糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

残念なこと

2010-12-12 04:52:01 | 忍者的思索・忍界
ある教会で、「イエス様、お誕生日おめでとうございます」という垂れ幕を見て唖然としました。そう言えば、クリスマスはキリストの「誕生日」ですという説明をしている牧師に呆れたことが有ったことも思い出しました。

クリスマスは、キリストの降誕の「記念日」ではありますが、誕生日ではありません。また、12月25日という設定は、異教的背景が有ることはクリスチャンでない方でもよく知っている人達が多いと思います。それなのに、こともあろうに、教会でそのような間違った説明や表現を用いるとはいったいどうしたことでしょうか。もっと慎重になっていただきたいものだと思います。







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十二使徒の選び (ルカ伝六章十二節~十九節)

2010-12-05 05:19:37 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
―福音は忠実に伝えられた―
*奥義書を確認しながらお読みください。


導入
 十一節で、パリサイ人達がキリストをどうしてやろうかと話し合ったという記述が有ります。この頃から彼らはキリストを殺すことを考え始めていたと判断してよいでしょう。事態は決定的に困難な方向に転換したと考えることができます。その時、キリストは静かな所に退いて祈りました。困難に対処するためでもあったと思います。また、その困難な状況を越えて成し遂げなければならないことに向けて準備をするためでもありました。


本論
 キリストは一晩中祈ったとされます。それは、彼がこれからしようとする事柄の重要さを示しています。それは、神の国を宣べ伝える十二使徒を選ぶことでした。

 日の出と共に、キリストは弟子達を呼び寄せて、その中から十二人を選びました。選んだという語はエクレゴマイが使われていて、呼び出すという語感が有ります。ここで選んだのは使徒でした。弟子は師から学び従って行く者のことですが、使徒は使者として主人の言葉を伝えるために送られる者のことで、区別が必要です。学び従う者達の中から、主人の言葉を伝えるために送る者として相応しい者達を選び出したということです。主人の言葉を正確に伝えられなければ使徒、使者の意味も価値も有りません。メシアであるキリストは、確実に自分の言葉、福音を伝える能力の有る者を選んだに違い有りません。

 選ばれた使徒達の記述の中から、特に確認が必要と思われるものについて述べます。最初のユダは別の箇所ではタダイと呼ばれています。バルトロマイは別の箇所ではナタナエルとよばれています。熱心党のシモンという表現は、二通りに考えられるようです。一つは政治結社で熱心党というものが有ったとするもので、もう一つは、彼が宗教的実践に熱心であったことを形容する表現とするものです。イスカリオテのユダという表現についてもまだ疑問の余地が有る様子ですが、イスラエルの南部のユダヤの町、ケリオテ出身という意味に考えることができるようです。
 こうしてみると、十一人はガリラヤやその周辺の出身で、一人だけユダヤの出身ということになります。確実に判っていることは、四人は元漁師で、一人は収税人であったということです。学者達によっては、七人が漁師で、トマスはマタイと双子で同業の収税人であっただろうと考えるそうです。その確かさは別にして、様々な背景の人々が神の国のために働くことができ、神の使者として主人、キリストの言葉を伝えることができることを見ることができます。

 人数はどうして十二人だったのでしょうか。イスラエルの十二部族に合わせたと考えるのが一番解り易いようにおもいます。霊的象徴的意味ではありますが、新しいイスラエルの始まり、新しい国に始まりという考えが含まれていると思われます。それを抜きにしても、ユダヤ的な数字の考え方では、三は完全な神の数字、四は人間の数字で、それを掛け合わせてできる十二と言う数字には神と人の完全な調和と力の象徴であるということであり、また、実践的にも丁度良い人数であったと考えることができそうです。

 十七~十九節は、どのような区切りとして考えるのが良いでしょうか。ここは、時間の流れに従って、十二使徒の任命の直後に山を下り、そこに各地から人々がキリストの教えを聞き、癒しを求めて集まっていたことが述べられています。この後の山上の垂訓の箇所につながって行く橋渡しのように見えます。
 文脈的な理解を試みますと、キリストの言葉を伝える使徒が選ばれた後にすぐにこの説明を挟んでキリストが神の国の説教をするというつながりから、記者はこの後に使徒が伝えるべき主人から託された言葉が何かを読者に示そうとしていると考えることができます。つまり、この三節は、単純な時間に沿った記述なのではなく、十二使徒の選びと山上の垂訓をしっかり結びつける大事な役割を持っていると考えることができます。


結論
 ルカが読者に伝えたかったこと、現代の私たちが学ぶべきことは何かを考えて見ます。ルカは異邦人でした。また、ルカ伝も異邦人に向けて書かれています。それは詳細に調べた結果の報告であり、キリストの教えに基づいた事実であると主張しています。この福音書が回覧され、筆写されるようになった頃の読者達は、直接キリストの働きを目撃したことの無い人々が殆どでした。ですから、ルカは、その世代の人達に、教会で起きていることや教えられていることはきちんとキリストにつながる事柄であることを確信させたかったのです。(ルカ自身も、キリストの地上での働きの直接の目撃者ではありません。)
 ルカが当時の異邦人のクリスチャンに伝えたかったことは、次の様に整理できると思います。

一、異邦人に伝えられた福音は、キリストが深い祈りを通して選んだ使徒、使者(単なる弟子ではなく)を通して、キリストの語った通りに忠実に伝えられたのだ。

二、教会で語られる福音だけでなく、癒しの業や悪霊の追い出しも、キリストの権威によって起こっていることである。

三、ツロ、シドン人もキリストの元に集まったように、福音は異邦人にも与えられているものであり、確信を持って受け止め、この道を歩もう。







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