はじめに
講義所で学んでいた時に、他の学部の課題図書にSex Starving Marriage(セックスに飢えた結婚)というものが有ったように記憶しています。自分の課題で手一杯で読むことができませんでしたが、多分sexを肯定的に捉えられないとか面倒だとかいう配偶者がいるためにそういう自然な欲求が満たされずに飢餓状態であるということと、それに伴う問題を扱った本だろうと推測しました。
私たちの社会を見ますと、性的な行動を煽るようなことが多いと思います。日本の雑誌であるとか電車の吊り広告の内容などは、性的なことに開放的な諸外国の人が見ても顔をしかめるような内容になっていたりします。ここで、先の本の題を思い出しました。そして、日本の社会は性的な情報や描写で溢れており、そういうことに満足を求めやすい状況になっているように見えますが、実際はセックスに対する飢餓状態を抱えている社会なのではないかと思いいたりました。そして、どうしてそのような状況であるのかということを次のように考えました。少々回りくどい説明になろうかと思いますがおゆるしください。
大脳から考える
大脳においては本能や情動を司るのは古皮質や旧皮質と呼ばれる部分です。思考や判断を司るのは新皮質と呼ばれる部分です。後者は霊長類において発達している部分で、他の動物においてはあまり高度に発達していないとのことです。今回扱うセックスに直接的な関係が深いのは前者であり、それは多くの動物の行動を支配している部分と言えると思います。
さて、新皮質が発達していない動物たちでも全てとは申しませんが、一度相手を決めると一生同じつがいで生活し続けるものが有ります。それは本能的にそれが生存なり種の保存に有利であると知っている結果であるかもしれません。しかし、人間がそうであるように他の動物たちも怒り、不安や恐怖を避けるように行動をし、安定した状態を望むようにできています。それが動物の自然で基本的な在り様であると考えることができます。つまり、基本的な行動原理は動物も人間も共通の部分が有るとかんがえられると思いますし、その中には安定を望む部分も含まれているということです。
一方、人間は新皮質が発達しており、いろいろな思考や理由付けをして行動しています。その働きが勝っているために、旧皮質の反応を思索的に取捨選択することができるようになっています。しかし、このことが、実は旧皮質の基本的欲求を無視する結果になっている場合が有ると考えられます。
旧皮質の基本的欲求は本能的に性行動を求めるし、同時に安定も求めています。そして、それは個体として認められることにつながります。人であればそれは避けられない欲求ではないでしょうか。ところが新皮質の思考がそういう部分に留意していない場合は、性的欲求は満たされれば良いのだという判断をすれば、それがその人の行動パターンになります。
その時に起こることは、二つ有った欲求の一つしか満たされなかったばかりか、残りの欲求も大変重要な欲求であるということです。すると、脳は潜在的な欲求不満を抱えたままになりますし、感覚的にそれが深層心理に引っかかります。ある本ではそれを不全感という言葉で表していたように記憶しております。脳はきちんと機能しきった時に機能した快感、満足を得るのです。
見過ごされた欲求が生み出すものを考える
今度はこの関係を実際の性行動あてはめて考えてみます。ある人が本能的欲求である性的欲求を感じます。その欲求を感じる度に異なる異性と性関係を持ったとします。性的な欲求は満たされましたが、安定的な生活を求める心の奥の欲求や自分を認めて欲しいというような基本的な別の欲求は満たされないのです。そのことは次のような深層心理の負サイクルを生み出すと考えられます。
その負サイクルの話に入る前に、深層心理的働きについてご説明しておきたいことが有ります。ペップトークをご存知でしょうか。スポーツ競技の監督などが試合や演技の前に短く選手たちを鼓舞するためにする話のことです。機会が有って日本ペップトーク普及協会の講師の講演を聞かせていただいたことが有りました。そのお話の中で興味深いと思ったことが有りました。ペップトークにおいては否定表現は使わないというのです。例えば「挫けないで」とか「負けないで」というような表現です。何故かというと、
深層心理は否定形を理解しないからだというのです。そうしますと、そういう表現は「挫けろ」「負けろ」という言葉として理解されるのだそうです。そして、私の理解では旧皮質も新皮質的理解ができないのです。これを踏まえて上で述べた状況にある人の中で起きていることを考えています。
性行動が起きてその人の性的欲求が満たされたということは、その欲求の相手となることを受け入れた異性が存在するということです。新皮質は自分の性的欲求を満たす選択をしてその場でそれを可能としてくれる相手を選択しただけだということを理解しています。しかし、旧皮質や深層心理にはそういう判断力は有りませんし、そのような判断が十分に届きません。ですから、性的欲求が充足されることと同時に、その相手に受け入れられ続ける存在であるという安定や自分を認めてもらうという充足感の欲求も満たされたと勘違いするのです。ところが、実際にはその異性との安定的な関係は構築されませんから、性欲が満たされる時はいつも異なる異性との関係になるのです。すると旧皮質や深層心理は前の異性は自分を見捨てた存在と潜在的に認識して不全感を持ちます。裏切られた者の心理に近いものがそこに生じるのです。
旧皮質は深層心理にとって、深い機能した快感や満足を得る手立ては一つしか有りません。
性的欲求と、安定や受容の欲求を一度に満たすことです。これは旧皮質や深層心理にとっては密接に結びついており、
ワンセットなのです。しかし、それが半端に満たされることによって脳は不全感を持ちます。性的欲求が満たされることは大きな快感を伴うのにも関わらず、何かが不足しているのです。だから、その不足を満たしたくて再び性的欲求を満たそうとしていきます。その度に脳は心理は不全感を残し、裏切られた者の心がそうであるように更に性的関係に渇望を覚えるのです。それは決して深い満足に至ることの無い負のサイクルなのです。それは無意識のうちに自分を裏切り続ける潜在的な自虐行為となっているのです。
そういうわけで、私たちの社会は望めばいくらでもセックスの機会は有り、その意味でが満足度の高い社会であると考えられそうなのですが、実情は本能が求めているセックスに辿りつけていないのです。そのために残る不全感を埋めようとして、更にいろいろなセックスの在り方を考えだしたり機会を増やしていくのですが、根本的解決に至らないのです。結局それはセックス飢餓社会を生み出しているだけなのです。
負のサイクルから抜け出すために
ある高校の文化祭の発表に次のようなものが有りました。保健委員会の生徒たちが集まって一週間お菓子だけを食べて生活をして、それがどんな生活であったか、どう感じたかなどをレポートするというものでした。お菓子を食べて生活するのは美味しくて楽しいだろうと思った生徒もいましたし、最初の二日ほどは楽しくお菓子を食べて生活できたのですが、三日目ぐらいから嫌になってしまう生徒が出てきて、五日目には殆どの生徒が約束を破ってお昼には普通のお弁当を食べてしまっていたということでした。
この保健委員の高校生の体験で対比されるのはお菓子ときちんとした食事です。お菓子ばかり食べて不満を感じた生徒はきちんとした食事に切り替えてしまいました。もっと満足できるきちんとした食事というものが有るということを知っていたから切り替えることができたのです。これをセックスに当てはめて考えれば、性的欲求を満足させることだけを考えたセックスはお菓子で、性的欲求だけではなく受容されることと安定への欲求も同時に満たされる関係がきちんとした食事ということになります。
生徒たちはお菓子を食べ続けると喉が渇くとか食感が嫌になることに気付きました。しかし、仮にそれ以外の食物が有ることを知らなければ不満を持ちながらお菓子を食べ続ける以外に選択肢が無かったかもしれません。しかし、実際にはきちんとした食事が有ることを知っていたからお菓子を止めてそちらに切り替えることができたわけです。セックスにおいても、不全感が残る欲求の満たし方ではなく、きちんと欲求を満たすことができるのはどういう場合かということを
知識として知っていれば切り替えて行くことができるのです。しかし、現在の私たちの社会は、一部の知識人だけが研究課題程度にしかそれを扱っておらず、それを広く社会に啓蒙して人々の新皮質に届く思索となるような形で示してはいません。新皮質がこのような知識を土台にして旧皮質をしっかり満足させる方法を認識するようになることが大事な鍵であると思います。
詳細は記しませんが、そういうことの中には、セックスが先ず個人の自己認識と受容や、自己決定権という人権と関わっていること、次いでそれが相手を認めて受容するコミュニケーションへと発展しているものであることを確認することなどが含まれていると思います。それがきちんと意識され、為されている時には、責任をもって特定の異性と関わって行くことが旧皮質が持っている性的欲求のみならず、安定や安全への欲求をも同時に満たし、旧皮質と新皮質が同時に機能した快感を得、不全感の無い満足に至ると思います。そういう形で私たちの社会がセックス飢餓社会から脱却していけたらと思うのです。
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