コロサイ書3章1~4節
構成
1節でパウロが与えている指示、命令と、それに伴う補足説明がこの部分の中心である。
2節~4節は1節の各部分を補強説明している。
1節
「こういうわけで」は、前の「偽教師の教えは無価値である」という部分を受けている。指示の中心は「上にあるものを求めなさい」である。「求める」という語は、他に「見つけるために探す、解明するために思索する、目指して努力する、権利として要求する、切望する」という意味を持つ。この指示を考えるにおいては、どれも意味の有るものと言える。また、この動作は継続的動作である。この地上に生きる限り、倦むことなく求め続けるのである。
この指示の大前提は、「キリストとともによみがえらされている」というクリスチャンの立場である。「上にあるもの」を求める理由は何か。それは、クリスチャンがキリストとともによみがえらされ、そのキリストが「上」におられるからである。
「神の右に座しておられる」というパウロの補足説明は大事である。「上にあるもの」は、聖書的に幾つか考えられるのであるが、パウロが読者に最初に思い起こさせたいことが、ここから理解できる。
勿論これは象徴的表現である。神は遍在されるし、父、御子、御霊は一つであるから、実際には神の「右」とか「左」とかいうことは無い。右は法廷における弁護人の位置であった。キリストはヘブル書を見れば、天における大祭司として私達のために執り成しをしてくださっている。サタンがクリスチャンの罪を追及しようが、偽教師がクリスチャンを罪に定めようが、キリストが大祭司として執り成しをし、弁護をしてくださるのである。クリスチャンは偽教師達が責め立てたように、「罪」があるのでもなければ「未完成」なのでもない。キリストと共によみがえらされて、神との関係の回復を完全に成し遂げているのである。
「神の右に座しておられる」という表現は、その一点のみならず、そこにいたるまでのキリストの受肉、宣教、受難、復活、昇天の全過程を念頭に入れている。神の国の到来と救いの成就の全体を視野に入れていることになる。
他に考えられる「上にあるもの」を列挙しよう。第一に、キリストがヨハネによる福音書で約束された天の家、場所。これは定住するところや、壁に囲まれた居住区、町なども意味する語。第二に、天国での報酬。ルカ6章では、キリストのために迫害を受けるものへの天国の報酬は大きいとされている。第三に、キリストの再臨の時に与えられる、キリストと同じような「栄光の体」。第四に、たとえまだこの地上で生きるとしても、すでに「われらの国籍は天にあり」、クリスチャンはすでに天に市民権を持っていて、その特権を行使することができるという霊的事実。これらはすべて、キリストと共によみがえらされているということによって求めること可能になった。
この地上で「上にあるものを求め続ける」生活において、クリスチャンが何を見出すことができるかは、完全には示されていない。しかし、それが少しでも多く見出され、教会に、またこの世界に広げられることを願うものである。
2節
「上にあるものを思いなさい」という指示が繰り返されている。繰り返しは強調である。1節の指示が大事な指示であり、この部分の中心であることを補足している。
1節の「求めなさい」とは異なった「思いなさい」という語であるが、中心的な意味はほぼ同様である。ニュアンスは「理解する、感じる、考える、同意して尊重する、心を向ける、探す、目指す、その方に立つ、味方する」となり、1節の「求める」のあり方を補足している。
パウロは更に「地上のもの」を思うのではないことを補足し、明確化している。2章20~23節において、偽教師の教えは「この世のもの」すなわち「地上のもの」であることは指摘済みである。偽教師の教えを思い巡らさないように釘を刺しているのである。
3節
1節における「キリストとともによみがえらされた」という部分を補足している。「すでに死んでおり」という部分は完了した動作である。罪に対しては死んだものとなった。それは神によってなされた業である。それは、罪をもう犯さないという意味ではない。罪の責めをもはや負わない者になったということである。
「キリストとともに、神のうちに隠されている」とある。隠されているという語は、他に「覆い隠されたままである、施錠して保管されている」というニュアンスがある。クリスチャンはキリストのうちにそのように隠されているのであるから、罪の責めを負うことも無く、安全に守られているということである。偽教師の教えに恐れを感じたり怯えたりしなくて良いのである。クリスチャンは未完成ではなく、その救いは揺ぎ無く確保されたのである。
だから、「地上のもの」に属する偽教師の教えに心を煩わされる必要は無く、「天にあるものを思う」ことに専心できるというわけである。
4節
ここも1節における「キリストとともによみがえらされた」という部分を補足している。それがキリストの来臨のときに結び付けられている。また、3節の「隠されている」を受けて、ここでは「現れる」という表現が用いられ、対を成している。
クリスチャンはキリストとともによみがえらされ、キリストともに神のうちに隠されている。だから、キリストの再臨の時には、同様に、「栄光のうちに」現わされるのである。その時、天の民としての栄光、栄誉を受け、キリストと同じ栄光の体を与えられるからである。これが先に確認した「上にあるもの」と併せて、クリスチャンの希望なのである。
クリスチャンは霊の目で見る時は、キリストとともに天に座している。しかし、現在我々はキリストを視認できないのと同じように、天でキリストとともに神のうちに隠されているクリスチャンの状態もはっきり確認したり、知ることはできない。しかし、キリストの再臨の時にそれは現わされ、クリスチャンもはっきり知るところとなる。その希望の確認である。
2章19節で示唆されているように、キリストは頭であり、教会、またクリスチャンはその体である。キリストが救いを成し遂げ、大祭司として神の右に座しているならば、体である教会、またクリスチャンも同様にその位置を占めているのである。だから、この希望は当然の希望である。
考察
「上にあるもの」を思い、それが反映されたクリスチャンの生活の全体像は知りえないであろう。しかし、求め続ければ、それは少しずつクリスチャンの生活の中に反映され、広げられていく。それを期待して「上にあるもの」を目指し続け、クリスチャンの当然の権利として要求し続けよう。
「上にあるもの」を思う結果、それが反映された生活の基本的な概念については、5節以降に示されている。
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構成
1節でパウロが与えている指示、命令と、それに伴う補足説明がこの部分の中心である。
2節~4節は1節の各部分を補強説明している。
1節
「こういうわけで」は、前の「偽教師の教えは無価値である」という部分を受けている。指示の中心は「上にあるものを求めなさい」である。「求める」という語は、他に「見つけるために探す、解明するために思索する、目指して努力する、権利として要求する、切望する」という意味を持つ。この指示を考えるにおいては、どれも意味の有るものと言える。また、この動作は継続的動作である。この地上に生きる限り、倦むことなく求め続けるのである。
この指示の大前提は、「キリストとともによみがえらされている」というクリスチャンの立場である。「上にあるもの」を求める理由は何か。それは、クリスチャンがキリストとともによみがえらされ、そのキリストが「上」におられるからである。
「神の右に座しておられる」というパウロの補足説明は大事である。「上にあるもの」は、聖書的に幾つか考えられるのであるが、パウロが読者に最初に思い起こさせたいことが、ここから理解できる。
勿論これは象徴的表現である。神は遍在されるし、父、御子、御霊は一つであるから、実際には神の「右」とか「左」とかいうことは無い。右は法廷における弁護人の位置であった。キリストはヘブル書を見れば、天における大祭司として私達のために執り成しをしてくださっている。サタンがクリスチャンの罪を追及しようが、偽教師がクリスチャンを罪に定めようが、キリストが大祭司として執り成しをし、弁護をしてくださるのである。クリスチャンは偽教師達が責め立てたように、「罪」があるのでもなければ「未完成」なのでもない。キリストと共によみがえらされて、神との関係の回復を完全に成し遂げているのである。
「神の右に座しておられる」という表現は、その一点のみならず、そこにいたるまでのキリストの受肉、宣教、受難、復活、昇天の全過程を念頭に入れている。神の国の到来と救いの成就の全体を視野に入れていることになる。
他に考えられる「上にあるもの」を列挙しよう。第一に、キリストがヨハネによる福音書で約束された天の家、場所。これは定住するところや、壁に囲まれた居住区、町なども意味する語。第二に、天国での報酬。ルカ6章では、キリストのために迫害を受けるものへの天国の報酬は大きいとされている。第三に、キリストの再臨の時に与えられる、キリストと同じような「栄光の体」。第四に、たとえまだこの地上で生きるとしても、すでに「われらの国籍は天にあり」、クリスチャンはすでに天に市民権を持っていて、その特権を行使することができるという霊的事実。これらはすべて、キリストと共によみがえらされているということによって求めること可能になった。
この地上で「上にあるものを求め続ける」生活において、クリスチャンが何を見出すことができるかは、完全には示されていない。しかし、それが少しでも多く見出され、教会に、またこの世界に広げられることを願うものである。
2節
「上にあるものを思いなさい」という指示が繰り返されている。繰り返しは強調である。1節の指示が大事な指示であり、この部分の中心であることを補足している。
1節の「求めなさい」とは異なった「思いなさい」という語であるが、中心的な意味はほぼ同様である。ニュアンスは「理解する、感じる、考える、同意して尊重する、心を向ける、探す、目指す、その方に立つ、味方する」となり、1節の「求める」のあり方を補足している。
パウロは更に「地上のもの」を思うのではないことを補足し、明確化している。2章20~23節において、偽教師の教えは「この世のもの」すなわち「地上のもの」であることは指摘済みである。偽教師の教えを思い巡らさないように釘を刺しているのである。
3節
1節における「キリストとともによみがえらされた」という部分を補足している。「すでに死んでおり」という部分は完了した動作である。罪に対しては死んだものとなった。それは神によってなされた業である。それは、罪をもう犯さないという意味ではない。罪の責めをもはや負わない者になったということである。
「キリストとともに、神のうちに隠されている」とある。隠されているという語は、他に「覆い隠されたままである、施錠して保管されている」というニュアンスがある。クリスチャンはキリストのうちにそのように隠されているのであるから、罪の責めを負うことも無く、安全に守られているということである。偽教師の教えに恐れを感じたり怯えたりしなくて良いのである。クリスチャンは未完成ではなく、その救いは揺ぎ無く確保されたのである。
だから、「地上のもの」に属する偽教師の教えに心を煩わされる必要は無く、「天にあるものを思う」ことに専心できるというわけである。
4節
ここも1節における「キリストとともによみがえらされた」という部分を補足している。それがキリストの来臨のときに結び付けられている。また、3節の「隠されている」を受けて、ここでは「現れる」という表現が用いられ、対を成している。
クリスチャンはキリストとともによみがえらされ、キリストともに神のうちに隠されている。だから、キリストの再臨の時には、同様に、「栄光のうちに」現わされるのである。その時、天の民としての栄光、栄誉を受け、キリストと同じ栄光の体を与えられるからである。これが先に確認した「上にあるもの」と併せて、クリスチャンの希望なのである。
クリスチャンは霊の目で見る時は、キリストとともに天に座している。しかし、現在我々はキリストを視認できないのと同じように、天でキリストとともに神のうちに隠されているクリスチャンの状態もはっきり確認したり、知ることはできない。しかし、キリストの再臨の時にそれは現わされ、クリスチャンもはっきり知るところとなる。その希望の確認である。
2章19節で示唆されているように、キリストは頭であり、教会、またクリスチャンはその体である。キリストが救いを成し遂げ、大祭司として神の右に座しているならば、体である教会、またクリスチャンも同様にその位置を占めているのである。だから、この希望は当然の希望である。
考察
「上にあるもの」を思い、それが反映されたクリスチャンの生活の全体像は知りえないであろう。しかし、求め続ければ、それは少しずつクリスチャンの生活の中に反映され、広げられていく。それを期待して「上にあるもの」を目指し続け、クリスチャンの当然の権利として要求し続けよう。
「上にあるもの」を思う結果、それが反映された生活の基本的な概念については、5節以降に示されている。
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