私が賛美の奉仕を始めた頃から留意していたことが有るのですが、以前私が在籍していた単里の大忍も、また、現在の奉仕している単里の大忍も、私と同じ理解をしており、また、それを里の衆に指導していました。
礼拝の中で賛美の奉仕が有ると、その終わりに会衆が拍手をすることが殆どどこの里でも有るのではないかと思います。この拍手の礼拝の表現における意味を確認させていただきたいと思います。
このような拍手は、賛美の奉仕者への称賛や労いの拍手ではありません。もしそういう気持ちで拍手しておられたら、改めなければならないことだと言わせていただきたいと思います。
賛美の奉仕の後の拍手は、賛美の中で表現された神の素晴らしさ、神への賛美にアーメンと同意することであり、その賛美を通して讃えられた神に捧げる礼拝の表現としての拍手であることが第一の意義でなければなりません。
礼拝は、公同の礼拝であり、また、共同体としての礼拝です。賛美の奉仕者は、会衆から離れて成立しているのではなく、会衆と一体なのです。彼らは、例えて言えば、代表祭司のような立場で捧げ物をする人(達)です。ですから、会衆は、コンサートの聴衆のようにその賛美に耳を傾けていてはいけません。その賛美に表される神への信仰、敬虔な思いや賛美の表現を理解することに努め、そこに自分の気持ち、感謝や礼拝の言葉、祈りの言葉を合わせていかなければなりません。そして、会衆が代表祭司である賛美奉仕者(達)の捧げ物への「アーメン、ハレルヤ」という同意の集大成としてその終わりに拍手を主に捧げるのです。
現在私が奉仕している里では、賛美の奉仕の直後に拍手を捧げることはせず、大忍が講壇に立って、「主に栄光を捧げる拍手をいたしましょう。」と言って、拍手の意味を確認してから拍手を捧げることになっています。
代表祭司として奉仕をした賛美奉仕者達を労いたい、励ましたいと思う時は、礼拝の後にそれを表現するのが良いと思います。その時も、言葉は慎重に選ぶ必要が有ると思います。「素晴らしい賛美でした。」という言い方は避ける方が良いと思います。真実に素晴らしいのは、賛美ではなく、賛美に表された主であるはずです。私自身は、賛美の奉仕の後にそう言われた時、「感謝します。でも、素晴らしいのは主です。」とお答えしたことが何度か有ります。
では、どんな言葉が主の栄光を盗まずに賛美奉仕者を労い、励まし、もしくは祝福する言葉になるのでしょうか。決まった言い方が有るわけではありませんが、好感を持って聞いた言い方を書いてみます。「主に対する誠実なご奉仕でしたね。」というようなお言葉をいただいたことが有るような気がします。「礼拝の霊的な流れによく合っていて、御霊の一致を感じました。」という言い方も聞いたことが有るように思います。「主だけを見上げて、賛美の心に溢れていました。」と表現してくださった方もいらっしゃいました。もっと主を知って奉仕したい、もっと御霊の一致の中で奉仕したい、もっと忠実で誠実な礼拝者でありたいと互いに願わされるような言葉が選ばれるべきではないかと思います。
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礼拝の中で賛美の奉仕が有ると、その終わりに会衆が拍手をすることが殆どどこの里でも有るのではないかと思います。この拍手の礼拝の表現における意味を確認させていただきたいと思います。
このような拍手は、賛美の奉仕者への称賛や労いの拍手ではありません。もしそういう気持ちで拍手しておられたら、改めなければならないことだと言わせていただきたいと思います。
賛美の奉仕の後の拍手は、賛美の中で表現された神の素晴らしさ、神への賛美にアーメンと同意することであり、その賛美を通して讃えられた神に捧げる礼拝の表現としての拍手であることが第一の意義でなければなりません。
礼拝は、公同の礼拝であり、また、共同体としての礼拝です。賛美の奉仕者は、会衆から離れて成立しているのではなく、会衆と一体なのです。彼らは、例えて言えば、代表祭司のような立場で捧げ物をする人(達)です。ですから、会衆は、コンサートの聴衆のようにその賛美に耳を傾けていてはいけません。その賛美に表される神への信仰、敬虔な思いや賛美の表現を理解することに努め、そこに自分の気持ち、感謝や礼拝の言葉、祈りの言葉を合わせていかなければなりません。そして、会衆が代表祭司である賛美奉仕者(達)の捧げ物への「アーメン、ハレルヤ」という同意の集大成としてその終わりに拍手を主に捧げるのです。
現在私が奉仕している里では、賛美の奉仕の直後に拍手を捧げることはせず、大忍が講壇に立って、「主に栄光を捧げる拍手をいたしましょう。」と言って、拍手の意味を確認してから拍手を捧げることになっています。
代表祭司として奉仕をした賛美奉仕者達を労いたい、励ましたいと思う時は、礼拝の後にそれを表現するのが良いと思います。その時も、言葉は慎重に選ぶ必要が有ると思います。「素晴らしい賛美でした。」という言い方は避ける方が良いと思います。真実に素晴らしいのは、賛美ではなく、賛美に表された主であるはずです。私自身は、賛美の奉仕の後にそう言われた時、「感謝します。でも、素晴らしいのは主です。」とお答えしたことが何度か有ります。
では、どんな言葉が主の栄光を盗まずに賛美奉仕者を労い、励まし、もしくは祝福する言葉になるのでしょうか。決まった言い方が有るわけではありませんが、好感を持って聞いた言い方を書いてみます。「主に対する誠実なご奉仕でしたね。」というようなお言葉をいただいたことが有るような気がします。「礼拝の霊的な流れによく合っていて、御霊の一致を感じました。」という言い方も聞いたことが有るように思います。「主だけを見上げて、賛美の心に溢れていました。」と表現してくださった方もいらっしゃいました。もっと主を知って奉仕したい、もっと御霊の一致の中で奉仕したい、もっと忠実で誠実な礼拝者でありたいと互いに願わされるような言葉が選ばれるべきではないかと思います。


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