糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

「聖戦をふれよ」それは神の民の戦いなのか?(ヨエル書三章九節~十二節)

2021-03-04 22:24:25 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
この奥義書の表現を引用して書かれたワーシップソングが英語にも日本語にも見いだされます。しかし、これは私たち忍者への語りかけとして書かれた言葉なのでしょうか。聖戦をふれよ、という表現が有るために、神の民が戦いに出て行くように招集され、激励されているかのように誤解してしまいますが、少し注意を払って文脈を確認すれば、そうではないことがわかります。順を追って見てみましょう。

先ず、一節から八節までの内容を確認します。ここでは、ユダの人々にした悪行の故に、神が諸国の民を裁く、罰するという宣言が理由と共に述べられています。ヨシャパテの谷というのは、実際には存在せず、ヨシャパテという語の「神は裁く」という意味に注目するべきところです。

神が諸国の民を裁くという前提を確認した後で、該当の箇所を見ますと、九節に「諸国の民の間で、こう叫べ。」と書かれています。十一節では、「回りのすべての国々よ。」という呼び掛けになっており、十二節では、「諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。」と書かれています。つまり、ここで「聖戦をふれよ」と呼び掛けられているのは、神の民ではなく、ユダを苦しめた諸国の民なのです。

昔の世界観においては、戦争というのは、自分の国の祀る神と敵国の神の戦いだと理解されていました。ですから、諸国の民へ戦争への備えの呼び掛けにも、聖戦という表現を用いることができました。彼らのすべてが神の裁きの対象なので、すべての戦士を集めよということです。十節の「鋤を剣に、かまを槍に打ち直せ。」とか、「弱い者に勇士だと言わせよ。」という表現も、有無を言わせず全員来いというような意味と、同時に、お前たちは決して太刀打ちできないのだという皮肉の意味が有ると考えられます。

彼らがそこに上っていくのは、そこで神の裁きを受けて、打ち滅ぼされるためです。十二節では、神が「わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。」と宣言しています。

神の民を苦しめた国々に対して、これから裁くから来いという神からの召喚の言葉なのですから、これを、私たち忍者の信仰を奮い立たせる歌に用いるのは間違った引用です。





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恵と平安が有るように

2021-03-03 15:48:27 | 忍者的思索・奥義書より
奥義書には様々な箇所で、恵と平安を祈る言葉が出て来ます。書簡の始まりの挨拶にも多用されています。

この恵と平安に、皆さんはどのようなイメージを持っていらっしゃるでしょうか。私は、その原型と言えるものが有るのではないかと思うようになったのです。

哀歌五章二十一節には、次のような言葉が記されています。

     「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。
      私たちの日を昔のように新しくしてください。」(新改訳聖書)

私たちの魂が、心から帰りたいと思うのは、神のみもとでありましょう。それは、有体に言えば天国だと思います。

しかし、ここで記者が求めているのは、正しい神との関係に戻り、神とわだかまりなく交流、礼拝し、神の恵をいただく生活に戻りたいということです。

「昔のように」という言葉が指すのはいつの頃のことでしょうか。比較的理想に近いのは、預言者サムエル、ダビデ王、ソロモン王の時代かもしれません。しかし、もっとも理想となる昔というのは、堕落する前のアダムとエバの時代と言えるでしょう。

私たちは、堕落する前の状態に戻ることはできません。しかし、信仰によって、その頃と同等の恵と平安に近づかせていただけるのではないでしょうか。当時のアダムは、神が与えられた仕事さえしていれば、生活の心配は要りませんでした。堕落の後、私たちは額に汗して働かなければならない存在になりましたが、旧約における神とイスラエル民族との契約においても、新約の山上の垂訓においても、神との謙遜で正しい関係に在る時、私たちの生活は父なる神が守ってくださると繰り返し示されています。それを受けて、十二弟子の筆頭であったペテロも「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」と書き残していいます。

「神の恵と平安が有りますように。」その言葉を贈る時、受け取る時、アダムがエデンの園で持っていた恵と平安をイメージして、イエスへの信仰を新たにするのはいかがでしょうか。




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ギデオンの祈りよりヨナタンの祈りを

2021-03-03 00:30:06 | 忍者的思索・奥義書より
ギデオンは、ミデヤン人との闘いに出かける前に、神に印を求めて祈りました。(士師記六章三十六節~四十節)奥義書に出てくる実践であり、神がお答えくださっているので、模範的な祈りのように考えて、同じように印を求めて祈る忍者の話をよく耳にします。しかし、ギデオンの祈りは好ましい祈りではありません。なぜならば、神は既に御心を明確に示しておられ、それが御心であることに疑いの余地は無かったからです。彼が印を求めて祈ったのは、不信仰の故でした。しかも、一度ならず二度もそうしたのです。また、求めた印は、単に奇跡的なだけであって、ギデオンが取り組まなければならないことに何ら関わりの無い事柄でした。神が答えてくださったのは、ご計画を遂行するためであり、ギデオンに対する憐みの故であったと考えられます。

ヨナタンは、ペリシテ人との闘いにでかける前に、直接的な祈りではありませんでしたが、神の御心を知る印を提示しました。(サムエル記Ⅰ十四章六節~十節)ペリシテ人と戦うこと自体は神の御心に違いないので、その部分についての疑いは彼には有りませんでした。彼が求めた印は、彼の状況が戦いを仕掛けるべき状況なのか、留まって戦わないでおくべき状況なのかを神に示していただくためのものでした。印として求めた内容は、敵であるペリシテ人の心構えを判断材料にしたもので、実践的な理由、裏付けが有りました。

私たちが奥義書の先人に倣って、印を求めて祈りたいと思うならば、当てずっぽうで偶然に左右されたり、単に奇跡的であるだけの印を求めるのではなく、これから対応しようとする事柄の状況判断から導き出した、現実的で実際的な理由、裏付けの有る印を求めるべきであると、私、糸田十八は理解しています。





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