思考と言うことになるのです。それは単里の正しい在り方とは言えません。私達の主は、商売人を神殿から追い出して宮清めをなさいました。私達の中に、現代の宮清めが必要な心の持ち方をしている瞬間が無いでしょうか。敬虔を利得の手段と考える者達が初代教会にも居たことが奥義書には記録されていますが、先に挙げた例も、そんなことの一つと言えると思います。
奥義書の理解を共に確認しながら、商業的思考をしない単里を目指したいものだと思います。


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