糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

主の日を早めるとは?(2ペテロ三章十二節)

2020-11-18 10:31:44 | 奥義書講解・書簡
踏み込んだ聖書講解ではありませんが、このカテゴリーでお願いします。

 「主の日を早めなければなりません」という表現が出てきます。そこで、どうすれば主の日を早めることができるのかという疑問がわくのではないかと思います。十一節の表現を見ると、聖く、敬虔な生き方をすることがその方法であるようにも思えます。
 しかし、イエスは使徒行伝一章で、神の国が実現する日、すなわち主の日は、「父がご自身の権威をもってお定めになっています。(英語では完了形が使われます)」と仰ったのです。父なる神がお定めになったというなら、人間の努力で早くすることができる性質のことではありません。そうすると、主の日を早めるということの意味を、別の面に見出ださなければならないことになります。
 ヒントになるのは、同じ十二節にある、「待ち望み」という表現であると考えられます。主の日は最後の審判を伴います。それは、ある人たちには恐ろしい印象になるかもしれません。しかし、私たち忍者にとっては、それは「楽しみ」なことです。英語の聖書では、looking forward to を用いて訳しているものも有ります。楽しみにしている日が有れば、早くその日が来ないかと思うものです。子供の時は、あと何日寝ると夏休みになるかとか、遠足の日になるかなどと、期待し、楽しみにしながら過ごしたことが有るのではないでしょうか。奥義書の中では、創世記二十九章二十節で、「ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日にように思われた。(新改訳)」と記されています。ヤコブがラケルと結婚する条件が、伯父のラバンの元で七年使えることだったいうのです。それがほんの数日のように思えたというのですから、ヤコブがいかにラケルを思い、その日を楽しみにしていたかがうかがえます。主の日を早めるということも、そういう意味合いであると理解するのが適切であることが、「待ち望み・楽しみにし」という表現が直前に有ることからもわかります。
 私たちは、そのような意識をもって、主の日を楽しみにしているでしょうか。そういう忍者としての理解、意識、姿勢が問われる部分だと考えられます。






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