糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

コロサイ書3章1~4節

2007-08-21 16:42:55 | 奥義書講解(少忍レベル)コロサイの巻
コロサイ書3章1~4節

構成
1節でパウロが与えている指示、命令と、それに伴う補足説明がこの部分の中心である。

2節~4節は1節の各部分を補強説明している。


1節
 「こういうわけで」は、前の「偽教師の教えは無価値である」という部分を受けている。指示の中心は「上にあるものを求めなさい」である。「求める」という語は、他に「見つけるために探す、解明するために思索する、目指して努力する、権利として要求する、切望する」という意味を持つ。この指示を考えるにおいては、どれも意味の有るものと言える。また、この動作は継続的動作である。この地上に生きる限り、倦むことなく求め続けるのである。
 この指示の大前提は、「キリストとともによみがえらされている」というクリスチャンの立場である。「上にあるもの」を求める理由は何か。それは、クリスチャンがキリストとともによみがえらされ、そのキリストが「上」におられるからである。

 「神の右に座しておられる」というパウロの補足説明は大事である。「上にあるもの」は、聖書的に幾つか考えられるのであるが、パウロが読者に最初に思い起こさせたいことが、ここから理解できる。
 勿論これは象徴的表現である。神は遍在されるし、父、御子、御霊は一つであるから、実際には神の「右」とか「左」とかいうことは無い。右は法廷における弁護人の位置であった。キリストはヘブル書を見れば、天における大祭司として私達のために執り成しをしてくださっている。サタンがクリスチャンの罪を追及しようが、偽教師がクリスチャンを罪に定めようが、キリストが大祭司として執り成しをし、弁護をしてくださるのである。クリスチャンは偽教師達が責め立てたように、「罪」があるのでもなければ「未完成」なのでもない。キリストと共によみがえらされて、神との関係の回復を完全に成し遂げているのである。
 「神の右に座しておられる」という表現は、その一点のみならず、そこにいたるまでのキリストの受肉、宣教、受難、復活、昇天の全過程を念頭に入れている。神の国の到来と救いの成就の全体を視野に入れていることになる。

 他に考えられる「上にあるもの」を列挙しよう。第一に、キリストがヨハネによる福音書で約束された天の家、場所。これは定住するところや、壁に囲まれた居住区、町なども意味する語。第二に、天国での報酬。ルカ6章では、キリストのために迫害を受けるものへの天国の報酬は大きいとされている。第三に、キリストの再臨の時に与えられる、キリストと同じような「栄光の体」。第四に、たとえまだこの地上で生きるとしても、すでに「われらの国籍は天にあり」、クリスチャンはすでに天に市民権を持っていて、その特権を行使することができるという霊的事実。これらはすべて、キリストと共によみがえらされているということによって求めること可能になった。
 
 この地上で「上にあるものを求め続ける」生活において、クリスチャンが何を見出すことができるかは、完全には示されていない。しかし、それが少しでも多く見出され、教会に、またこの世界に広げられることを願うものである。


2節
 「上にあるものを思いなさい」という指示が繰り返されている。繰り返しは強調である。1節の指示が大事な指示であり、この部分の中心であることを補足している。
 1節の「求めなさい」とは異なった「思いなさい」という語であるが、中心的な意味はほぼ同様である。ニュアンスは「理解する、感じる、考える、同意して尊重する、心を向ける、探す、目指す、その方に立つ、味方する」となり、1節の「求める」のあり方を補足している。

 パウロは更に「地上のもの」を思うのではないことを補足し、明確化している。2章20~23節において、偽教師の教えは「この世のもの」すなわち「地上のもの」であることは指摘済みである。偽教師の教えを思い巡らさないように釘を刺しているのである。


3節
 1節における「キリストとともによみがえらされた」という部分を補足している。「すでに死んでおり」という部分は完了した動作である。罪に対しては死んだものとなった。それは神によってなされた業である。それは、罪をもう犯さないという意味ではない。罪の責めをもはや負わない者になったということである。
 「キリストとともに、神のうちに隠されている」とある。隠されているという語は、他に「覆い隠されたままである、施錠して保管されている」というニュアンスがある。クリスチャンはキリストのうちにそのように隠されているのであるから、罪の責めを負うことも無く、安全に守られているということである。偽教師の教えに恐れを感じたり怯えたりしなくて良いのである。クリスチャンは未完成ではなく、その救いは揺ぎ無く確保されたのである。
 だから、「地上のもの」に属する偽教師の教えに心を煩わされる必要は無く、「天にあるものを思う」ことに専心できるというわけである。


4節
 ここも1節における「キリストとともによみがえらされた」という部分を補足している。それがキリストの来臨のときに結び付けられている。また、3節の「隠されている」を受けて、ここでは「現れる」という表現が用いられ、対を成している。
 
 クリスチャンはキリストとともによみがえらされ、キリストともに神のうちに隠されている。だから、キリストの再臨の時には、同様に、「栄光のうちに」現わされるのである。その時、天の民としての栄光、栄誉を受け、キリストと同じ栄光の体を与えられるからである。これが先に確認した「上にあるもの」と併せて、クリスチャンの希望なのである。

 クリスチャンは霊の目で見る時は、キリストとともに天に座している。しかし、現在我々はキリストを視認できないのと同じように、天でキリストとともに神のうちに隠されているクリスチャンの状態もはっきり確認したり、知ることはできない。しかし、キリストの再臨の時にそれは現わされ、クリスチャンもはっきり知るところとなる。その希望の確認である。
 
 2章19節で示唆されているように、キリストは頭であり、教会、またクリスチャンはその体である。キリストが救いを成し遂げ、大祭司として神の右に座しているならば、体である教会、またクリスチャンも同様にその位置を占めているのである。だから、この希望は当然の希望である。


考察
 「上にあるもの」を思い、それが反映されたクリスチャンの生活の全体像は知りえないであろう。しかし、求め続ければ、それは少しずつクリスチャンの生活の中に反映され、広げられていく。それを期待して「上にあるもの」を目指し続け、クリスチャンの当然の権利として要求し続けよう。
 「上にあるもの」を思う結果、それが反映された生活の基本的な概念については、5節以降に示されている。





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キリストの足を洗った女 (ルカ伝七章三十六~五十節)

2007-08-14 13:36:12 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
導入
 この物語の基本的なメッセージは締めくくりの48節~50節に有る。イエスが罪の赦しを宣言する部分である。同様な罪の赦しの宣言と、人々の非難の言葉は5章20、21節に見出される。ユダヤ的文書において、繰り返しは強調を表す。ルカは、「読者の皆さん、再確認しますよ。イエスは罪を赦す権威を持つ、神なるお方ですよ!!」と力強く呼びかけているのである。

人物の対比
パリサイ人、シモン

 主な人物が二人いる。一人はイエスを食事に招待したパリサイ人のシモンであり、もう一人は彼の家にイエスを訪ねてきた女性である。

 パリサイ人のシモンはイエスを食事に招待した。当時、ラビが人々に教えた後、誰かがそのラビを食事に招待するのは普通のことであった。ラビが会堂で説教した後であれば尚更であった。
 しかし、シモンはラビへの尊敬や慰労の気持ちでこれをしたのではないことが彼のイエスに対する扱いから想像できる。おそらく、イエスを試したり、罠にかけたり、弱みを握ったり、もしくは利用するために招待したのであろう。
 普通は招待された客は足を洗う水、時には温水をもらうのが当時の習慣であった。足を洗って拭うのは僕や奴隷の仕事であった。また、招待された人に接吻するのが当時の習わしであった。特に相手がラビであれば、尊敬を込めて足に接吻することもあった。そして、乱れた髪を整えるためにオリブ油などを頭につけるのであった。
 この「習慣」であり「普通」のことを、シモンは招待した客であるはずのイエスに対して、一つも行わなかった。彼は基本的にイエスを受け入れては居なかったのである。
 シモンがイエスに対する尊敬から招待したのではないことは、39節にある彼の心の言葉からもうかがえる。彼はやはりイエスを非難する口実を求めていたのであろう。イエスを訪ねてきた女性が、その町でもよく知られた「罪人」であり、その女性が近づくに任せたことを持って、シモンはイエスを「偽預言者」と断じている。
 ユダヤ教の背景では、預言者は常人に無い識別力が有り、近くに来るだけでその人がどんな人物か判るとされていた。ユダヤの文献には「自分は預言者だ。」と言った王の話が出てくるそうだ。側近の者たちが、彼を試すために、良からぬ人物を彼の側に送り込んだのだが、王はそれに気付かなかった。側近の者たちは、偽預言者は殺さなければならないという規定に従って、その王を殺してしまった。シモンもこれと同じ考え方をしていたことになる。



罪深い女性

 女性は罪深い女という表現がされている。福音書の記者は具体的なことは一切記録していないが、この女性は娼婦であったろうとする考えもある。29節でイエスはヨハネのバプテスマを受けた民に言及している。その流れから考えると、この女性もヨハネの説教を聞いて悔い改め、バプテスマを受けた人々の中にいたかもしれない。また、イエスの説教にも触れ、この方こそ、神の子羊、メシアだと信じたのであろう。
 シモンの家にイエスが来ておられると伝え聞いた彼女は、イエスに感謝の念を表すために石膏の器に入った香油を持ってシモンの家に入って来た。
 当時は、食事に招待された者でなくてもその場に来て話をしたりすることはゆるされた。また、貧しい者に施しをするようにと宗教的指導者達は教えていたから、食事をしている家に施しを求めてくる人のために、出入りする者を制止しないということがあった。それで、その町でもよく知られた罪人であるこの女性も入ってくることができたのであろう。
 香油は高価であった。ベタニヤのマリヤがイエスの頭に香油を注いだ時、イスカリオテのユダが、「売ったら貧しい者に施しができた」と非難していることからも、香油がそれなりに価値の高いものであったことが判る。香油を買って取って置き、いざという時に売って金に換えるのが当時の財テクでもあった。
 石膏と訳されている語は、英語ではアラバスターとなっている。北東部のダマスコで産出される石で、香油の品質を損なわずに保存できるとされた。

 この女がシモンの家の食堂に入った時、彼女の目に映ったのは、食事の席に着いた人々の足であった。当時は食事は寝そべってする習慣があった。体の左側を下にして横になり、右手で食事をした。だから、足は食卓とは反対の方向に投げ出される形になった。
 彼女は当然見知っているイエスの姿を探したであろう。そして、はっと息を呑んだはずである。イエスの足は汚れたままであった。彼女は愛する主、イエスがシモンに歓迎されていないことを一目で見て取った。そして、胸がつぶれるような気持ちになったのであろう。彼女は泣き出した。「泣きながら」と訳されている語は「哀しんで、嘆き哀しんで、もだえて」というニュアンスを持っている。
 彼女には香油の他には何の用意も無かった。その家の主でもない女性にとっては、水の用意を命じる資格も無かった。しかし、自分の主、メシアと仰ぐイエスに自分の気持ちを表したい。それでその涙でイエスの足を濡らし始めたのであろう。
 手拭いの用意は無かった。理由はわからないが、衣のすそで拭いたりすることは憚られたのであろう、彼女は自分の髪を解いて、その髪の毛でイエスの足を拭った。当時、女性はその髪の状態が良いことを誇りに思っていた。また、きちんとした髪はしっかり結い上げておくものであった。しかし、彼女はそういう女性の誇りを捨てて、髪を解いてイエスの足を拭いたのであった。
 それから、彼女はイエスの足に接吻をした。用いられている動詞から、繰り返し接吻したことがわかる。ラビの足に尊敬の念を込めて繰り返し接吻することは普通であった。彼女はそのことによって、イエスをラビとして認め、それだけではなく、メシアとしても認めていることを表したのであろう。メシア預言を含むとされる詩篇二篇では、「御子(の足に)口づけせよ」と記されている。彼女の実践は、それに従ったものであったかもしれない。
 イエスは横たわっているので、頭には手が届かない。彼女は持参した香油をイエスの足に塗った。イエスは、彼女にとって、その高価な香油を、その足に用いることさえためらう必要のない大事な主であった。


イエスのたとえ話

 シモンの心中を察して、イエスは彼に向かって一つの例話を語る。二人の負債者がいる。一人は500デナリ、もう一人は50デナリの負債である。1デナリは当時の日当、日給にあたる。現在の東京であれば、前者は最低で二百八十七万六千円、後者は二十八万七千六百円となる。私達の生活感覚でそれがどれぐらいであろうと、とにかく二人は返済能力が無かった。それで貸主は借金の返済を免除してくれたのだが、この場合、どちらがより多く愛するかという質問がなされた。
 このたとえ話を、目の前にいる二人に当てはめるならば、前者は罪深い女であり、後者はシモンであろう。この女性はその罪を多く赦されたから、もっと多くの愛を表したという理解のできる話になっている。
 それでは、シモンは少し愛した分が有り、彼もキリストにあって救われたということになるだろうか?そうではない、シモンはイエスを必要とはしなかった。それに、愛を示すどころか、当時の習慣にも反する無礼な扱いをしたのである。そんな罪深い扱いをイエスに対してしたにも関わらず、彼には、自分が神に罪の赦しを求めるべき存在であるとは微塵も思っていなかったのだ。


ポイントのまとめ

 最初に述べたように、ルカが意図し強調したポイントは第一に、イエスはメシア、救い主であり、罪を赦す権威を持つ神であるということにある。
 第二のポイントは、自分はその救い主が必要で、神の赦しを請わなければならない存在だという自覚が必要であるということにある。
 第三のポイントは、この女性のようにイエスに仕える姿勢を持たなければならないということにある。


適用

 クリスチャンは基本的には先に述べたポイントの第一と第二を心に留めている人間であるから、今回は特に第三のポイントについて考えたいと思う。

1) イエスの足を洗うクリスチャン
現在この世にイエスは肉体を持って存在してはおられない。しかし、イエスを頭とする、主の御体なる教会が存在している。この世の歩みの中でつく私達の霊的な汚れを拭い合う、そういうクリスチャンであることを心掛けよう。

パウロは「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くし互いに教え、互いに戒め・・・」(コロサイ3:16)と言っている。ペテロも「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからであうる。」(1ペテロ4:8)と言っている。

これは、イエスの足を洗った女性が、純粋にイエスに対する尊敬と愛から、また、女性の誇りとされた髪を汚すことを厭わなかった謙遜の心に倣ってなされるべきである。

イエス自身がヨハネ13章においては、しもべ、奴隷の仕事であった足を洗うということを、弟子達に対してして見せている。そして、「あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。」と言っておられる。

この女性が、イエスの足の汚れを見て泣き出したように、クリスチャンも遣わされた教会の状態に敏感である必要があり、また、執り成しの祈りを心掛ける存在である必要がある。

2) イエスの足に接吻するクリスチャン
繰り返し足に接吻するということは、その人を「尊敬する師、ラビ」と認めたということである。この女性がイエスを自分の師、またそればかりではなく、主、メシアと認めとように、また、それを繰り返し接吻することで表したように、クリスチャンも「イエスは私の主、救い主、私の神です。」という宣言を証を何度も何度も繰り返してする存在である。

イエスは復活後、弟子達が「わたしの証人」になると言われた。形はどうあれ、「イエスは私の主、救い主、私の神」という告白と宣言がいつも伴うクリスチャンでありたい。

3) イエスの足に香油を塗るクリスチャン
この女性はイエスを価値あるものを捧げるに値する方であるとして、イエスに栄光を帰したのである。クリスチャンも、様々な形でいつもイエスに栄光を帰する者であるべきである。自分の功績をひけらかすのではなく、自分の栄誉を求めるのではなく。自分のそれまでの労力や努力を惜しんだりしないで。イエスは私達のために、命をも惜しまれなかった方なのだから。





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コロサイ2章16節~23節

2007-08-06 17:49:38 | 奥義書講解(少忍レベル)コロサイの巻
コロサイ書2章16節~23節

導入
 オリンピックを目指す競技者達に、トレーナーや監督は時々禁止命令を出す。薬物は使用するな、検査で陽性になれば失格で、練習訓練に費やした年月と努力が無に帰する。場合によっては心停止などで命を落とすこともある。それはオリンピックでメダルを目指す者には価値が無いことだからである。
 パウロもよく信仰生活を陸上競技に例えている。この聖書箇所でも陸上競技用語と言える表現も使われている。霊的トレーナー、監督として、パウロはここで禁止命令を出している。それは、御国を目指しているクリスチャンにとって、危険で無価値な教えに従わないようにという警告である。


構成

三つの偽教師に関する禁止命令をもって、それらを退けている。それぞれの禁止命令には、キリストにある事実、理由を示している。そして、最後にそれらの教えの性質を述べて締めくくっている。それらの偽教師のおしえは「何の価値もない」ということである。

(16、17節)律法主義的偽教師の教えへの反論
  キリストにある事実(律法の本体はキリストにある)
(18、19節)神秘主義的偽教師の教えへの反論
  キリストにある事実(キリストに結びつくことで成長する)
(20~22節)禁欲主義的偽教師の教えへの反論
  キリストにある事実(キリストによってこの世の知恵、原則から離れた)                     
(23節)締めくくり
「見かけは智であるが、価値が無く、肉の法則に打ち勝てない
                (むしろ肉の法則に属している)」


(16、17節)律法主義的偽教師の教えへの反論
 「こういうわけで」というのは、前の段落の内容を指す。キリストと共によみがえらされ、罪赦され、罪の債務証を無効にし、キリストにおいてすべての支配と権威の武装を解除されたという霊的事実のことである。

 イエスも食べ物は人を穢すものではないことを教え、そのことは使徒行伝にあるペテロの幻においても確約されたと考えられる。事実、エルサレム会議でも「血と、絞め殺したものと、不品行を避けるように」という指示しか出ていない。パウロは1コリント8:8で、食べ物は食べても食べなくても、自分達を神に導くことはないと述べている。
 しかし、この偽教師達は、律法の食物規定を守らせようとした。律法には飲み物への規定は殆ど見出せないから、ナジル人の誓願の規定などを、一般の信徒まで拡大させるような指示、強制をしていたかもしれない。その場合は、一般的な食事の一部であった、ぶどう酒を飲まないということになる。
 律法に定められた日を守らせようともした。年毎の祭りは、仮庵の祭り、過ぎ越しの祭りなどを指す。新月の祭りは、言い換えれば月毎の祭りである。新月の祭りを親族と過ごすという名目で、サウル王の食卓につかなかったことで、ダビデはサウルの怒りを買っている。安息日は土曜日である。この頃すでにクリスチャン達は主の日として、週の始めの日、日曜日に礼拝を守っていたが、土曜日の礼拝、もしくは、働かない、一定距離以上移動しない等の安息日規定を守るように主張したのだろう。彼らはユダヤ人への契約に基づく律法を、異邦人クリスチャンにも守らせようとした。  

 このことに対するパウロの禁止命令は「誰にも批判させてはいけない。」である。「批判、批評」などと訳される語の原意は「審判、裁判官の席に着く」ということである。律法を理由に、クリスチャンを罪に定めたり、主に相応しくない生き方をしているという判断をさせてはいけない。また、そのような教えに従ってはいけない、従うな、拒絶せよということである。
 
 理由は、律法は来るべきことの影にすぎないからである。律法は、キリストを指し示すために用いられる時は良いが、それを守ることは意味が無い。なぜならば、神の小羊として屠られたイエスを通して、律法は完成させられたからである。もう、イエスという本体に対する信仰で十分なのである。
 愛する人が来た時に、その人を歓迎しようとするならば、跪いて影にキスしたり、影を抱きしめようとする人は居ない。それは無意味である。本人に愛を表現しないなら、むしろ嫌味であり失礼である。そのような無意味な行為を強いている偽教師達は、神に無礼を働いているのであり、クリスチャンを裁いているのではなく、神を裁いているのである。

 イエスキリストが完成された救いの教えだけに目を留めるべきである。


(18、19節)神秘主義的偽教師の教えへの反論
 自己卑下、わざとらしい謙遜などと訳されている彼らの教えも、天使礼拝と関係している。彼らは「我々は直接神の御前に出る価値が無いから、謙遜になって、一歩退いて、天使に取り次ぎを求めなければならない。」と教えていた。しかし、ヘブル4:16には、「はばかることなく神の御座に近づこう」と述べられている。
 彼らの教えはそれだけに留まらなかった。天使を礼拝することを指導した。神以外のもの、被造物である天使を礼拝させるのであるから、これは完全な偶像礼拝である。
 「彼らは幻を見たことを重んじ・に安住し」などと訳されているこの「重んじ・安住し」という語のニュアンスは、神殿の深いところに入る、立つというものである。やはり、偶像礼拝的な要素を濃く持っている。彼らはそのようなイエスによらない霊的神秘的体験をいたずらに誇り、思い上がっており、自分を何か偉い者のように言っていた。そして、人々に、もし彼らの教えに従えば、もっと成長して霊的な深みに到達すると主張していた。しかし、それは神の御心に従った姿ではなく、肉的なプライドや傲慢でしかなかった。彼らは謙遜を装って、実は神に反逆していたのである。

 このことに対するパウロの禁止命令は「誰にもあなたがたを報いに相応しくないと言わせるな(言わせ続けるな)」というものである。従って、既にこの教えに悩ませられたり、当惑したり、あるいは従ってしまった者達がいたと思われる。それを断ち切れと言っているのである。「相応しくないと言う、する」という語は、審判が競技者をルール違反で失格にする、というニュアンスがある。神の前に出るに相応しくないと言わせてはならない。天使礼拝をせず、幻をみたことがないから聖徒として相応しくないと言わせてはならない。彼らの教えを拒絶せよ、というのである。偽教師は、彼らの教えに従わなければ、天にある報いを得ることはできないと主張したが、それを心配して惑わされてはならない。むしろ、彼らの教えに従うことこそ、偶像礼拝に陥ることであり、天の報いを失う在り方である。

 あるべき姿は何であろうか。偽教師のように、肉的なプライドに基づいて霊的成長を目指すのではなく、頭、すなわちイエス・キリストに結びつくことである。クリスチャンはすでに信仰告白と洗礼と聖霊の内住によりイエスに結び付けられている。そして、イエスを頭とするキリストの体なる教会に結び付けられている。この事実だけに目を留め、イエスの教えと聖霊の導きに従うならば、神によって霊的に養われ、神によって成長するのである。また、肉的な誇りによって、人を分け隔てするのではなく、互いに結び合わされるのである。


(20~22節)禁欲主義的偽教師の教えへの反論)
 禁欲主義的偽教師は「触れるな、味わうな、扱うな」というような禁止条項を設けていた。それが霊的に自分を高める方法であった。「触れる」と訳される語は、人間関係、男女の関係、ユダヤ人と異邦人の交流なども意味することができる語である。孤独な生活、夫婦の性的関係、異邦人もしくは未信者との交わりを制限することを指導したのであろう。「味わう」という語は、具体的には食事をすることにつながる。美味しいものを楽しむことも禁じたであろう。断食の推奨や義務が課せられたと想像できる。「扱う」という訳を当てた語は、基本的には「触れる」とほぼ同義で、聖書の中でも入れ替え可能なことがうかがえる。乱暴に人を扱うというニュアンスがある。具体的な内容は定かでない。

 このことに対するパウロの禁止命令は、疑問形の問いかけによってなされている。「なぜ従順するのか、縛られているのか」、換言すれば、「そのような禁欲的規定に従うな」ということである。彼らの教えは「人間の」教えや戒めだからである。それは神の与えたものではない。主に在っては、人間関係や夫婦関係、また食物は神の与えられた祝福である。したがって、これも神の御心に反する教えである。
 しかも、これらは使えば無くなるものについてである。現世でも、歳を取れば人間の交流は少なくなり、死ねばそれは無くなる。食物は食べてしまえば無くなる。天に入れば、現世的人間関係や男女の性的関係は終わる、また、体を養うために食事をすることも無くなる。しかし、我々がイエス・キリストにあって持っているのは霊的な事柄であり、永遠に続く事柄である。それをそのようなこの世の肉的な努力で解決したり聖くしたりすることはできない。

 クリスチャンのあるべき姿は20節にある。キリストと共に死に、命に移されたのだから、この世の考え方、哲学(ここでは禁欲主義)から離れ、また、サタンの欺きから解き放たれて生きることである。
 

(23節)パウロによるまとめ
 三種類の偽教師の教えに簡潔に言及し、その性質を明らかにしている。
 「礼拝熱心」(律法主義)「謙遜」(神秘主義のそれ)「肉体を虐げる」(禁欲主義)を列挙し、それが(この世の基準や哲学では)知恵のあることであるかのように見えるが、それは「価値が無い」のである。それは、霊性を高めることであるかのように教えられているが、実は肉の思いを満たすものであり、肉の思いを治め、御心に従わせる力は無いからである。聖化の恵みは神、聖霊の働きであり、頭であるキリストに結びついている時に与えられるのであるから、それをから目を背けて肉の働きに邁進することは無意味である。


適用
 聖書に表れていない規定を我々は作っていないであろうか、それが我々の霊性の現れであり、霊性を高めるかのような勘違いをし、それを人にも指導したりしていないだろうか。それに従えない人を裁いていないだろうか。律法主義的信仰を捨て、信仰の本体であるイエス様の義と御心をよく考えよう。
 聖書にはっきり啓示されていない個人的な霊的な体験をもって、あたかも自分が信仰深いかのように思ったり、特別に神に愛されていると思ったりしていないだろうか。そのような体験があることを信仰の礎にしていないだろうか。そのような体験の無い人をクリスチャン失格と断じて居ないだろうか。それは偶像礼拝であり、誤った誇りである。逆に、救われているのに、自分は神の前に出るのに相応しくないと思い込んだりしていないだろうか。
 自分の努力で自分の肉を治めようとしていないだろうか。神様がくださった恵みを誤って遠ざけるべきものと考えたりしていないだろうか。断食は神様との関係を深める期間として有効ではあるが、そうしなくとも主との関係は深められる。また、断食をすることが誇りになっていたら、霊性は高まったのではなく、下がったのだ。また、断食は神様との関係を深める特急切符ではないことを知る必要がある。
 在るべきクリスチャンの姿は何だろうか。キリストから目を放さず、その救いの恵みの何であるかをしっかり確認し続けることである。御言葉に触れ、祈ることによって、頭なるイエス・キリストとの結びつきを深め、それによって主に養っていただき、育てていただき、成長し、聖められ続け、また教会の一致を保つことである。キリストと共に死に、命に移されたことを自覚し、この世の叡智、哲学と言われるものに従わず、キリストの知恵に従い、また、サタンの偽りの教えやメッセージ、自己像を離れ、拒絶することである。霊的な恵みの源はキリスト以外に無いことを心しなければならない。





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コロサイ書2章8節~15節

2007-08-05 01:12:12 | 奥義書講解(少忍レベル)コロサイの巻
大まかなこの箇所の流れ
8節)中心となる指示、命令「注意していなさい」
9節~12節)指示、命令の理由1-あなたが何者であるか。「あなたは~され
       た」
13節~15節)指示、命令の理由2-神はどんな方か。「神は~なさった」


8節)
注意しなさい。その内容は、「誰も、哲学や虚しい騙しごとによって、奴隷として
連れ去られないように」である。福音に立っていない偽教師の教えは、信者を奴隷
にし、福音にある自由を享受させない。

この哲学や騙しごとは「伝統や、この世の哲学的原則」に由来している。それは、
キリストに由来していないと言う点で対比され、退けられている。
(この節の新改訳の訳し方は少し正確さを欠くと判断され得る点がある)

9節)
原文ではここから12節までが一つの文であり、理由を導く接続詞で始まる。
内容略

10節)
あなたはイエスのうちに、「完璧」にされた。別な天使などの補助的手段をもって
完璧を目指す必要はない。それをなさった方、キリストは、すべての支配と権威の
頭なる方なのだから、その完璧さは保証付きである。

11節)
ここでは、ユダヤ主義者の主張する割礼と、キリストにある割礼を対比させてい
る。肉の割礼は体の一部を切り取るだけのことである。しかし、我々はキリストに
ある割礼、すなわち新しい神との契約があり、しかも、それは体の一部ではなく、
罪あるこの体全体を贖い取るものである。「肉の体」という表現は、罪の体とも理
解できる。それを、そっくり取り去ったのがクリスチャンである。勿論我々は罪を
犯す。だから「信仰ある罪人」という表現を使う場合がある。しかし、その心はす
でに聖霊により作り変えられ、罪を罪とも思わなかったかつての私達の罪の体、罪
の心は取り去られたのである。

12節)
浸礼によるバプテスマを念頭に置いた表現である。我々をキリストと共に引き上げ
てくださったのは神である。我々はただその神のお働きを信じれば良いのである。
他の助けを請う必要は無い。神ご自身が引き上げてくださったのだから。

13節)
神は、我々をイエスと共に生きるものとしてくださった。神がしてくださったこと
はそういうことである。「共に生きるものにする」という表現は、ギリシャ語では
一語である。

14節)
罪は我々の債務証書であった。これは、神に対しても敵であるが、私達人間に対し
ても敵であり、我々を責める存在である。しかし、神はそれを取り除いて、十字架
にイエスと共に釘付け、帳消しにしてくださった。取り除く、という表現は「あな
たの真っ只中から取り除く」というニュアンスがある。正に人間を虜にしている罪
中心の生活をしていた私達からそれを取り除かれるという様子をきっちり表現して
いるのである。

15節)
武装解除と訳される語は、衣服や装備を毟り取る、剥ぎ取るという語感である。こ
の節の表現はローマ帝国軍の習慣に由来しており、コロサイの教会の人たちにはリ
アルなイメージの沸く表現であったろう。ローマ軍が勝利をおさめて凱旋する時、
将軍はローマの神ジュピターに扮して先頭を行進し、末尾に負けた都市や国の捕虜
が裸にされて、見世物のように引き連れられてくるのであった。

我々の霊の戦いにおいては、イエス様がすでに勝利をおさめて凱旋行進を済まされ
たのだというイメージである。「支配と権威」はサタンと悪霊である。ユダヤ主義
者たちが教えた天使依存も、実際に効果を感じるようなことが有ったとしたら、悪
霊の働きである。しかし、彼らは武装解除されたのであるから、我々クリスチャン
に対して何の正当な支配権も権威も無い。

我々はただ、凱旋行進の周りで喜んでいる群集のように、イエスキリストによる福
音と自由を喜んでいればいいのである。


最初の注意に戻ろう。
注意せよというこの動詞の時制は、継続的動作を表す。だから、「絶えず注意せ
よ」ということになる。クリスチャン生活が長いから注意をしなくて良いというこ
とは無いのである。だれのとりこ、奴隷にもならないようにと言う部分は、強い表
現で、「さもないと、必ず誰かが来てあなた方を虜、奴隷にして連れ去る」という
意味を持っている。

だから、我々の信仰における思考が、この世の哲学や伝統に基づいたものでないか
を、「絶えず注意する」必要がある。


あなたの信仰と思考が、イエスキリストの権威に基づいているものであるかどうか
に、絶えず注意していなさい。





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コロサイ書2章1~7節

2007-08-05 01:11:00 | 奥義書講解(少忍レベル)コロサイの巻
この部分は前の内容の再確認と、もう一歩先のことが書かれている。

1節
主節は「(私、パウロは)知って欲しい」である。
ラオデキヤの教会への言及がある。この教会は同じ地方にあり、おそらく同様な偽
教師の問題が有ったと思われている。

パウロが知って欲しいのは、彼が「私がどんなに苦闘しているか」である。
苦闘すると言う語は、やはり、競技者が栄冠を目指して苦労している様を表す語で
あるらしい。

すると、まるで、パウロが自慢をしているかのような印象が有る。しかし、その理
由がそんなところに無いことは2節でわかる。


2節

その理由を表す副詞節の中心は「彼らの心が励まされるように」である。
パウロの苦闘を知ることがどうして彼らの心の励ましになるのであろうか。
一つには、コロサイの人々が信仰によって持っている奥義が、それだけの苦闘を経
験しても守り抜くに値することであることを示すことになるからであろう。
また、その奥義の価値を知っている者たちにとっては、同じ道を行く、もしくはも
っと先を行くパウロの苦労を知ることで、パウロが彼らを理解することに慰めを得
ると言う部分も含まれるであろう。「励まし」と訳される語は「慰め」という意味
も持ち得る語である。

分詞句がその付帯状況を示している。
先ず「愛によって結び合わされ」である。コロサイに入り込んだ偽教師を念頭に語
られていることを忘れてはいけない。彼らは奥義を知った者と、知らされていない
者とを区別し、後者をより劣るものとした。だから一致よりは分派をもたらすよう
な性格があった。そのような教えに組することなく、一致することを促している。

この分詞句の部分から3節にかけて、パウロは先に1章で述べた偽教師の教えへの
反論となる事柄を繰り返し述べている。

すなわち、偽教師の言う奥義を求めなくても、イエス・キリストの内に全ての奥義
と知識の富があり、それに向かって生きていく状況になるようにと願っている。


3節

偽教師は福音の他に知恵や知識が必要であると説いたが、それらは、基本的な福音
を聞いた時、その福音の中に、イエスの中に全て含まれている。


4節

「あやまちに導く」という語は「間違った理由付けによって、偽りに導き、迷わせ
る」という感覚の言葉である。パウロが自分の苦闘を知って欲しい理由のもう一つ
がここにある。「誰も騙されないため」である。

このような言葉が語られるということは、現状ではコロサイの教会の信徒達は、そ
の偽教師の教えに揺らぐことがあっても、誰もまだそれに従って迷い出ていないこ
とになる。既に惑わされた者が居るなら、このような言い方は無駄である。彼らが
最初に触れた福音に忠実に信仰を守っていることは、次の節で明確になる。


5節

この節の主節となる内容は「私はあなたがたと一緒に居る」ということである。地
理的には遠く離れたローマに居るが(他の地という説はさておき)、霊においては
一緒にいる。同じキリストの体なる教会に属しているから、また、祈りのうちにい
つも彼らを覚えているから。そして、パウロは喜んでいることがある。それは、コ
ロサイの教会(ラオデキア、その他の教会も含む)の信徒の「秩序」とキリストへ
の固い信仰である。「秩序」とは兵士が戦線において、自分の持ち場を離れずに忠
実に従軍している様を表す言葉である。だから、コロサイの教会の信徒達は、初め
の教えを離れず、忠実にキリスト者として歩んでいる状態であることが判る。


6節

ここに、1~7節の中心、結論がある。
主なるキリストを受け入れたのであるから、「イエス・キリストにあって歩め」と
いうことである。既に、「全て」の奥義と「満ちた様」と言えるイエスの救いと栄
光に浴する者となったのであるから、そのイエスにあって歩めというのである。他
の教えは必要ないのである。

「歩く」という語は「進歩する」という意味合いも出てくる。単に歩くというだけ
でなく、その信仰が更に成長する様を念頭に入れているであろう。


7節

6節の歩むという語がどのように歩むことかが、この節で更に説明されている。

植物に例えた表現になっている、「根ざし」が用いられている。良い地に植えられ
れば植物はよく成長するのである。クリスチャンとしては、その源であるイエスの
中に全てを持っており、満ちた様を手に入れている。それで、その信仰の上にしっ
かり建て上げられるのである。そのような歩みが「教えられたとおり」の信仰であ
る。

もし、そのような歩みをしているならば、偽教師の教えに惑わされて不安になるこ
となく、その奥義と天の栄光を下さった神への感謝にあふれるのである。
逆に考えれば、もしそのような感謝に溢れていないなら、イエス・キリストが完全
な救いの道であるという信仰に立っていないか、成長に向けたキリストにある歩み
を心掛けていないかである。その部分を時々考え直してみる時がキリスト者には必
要であろう。


前の部分での中心はキリストにしっかり留まることであった。
今回は、原則は同じであるが、中心はキリストにあって前進すると言う部分が追加
されている。





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コロサイ書1章24節~29節

2007-08-05 01:10:43 | 奥義書講解(少忍レベル)コロサイの巻
24節)

「キリストの苦しみのなお足りないところ」という部分の解釈が問題になる。
もっと別な訳し方を考えた方が良いと思われる。
「足りないところ」という訳になっている語の原義は「残りもの、後から来るもの」ということである。だから、決して「不足」という意味ではない。

「わたしの肉体をもって補っている」と訳の「補っている」という部分に用いられている語の原義は「自分の番、当番を遂行する」ということである。

キリストは十字架で全ての業を完成した。
今度はキリストの体なる教会がこの世で証し、機能していく番が続く(後から来る)。
その中のパウロの分、パウロの番があることを喜んでいることを述べているのである。


25節)

この節の中心的意味は、パウロがその努めを神から授かったという認識であろう。
努めの内容は、この節では「神の言葉を告げひろめる努め」とされている。
原語では「十分に」という感じになる副詞が伴っている。


26節)

25節の「神の言葉」が何であるかを説明するのがこの節の役割である。
ギリシャ語の文脈では、続く「奥義」が同格の関係で書かれている。
「神の言葉(福音)」=「奥義」という関係である。

奥義、英訳ではミステリーで、元の語はムステリオンである。
26節はムステリオンの意味をよく説明している。
ミステリーと言うと、不可思議で判明していない事柄を指す。
しかし、ムステリオンは、「過去においては隠されていたが、現在は現された事柄」である。


27節)

その奥義が何であるかを示している。
「あなたがたのうちにいますキリスト」である。
ギリシャ語聖書のつながりでは、「栄光の望み」が「キリスト」と同格の関係になっている。
「キリスト」=「栄光の望み」である。

異邦人も父なる神の愛、救いの対象であるということ、
神が人のうちに住まわれる(聖霊を通して)といこと、
これらはユダヤ人にも異邦人にも長い間隠されていた。
キリストの神の国の宣教によって、十字架の業の完成と聖霊の注ぎによってこれは明らかにされた。
だからこれがクリスチャンにとってのムステリオン、奥義なのである。


28節)

27節と併せて、ここでパウロが偽教師達の教えを意識していることがわかる。
偽教師達は、「奥義」「全き者、完全な者」という表現を用いた。

彼らは、「奥義」、天使の助けによって神との和解を完成できるという教えを知らなければ、「完全な者」になれないと教えた。そして、この「奥義」は限られた者にしか明かされない特権である。あなた達もこの「奥義」によって「完全な者」となりなさいと教えていた。パウロは「すべての人」という言葉を3回用いて、本当の奥義、キリストは限られた人への福音ではないことを示している。

パウロは「キリストを宣べ伝える」という流れで「訓戒し」「教えている」。
「訓戒する」とい訳された語は「警告する」という意味がある。宣教において、キリスト無しの生き方は魂の滅びであることを警告するということである。それと対照となる「教える」内容は、キリストにある命の道のことである。

パウロの宣教の目的は、偽教師が人々を、天使の助けの総体を自分のものとすることによって「完全な者」になるように宣教するのとは違って、人々が「キリストにあって完全な者になる」ようにすることである。

ここでは主語は「わたしたち」である。パウロ、テモテ、エパフラスのことであろう。
コロサイの教会の創設はエパフラスの宣教によって始まった。エパフラスの伝えた福音も偽教師の福音ではなく、パウロやテモテが伝えている福音と同じであることを述べている。
このことによって、エパフラスに対する信頼を後押しする意図もあるかもしれない。


29節)

パウロはここで競技者に用いられる表現を二つ用いている。
「苦闘する」という語は、競技者が練習のために疲れ果てる様子を表す語である。
「努力している」という語は、競技者が優勝を目指して努力する様子を表す語である。
競技者は、競技で優勝することによってその報いを手に入れる希望をもってそれをする。
パウロは天国での報いという希望をもってこれをすることができる。

これらの苦闘と努力は人間の力によってなされてはいけない。
パウロは25節で、彼の務めが神から与えられたことを忘れずに述べたように、ここでもその力は「わたしのうちに力強く働いておられるかたの力」によることを忘れずに述べている。


パウロの喜び、苦闘と努力、我々の現在の状態と将来の希望はすべてこの「奥義」、「私たちのうちにおられるキリスト」に基づいている。これをしっかり握り、他の教えに惑わされてはならない。





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コロサイ書1章15~20節

2007-08-05 01:09:05 | 奥義書講解(少忍レベル)コロサイの巻
この部分は初期の教会の頌栄もしくは賛美歌の引用だと考えられている。
パウロがこれを引用した目的は、イエス・キリストの首位性を示すためである。
(首位性って言葉しか今思いつかない。Supermacyという感じ。)

背景としては、ユダヤ主義的影響を含んだグノーシス主義の教えがコロサイに入り
込んでいたことがある。その理解は、
1)天の諸霊や天使がクリスチャンや人間の上に勢力を持っている。
2)父なる神の好意を得るため、また、罪を犯した時に神との和解を得るためには
  それら、天の諸霊や天使が仲介者として何らかの力を持っている。
というものであった。

解説者によって微妙な違いがあるが、この頌栄もしくは賛美歌の構成は
15~17節 - 全ての被造物の上に最高の権威を持つキリスト
18~20節 - 贖い・救いにおける最高権威を持つキリスト
という二連構成になっている。


15節
イエスは見えない神の特別な啓示である。イエスを見たものは神を見たのだとヨハ
ネによる福音書でもご自身が説明している。

日本語の聖書で「先に生まれた」というニュアンスで訳されている語は、英語では
「長子、長男」を表す言葉に訳されている。これはローマ・パレスチナ文化の背景
に由来する表現である。「正統な権利者」「最高位」「最重要人物」という、地位
を表す語である。このことは、長男でないヤコブや、ソロモン王が「長子、長男」
と表現されている聖書箇所があることからも分かる。

日本語の聖書ではこのあたりの表現があまり明確ではないが、この節でパウロが
言わんとしていることは、「キリストは全ての被造物の上に正統な権威を持つ」とい
うことである。


16節
被造物には、物質的な存在も霊的な存在も含まれている。「支配」「権威」などの
語は、ユダヤ教の用語としては天使の階級などを指した。キリストは天使の階級を
超えた首位性を持つ存在であることを示している。それらはキリストによって創造
された被造物なのであるから、キリストに勝る権威を持ち得ない。


17節
キリストが全ての生じる前から存在していることを示している。グノーシス的理解
では、天使や諸霊が働き合って天地を創造したことになっている。キリストはその
中の一部分に過ぎないという理解である。パウロはここで、キリストがそれらのも
の以前から存在したこと(永遠の存在である)を示して、グノーシス的理解が間違
いであることを指摘していることになる。彼によって全ては支えられているのだか
ら、キリストはそれらの霊や天使の力を借りなければならないような存在ではない。


18節
キリストは教会の「頭」である。「頭」と訳された語は「統率」「権威」の他に、
「根源」「起源」をも表すことができる。キリストが教会の創始者でもある。

ここでもキリストの首位性が主張されている。彼は死からの甦り(蘇生ではなく)
の第一のものとなった。「頭」が復活したのであるから、当然「体」も復活するの
である。その源も権威もキリストにある。また、我々はその復活に希望を持つこと
ができる。

キリストが頭であるのだから、教会を軽く見られてはいけない。また、キリストの
首位性を否定するような教えや信条に教会が牛耳られることが有ってはならない。


19節
「満ちた様」という風に訳せる語は、グノーシス哲学の用語でもあった。その場合
は「人の運命を左右する超自然的力の総体」を表した。この教えに従えば、諸霊や
天使の力を借りなければ「満ちた様」に到達することはできないのであり、キリス
トだけでは不足だということになるのであった。

しかし、パウロはここでその「満ちた様」はキリストの中に存在するのだというこ
とを確認している。父なる神がそれをキリストの中に宿らせたからである。
「全て」の「満ちた様」がキリストに与えられたということだから、それは神ご自
身の「満ちた様」を含んでいるはずである。それが成り立つためにはキリストも神
でなければならない。一位格と二位格が同じく一つの神であるということを確認す
る言葉が初代教会の賛美歌の中に歌い込まれていることになる。

日本語の聖書ではうまく表れないが、「満ちた様」がキリストの中に宿らせられる
ことは、「神の喜びであった」。(だいたいは「みこころ」というニュアンスの訳
になっている)だから、イエス・キリストを受け入れたクリスチャンも神の喜びと
成り得るのである。


20節
神は十字架の御業によって、キリストだけをご自身との和解の仲介者とされたこと
を確認している。神との和解には諸霊や天使の助けが必要とする誤りを正している。

十字架の贖いの重要性をもここでは確認している。

また、和解の対象は万物であるが、これは堕落による神との遮断を被った被造物が
来る世に最初の創造の時の秩序を回復することも含意している。

この賛美歌の中では「全て」という言葉が繰り返し用いられている。それは、キリ
ストの全ての領域にわたる首位性を繰り返し確認するためである。

クリスチャンにはキリストさえあればよいのである。キリストこそが全ての完成者
だからである。




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コロサイ書1:1~8に見る 信仰、希望、愛

2007-08-05 01:08:04 | 奥義書講解(少忍レベル)コロサイの巻
信仰、希望、愛と言えば、1コリント13:13を思い起こすのが一般的であろう
と思いますが、この箇所にも信仰、希望、愛の表現が出てきていて、それを考えさ
せるようになっています。

1ヨハネ4:19に有るように、初めに神様が私達を愛してくださったから、私達
も愛を知り、愛するようになりました。そして、同8節には、愛のないものに神は
わからない、神は愛だからだと記されています。

その関係を比較的具体的に示したのがこのコロサイ書に現れる教会の信仰ではない
かと思います。
神を信じて受け入れないことには、私達には諸々の希望はありません。
神への信仰が無く、且つ希望が無いのであれば、我々には愛する力はありません。
希望が無いのにどうやって愛する力や動機が生じるでしょうか?

この信仰、希望、愛の関わりは、ヨハネ福音書13~17章の最後の晩餐の席での
イエス様の遺言の中にも現れていると思います。
イエス様は弟子達の信仰に基づいて、互いに愛し合うという新しい戒めを与えまし
た。そして、それを促す事柄として、天国の希望や弟子達の喜びがあふれることを
語っておられる部分があると思います。

神への信仰と信頼がなければ希望は無い、希望が無ければ愛する力は無い。
この法則は、すでに創世記3章から示されています。

アダムとエバが堕落しましたが、夕方になって神様が二人に呼ばわって、どうして
善悪を知る木の実を食べたのかを尋ねます。

アダムは神様への信頼、信仰を裏切って罪を犯しました。神様との約束によって、
彼は死が自分に入って来た事、神様との断絶を経験することがわかっていました。
彼には希望が無くなっていました。ですから、アダムは神に返事をするとき、エバ
のせいにしました。神様は助け手としてエバを創造した時、アダムのあばら骨を取
って彼女を創造しました。これは、エバがアダムにとって慈しみ、守るべき存在で
あることをも意味していました。しかし、もうアダムにはそのようにエバを愛する
力は無かったのです。

神様の質問がエバに向かった時、エバは蛇のせいにしました。実際は蛇ではなく、
その背後に働いたサタンだったのでしょうが。神様は人間に動物や地、環境を治め
ることを求めました。しかし、エバも神様に罪を犯し、関係が壊れ、希望を失いま
した。それだけでも大きなことですのに、自分の保護者であるアダムにも庇っても
らえませんでした。エバはアダムの助け手、管理者として蛇を見ることはできず、
蛇に罪をかぶせようとしました。

信仰の状態が良くなかったのでしょう。カインの捧げ物は神に受け入れられません
でした。そんな信仰状態のカインには希望はありません。希望が無ければ愛する力
はありません。彼は弟のアベルを殺してしまいました。

創世記3章には、罪の誘惑のありさま、結婚の法則、信仰・希望・愛の関係という
クリスチャン生活のエッセンスのすべてが表現されています。

逆の方向で確認することも意味が有ると思います。あなたは愛する力を得ています
か?もし得てないと感じたら、先ず、私達の主にある希望をもう一度確認して、そ
れをきちんと意識しましょう。そして、その希望をきちんと握り締める信仰がある
かどうか、神様に全幅の信頼を寄せているかを確認しましょう。
(ちなみに、愛する時、必ずしもその表れが優しさではないかもしれないことは理
 解しておくことが必要だと思います。)

コロサイのクリスチャンのように、信仰によって天国の希望を身近に持ち、その結
果として相互の愛も福音宣教も拡大していく、そのような歩みと証ができるように
と願わされます。





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コロサイ1章9節~14節

2007-08-05 01:07:37 | 奥義書講解(少忍レベル)コロサイの巻
9節
「そういうわけで」は、前節までのコロサイの信徒の信仰、希望、愛、福音の拡大のニュースを聞いたのでということを示す。それ以来パウロは頻繁に彼らの霊的成長のために祈り続けている。

祈りの内容は
第一に、コロサイ人が神の御心を知る知識に満たされるように、である。偽教師達も、9節で用いられている「知恵」「理解」「知識」という言葉をよく用いたが、パウロは「神の御心を知る」という言葉を加えることによってそれと区別している。

「満たされる」と訳されている語は、「完璧である」というニュアンスがある。それは、また船が出港前に準備を完璧に済ませる様子を表している。パウロがコロサイのクリスチャンのニュースを聞いた時、彼らはまだ新生したばかりのクリスチャンであったかもしれない。彼らがよく整えられてクリスチャンとしての歩みを始められたらという、霊的な親心があったであろう。我々も神の御心を知る知識が欠けていてはいけない。

10節
祈りの内容の第二は、コロサイ人が御心を知る知識を土台として、それを反映した行動、生活実践ができるように、である。

ルカ6章の良い木と良い実のたとえにおいて、「良い」というのは具体的には「食べられる」ということである。その元になっている語は「役に立つ、喜ばれる」という意味を含んでいる。神の御心を知り、それを実践に移すとき、それは神様に良い実として喜ばれることを示している。ルカ6章においては、それは「天の父が慈悲深いようにあなた方も慈悲深くありなさい」という命令に現れるように、神の似姿に創造された人間として、神の御性質を反映して生きることである。コロサイ1章10節のことばは、イエス・キリストの教えと同じ原則を確認している。

9節と10節で繰り返し用いられている語は「知識」を表す語である。「神の御心を知る知識に満たされ」そして「神についての知識を増し加え」という二つの表現はほぼ同義であるように思える。繰り返しは強調点を表す。偽教師はさらに霊の世界が開かれるためには、「知識」が必要だと説いた。しかし、実際に必要なのは、福音に現れる神についての知識で充分なのである。

11節
日本語の訳は分詞句を接続詞を補って前からの順接のように扱っているものが多いが、むしろ、前述の二つの祈りの付帯状況を示す句と考える方が自然に思われる。神の御心を知る知識に満たされることと、主にふさわしく生活することは、神の栄光ある権能によって力づけられながら実現されなければならない。偽教師が教えるような自分の努力や秘術、奥義と呼ばれるものを知ることによってではない。

神の権能によって力付けられることは、続く忍耐と寛容に向かうという性質を示さなければならない。迫害や信仰の成長に必要なあらゆる場面における忍耐と、迫害者もしくは主にある兄弟姉妹の過ちを赦す寛容が喜びと共になされなければならないと言っている。

原文ではここに前置詞句の形で「喜んで」という表現がある。これを日本語の聖書では次の12節を修飾する句として訳していることが多いが、先の忍耐と寛容を修飾し「喜びを伴う忍耐と寛容」と捉える方が自然に思われる。

逆に言えば、天国の希望に基づいた喜びを伴う忍耐と寛容を得ていなければ、その信仰生活の力の源は自分の肉から出ており、神の御力によっていないということになるだろう。そのような状態では、いくら「主を知る知識に満たされていて、主に喜ばれる生活の実践をしています!」と声高らかに宣言してしまうクリスチャンがいたとしても、それが真に神に拠り頼む信仰生活から出てきているかどうかはあやしい。

12節
ここでパウロは更に別の付帯状況を加えている。「父なる神に感謝をささげながら」である。原文ではその神がどのような方であるかが同格の名詞用法の分詞句で(多分・・・)説明されている。光の中にある聖徒の、相続分を受けるにふさわしい者としてくださった神である。

相続分を表す言葉は、くじ引きをするというニュアンスの言葉である。イスラエルの民がカナンの地の部族ごとの割り当て、相続の地をくじ引きで受け取ったことを連想させる。この割り当て、相続も神の恵みによって与えられたのであって、イスラエル人がそれに相応しい性質を備え持っていたからではなかった。我々クリスチャンも自分の中に相応しい性質があるからではなく、恵みによって相続分にあずかる資格が与えられたことを認識しなければならない。

13節
更にパウロは関係代名詞で父なる神の説明を続ける。その父なる神は私達を暗闇の支配、すなわちサタンの支配から救い出して、御子の支配に移してくださった。12節の「光の中にある聖徒」と「暗闇の支配」の対比のように、光と闇も偽教師が好んで用いた表現らしい。パウロはクリスチャン的光と闇の対比はどんなものかを示しているとも思われる。

「移す」という語は英語の訳ではtransfer などが使われている。昔の大国は、領土拡大に乗り出して、領土を獲得すると、その地の人々を違う領地の人々と入れ替えるようなことをした。イスラエル民族ならばアッシリヤやバビロンの捕囚を思い浮かべたであろう。しかし、父なる神は、我々を弱体化させるためではなく、聖徒の相続分にあずからせるために移し変えてくださったのである。

14節
13節に現れた「御子」の説明を関係代名詞で付加している。この御子によって贖われている。言い換えれば罪の赦しを得ている。


まとめ
中心的メッセージは11節にある、「神の栄光の権能によって力付けられ」ではなかろうかと糸田十八は思う。我々クリスチャンとしては、すべては神に源を発していなければならない。他の魅力的な教えとか、自分の努力によってはならない。

パウロのこの祈りはまた我々の祈りでなければならないと思う。自分のために、また主にある兄弟姉妹のために「神を知る知識に満たされるように」「神に相応しい実践の歩みができるように」と祈ることである。その祈りは神の力に拠り頼む姿勢と告白、また、神様のして下った御業への喜びと感謝と共にささげられなければならない。

この箇所にも、前のレスでお分かちした「信仰、希望、愛」の流れが見出されると思う。神の御心を知る真の知識はクリスチャンであれば聖書に求めるべきである。聖書に慣れ親しもう。





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コロサイ書ノート

2007-08-05 01:03:28 | 奥義書講解(少忍レベル)コロサイの巻
パウロが自身がコロサイ書の記者であることを名乗っている。エペソ書、ピリピ書
ピレモン書と並んで獄中書簡に数えられる。ローマの獄中で書かれたとするのが最
も有力な説とされる。すると年代は60~64頃ということになる。

コロサイの教会は、パウロのエペソでの3年間の宣教の実であったエパフラスが、
おそらく故郷であるコロサイに戻って宣教した結果でろう。

コロサイ書の主題は、全てに勝る主なるイエス・キリストである。コロサイの教会
には幾つかの異端的教えが入ってきていたために、エパフラスが指示を求めたので
あろう。異端の教えの中ではキリストの神性や優位性を否定されていたので、この
書簡ではその点を正す部分が強くあらわれることになった。





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