糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

列王記上 十三章の記録の意味

2010-07-13 23:36:23 | 忍者的思索・奥義書より
 この章には、二人の真の神に仕える預言者が出て来るように読めます。しかし、二人目の預言者は、最初に預言の働きをした預言者を騙して死に至らせます。また、この二人目の預言者は、自分で罠にかけた一人目の預言者の死を悼み悲しんでいる部分が理解できません。どうしてこのようなことが起き、またそれが記録されたのでしょうか。今回は、それを探ってみたいと思います。関心の有る方は聖書を開いてご確認いただければと思います。

 細かく調べる前に、この二人の名の記されていない預言者の預言が成就していることを確認しておきたいと思います。
 最初の預言者の言葉は、列王記下二十一章で紹介されるヨシヤ王の即位と信仰復興の働きによって成就されました。
 二人目の預言者は、一人目の預言者を自分の家に連れて来ますが、それが神の最初の命令に背いた行動であることを指摘し、更に彼が死んだ時にはその故に家族の墓には葬られないということを預言します。そして、それはあまりに早く成就しました。帰途についた最初の預言者は、それ程時間が経たないうちに獅子に殺されました。

 最初の預言者はユダから来ました。まだ忠実に天地創造の神を礼拝していた南王国から、北王国の王に忠告をしに来たのです。彼のした預言は、旧約の中でも注目に値する預言です。彼はおよそ300年後に現れる王を名前を挙げて預言し、且つ、その王がするであろう行動まで正確に述べたのです。それだけでなく、その預言が本物であることを示す印となる、祭壇が裂けて灰がこぼれるという預言は直ぐにその場で起きたのです。また、その時、北の王ヤロブアムの伸ばした腕がしなびて動かなくなり、預言者の執り成しの祈りで癒されています。その後、神の命令であるという理由でヤロブアムのもてなしの申し出を断って帰路についています。そこまでは、神の命に忠実な行動でした。

 さて、ここに二人目の預言者が現れます。注解を読みますと、この預言者はべテルに住んでおり、年寄りであったことに注目しています。べテルは南王国に近い場所ではありましたが、偶像礼拝に戻ってしまったヤロブアム王が支配する北王国の町でした。南王国に信仰を守るために移動した人達も居たのですが、この年寄りは北王国のベテルに留まりました。彼がそこに留まったのは、歴史的背景に関係が有ったかもしれません。べテルはラバンの所に逃げるヤコブが礼拝をした場所として創世記に記録されています。また、師士の時代には、ベテルは礼拝の中心地であり、契約の箱が安置されていた時代が有りました。サムエルも定期的にベテルを訪れていたことが記されています。この預言者は、そういう歴史的な背景に誇りを感じてそこを離れない部分も有ったかもしれません。ヤロブアム王が金の牛の偶像をベテルに建ててもそこを離れなかったその場所への愛着に、不信仰や不忠実が入り込んで来る余地が有ったと考えられます。しかも、彼の息子達は、ヤロブアムが自分で勝手に決めた祭儀を行っていた現場に居合わせました。彼らは、ヤロブアム王の祭司だった可能性が高いようです。そのような偶像礼拝に深く関わっていた様を思うと、彼の信仰は形式的なものにまで落ちていたと考えることもできると思います。むしろ積極的に偶像礼拝に加担していて、申し出を断られたヤロブアム王の面目を回復させるために、騙してでも最初の預言者にもてなしを受けさせようと考えたのかもしれません。
 別の要素として、年寄りは、より若い人の目覚しい働きを妬ましく思ったりする傾向が有るという指摘がなされています。そうすると、この年寄りの預言者は、最初からこの南王国から来た預言者を神の言葉に逆らわせて貶めようとする意図が有ったのかもしれません。(ここから便宜上、最初の預言者をユダの預言者、二人目の預言者をべテルの預言者と記します。)
 べテルの預言者はユダの預言者にもてなしの申し出をすると、ユダの預言者はヤロブアムに言ったのと同じ言葉でその申し出を断りました。すると、べテルの預言者は、彼も預言者であり、ユダの預言者をもてなすようにというお告げを受けたと言って、ユダの預言者を納得させます。注解はここで、ユダの預言者は神の言葉を受けたという自覚が有ったのに、べテルの預言者が「主の御使い」によってお告げを受けたという表現をしているという違いに着目しています。主の言葉を受けたと思うなら、いくら主から来たといわれても、それより下位の御使いの言葉を信じるのは不注意なことであったという理解を示しているように思えます。何にしても、べテルの預言者が彼を「騙した」ことに違い有りません。カウカシと読める動詞が使われていて、騙す、嘘、不忠実、不十分などの意味を持つ言葉です。

 人を騙すようなべテルの預言者でしたが、そこに神の預言が与えられます。主の御心に従わない行動をした預言者に再び主の預言が与えられるようなことは、ヨナなどの例を見出すことができます。その内容は、ユダの預言者が主の言葉に従わずに北王国内で食事のもてなしを受けてしまったので、当時の人達が誉れ有ることだと思っていた、先祖と共に同じ墓に葬られるということがされないというものでした。
 注解は、この預言の意図を次のように説明しています。預言の中にははっきり示されていませんでしたが、彼は間も無く死ぬことになりました。そんな厳しい裁きの理由は、彼の持っていた使命と働きの重大性を現していると考えられるということです。彼の使命は、ヤロブアム王がモーセを通して与えられた神の律法に不忠実であったことへの神の裁きを伝えることでした。べテルの預言者の息子がすぐに父親にその預言や起きたことを伝えたように、この出来事はイスラエルじゅうに伝わることになったのではないかと思われます。それなのに、ユダの預言者が公言した神の指示を後に破り、不忠実であったのに、たいした裁きがくだされなかったとなると、ヤロブアム王に警告を与えた神の言葉の重みも失われるというものです。ユダの預言者の失敗は、公の預言に関わるものでした。

 獅子(雄)が道に現れるというのは頻繁に有ることではありませんでしたが、そういうことが有り得ることは聖書の他の箇所の記述からもわかります。イスラエルの民が約束の地に入る前の主の言葉の中にも、不忠実な時には獣が送られるということも述べられています。この獅子は、明らかに神から送られたものと考えることができます。ユダの預言者は殺されただけで、獅子は預言者を食べずに傍らに立っていましたし、彼が乗っていたロバも殺されていなかったのです。通りかかってそれを目撃した人々も被害を受けていません。そして、このこともまたその人々の噂を通してべテルの預言者のもとに届きます。
 ベテルの預言者は、それが神の預言に従って起こったことだという告白をします。それは、同時に、ユダの預言者のヤロブアム王に対して告げた預言も本物であるという確認が含まれていました。そして、彼は深い悔恨の思いを持ったのではないかと考えられます。人間的な卑しい気持ちで騙した預言者が、真の預言者であったことがいよいよ確かになったのですから。彼はユダの預言者の遺体を引き取りに出掛けました。彼が現場に到着した時には、まだ獅子はそこに居ましたが、預言者の遺体を食べてしまったり、ロバを殺したりはしていませんでした。先にそのことを目撃者から聞き知っていたベテルの預言者は、それが神の送った獅子であることの印であるという確信が有ったのでしょう。恐れずに遺体を自分のロバに乗せて町に帰り、嘆き悲しんでそれを自分の墓に葬りました。それが彼の悔恨と敬意の表明だったのでしょう。
 葬りの時には、まわりの人達も「ああ、わが兄弟。」と言って嘆いた様子が記されています。この言葉は、葬儀の時の嘆きの言葉として決まり文句のようなものでした。旧約の他の場所にも葬儀の時の嘆きの描写として用いられています。ここで大事なのは、まわりの人達も、たとえ一時的であったにせよ、ユダの預言者を本当に神から遣わされた預言者であることを認め、彼が騙されて死ななければならなかったことに心を傷めたという事実であると考えて良いでしょう。
 ベテルの預言者は、自分が死んだらユダの預言者と同じ所に葬るように息子に頼みます。その理由は、彼の預言は必ず成就するからだというのです。彼の考えは、ユダの預言者の告げた預言が成就する時には、ヤロブアム王の建てた祭壇で人の骨が焼かれることになるが、ユダの預言者と一緒に葬られていれば、そのようなことのために自分の骨が用いられることは免れるだろうというものであったとする注解が有ります。そう考えると、果たしてこのベテルの預言者がどれだけの悔恨の念を持ち、真の神への信仰を回復したのかは、私達にははっきり判断できません。


 この聖書の箇所からは何を読み取るべきなのでしょうか。幾つかの角度から見ることができます。
 先ず、列王記の記者の意図から考えます。記者は、この箇所を、ヤロブアム王が結局真の神の道に立ち返らず、滅ぼされることになったという記述で締め括っています。すると、記者の意図は、真の神の預言者が明らかな印を示して戒めたにも関わらず、神の道に立ち返らなかったために、ヤロブアムの家は地の面から根絶やしになったのだということを明確にすることであり、ひいては、読者達にもそのような偶像礼拝を離れて、根絶やしにされるような生き方をしないようにという警告をすることであると考えられます。

 次に、ヤロブアム王、ユダの預言者、ベテルの預言者の人物像から学ぶべきことを考えて見ます。
ヤロブアム王は、能力の高い人物でした。ソロモン王の時代に役人に取り立てられて、目覚しい働きをし、その故にソロモンに命を狙われるほどでした。ソロモン王の死後は、人々に頼られました。また、神から十部族の王になるように任命されたのです。しかし、彼はそんな神の恵みにしっかり信頼することをせず、自分の戦略に頼りました。また、神の警告にも結局従いませんでした。ヤロブアム王は、荒野でアロンがした間違いを繰り返し、しかも、その倍の数の偶像を作りました。神以外の物に頼る偶像礼拝は、繰り返されると更に悪い方向に強化されるのです。自分の能力を過信し、自分を守るために神の力にすがらず、自分の戦略で生きる姿は、私達に共通する点が有ります。私達も、神以外に頼るものの無い者として生きる決意をしてこの道に入ったことを確認し続けて生きることが重要です。
 ユダの預言者からは、私達が信じる者として、継続的且つ完全な従順が重要であることを学ぶことができます。また、神に用いられる場面に立たされたならば、その特権を受けた者は、より責任の有る者でもあるということを知らなければならないということです。彼の失敗は、神の言葉を注意深く確認しなかったことに有ります。直接神から啓示を受ける者だったのであれば、変更などの啓示も彼が直接神から受けるはずだということを心に留めるべきでした。私達も、霊的な流行などに惑わされず、ひたすら忠実に神の御言葉である聖書の言葉から原則を確認し続けて生きなければなりません。ユダの預言者はその名前が聖書に記録されることは有りませんでした。しかし、この名も無い預言者は、旧約聖書中でも注目されるべき預言の一つを神に委ねられたのです。彼は突然旧約聖書の歴史の舞台に現れ、あっという間に去って行きました。しかし、そこに至るまでに神との親密な交わりが有り、忠実な歩みが有ったに違い有りません。騙されて、神の命令に従わなかったために、獅子に殺されることにはなりましたが、死体は損壊されませんでした。また、その死を通して、彼に委ねられた神の預言は本物であることが明確に当時の人々に示されました。彼は死ぬ時でさえ、神の恵みを受け、神の義と栄光のために用いられたのです。たとえそのような大きな仕事をゆだねられることが無くても、私たちは彼のように忠実に生き続けることを心にとめ続けたいものです。
 ベテルの預言者の罪は、ヤロブアム王に通じるものが有ると言えます。この年寄りの預言者も、ヤロブアム王と同様に、自分のプライドを守るためにこのようなことをしたと判断できます。民心を集めたいというヤロブアムと、嫉妬心をはらしたいというベテルの預言者では動機が異なりますが、自分の尊厳を自分で守りたいという点が共通しています。そんな心を持つと、たとえ神に近く仕えるものであったとしても、嘘をついて人を騙し、ついには死に至らせるようなことにもなってしまうのです。そのような過ちを犯すことのないように、いつも注意して、祈りによって心を守る必要が有ります。彼の悔い改めの様子は私達にははっきり判断できません。しかし、およそ300年後に、ユダの預言者の預言が成就した時、人々がその預言を明らかに知っていたのは、もしかするとこのベテルの預言者の功績による部分も有るのかもしれません。もしそうであるならば、悔い改めて、神の言葉と御心が私達の中に成るようにしたという姿に、私達は倣う者となるべきだという教訓を読み取ることができそうです。

 最後に、大きな原則を確認します。私達はいつでも、真の神のみを頼り、信頼し、忠実に歩むことが求められます。神様の原則は不変です。同時に、罪はいつも神の法則に反逆します。私達が神に拠らずに自尊心を保ち、自己防衛をしようとする時、いつもそこに罪が入り込んできます。
 ヤロブアム王のようにならないように。神に拠らない自己防衛に落ち入ったならば、ベテルの預言者のように悔い改めることができるように。たとえ自らの不忠実の故に命を落とすことが有っても、恵みにより、最後まで神の義と栄光を現す器として用いられるように。そのような歩みをさせていただきたいものです。







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士師記の十七~二十一章が記録された意味を考える

2010-07-03 21:43:35 | 奥義書講解・旧約
 カテゴリーが「気まぐれ忍務報告」です。御言葉を学ぶことは私の忍務のひとつであるからです。それを気まぐれとは何事かと思われるかもしれません。気まぐれなのは、ここに電子巻物として残すかどうかを決めるにあたってのことですので、誤解の無いようにお願いしたいと思います。新たなカテゴリーを設定した時に、カテゴリーを変更することも有るかもしれません。それでは内容に入ります。


 士師記の十八章を読み終わった時、ふと、どうしてこのような物語が霊感によって記録される必要が有ったのかという疑問が沸きました。ダン族の行動は傍若無人であると思いました。こんな記録がどうして必要だったのでしょうか。ダン族が新たに領地を獲得した顛末の記録の意味だけで理解して良いのでしょうか。それとも、他に知るべき要素が有るのでしょうか。そこで、そこを中心にいろいろ確認してみました。

 十八章のできごとは、ヨシュアの死後、オテニエルが最初の士師となるまでの期間に起きたことです。レビ人がミカの個人的な家の偶像のための祭司になったり、ダン族がそれを奪っていったりすることから、昔の偶像礼拝の形態が当たり前に蔓延っていた様子が伺えます。
 ここに登場するダン族は、その全部族ではなく、ある結びつきを持った一団でしょう。家族や一族を部族と表現することも有りましたから、そのような結びつきの人々であった可能性が有ります。
 ダン族は、割り当ての地全体を征服できなかったか、征服後に取り返されてしまったかなどの要素が有り、居住地が狭くなってしまったと考えられます。
 斥候に出された五人の所属する集団は、それぞれ人数が多く力が強いものであったでしょう。だからこそ、彼らの問題の解決のためにそのような行動を起こすことができたと考えられます。場所を探すのは、彼らの兄弟の部族の間ではなく、他のカナン人の地でなければならなかったので、彼らはその原則に従って土地を探しました。
 用いられている動詞やダン族のミカの家の祭司への質問から、この祭司とダン族の者達は以前からの知り合いであったと思われます。
 エポデや偶像のある礼拝所の祭司の職を得ていることがわかると、ダン族の斥候は神の御心を求めます。モーセの時代からの信仰に根ざした行動のように見えますが、後の彼らの行動から察するに、それは単なる宗教的儀式に堕していたようです。祭司はその一団の旅行の目的は主の御心に適っていると答えましたが、それは明らかに神の御心に反していました。神の御心はダンが割り当ての地を守ることであったことは明白だからです。それだけではなく、北のダン族の領土は、その後もずっと偶像礼拝の地であり続け、北王国が分離すると、ダンはヤロブアムが作った二つの金の牛の像うちの一つが置かれて、偶像礼拝の中心地の一つとなってしまいました。
 この祭司がモーセの孫に当たるという記述には疑問を呈する者もいるし、ラビ達の中には違う読みを当てたり解釈を施したりする立場も有ったようです。それはモーセへの敬意の表れですが、人間の罪の深さを思う時、モーセの子孫が特別なはずがなく、退けられるべき態度であると思います。
 また、この祭司の子孫が放浪もしくは捕囚の時までその地でダン族の祭司であったという記述が有りますが、その放浪もしくは捕囚の解釈にも複数の説が有ります。一つは、王政が敷かれる前、サムエルの時代に契約の箱がペリシテ人に持ち去られた後、ユダのバアラに安置されていた時期のことだとする。もう一つは、北王国にアッシリアが来て民を捕囚に連れて行った時のことだとします。ダビデやソロモンは、祭司の組み分けなどを新しく組織し、きちんとした礼拝の枠組みを作ったので、アッシリアによる捕囚の時代までその祭司の子孫がダン族の祭司であったということは無理が有るように思います。従って、一つ目の説に強みが有るように思われます。十八章の最後の節に、モーセの天幕がシロに有った間中、ダン族の礼拝の中心はミカの作った偶像であったとする記述も前者の考えを支持すると考えられます。繰り返し記述される「イスラエルには王がいなかった」という言葉も、王政になってからこのようなことは止んだという記者の主張を読むことができるように思われます。
 自分の家の祭司、エポデと家の偶像が持ち去られたことを知ったミカは、それらを取り返しに行きますが、ダン族の脅しに屈して引き返します。最初にミカがダン族を詰問する時、「他に何が残っているだろうか。」と尋ねますが、そこには全能の父なる神への信頼も無いし、家の偶像が彼らを守るものではなかったという虚しさも現れています。
 そのように考えると、二十七節二十八節のダン族がライシを襲ってその土地を自分のものとした様子の説明は、単にライシのシドン人達に十分な援軍や力が無かったからであって、神の御心や助けによったのではないということを述べるためであるように思われます。三十一節に示されている結論が、シロに設置されたモーセの天幕が真の神の命令に従った礼拝であり、ミカの作った偶像は神の御心にかなっていないことを述べていると考えることができます。
 

 十七章から二十一章までには、大きく分けて二つの事件が記録されています。どちらも士師の時代の前に起きたこととする説有力です。そうすると、この二つの事件は時系列を外れて付加された記録であり、記者にはこの二つの事件と師士の時代もしくは後に来る王政の時代を対比させる意図が有ったと思われます。すると、説教のために一つ一つ取り上げることもできますが、大きな流れで捉えるためには、これらを一まとめに考えて、記者の意図を探ることに意義が有ると思います。
 この二つの事件については、それまでの士師の記録にはなかった「そのころ、イスラエルには王がなかった。」という事実の記述が共通しています。サムエルが王を立てる時に、イスラエルの上に立つ王たる者は、いつもモーセの律法を側に置き、それに親しまなければならないとしました。それは代々守られるということ有りませんでしたが、それでも、後の列王記や歴代誌が善王か悪王かは主の御心に従うか否かによって判断されています。そういう期待や前提で立てられる王が置かれない時代であったということで、霊的律法的秩序が無かったことを再確認し、従って、根強い偶像礼拝の元となる事件も起きたし、十九章以降に出てくるレビ人が祭司としてふさわしくない行動を平然と行って大きな災いを民族に及ぼすようなことも起きたということを述べているようです。
 この二つの話で師士記を締め括ることには、師士の時代とその後に続く王政の時代を、神様からの恵みとして肯定し、神の恵みと律法に従って歩み続けるようにというメッセージを読み取るべき部分であると思われます。







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