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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

イサクとイシマエルのたとえ(ガラテヤ書四章二十一節~三十一節)

2012-09-30 09:34:10 | 忍者的思索・一般
 ガラテヤの教会の問題は、律法主義者がその教えを広めて影響力を強め、多くの信徒がそれに従って行ったことだと考えられます。

 パウロは、救いをもたらすのは律法を守ることではないことを、言葉を尽くして説明していますが、後半に入ったところでこのたとえを挙げています。ガラテヤのクリスチャン達の中心はユダヤ人ではありませんでしたが、他の初代教会の人々と同様に、私達が言うところの旧約聖書を一生懸命学んでいましたし、それがモーセ五書の中に有るエピソードでありますから、このたとえははっとさせるような効果が有ったのではないかと思います。

 今回は、イシマエルを中心にして、このたとえが如何にガラテヤに有った律法主義と福音の衝突の問題に合致しているかを再確認してみようと思います。奥義書を開いて該当箇所の内容を確認しながらお読みください。

イシマエル:ここではガラテヤ教会における律法主義の教えや律法主義者の象徴として取り上げられています。
 
 第一に、イシマエルがここで取り上げられる理由は、彼が神の約束の結果ではなくて、人間の努力によって生まれたということにあります。アブラハムは、約束の子孫がサラから与えられる約束を信じきれなかったようで、サラの言葉を受け入れて、ハガルを通してイシマエルを得ました。神による救いの約束であるメシア、イエス・キリストを信じる信仰では救いは達成できないとする姿勢は、神の約束を信じないで人間的努力をする当時の律法主義に結実し、イシマエルの状況と合うと考えられます。
 第二の理由は、先に生まれたイシマエルが乳離れの祝いの時に、イサクをからかっていたということにあります。母親のサラが不快感を表したところを見ると、いじめに近いようなやり方であったのかもしれません。同様に、先に成立したユダヤ教の教えを福音に混ぜるように強要していた律法主義者たちが、福音に入れられた異邦人クリスチャン達を、不完全で足りない者として見下し、割礼などを受けなければ救われないなどと教えていました。中には、それを受け入れて律法主義に走ってしまう信徒もいました。それは、先に福音を宣教した人達や、それを守るように努めて指導していた人達と、福音を受け入れて間もない人々にとっては、大変な圧迫であったでしょう。
 第三の理由は、イシマエルはイサクと一緒に居ることが許されず、追い出されたということです。イエス・キリストへの信仰によって救われるという奥義を、人間の努力である割礼や戒律の遵守によらなければ救われないという教えで乱すことは、異端を広める行動として退けられるべきものでした。

ガラテヤの教会の人々にとって、これは大変理解し易いたとえの提示であったと思われます。

なお、これはたとえであって、イシマエル個人が貶められるべきではないと思います。その名前の意味は「主は聞かれる」ということで、聖書中には他にもイシマエルと名づけられた人がいます。




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『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』

2012-09-29 22:56:37 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 「自己犠牲からの解放の話ではない。」というタイトルで、この旧約聖書の表現については、以前も扱ったことが有りますが、もう一度取り上げてみようと思います。その時と同じカテゴリーでのアップとさせていただきます。

その時の記事はこちらです。
     ↓
http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/185abb05aefae9761718e533b44ac420


 マタイ伝ではこの表現が二回引用されていますが、それが同じ理解や意味合いになっているだろうかということを確認してみたいと思います。

 先ず、この引用はどこから来ているのかを再確認します。

 キリストの時代に近い所からから確認すると、ホセア書6:6にこの表現が見出されます。

『わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。』

 ここでは、背信のイスラエルとユダに対する裁きや警告の言葉です。文字通りに理解すれば、祭司達でさえ人の暴虐を働き、人々は偶像礼拝にふけっていたのですが、偽りの悔い改めの告白をして、神殿で犠牲を奉げたりしていました。神様は、そんな犠牲より、暴虐から離れることの方を喜び、神様の教えに忠実に生きることを喜ぶと言っています。

 更に時代を遡れば、1サムエル15:22にこの表現が出てきます。こちらがホセア書の表現の背景になっていると考えることができます。
『サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。 」

 サウル王が神様の命令に聞き従わず、アマレクの家畜を滅ぼさなかったばかりか、それを神様に奉げる犠牲のために取り分けたと言い訳をした時に、サムエルを通して下された神様の宣告です。サウルは王位から退けられることも語られました。


 それではマタイ伝での引用を確認します。

『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 収税人であったマタイがキリストの弟子となって、仲間を集めてキリストと食事をしていたところに、パリサイ人たちが来て、どうして罪人たちと食事をするのかと尋ねた時に用いられています。
 また、弟子達が安息日に麦の穂を摘んで食べていたことをパイサイ人達が責めた時にもイエスはこの言葉で彼らへの回答を締め括っています。
(マタイ 9:13、12:7)

 この二つの例から考えると

いけにえ:心も神の愛の理解も伴わない律法の実践により、人を罪に定めて苦しめること
あわれみ:神の心・神の愛を理解して実行に移し、間違った束縛から解放すること

                            と考えてよいと思います。

 それぞれの場合にそれが当てはまることを確認してみましょう。

1・収税人との食事の時
  いけにえ:罪人と食事を共にしてはいけないという伝統的な実践
罪人と断罪するというのは、滅びるべき存在に決まっていると決め付けている部分が有りました。しかし、そんな判断を一方的にされる筋合いは無いのではないでしょうか。全ての収税人が不正を働いていたとは考えられません。しかし、異邦人に仕えることを選んだ収税人であるということだけで、十分滅びるべき存在だと思われていたようです。
  
  あわれみ:この場合は、ユダヤ人社会から見捨てられるような収税人を、同胞、同じ神に選ばれたユダヤ人として、また仲間として、神の祝福の中に受け入れること

2・安息日に麦の穂を摘んで食べた時
  いけにえ:実際にモーセの律法には規定されていないことなのに、長老の律法や伝統によって、弟子たちの行為を罪であると断じたこと

  あわれみ:旅をする者や貧しい者が空腹を満たすという当然の行為を受け入れること
鎌を使ってはならないのですが、そういう人達が他人の畑の穂を摘んで食べることは、律法においても許されている行為でした。





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説教について再確認

2012-09-23 21:17:59 | 奉樂(賛美)の覚書
 説教については以前にもこのカテゴリーで触れたことが有ると思いますが、もう一度確認しておきたいと思います。

 キリスト教会は、文化的歴史的背景の研究や礼拝学の視点からしても、シナゴーグの実践に倣ったところが幾つか有ります。初代教会が長老や執事を置いたのも、シナゴーグの実践に倣った部分が有ります。それが自然であったから、直接の使徒であったペテロやヨハネも自分達を長老と称し、七人の執事を任命しましたし、後から特別に使徒に加えられたパウロも長老と執事の任命について、牧会書簡で指示を出しています。

 シナゴーグの実践の発展やキリスト教への継承は、神様の戦略的なお導きであったと思います。それは、イエスが世に送られ、異邦人が救いに入るようになり、福音が世界に広がっていく時に大きな助けになる部分が有ったからであろうと思います。
 
 説教についても、そういう背景と導きが有ると思われます。モーセを通して律法が与えられた時でも、人々は律法を読み、口ずさむことを要求されました。それが、ネヘミヤとエズラを通して律法の解説が組織的になされるようになり、シナゴーグにもそれが引き継がれて行ったと考えられます。
 イエスはあちこちで神の国の福音を伝え、教えましたが、シナゴーグで教えられる時にはそのような実践を守られた様子が伺われます。イザヤ書を読まれて、それがご自身についての預言であること、それが成就したことを解説しておられます。

 パウロは、テモテに対して「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに解き明かす、はじることのない働き人として、自分を神にささげるように、努め励みなさい。」(2テモテ2:15 新改訳)と指示をしています。説教の基本はまっすぐな解き明かし、解説であると言えるでしょう。そして、それは、礼拝学的にも意味の有ることであります。

 説教は、牧師が教えて信徒が学ぶという側面が無いわけではありませんが、それが主であってはなりません。説教は、礼拝の一形式であることが主であって、教えの面はそれに比べた時には副次的なものと理解されるべきです。みことばを特別啓示として人間に与えてくださった神様を敬う意味で、それを朗読し、また、敬意を持ってその意味を確認し、みことばを啓示してくださった神を褒め称え、また、みことばに現れる神の御心に感謝して従順して行くのが私達の説教における礼拝の姿勢です。ですから、説教はまっすぐな解き明かしである講解説教が聖書的な礼拝形式としての説教であると考えるべきであると思います。







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ドラムスの奉仕で

2012-09-23 19:31:33 | 奉樂(賛美)の覚書
 随分前の話ですが、礼拝でドラムスの奉仕の当番であった時に、特別賛美の方から、「バンドの賛美が終ったらスネアドラムはひっくり返して布を置いてください。」というようなことをお願いされたことがありました。普通は聞くことのない要求をされて一瞬面食らいました。それから、多分これはスナッピーが共鳴するのを避けたいということだなと思いまして、そういう音が出なければいいのだろうということを確認して、スナッピーを緩めることで対処させていただきました。
 スネアドラムは、独特の衝撃音を出すために、裏側のヘッドに波打った金属の線が何本か張ったものを接するように設定する仕組みが有ります。それをスナッピーと呼んでいます。このスナッピーは、周囲で大きな音が出ると、スネアドラムのヘッドの共鳴もしくはスナッピーの共鳴が起きて、ジーとかザーというような音が出てしまうことが有ります。
 ドラムスの奉仕者は、そのことが礼拝の妨げにならないように気をつける必要が有ります。礼拝の始まりや祈りの時に比較的大きなオルガンの音が演奏されるとか、特別賛美で比較的大きな音が出る金管楽器が用いられる時に、このような雑音が聞こえますと、祈りや賛美の思いが乱されることがあります。
 そういうわけで、ドラムス奉仕者は、リハーサルが済んだところで一度スナッピーを解除しておくのが良いと思います。また、礼拝での賛美の時間が終わったところでも、スナッピーを解除しておくのがよいでしょう。



 また違った話です。ベースやギターなどの楽器は、演奏する指や手が直接的に楽器に触っています。しかし、ドラムスの場合はスティックを介して音がでるようになっています。ある意味では、演奏をコントロールしている手と、実際に音を出す楽器との距離が少しばかり大きい楽器ということができます。すると、時には感覚の狂いが生じることが有り、それが重なると全体的には少々煩わしい感じがするような乱れにつながる場合が有ります。
 それを避けるためには、とりあえず二つのことができるのではないかと思っています。それは、叩くパーツを変える時には、なるべく打点を目で追うことです。また、叩くパーツが変わる時には、もとの手の位置から突然そちらのパーツに移動するようなモーションは避け、叩いている腕や手の移動がリズミカルで流れるような移動になることを心がけることだと思います。その集中して見ることや、流れに乗せて移動していくことも、賛美の姿勢であり、あなたの奉げ物であると私は考えています。





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説教第一次産みの苦しみ状態

2012-09-11 22:56:37 | 気まぐれ忍務報告
お世話になっている大忍のご紹介で知り合ったとある単里で、二月に一度程説教のご奉仕をさせていただいております。

それで、次の説教の準備を始めたいのですが、どの聖書箇所から語ればよろしいのか、まだ示されておりません。
この箇所はどうかな、と思うようなものも有りましたが、シリーズで扱っていないと唐突な感じのするものでしたので、断念。

一週間以上思い巡らしていますが、なかなかこれだと確信の持てる箇所が見つかりません。
という訳で、現在の私の状況が、説教における第一次産みの苦しみ状態ではないかと思うわけです。

特定の書を取り上げて順番に説教する場合は、自動的に次の箇所が決まるので心配無いのですが、現在の頻度では、そのやり方は合わないと思うのです。この戦い?はしばらく続きそうです。


因みに、第二次産みの苦しみはどんなことかと申しますと、説教箇所の研究、吟味が終わったのに、なかなか主題とポイントを絞り込めないことだと思っております。私の恩師も、説教の授業の中で、明日説教という日に、そういうまとめができなくて、ついに涙をこぼしてしまったという体験を語ってくださったことがありました。祈って祈ってようやく主題に気づいて、安心と感謝のうちに床につけたということでした。







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