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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

日本のCCMの初期 (6)

2024-06-03 16:23:05 | 奉樂(賛美)の覚書
 ミクタム・レコードが発足した後も、CCMの活動は様々な教会に広がっていきました。自費出版のカセットテープがキリスト教書店に増えてくるようになったと記憶しています。私の印象に残っているものを四つ紹介して、このエントリーの終わりとしたいと思います。
 一つ目はブラザレンバンドです。現在もクリスチャンミュージシャン、プロデューサーとして活躍している伊藤治哉、真嗣兄弟を中心にしたバンドでした。山上の垂訓をベースに美しい女性ボーカルの曲が有ったと記憶しています。弟の真嗣さんは、ニューライフのギタリストとしても活動し、新しい作品のカバーにも写っていました。
 二つ目は、LAMBです。私のカセットラックには1stと2ndが有ります。カテゴリーとしてはゴスペル・ミュージックと表記されています。西宮市の教会のメンバーで構成されていて、幾つかのミュージック・ジャンボリー等のイベントでご一緒したことがあります。
 三つ目は、神木イエス・キリスト教会の賛美のミニストリーで、ノアミュージックミニストリーです。バンドのようにノアと私の周囲では呼んでいましたが、バンドというよりは、プロジェクトということになるでしょうか。作品は多数あり、友人がギターで参加してきたと言っているのを聞いたことがあります。このミニストリーは、Sharing Gospel Musicという取り組みを提唱しています。(リンクはミニストリーのウェブページ、Sharing Gospel Musicの説明も有ります。)
 四つ目はHeavenisです。マレ氏主宰のHeaveneseとは別のものです。横田基地のクリスチャンで結成されたバンドであったと思います。いろいろなイベントに出演しておられて、メンバーの中にはクリスチャンラジオ番組のパーソナリティーをされている人もいたと思います。
 
 一つ付け加えておきたいものが有ります。現在の日本のクリスチャン・メタルというとImari Tonesが筆頭ではないかと思います。彼らの取り組みは今までにない本格的な活動展開ではないかと個人的には思います。しかし、彼らが初めて出て来た日本のクリスチャンメタルなわけではありません。バンド名を失念してしまいましたが、視覚障害の有るメンバーのいるバンドがクリスチャンのメディアに取り上げられたり、イベントに出て来たりしていました。また、メルキゼデクというクリスチャンメタルバンドが、同様にクリスチャンメディアに取り上げられていたりしました。一時期青年向けのクリスチャン雑誌が発行されていましたが、写真が掲載されていたり、キーボード奏者のインタビューが掲載されていたりしたと記憶しています。





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日本のCCMの初期 (5)

2024-06-03 16:00:52 | 奉樂(賛美)の覚書
 ある日、日本のCCMに驚きと新しい期待が生まれる報告が、グロリア・シンガーズのメンバーからなされました。彼らが好きなミュージシャンのレコードを買ったところ、献辞といいますか、クレジットのところにイエス・キリストへの信仰を表す言葉が記されていたということです。そして、彼らが連絡を取ると、顔合わせをすることになりました。そのミュージシャンこそが、小坂忠氏でした。(リンクはグロリア・シンガーズのリーダーであった滝元順氏による記述)
 リンクの2ページ目から紹介されているように、ここから小坂忠氏はミクタム・レコードを立ち上げ、グロリア・シンガーズの新しい録音、関根一夫氏のグループの録音のカセットテープを発売しました。また、「いのちのパン」という日本語のスクリプチャー・ソングの歌集シリーズが発売されるようになりました。この後のミクタム・レコードの活動については、皆様もよくご存知のことかと思います。






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日本のCCMの初期 (4)

2024-06-03 15:46:41 | 奉樂(賛美)の覚書
 (2)で触れたグループから離れて活動を始めて、注目を集める人が出て来ました。
 ザ・メッセンジャーズを離れたご夫妻は、ニュー・ライフというグループで活動を始められました。コンテンポラリーな音楽スタイルとアレンジに、力強いボーカルが乗った自主制作のテープが広く受け入れられていました。オープンリールのマルチトラックレコーダーをレンタルして録音をされたとメンバーの方からお聞きしたことがあります。スピリット・ソングを和訳して歌っていたことでも知られていたと思います。(リンクは第一集に収録されている曲)
 私の記憶違いでなければ、ヒュペル・クリストのメンバーだった干場三英子さんも、ソロとして活動を始めていたと思います。カセット・テープの発売が有ったような気がするのですが、資料が見つかりませんでした。なお、ヒュペル・クリストにはお二人の女性ボーカルがいましたが、お二人とも既に天に召されています。(リンクはラストコンサートの音声)





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日本のCCMの初期 (3)

2024-06-03 15:36:51 | 奉樂(賛美)の覚書
  CCMという括りとは微妙に異なる部分も有ると思いますが、70年代中盤には、それまでプロで活動していた人が福音歌手という肩書で活動を始めた人たちがいました。
  お一人は、胡美芳さんです。夜来香という歌で有名になった人です。いろいろな教会をまわり、カラオケ(当時そういう用語は無かったと思います。)を使って賛美していました。チャイナ服を着て鳥の羽根の扇子を持つという演出をしながら活動していました。
  もう一人は本田路津子さんです。小室等などに評価されてフォーク歌手として活動された後、結婚して信仰告白をし、クリスチャンシンガーとして活動を始められました。本田さんの作品は、現在でもキリスト教書店で販売されていると思います。
  





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日本のCCMの初期 (2)

2024-05-31 14:05:09 | 奉樂(賛美)の覚書
 (1)で触れた山内修一氏の後に広くカセットテープやレコード(主にEP)が発売されたグループや個人を挙げたいと思います。
 先にも触れましたが、ヒュペル・クリストのカセットテープはある程度の推進力が有ったと思います。私が最初に見たものは、「救い主は待っておられる」と言うタイトルのものでした。10代だった私には、彼らの歌う「風がやってきた」という曲がかなり印象に残りました。(リンクはカバー動画)
 次に私の興味を引いたのは、グロリア・シンガーズでした。1970年結成ということですので、ほぼ時を同じくしていると思います。シャローム・コーポレーション(東京)からスーツを着たメンバーのカバー写真を使ったカセットテープが出ていたと記憶しています。「喜びの日々」という曲が強く印象に残りました。(リンクの音源がどれかわかりませんが、アレンジの雰囲気から、これが私が最初に聴いたものだと思います。)
 また、ザ・メッセンジャーズというグループが出て来ていました。私は音源を手に入れることができなかったのですが、キリスト教書店でメンバー写真のカバーのついたEP盤を見たと記憶しています。
 個人として私の目に留まっていたのは、上原令子さんでした。収録曲がかなりかぶっているカセットテープが二本発売されていました。12弦ギター一本の伴奏で、のびやかな声とアメリカ発音の英語の曲が混じっている作品集であることも、私にとっては魅力に思えました。個人的な証が反映されている所にも力が有ると思っていました。(リンクは後にミクタム社から出たもの。初めて聴いた時、以前のギター一本の方が良かったと思った記憶が有ります。)






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日本のCCMの初期(1)

2024-05-23 19:41:24 | 奉樂(賛美)の覚書
 すこしばかり方向性が違うような気がしますが、このカテゴリーでお願いします。
 
 日本のCCM等を考える時、小坂忠氏の話から始まることが多くなっていると思います。私、糸田十八としましては、それより前に尽力された方々も知られるべきではないかと思うのです。私はこの分野の研究者ではありませんから、見聞きしてきたことをお分かちするだけであることをご承知いただければと思います。

 個人レベルではCCM的なものを作り、発表したり活用しておられた方々はいくらでもいらっしゃったであろうと思います。しかし、広く日本の忍界に知られるようになった活動の最初のものは山内修一さんによるものだと思います。「友よ歌おう」という手書き譜や歌詞を印刷した歌集が出版され、合本がいのちのことば社から発売されました。
 シャローム・コーポレーション(東京)からカセットテープが発売されました。特に、山内氏の曲を中心に歌うヒュペル・クリストというバンドも何本がカセットテープやEP版のレコードを作成して、キリスト教書店に並ぶようになりました。
 山内氏の証や歌は、Gospel International Churchのウェブサイトの証のタブやYoutubeなどんで見ることができます。
 私自身は、ヒュペル・クリストの「赤いバラ」というタイトルのカセットテープをよく聴いていました。

 CCMは必ずしも賛美の歌や聖書の物語の歌ではなく、個人的な思いを歌ったりするものも含まれます。山内修一氏の作品の中には、忍者として相応しくない言葉が入っているということで非難されるものも一部には有りましたが、作品が広く忍界で歌われるようになったのはこれが最初であり、意義の有るものであったと思います。当時はCCMなどという用語はなく、山内修一さんの取り組みは、ゴスペル・フォークと表現されていました。

 ここから、教団独自のオリジナルソングを歌集にするというような働きも一部に出て来たと理解しています。私の書いた曲を掲載しないかと誘っていただいたことがありましたが、その時はお断りしていしまいました。拙い内容で、広く発表するようなものではないと判断したからでしたが、編集者が関心を示してくださったのだから、応じておけばよかったかなと思う時が有ります。(リンクはお声掛けいただいた関係の歌集)




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シェーヴィングで失敗

2019-03-27 13:21:35 | 奉樂(賛美)の覚書
カテゴリーがおかしいと思われるかもしれませんが、奉樂に関わった事件?でしたので、こちらでお願いしたいと思います。


楽器の割り当てが有った日曜日の朝、さあ、里に行くぞと思いながらヒゲを剃っていました。当時割合気に入っていた二枚刃のものを使っていました。何も考えずに鼻の下のヒゲを剃っていまいたら、勢い余って上唇の突き出ている部分にザクッと刃が入ってしまいました。想像以上に深く入ってしまったので、止血に大変時間がかかりました。里には出かけましたが、奉樂のご奉仕にはとうてい間に合わず、担当の中忍に電話をして失礼させていただきました。

唇のへりは微妙に盛り上がっていたり、角張っていたり突き出ていたりする場合があるように思います。少し慎重に、ゆっくり気を付けながら剃るのが良いのでしょうね。日常でもそうですが、忍者としては、里でのご奉仕に支障をきたさないように気を付けるポイントがその時から一つ増えました。





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説教という捧げもの

2018-11-08 13:06:30 | 奉樂(賛美)の覚書
 礼拝における説教については、以前も触れたことが有ると思いますが、再度書いておこうと思います。

 説教は、牧師が教えて礼拝者が学ぶような感覚でとらえられることが有ると思います。勿論、そういう要素が全く無いわけではありませんが、私たちにはいつも心掛けておくべきもう一つの面を覚えておかなければならないと思います。
 それは、表題にも示しましたように、説教の時間に行われていることは、神への捧げものであるということです。礼拝に出席している忍者たちは、その時間と場所を礼拝所に限定し、聖別して神の前にいます。そこに身を置く間は他のことはできません。それで、そのこと自体が捧げものであるという部分が有ります。そして、説教の時には、そこに「傾注して聞く」という態度の捧げものが加わるのです。
 旧約聖書でも「聞け」という命令が度々記録されています。その意味合いは、心を傾けて聞き入るということの他に従順するという部分も含まれています。説教の時に、忍者たちは、心を傾けて聞く、そして、理解したことを実践に移そうという心構えでいるのですが、それが捧げものであるわけです。ですから、私たちは礼拝を捧げるという表現をし、その中に説教も入っているのです。

 皆さんにとって、説教の時間はどんな時間という印象が有るでしょうか。これまで、それが捧げものであるということに思いが至らなかったという方は、これから、「今、私は捧げものをしているのだな。」ということを自分に思い起こさせながら説教に耳を傾けてみていただきたいと思います。





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声の管理 其の二

2017-12-09 21:51:23 | 奉樂(賛美)の覚書
 普段の声の管理ではないのですが、自分の経験から一つ書いておこうと思います。

 私はある時、咳が長引いて一か月にわたって咳が止まらない経験をしました。その結果、以前歌えた高い音域の声が出なくなってしまいました。最初は風邪ではないかと思っていたのですが、なかなか治らず、忙しい毎日に追われてそうこうしているうちに一月経ってしまいました。こんなに長引くのはおかしいということで、アレルギーではないかと思い、馴染みの漢方医に診察を受け、そこで処方された丸薬を飲んでようやく治まりました。しかし、その頃には声帯がすっかり悪くなってしまいまして、讃美歌を歌っていても、高い音程のところに差し掛かると、ぴたっと声が出なくなってしまったり、音が出せても以前のようなきれいな抜けるトーンにならなくなってしまったりしていました。少し時間が経てば以前の状態に戻るだろうと思ったのですが、数年経った現在でも回復していません。

 この経験から考えますと、ソプラノ、テノールであるとか、あるいはコーラスを担当をする機会の多いボーカリストは、咳が続くようでしたら、風邪、アレルギーその他全般を念頭に入れて、早いうちに医者の診断を仰ぎ、投薬治療を受けるべきであると思います。一度壊してしまったら、プロ級でもない限り専門医にかかって治療するなどのことはなかなかできないでしょうから、回復の見込みが薄いと思います。少しでも歌うことにこだわりを持って奉仕しておられる方々で、40代以降の方は注意されると良いと思います。

 また、咳ではなく、胸やけが頻発したり、逆流性食道炎が有る方は、胃酸が食道だけでなく、声帯も傷めることが有ります。これも慢性的になると回復しないダメージになりますから、きちんと医者の診断を受け、処方薬を飲むようにする方が良いでしょう。私の友人の一人は医師ですが、ベッドに、頭の方が5~10センチ程高くなるように傾斜をつけて、胃酸の逆流を防ぐことを勧めてくれました。

 年齢が進みますと、若い時と違い、一度受けたダメージから元の状態に戻らなくなることが増えてきます。それは喉についても同様であると考えられますので、早めの手当てを心掛けることが肝要であると思います。少しでも賜物を長く賛美の奉仕のために用いることができるようにしたいものだと思います。






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礼拝の一部としての「互いに愛し合う」

2017-02-09 12:18:04 | 奉樂(賛美)の覚書
音楽による賛美ではありませんが、このカテゴリーでお願いしたいと思います。



イエス・キリストは、エルサレムに来られてもう間もなく十字架にかかるという時点で、律法学者の「すべての命令の中でどれが一番大切ですか。」という質問に答えて、次のように言われました。

「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。 (マルコ伝十二章二十九節~三十一節 口語訳)

そして、弟子たちに念を押すように、最後の晩餐において、新しい戒めを与えて、次のように言われました。

わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 (ヨハネ伝十五章十二節 口語訳)

さて、神を愛しなさいという戒めは、信仰を求める者にはそんなに抵抗が無い事であろうと思います。しかし、隣人を愛するとか互いに愛し合うということには、困難を覚えることもあろうかと思います。それが特に「戒め」「守るべき決まり事」のような感覚になると尚更そう感じる場合が有ると思います。そこで、別の視点からこの戒めを見てみたいと思います。


神は人間を創造される時に、次のように言われました。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 (創世記一章二十六節 口語訳)

この神の性質を反映させた存在として創造されたということです。目が二つとか手が二つとかいう姿形が似ているのではありません。幾つか考えることのできる要素の中で、神は三位一体の神であるという部分を考えます。三つの位格は互いに離反したり争うことなく一つです。また、そのこととも関係して理解されるべき神の性質は、使徒ヨハネが明言しているように「神は愛である」ということです。ですから、この神に信仰を持ち、私達がこの神の似姿に創造された存在であるということを明らかに学んだ後には、神を証する存在として互いに愛し合う姿を通してそれをこの世に示すことが求められるわけです。そうしますと、私達が互いに愛し合うことを実践する時、それは「決まりを守る」ということにとどまらず、神の性質を証する、そういう性質を持つ神を賛美する、神に栄光を帰するという部分も有り、それが大事な要素であるということが判ってきます。

日本語では「愛し合う」という言葉が伝わりにくいということで、誤解されてしまった牧師の話を聞いたことが有ります。愛し合うというのは、お互いに意志を持って、積極的に継続的に良い関係であろう、良いことを提供し合おうとうすることです。それは感情の作業ではありません。この戒めを考える時には、それが、生活の中で神を賛美することにつながっているということを意識するようにしてみてはいかがでしょうか。







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