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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

賛美の奉仕の後の拍手

2009-01-30 17:26:49 | 奉樂(賛美)の覚書
私が賛美の奉仕を始めた頃から留意していたことが有るのですが、以前私が在籍していた単里の大忍も、また、現在の奉仕している単里の大忍も、私と同じ理解をしており、また、それを里の衆に指導していました。

礼拝の中で賛美の奉仕が有ると、その終わりに会衆が拍手をすることが殆どどこの里でも有るのではないかと思います。この拍手の礼拝の表現における意味を確認させていただきたいと思います。

このような拍手は、賛美の奉仕者への称賛や労いの拍手ではありません。もしそういう気持ちで拍手しておられたら、改めなければならないことだと言わせていただきたいと思います。

賛美の奉仕の後の拍手は、賛美の中で表現された神の素晴らしさ、神への賛美にアーメンと同意することであり、その賛美を通して讃えられた神に捧げる礼拝の表現としての拍手であることが第一の意義でなければなりません。

礼拝は、公同の礼拝であり、また、共同体としての礼拝です。賛美の奉仕者は、会衆から離れて成立しているのではなく、会衆と一体なのです。彼らは、例えて言えば、代表祭司のような立場で捧げ物をする人(達)です。ですから、会衆は、コンサートの聴衆のようにその賛美に耳を傾けていてはいけません。その賛美に表される神への信仰、敬虔な思いや賛美の表現を理解することに努め、そこに自分の気持ち、感謝や礼拝の言葉、祈りの言葉を合わせていかなければなりません。そして、会衆が代表祭司である賛美奉仕者(達)の捧げ物への「アーメン、ハレルヤ」という同意の集大成としてその終わりに拍手を主に捧げるのです。

現在私が奉仕している里では、賛美の奉仕の直後に拍手を捧げることはせず、大忍が講壇に立って、「主に栄光を捧げる拍手をいたしましょう。」と言って、拍手の意味を確認してから拍手を捧げることになっています。

代表祭司として奉仕をした賛美奉仕者達を労いたい、励ましたいと思う時は、礼拝の後にそれを表現するのが良いと思います。その時も、言葉は慎重に選ぶ必要が有ると思います。「素晴らしい賛美でした。」という言い方は避ける方が良いと思います。真実に素晴らしいのは、賛美ではなく、賛美に表された主であるはずです。私自身は、賛美の奉仕の後にそう言われた時、「感謝します。でも、素晴らしいのは主です。」とお答えしたことが何度か有ります。
 では、どんな言葉が主の栄光を盗まずに賛美奉仕者を労い、励まし、もしくは祝福する言葉になるのでしょうか。決まった言い方が有るわけではありませんが、好感を持って聞いた言い方を書いてみます。「主に対する誠実なご奉仕でしたね。」というようなお言葉をいただいたことが有るような気がします。「礼拝の霊的な流れによく合っていて、御霊の一致を感じました。」という言い方も聞いたことが有るように思います。「主だけを見上げて、賛美の心に溢れていました。」と表現してくださった方もいらっしゃいました。もっと主を知って奉仕したい、もっと御霊の一致の中で奉仕したい、もっと忠実で誠実な礼拝者でありたいと互いに願わされるような言葉が選ばれるべきではないかと思います。






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雅歌二章一節の解説を読んで

2009-01-27 05:45:53 | Weblog
知り合いの大忍の方に紹介されて、聖書の翻訳宣教師をなさっている方のサイトを見ました。そして、下のリンクのページに、雅歌二章一節に関する文を見つけました。



http://www.geocities.jp/a_m_k_mon/a-b.html
「わたしはシャロンのばら、野のゆり」雅歌2章1節

 「ばら」とか「ゆり」と訳された語が実際に何の花を指すのか、今では良くわからないようです。調べてみますと、これは高らかな宣言ではなく、むしろ謙遜表現と思われます。日本風に言い換えれば、「わたしは道ばたのタンポポ、小さなすみれみたいなものよ。」というようなことになるでしょうか。     2007.09.19



私の何がこの文章に揺り動かされたのか、自分でもよくわからないのですが、しばらく涙が止まりませんでした。私の深層意識が、この日本風な表現の中に、神様の愛を感じたからかもしれません。でも、それがずばり、私の心を動かしたものとも思えません。でも、私には、こうやって書き留めておかずにはいられないような体験でした。







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ただ主の指示に従う信仰 (ルカ伝十七章五節~十節)

2009-01-20 16:32:21 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
五節
弟子達はキリストに「私達の信仰を増してください。」と言いました。それは前の節までのキリストの教えに関連しています。キリストの弟子達は「気を付けていなければならない」のです。そして、兄弟、他の弟子達が罪を犯したら、諌めなければならないし、自分に対して罪を犯した後でやってきて悔い改めるならば、赦さなければならないのです。弟子達はそれを聞いて、罪を犯した兄弟を諌めたり、自分に対して罪を犯して悔い改める兄弟を赦さなければならないとは、難しくて到底このままではできないことだ、と思ったのです。だから、キリストの言いつけを守れるように、信仰を増して欲しいと願い出たのです。

六節
キリストので弟子達への答えは、多分予想とは違ったものであったでしょう。弟子達の予想は、おそらく、キリストが弟子達に信仰が増し加えられるように、祝福の祈りなどをしてくれるというようなことであったと思われます。しかし、キリストは、とても短い植物を用いた例話で、別のことを教えました。
 最初に出てくるのは、からし種です。からし種は、パレスチナで見られる種子の中では一番小さいものです。次に出てくるのは、桑の木です。日本で見られる桑とは違う品種かもしれませんが、パレスチナでは身近な植物で、その特徴は、根がとても強くて、広く深くはるということです。ですから、そういう桑の木を引き抜くというのは、殆ど不可能に近いことなのです。その根の強さで、樹齢が六百年ぐらいにまでなるという説明をしている注解も有ります。
 キリストはこの例話で何を教えたのでしょうか。
 「からし種ほどの信仰が有ったなら」と言っています。からし種は確かに小さいかもしれませんが、きちんと発芽して成長します。つまり、からし種に命が有れば、大きさなどは関係無いのです。同様に、信仰は持っていさえすれば、そして、それを働かせさえすれば、結果が伴うのです。増し加えられるようなものではないのです。ただ、信仰でありさえすれば良いのです。
 桑の木を抜くのはその根の強さのせいで殆ど不可能です。大勢の人や牛馬を使えば抜けるでしょうが、それは大儀なことです。これは、躓きが起きないように気を付け、兄弟を諌めたり、赦したりするのが困難だと考えた弟子達の心の持ち方を表しています。しかし、信仰を働かせさえすれば、諌めることも赦すこともできるのだとキリストは言っているのです。それを、目の前に有る桑の木が、近くにあるガリラヤ湖にでも移ってしまうと表現しているのです。
 ここで一つ確認しておくべきことが有ります。信仰とは何かということです。信仰を表す言葉の持つニュアンスは、信じること、信頼することの他に、忠実であること、忠誠を尽くすことという部分も含まれているのです。ですから、この例えは、もし命令を下した方が神であると知っているならば、信じているならば、また、その方を信頼し、忠誠を尽くすべき神だという認識が有るならば、ただその心構えから、それを行動に現すだけで、その弟子の恐れる困難は困難でなくなるはずだということです。逆に言えば、それだけの神への信頼と帰依がなければならないということです。

七節、八節
ここからキリストは、関連するもう一つの例話を示します。しもべもしくは奴隷と主人との関係を示して、キリストの弟子と神との関係を確認しているのです。
 しもべや奴隷が耕作や羊の群れの世話から帰ってきたということは、そんなに楽ではないその日の仕事をやり終えてきたということです。ですから、彼らは疲れているかもしれません。しかし、だからと言って、主人は彼らに食卓に着くようには言いません。しもべや奴隷は、あくまでも主人のために働いているのであり、一日の仕事は最後まで決まっていて、それを終えることに優先順位が有るのです。ですから、しもべや奴隷が疲れて野から帰ってきても、主人は当然のこととして次の割り当ての仕事の指示をするのです。
 割り当ての仕事が変われば、装いもそれに相応しく替えなければなりません。畑仕事の時の服のままで主人の食卓を整えて給仕することはできません。相応しい服に着替え、また、袖やその他の部分が過って主人の料理に触れたりしないように、帯を締め、現代風に言えば、エプロンなどもしなければならなかったかもしれません。
 この例話を読むと、主人は奴隷に冷たいのだと考え、弟子と神の関係もそんなものなら、神は善なる存在ではないではないかと思う人もいるかもしれません。しかし、これはあくまでも例話です。そして、その中心は、しもべや奴隷の仕事は当然するべきものであり、優先順位が有るということに有るのです。そして、キリストはこの例話の中ででも、弟子への配慮の部分も忘れてはいません。例話の中の主人に「あとで、自分の食事をしなさい。」と言わせています。しもべや奴隷の食事は、主人が十分足りるように支給するのです。また、ギリシャ・ローマ文化における奴隷は、私達が持っているこき使われる使用人という印象とは違い、家族の一員と考えられていたのです。ですから、この例話においても、神とキリストの弟子との関係は、そういう家族的な関係として捉えられるようになっているのです。

九節、十節
キリストは例話の中心となる事実の再確認をして、その原則に従った弟子達への直接の指示を与えます。
 主人はしもべや奴隷が割り当ての仕事をしたからといって、いちいち感謝したりなどはしません。しもべや奴隷の方も、そんなことは当たり前だと思っていますから、そのような期待は持っていません。同様に、キリストの弟子達も、キリストの命じることや、聖書の命じることをしたら、たとえそれが難しい内容だったとしても、賞賛や栄誉を求めるようなことはしないのです。そして、いつでも、しもべである自分と神との関係を自覚し、告白できる準備ができていなければならないのです。
 キリストが弟子に言うように指示した言葉の中に、「役に立たないしもべ」という表現が有ります。この「役に立たない」と訳された語は、「求められたことを超えない」と言う意味で、無能であるとか、求められた水準に満たないという意味ではありません。この言葉には、しもべとしての謙遜な態度のほかに、忠実に命じられたことをするという部分も含まれているのかもしれません。
 また、この指示と結論は、パリサイ人達の批判も含まれていて、弟子達に彼らに倣わないように警告をしている部分が有るように思われます。パリサイ人達は、律法や伝統を守るべきこととして教えていました。守るべきことを一生懸命守るだけなら良かったのですが、週に三回断食しているとか、日に三回の祈りの時間を守っているとかいうことを、これ見よがしに目に付くように行っていたのです。彼らは外出中に祈りの時間が来て、人目の付く通りで祈りを始められるように予定を組んだとさえ言われています。彼らは、するべきこととして教えたことを実行するだけでなく、人からの賞賛や誉を求めていたのです。
 プライドのために行動し、人々を神の御心から引き離し、収税人や罪人を見下し、お金に貪欲で、人々の躓きとなっていたパリサイ人の性質は、サタンの性質の反映でした。しかし、キリストの弟子はそんなパリサイ人と同じ態度を取ることは決して有ってはならないのです。「信仰を増してください。」と頼んだ弟子達は、信仰を強くしてもらって、難しい兄弟を諌めることや、兄弟を赦すことができるようになって、「よくやった」と褒めてもらうことを期待していたようです。キリストは、弟子達の中に賞賛や誉を求める心が有ることを見て取って、そのような態度に釘を刺し、諌めようとされたと考えられます。
 

まとめ
弟子とは、師に学び従う者という意味が有ります。私達もキリストに学び従う者です。キリストのこの例話と教えを心に留めて生きなければなりません。この箇所から心に留めておくべき原則は何でしょうか。

私達は躓き、すなわち罪への誘惑や、間違った信仰理解に迷い出させることを避けなければなりません。そのためにキリストは弟子達に同じ信仰を持つ仲間が罪を犯したなら諌め、悔い改めるなら赦すことを命じました。弟子達にはそれはとても難しいことと思われましたし、実際に私達が取り組む場合にも困難に感じることです。

しかし、私達はただ主の命に従う信仰を持たなければいけません。そのためには、
1) 我々が仕えているのは神であるという自覚を持つこと
2)信仰を信頼と忠誠のうちにただ働かせること
3)賞賛や栄誉を求めないで、謙遜と忠実のうちにただ従順すること
です。

こうして、例え困難に感じても、同じ信仰を持つ仲間が罪を犯した時に諌め、悔い改めるなら赦すことを実行に移せるように、気を付けていなければならないのです。






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後継者を求める教会が多い

2009-01-15 03:16:51 | 忍者的思索・忍界
ある大忍(主任牧師ということです)の方が、ご自身のブログで後継者を求める公告を出しておられました。私も違う家(教団のことです)の大忍から後継者としての打診を受けたことが有りますが、委ねられていることがはっきり違うと思いましたのでお断りしたことが有ります。それ以前にも、また別の家の大忍から、その家の試験を受けることも考えてはどうかというようなお話をいただいたことが有ります。その大忍の方は引退されまして、後にやはりやや高齢な大忍の方が着任しました。日本の教会は後継者が不足しているのだということを、身近に感じる状況です。

さて、公告を出された大忍の方は、高校生ぐらいで志の有る人であればなお良いというようなことを書いておられたのですが、それで思い出したことが有ります。日本サッカー協会は、ある時からワールド・カップで戦える国になることを目指すことを協議して、それ以降、日本の津々浦々のサッカー少年の動向を視察することになったそうです。ですから、例えば引退した中田英寿選手など、目立った才能を示した選手達の存在は、小学生の頃から協会に報告され、注目されてきたそうです。

少々あざとい人間的な努力という感じになるかもしれませんが、キリスト教会もそれに似た取り組みも有って良いのではないかと思ったりしました。中学高校ぐらいから、目立って霊的な理解や熱意が有る青年達を、各家の中忍、大忍達が確認し合い、祈り合い、時には聖書研究の技術を教えたりして、育てていくのです。勿論献身するには、神の召しが無ければなりませんが、私達の方でも環境を整えることは大事なのではないかと思います。

新約聖書を読むと、パウロはある面ではそういう識別眼と、リクルートに長けていたように思います。テモテやテトスをリクルートし、育て、仕事を委ねていますし、他の書簡に現れる協力者達の中にも、少なからずそういう経過で協力者に加わった人達がいるのではないかと思います。

現在の日本のキリスト教界は、牧師の不祥事が多く取り上げられるようになったりしています。また、資質の無いと思える人達が聖書学校に、時には牧師の忠告を無視して、推薦無しで入学したというような噂を聞いたこともあります。きちんとした教育を修了しないうちに開拓をする自称牧師の話なども伝え聞いています。そんなことであるならば、パウロがしたように、指導的立場に有る人達が、きちんとした人材の把握と育成に心を砕く必要も有るのではないかと感じます。


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気を付けていなさい テトス書より

2009-01-14 18:43:06 | 奥義書講解・牧会書簡
はじめに
先に、「気を付けていなさい」という題で、ルカによる福音書十七章一節~四節を確認しました。躓きが起きるのは避けられないという事実が有り、躓きをもたらす忌まわしい者、パリサイ人や偽教師が存在し、キリストの弟子達は、互いに躓きとならないように、また、キリストが小さき者達と呼んだ一般の人達を躓かせないように気を付けていなければならないということを確認しました。躓くというのは、罪を犯すようになることや、間違った教えに迷い出る、陥ることを指しています。
(一つ前のエントリーをご覧ください)

キリストがそういう警告をしたおよそ三十年後、今度はパウロが自分の弟子であるテトスに、似通った状況でより詳しい内容の指示を与えています。このようなキリストとパウロの教えの接点を見つける度に、パウロは本当にキリストの弟子であったと思います。また、使徒の一人に数えられるべき人物だと思います。

パウロはある目的のためにテトスをクレテ島に残してきました。クレテ島に有る諸教会に長老を任命することでした。そこには、キリストの表現を借りると、躓きをもたらす忌まわしい者、ユダヤ主義者達が居ました。躓きが起きないように気を付けているべきキリストの弟子の働きをする長老を任命するためだったのでした。

そこで、今回は、テトス書から読み取れる、気を付けているための三つのポイントを確認してみようと思います。節を追った解説ではなく、大まかに捉えて進めてみたいと思います。(一度テトス書全体をお読みください。)



第一のポイント:主の為された御業と主の御心を知り、わきまえること。
 パウロはこの書簡の書き出しの挨拶に、自分が何者であるかという自覚を書き表しています。そこには簡潔に主の為された御業と主の御心が示されています。パウロは短い挨拶の中で、すでにこの書簡のエッセンスと言える内容を盛り込んでいるのです。
 神ご自身が定められた時に私達に救い、永遠の命の希望を与えてくださったという神の御業が示されています。そして、完全な真理の知識は私達を敬虔な生活に導き、その敬虔な生活、敬虔な生き方こそが神の私達キリスト教徒への御心であるということを読み取ることができます。そのことは、二章十一節からの一段落及び、三章四節からの一段落にも示されています。
 二章においては、十一節と十四節が神の御業に言及しています。そして、十二節と十三節が神の御心について述べています。「不敬虔とこの世の欲とを捨て」「敬虔に生活し」という表現が有ります。敬虔な生き方が神の御心であることが、パウロの挨拶の言葉に続き、ここでも述べられていることになります。
 私達が敬虔に生きる者達となるように神が為された恵みの大きさを、パウロは三章四節から七節までで再度確認をしています。この箇所を見ると、四節に父なる神の慈愛が、五節に聖霊の清めと新生が、六節、七節にはキリスト・イエスの恵みによる義化が述べられています。三位一体の神の全位格が、私達の救いのために働いてくださったのであり、その三位一体の神の全位格が、キリスト教徒の敬虔な生き方のために働き、それを望んでおられるのです。
 私達が躓かないように、また、他の人達を躓かせないように気を付けているためには、このことの深い認識と確認がいつも必要なのです。

第二のポイント:主の望まれる敬虔な生き方の現われをよく知ること。
 パウロは先ず一章で、敬虔な生き方の模範となるべき長老の資質を述べています。続いて二章では年の進んだ女性、若者、奴隷、などの一般のキリスト教徒が示すべき敬虔な生き方の具体例が示されています。また、三章の十三、十四節では、ゼナスやアポロのために十分気を配ることを敬虔な生き方の実例として挙げ、そのような生き方を勧め励ましています。
 主の望まれる敬虔な生き方の要素を表すために繰り返し用いられている語が幾つか有ります。自制心の有ることと、良いことです。良いことというのは、単純に良いということではなく、尊く、益となり、相応しいこと、推奨されること、賞賛されること、誉の有ること、気高いこと、道徳的であることなどの要素が入っています。そして、キリストにある永遠の命の望みによってそのように生きることが、キリスト教徒にとって相応しい行いなのです。これは、心からキリストを信じ、キリストを敬い従う者達でなければ、自覚して取り組むことが難しい部分が有ると感じます。
 時々キリスト教徒達は、自分の生き方が、神の為された業を心に留め、神の御心が何であるかを確認した者達の生き方になっているかを立ち止まって確認する必要が有るのではないでしょうか。また、その具体的な現れのリストが、テトス書には与えられています。時々それを確認してみることも有益でしょう。
 ルカ十七章でキリストが弟子達に気を付けるように命じた時、弟子達がパリサイ人達のような偽教師にならないように、逆に良い模範となるようにということが含意されていただろうと思われます。パウロのテトスへの指示にもそういう面が有ります。日本語の聖書はニュアンスがうまく出ていないと思いますが、三章の一節には、「良いことをする準備・心構えができているべきことを思い起こさせなさい(糸田十八の便宜上の訳)」という命令が含まれていて、その理由が二節に「本当の謙遜を全ての人に示すためです(糸田十八の便宜上の訳)」となっています。思い起こさせるということは、教えるということでしょう。三章の四節から七節までに、神の為された救いと清めの業が示されて、その続きの八節から、そういうことを教えなさいという指示が有りますが、その目的は、主に信頼する者達が良いことをすることに専心するようになるためだとしています。指導的な立場の者達は、模範となり、且つ教えなければならないということがわかります。しかし、そのためには、やはり、主の望まれる敬虔な生き方の現われをよく知ることが大事であり、それが「気を付けていること」につながると考えられます。

第三のポイント:躓きをもたらす者達の性質を知り、拒絶すること。
 クレテの諸教会に入りこんだ偽教師達がどんな種類のものであるかは、一章十節に示されています。割礼を受けた者達ですから、パリサイ人系の律法主義者、ユダヤ化主義者だったでしょう。そういう表向きの分類よりも、さらにその基本的な性質を警戒することが大事です。
 十節に示されている、反抗的、空論に走る、騙す者という性質は、神に反抗して堕落し、エバに近づいて神の言わなかったこと持ち出して、空論で惑わし、騙したサタンの在り方と同じです。忌まわしい者達の裏に有るのは、サタンや悪霊の働きなのです。これを知り、拒絶しなければなりません。パウロは、クリスチャンが、こういうサタンの働きを知るに至って、それを拒絶して神の方に転換した者達であることを、三章三節で思い起こさせています。三位一体の神の働きと洗いと新生によって捨て去った在り方に戻るようなことが有ってはなりません。
 人間的な方に目を留めると、偽教師の有様はどう理解することができるでしょうか。長老の資質のリストの中に、「~ではなく」という否定表現が含まれているものが有ります。その「~」という部分に現れる性質は、偽教師の性質であると理解することができます。その内容は「わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、(一章七節 新改訳)」となっています。プライド、腕力、弁論術、酒、財力などが、自分を満足させる手段であることが伺えます。つまり、偽教師達は、神に頼らず、神でないものに頼っていることになります。それは、形を変えた偶像礼拝 です。神ならぬ存在を神としていることになるのです。しかし、キリスト教徒は、神のみを頼りにし、それらに頼ることを拒絶しなければなりません。
 サタンの性質や偶像礼拝につながる態度が知らないうちに私達の生き方の中に忍び込んでくることが有るでしょう。それを聖書の言葉に従い、神の力に頼って拒絶し、追い出さなければなりません。
 そして、実際に偽教師と言えるような行動をし、間違った教えを広める人が身近に居たらどうするのでしょうか。長老や監督の立場に居る人達が、そういう人達を「黙らせ(一章十一節)」「厳しく戒め(同十三節)」「一、二度警告し(三章十節)」もしそれでもだめであったら、「関係しないようにする、言い換えれば除名する(同上)」という形で拒絶しなければなりません。これは、偽牧師についても同様です。偽教師、偽牧師は決してのさばらせてはいけないのです。


まとめ
繰り返して確認します。
私達は気を付けていなければなりません。

気を付けているためには
1)主の為された御業と主の御心を知り、わきまえることが必要です。
2)主の望まれる敬虔な生き方の現われをよく知ることが必要です。
3)躓きをもたらす者達の性質を知り、拒絶することが必要です。

このために、私達キリスト教徒は、繰り返しテトス書を確認しても良いのではないでしょうか。一年通してずっとテトス書を繰り返し確認するというような取り組みも有って良いのではないでしょうか。

最後に一つだけ取り上げて確認するとしたら、

「神様の御心は、私達キリスト教徒達が、自制し、良いことをして、敬虔な生き方をすることです。」

と申し上げたいと思います。






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気をつけていなさい (ルカ伝十七章一節~四節)

2009-01-09 01:31:30 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
状況
十五章から始まったキリストの教えと同じ場面であると考えられます。イエスと十二弟子の周りに、収税人や罪人と呼ばれる人達が教えを求めて集まっており、それに批判的な言葉をかけるパリサイ人や律法学者達も居ました。

直前に、キリストは、ラザロと金持ちの例話を用いて、自分達こそ天国の上席に着く者達だと思っているパリサイ人達に、彼らの在り方は決して天国を継ぐようなものではないことを、痛烈に語りました。

そして、それを踏まえて、キリストは弟子達に向き直り、弟子達に語り始めました。



解説

一節
最初にキリストが弟子に示したのは、私達のこの世における霊的な現実でした。「つまずきが起きるのは避けられない」というのです。
 ここで「つまずき」と訳された言葉は、誘惑、罪を犯すこと、間違った教えにそれてしまうことを示すことのできる言葉です。そして、そういうことが起きるのは避けられないとキリストは明言しているのです。どうしてでしょうか。
 先ず、この世では、まだサタンや悪霊が活動しているからです。次に、どんな人間にも肉の性質、罪の性質が有ることは無視できません。そして、それらの故に、パリサイ人達のようなプライドに満ちた偽教師達がいつの世にも存在するからです。だから、つまずきが起きるのは避けられないという現実が私達には有るのです。

そういう霊的現実において、そういうつまずきをもたらす者は忌まわしい者だというのです。聖書にはキリストが「忌まわしい者だ、律法学者、パリサイ人」と呼びかけている場面が有ります。間違った律法理解と伝統で人々を縛って、人々を神の心から引き離していた彼らは忌まわしい者たちでした。そして、その背後で働いているサタンがその忌まわしい者の親玉ということになるでしょう。


二節
キリストは次いで、具体的なつまずきを指摘し、それがどのような処遇が相応しい行為であるかを示しました。
 キリストは「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら」と言っています。「この小さい者たち」とはどんな人達でしょうか。小さいのだから子供達だろうと単純に考えてはいけません。実際にキリストを取り巻いていたのは、弟子達、収税人、罪人と呼ばれる人達でした。子供達ではありません。
 当時、権力や社会的地位の無い者達、また、ユダヤ教の実践の乏しい者達や信仰的知識が乏しい人達は「小さい者達」と呼ばれたということです。キリストの周りに教えを求めて集まった収税人や罪人と呼ばれる人達は、パリサイ人達から見れば、「小さい者達」で、見下されていました。
 キリストはこのように弟子達に語りかけることで、間接的にパリサイ人達を非難している部分が有ります。「パリサイ人達よ、お前達は霊的に飢え乾いてキリストの教えを求めて集まって来た収税人達を「小さい者達」と裁いている。そして、彼らを神の国から遠ざけている。お前達は忌まわしい者達なのだ。」と。そして、弟子達に向かって、決してパリサイ人達と同じような態度を取ることが有ってはならないと戒めているのです。

忌まわしい者達に相応しい処遇とはどういうものでしょうか。キリストは「石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」と表現しています。そんなことをされたらどうなるでしょうか。石臼の重さで海の底に沈んで溺死して、だれも生きて帰れないでしょう。これは、ギリシャ文化の影響を受けた諸国の死刑の方法の一つであった言われています。ユダヤ社会での死刑の方法には含まれていませんが、広く知られている死刑の方法で、キリストの話を聞いた人達は、その恐ろしいイメージに驚き、つまずきを起こすことがそんなにも重い罪であるということを思い知らされたかもしれません。
 ここで用いられている石臼を表す語は、オリーブや小麦を挽くために、ロバを使って回すような大きい石臼を指しています。家庭の主婦が使っていたような小さなものではありません。
 海という語は、深い淵というような語感が有り、刑罰の場所を想起させるものだということです。
 投げ込まれるという受動態の動詞は、激しい怒りでぶん投げるという語感の有る語だということです。神の心をわきまえないパリサイ人達の行いが、神の怒りの対象であり、処罰の対象であることを示していると思われます。


三節
つまずきが起きることは避けられないことと、つまずかせることがいかに大罪であるかを示した後、キリストは、弟子達に命令、指示を始めます。
 
最初に与えられた命令、指示は「気をつけていなさい」ということでした。何を気をつけるのかが続いて示されます。
 兄弟というのは、直接的には弟子同士ということでしょう。弟子達は、将来的には教師、指導者となる人達でした。兄弟が罪を犯すというのは、文脈から考えれば、「これらの小さき者をつまずかせる、間違った信仰に導き、罪を犯させる」ことをして、罪を犯したということと考えられます。そんな行為は恐ろしい刑罰に値することで、忌まわしいことですから、先ず、そういう罪に敏感に気付かなければならないでしょう。だから「気をつけていなさい」なのです。
 そのような行為に気付いたら、その兄弟を戒め、正さなければなりません。そうすることによって、その兄弟および彼によって罪や過ちに陥った「小さい者」を神の御心にかなった道に回復しなければなりません。しかし、心に備えがなければ戒め、正すことは難しいでしょう。だから、「気をつけていなさい」なのです。
 兄弟を戒めても聞き入れるかどうかはわかりません。実際にキリストの戒めを聞いても、パリサイ人達は耳を貸しませんでした。しかし、兄弟が戒めを聞き入れて悔い改めるならば、赦さなければなりません。被害の内容によっては、赦すことが難しい場合が有ります。被害が直接自分に関わっていれば尚更そうでしょう。しかし、いつも赦す心構えができてなくてはいけません。だから「気をつけていなさい」なのです。


四節
キリストはここで追加の確認をしています。兄弟が、直接自分に被害を与えた場合のことを想定しています。しかも、「一日に七度罪を犯しても」という状況・条件を提示しています。どうして七度でしょうか。ペテロがそのような質問をした、もしくはしたことが有るということに関連しているかもしれませんが、旧約聖書からの影響と考えることにも意義が有るように思われます。箴言二十四章十六節には、正しい人が七度たおれても、また起き上がるということが書いてあります。ユダヤ文学的には、七という数字は完全を表すと考えられています。正しい人でも完全に倒れてしまうことが有るという示唆ではないでしょうか。今回の聖書箇所と関連付けて考えれば、弟子でも深刻に仲間をつまずかせてしまったりすることが有るかもしれないことを示しているように思います。
 しかし、この人がきちんとその一つ一つについて、直接出向いてきて「悔い改めます」と言うならば、赦しなさいという指示で、キリストはこの話を締め括っています。勿論、ここでは口先だけの悔い改めではなく、真実な悔い改めのことを指しています。


まとめ
 キリストは、悔い改めと赦しについて、繰り返し言及したことになります。ユダヤ文学では繰り返しは強調を表します。ここで取り扱ったのは、直接的には「小さい者」を間違った行動や信仰に導く罪ですが、この原則は罪全般に適用できるのではないでしょうか。罪を犯しても、真実に悔い改めるならば赦しなさいということが、繰り返し語られて強調されました。どうしてでしょうか。それは、キリストが、人間は「つまずきが起きるのは避けられない」状況に生きていることを理解していたからではないでしょうか。そういう難しい状況に生きているのだからこそ、きちんと悔い改めをするならば、赦しなさいという部分が有ると思われます。そんな世の中、そんな状況では、悔い改めることだって難しいはずです。それをきちんと悔い改めるのですから、評価し、受け入れるべきなのではないでしょうか。それに、いつか立場は逆転するかもしれないのです。


キリストの直接の命令、指示は「気をつけていなさい」でした。気をつけていなければならない理由は何でしょうか。
1)つまずきが起きるのは避けられない世の中だから。
2)「小さな者」をつまずかせてはならないから。
3)罪を犯したことに気付けなければならないから
4)罪を犯した者を戒める備えができていなければならないから
5)悔い改めを受け入れて、赦す心の備えができていなければならないから。
6)自分が罪を犯したなら、悔い改める心構えを持っていなければならないから。

 
私達がキリストの教えを守り、神の良い御性質を反映した生き方をすることが弟子としての本質です。「気をつけている」ことによって、1)~6)を守り、実践するならば、それ自体が弟子の使命を果たしていることになり、神の国と神の義を求めていることになるのではないでしょうか。これが、パリサイ人達のような偽教師になることなく、天国を相続する生き方をする弟子の共同体であり、心構えと言えるでしょう。






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