この奥義書の表現を引用して書かれたワーシップソングが英語にも日本語にも見いだされます。しかし、これは私たち忍者への語りかけとして書かれた言葉なのでしょうか。聖戦をふれよ、という表現が有るために、神の民が戦いに出て行くように招集され、激励されているかのように誤解してしまいますが、少し注意を払って文脈を確認すれば、そうではないことがわかります。順を追って見てみましょう。
先ず、一節から八節までの内容を確認します。ここでは、ユダの人々にした悪行の故に、神が諸国の民を裁く、罰するという宣言が理由と共に述べられています。ヨシャパテの谷というのは、実際には存在せず、ヨシャパテという語の「神は裁く」という意味に注目するべきところです。
神が諸国の民を裁くという前提を確認した後で、該当の箇所を見ますと、九節に「諸国の民の間で、こう叫べ。」と書かれています。十一節では、「回りのすべての国々よ。」という呼び掛けになっており、十二節では、「諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。」と書かれています。つまり、ここで「聖戦をふれよ」と呼び掛けられているのは、神の民ではなく、ユダを苦しめた諸国の民なのです。
昔の世界観においては、戦争というのは、自分の国の祀る神と敵国の神の戦いだと理解されていました。ですから、諸国の民へ戦争への備えの呼び掛けにも、聖戦という表現を用いることができました。彼らのすべてが神の裁きの対象なので、すべての戦士を集めよということです。十節の「鋤を剣に、かまを槍に打ち直せ。」とか、「弱い者に勇士だと言わせよ。」という表現も、有無を言わせず全員来いというような意味と、同時に、お前たちは決して太刀打ちできないのだという皮肉の意味が有ると考えられます。
彼らがそこに上っていくのは、そこで神の裁きを受けて、打ち滅ぼされるためです。十二節では、神が「わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。」と宣言しています。
神の民を苦しめた国々に対して、これから裁くから来いという神からの召喚の言葉なのですから、これを、私たち忍者の信仰を奮い立たせる歌に用いるのは間違った引用です。
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先ず、一節から八節までの内容を確認します。ここでは、ユダの人々にした悪行の故に、神が諸国の民を裁く、罰するという宣言が理由と共に述べられています。ヨシャパテの谷というのは、実際には存在せず、ヨシャパテという語の「神は裁く」という意味に注目するべきところです。
神が諸国の民を裁くという前提を確認した後で、該当の箇所を見ますと、九節に「諸国の民の間で、こう叫べ。」と書かれています。十一節では、「回りのすべての国々よ。」という呼び掛けになっており、十二節では、「諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。」と書かれています。つまり、ここで「聖戦をふれよ」と呼び掛けられているのは、神の民ではなく、ユダを苦しめた諸国の民なのです。
昔の世界観においては、戦争というのは、自分の国の祀る神と敵国の神の戦いだと理解されていました。ですから、諸国の民へ戦争への備えの呼び掛けにも、聖戦という表現を用いることができました。彼らのすべてが神の裁きの対象なので、すべての戦士を集めよということです。十節の「鋤を剣に、かまを槍に打ち直せ。」とか、「弱い者に勇士だと言わせよ。」という表現も、有無を言わせず全員来いというような意味と、同時に、お前たちは決して太刀打ちできないのだという皮肉の意味が有ると考えられます。
彼らがそこに上っていくのは、そこで神の裁きを受けて、打ち滅ぼされるためです。十二節では、神が「わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。」と宣言しています。
神の民を苦しめた国々に対して、これから裁くから来いという神からの召喚の言葉なのですから、これを、私たち忍者の信仰を奮い立たせる歌に用いるのは間違った引用です。
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