パウロが使徒であるかということは、敵対するユダヤ主義者やその他の偽教師の攻撃の的になっていました。ですから、パウロは繰り返し自分はイエス・キリストによって使徒となったということを主張し続けました。以下の各書簡でそれを見ることができます。
・ キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから(ローマ人への手紙一章一節)
・ 神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、(コリント人への第一の手紙一章一節)
・ 人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ(ガラテヤ人への手紙 一章一節)
・ 神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから(エペソ人への手紙)
・ 神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから(コロサイ人への手紙)
さて、彼が使徒となった直接的個人的証言は使徒行伝の中に見出されます。後の伝道に同行することになったルカが彼から聞いたり目撃したりしたこととしてそれを記録に留めています。そして、それが記録の上の偶然であったのかもしれませんが、三回記録されているのです。三回というのは、繰り返しによる強調の要素や完全で充分であることを示す要素が含まれていると考えられますし、正にユダヤでは三人の証言は真実な証言とされていましたから、神様もその導きとルカに対する霊感を通してパウロの使徒性を保証してくださったのだと考えることができそうです。以下の聖書箇所でご確認いただけます。
・ 使徒行伝九章一節~十七節
・ 使徒行伝二十二章一節~二十一節
・ 使徒行伝二十六章九節~十八節
このことは、私たちにとっても大事なことです。と言いますのは、パウロが伝えたキリスト教やパウロが書き残した神学は彼が考えて発展させたことと主張して、神様やイエス・キリストの完全性を否定するような立場が有るからです。
使徒という言葉は、主人が伝える言葉を忠実に伝える者という意味が有ります。そして、パウロは自分がそういう存在であるということを一生懸命弁明してきたわけです。ですから、彼が自分で考えて発展させたことを主張していたとしたら、とんでもない嘘つきということになります。しかし、反対に、新約聖書の記事を総合的に確認すると、いろいろな場面で聖書の記述はパウロの使徒性を彼の自己主張という枠を超えて示していると考えることができます。
それは、パウロの教え、戦って守り通した信仰の中心的価値が、イエス・キリストがパリサイ人達を敵に回しながら敢然と宣べ伝えた神の福音の中心的価値と完全に一致しているところに見出されます。律法や行いによる義ではなく、ただ神により頼む信仰によって義とされ、生活も守られる。神を愛し人を愛する。そういう部分が完全に一致していると考えることができます。パウロの書簡を研究して、彼の述べていることのポイントを探っていくと、はっと気づく、表現が違っていても本当にイエス・キリストの弟子、使徒であるなぁと感嘆させられる原則を述べていることが判る瞬間が有ります。
パウロは書簡で何度も自分の使徒性を主張してきました。しかし、神様は本人ではなく別の人物を通して三回の証言を記録させました。そうなさることで、パウロに勝って神様ご自身が「本当に、本当に、本当だよ。」と保証してくださっているかのようです。そこに神様の介入とパウロに対する愛を感じることができると思います。
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・ キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから(ローマ人への手紙一章一節)
・ 神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、(コリント人への第一の手紙一章一節)
・ 人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ(ガラテヤ人への手紙 一章一節)
・ 神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから(エペソ人への手紙)
・ 神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから(コロサイ人への手紙)
さて、彼が使徒となった直接的個人的証言は使徒行伝の中に見出されます。後の伝道に同行することになったルカが彼から聞いたり目撃したりしたこととしてそれを記録に留めています。そして、それが記録の上の偶然であったのかもしれませんが、三回記録されているのです。三回というのは、繰り返しによる強調の要素や完全で充分であることを示す要素が含まれていると考えられますし、正にユダヤでは三人の証言は真実な証言とされていましたから、神様もその導きとルカに対する霊感を通してパウロの使徒性を保証してくださったのだと考えることができそうです。以下の聖書箇所でご確認いただけます。
・ 使徒行伝九章一節~十七節
・ 使徒行伝二十二章一節~二十一節
・ 使徒行伝二十六章九節~十八節
このことは、私たちにとっても大事なことです。と言いますのは、パウロが伝えたキリスト教やパウロが書き残した神学は彼が考えて発展させたことと主張して、神様やイエス・キリストの完全性を否定するような立場が有るからです。
使徒という言葉は、主人が伝える言葉を忠実に伝える者という意味が有ります。そして、パウロは自分がそういう存在であるということを一生懸命弁明してきたわけです。ですから、彼が自分で考えて発展させたことを主張していたとしたら、とんでもない嘘つきということになります。しかし、反対に、新約聖書の記事を総合的に確認すると、いろいろな場面で聖書の記述はパウロの使徒性を彼の自己主張という枠を超えて示していると考えることができます。
それは、パウロの教え、戦って守り通した信仰の中心的価値が、イエス・キリストがパリサイ人達を敵に回しながら敢然と宣べ伝えた神の福音の中心的価値と完全に一致しているところに見出されます。律法や行いによる義ではなく、ただ神により頼む信仰によって義とされ、生活も守られる。神を愛し人を愛する。そういう部分が完全に一致していると考えることができます。パウロの書簡を研究して、彼の述べていることのポイントを探っていくと、はっと気づく、表現が違っていても本当にイエス・キリストの弟子、使徒であるなぁと感嘆させられる原則を述べていることが判る瞬間が有ります。
パウロは書簡で何度も自分の使徒性を主張してきました。しかし、神様は本人ではなく別の人物を通して三回の証言を記録させました。そうなさることで、パウロに勝って神様ご自身が「本当に、本当に、本当だよ。」と保証してくださっているかのようです。そこに神様の介入とパウロに対する愛を感じることができると思います。


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