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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

傲慢だという指摘

2022-10-06 11:55:18 | 忍者的思索・一般
  私、糸田十八は、いくつかのネット上の忍者コミュニティーに参加した経験が有ります。その中で、信仰を持たない参加者が、忍者の信仰の在り方を、傲慢だと指摘しているのを目にすることが有りました。同様なことは、立場の異なる忍者同士の対話の中にも出て来ることが有りました。私は、忍者が一定の信仰の方向性を見いだして、それを保持、または表明することは、傲慢という表現で退けられてはならないと思っています。

  キリシタン忍者は真理を目指します。真理は普遍で絶対です。しかし、人間の能力は限られているので、様々な理解に分かれてしまうのは致し方ないことです。様々な家(教団)が成立していることからも、それは明らかです。
  それでも、その真理を保持することを奥義書(聖書)は促しますから、自分の理解の範囲でこれが奥義書(聖書)的真理という線を引かざるを得ません。それを傲慢だと言うのであれば、誰もどの真理にも立てません。
  ですから、異なった立場を保持し、奥義書(聖書的)真理に立っていると表明するキリシタン忍者の態度を「傲慢」という言葉で言い表すのは不適切だと思います。どっちみち、世間的に見れば、信仰は各教えの内輪ネタなのです。そのあたりの境界線を意識、理解していただきたいと思っています。





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政教分離原則の逆襲

2022-04-05 15:19:10 | 忍者的思索・一般
政教分離原則をどのようにとらえていらっしゃるでしょうか。日本の感覚では、特定の宗教が政治に関与してはいけないという原則として見る人が多いように思います。しかし、最初にこの原則が主張されるようになった西欧では、違った成り立ちでした。

キリスト教が国教であったりした歴史の有る西欧では、為政者たちが、自分の都合と政治的な理由だけで、教会や信徒の意向を一切考慮せずに、監督や牧師を任命するということがよく有りました。それに反対する立場として、国や政治が監督や牧師の任命に関与するべきではないという主張が出て来ました。それが政教分離原則の成り立ちです。

改家の教会史で取り扱う事例としては、1843年、スコットランド教会の大分裂が挙げられます。450人の牧師がスコットランド教会を辞したということです。論争は10年程続き、市民の生活にも少なからず影響を及ぼしたということです。

この原則に共鳴した信徒たちは、自分達でお金を出し合って、教会堂と牧師館を建設して、国の影響を排除することに努めました。

現在では、欧米でも、このような成り立ちを知らないかったり無視したりする形で、政教分離原則を掲げて話を進めようとする人たちが出てきています。教会が政治的な発言しないように圧力をかけるために持ち出されたりします。それは、言い換えれば、政治的圧力が教会に介入する形となっており、まるで、政教分離原則が教会に逆襲を掛けているような事態になっている場合が有ります。

政教分離原則が、元来どういう性質の主張であったかを、ご理解いただければと思います。






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忍者と愛国心

2018-07-19 22:16:06 | 忍者的思索・一般
 忍者は一世紀から愛国心の無い者とか無神論者とか、いろいろなレッテル貼りをされてきました。神の国に国籍が有るという考え方、あるいはユニバーサル、もしくはコスモポリタンな性質の有る部分が自国をないがしろにしているような印象になったのかもしれません。また、皇帝崇拝が当たり前だったり、各民族に特有な神々を誇りを持って仕えるということが当たり前であった時代に、皇帝礼拝や偶像礼拝をしなかったということで、神をも敬うことをしない不敬な輩という受け取り方をされたりしたことが有ったということです。
 さて、愛国心という点でも忍者は少々立場が異なっています。何が何でも自分のこの世の国籍の有る国に誇りを持ち、国の名誉をどうしてでも守ろう、立てようというような姿勢は有りません。手段を選ばず国を良く見せようということは考えません。そこには偽りも多く入って来ることが有りますし、虚栄も混ざることが有ります。それは神の方法ではなく、罪もしくは世に属する価値観だからです。
 それでは、忍者としての愛国心の在り方というのはどういうものになるのでしょうか。忍者にとっては創造主なる神の存在とその教えが国を考える上での前提となります。国籍を自分で選んで変える人がいないわけではありませんが、基本的には最初の国籍を自分で選んで生まれるということはできません。ですから、自分の国というものは、神の賜物であって、自分が築き上げたものでも自分の努力で勝ち取ったものでもありません。ですから、過度に自分の自己もしくはアイデンティティーと結び付けて考えることはしません。あくまでそれは神からの賜物です。
 さて、それでは忍者の愛国心というものはどういうものでしょうか。神の賜物としてその国に生きる、もしくはその国籍を持って生きる者として、その国の最善のために生き、祈り、義務を果たすことです。また、忍者として奥義書の教えを少しでも反映させた生き方をし、それを示していくことです。自国の文化や国力や先人の成し遂げたことは、神の賜物として感謝するものであって、徒に誇ったりするものではないと思います。
 もし国力とか文化に誇りを持つことが愛国心であるならば、最貧国とか発展から取り残されたような国に生まれた場合、どうやって愛国心を持つことができるでしょうか。実際にはそれでも国を愛してその発展に尽くすという姿勢が求められると思います。しかし、その土台となるべきものは何かということを考えるならば、忍者でない方々でも、先人の努力や歴史誇ったり、逆に恨めしく思ったりするのではなく、その国が存在しているという運命、もしくは神の摂理というようなことに思いを馳せるべき部分が有るのではないかと思います。





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人間の表面的美意識-非人間化の入り口

2015-05-11 23:31:24 | 忍者的思索・一般
ルネサンス期に人間の美しさに目を向ける姿勢が強くなり、それまでタブーであった裸体の描写などが徐々に採用するようになってきたと聞いています。忍者的に考えますと、人間は美しいという姿勢は必ずしも悪いものではありませんが、意識の仕方によっては神から離れ、また実際には人間の価値を引き下げるものになると感じています。

最近ネット上で見て酷いと思ったものに、女優の容貌について「劣化」などという表現を使っていることが有ります。人間は年齢を重ねれば老化現象が少しずつ進み、数年前よりは容貌に衰えといえる部分は出て来るでしょう。しかし、それは「劣った」ということではないはずです。人間は生まれてからこの世を去るまでがひとまとまりです。若い頃にしか焦点や重点、価値観を持たない姿勢はあまりに人間という存在を理解していない、もしくは軽く見ているものであると思います。また、「劣化」などという言葉を使うのは、そういう人間の有様を考慮に入れず、物と同じように扱っている姿勢であると思います。

そのような姿勢を見ると、人間の容姿の美しさに心を奪われることは、非人間化の入り口であるように思います。かわいい、美しい、セクシーであるということに焦点を向けさせ、関心を集めるように煽り立てられている現代人は、そういう部分に関心を持たない人達をより劣った存在のように見るようになってきていると思います。そして、無理して自分ではない別な存在になろうとするような人が増えています。人間が製品のようになってくる部分を感じます。そして、低賃金でモデルなどに使われたり、子供、女性が人身売買や売春やその他の性産業に従事させられる搾取や虐待につながっている部分が有ると思います。そういう人達は人間扱いを受けていないわけですから、そこには非人間化の力が働いていると言わざるをえません。そこまで酷い話ではなくても、カッコイイ彼氏やカワイイ彼女がいると自分のステータスが上がるような気持ちを持っている人は、その彼氏や彼女をアクセサリーや道具にしている部分が有ります。また、逆に自分がそういうカッコイイ彼氏、カワイイ彼女であると自負しているような人達も、自分の商品価値を上げるような意識の中で、自分を物扱いしていると言えないだろうかと思います。

人間の造形の美を喜ぶのは悪いことではありませんが、一人一人が神の目に高価で尊く、その多様性を神が喜んでおり、人は外観や才能に関わらず平等である(忍者であれば神の前に)という感覚を押しのけてしまうような部分が強い現代の在り方は意識的に正され、戒められなければならないことだと思います。






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ろくでなし子さんが目を向けていない側面

2015-05-09 17:11:18 | 忍者的思索・一般
 偶然昨年発行されたオピニオン誌をめくりましたところ、この漫画家が自分の逮捕に至る様子を掲載しておりました。ニュースとしては古いものですが、その認識については私は足りない部分が有ると思いますし、彼女の主張がそのまま広く受け入れられていくようなことになるのも望ましくないと思っていますので、ここに書いておきたいと思い立ちました。

 ネットのニュースなどで目にした方も多いと思いますので、どんな事柄であったかはほとんどの方がご存知であるとは思いますが、一応概要を紹介します。
 私の読んだ記事によると、この漫画家は自分の女性器の型どりをしてアート作品のモチーフに用いていたのですが、3Dプリンターで用いるデータを取れば、大きさも含めてもっと自由にアレンジできると考えたそうです。それで、実際にデータを取って、活動を支援している人達に送ったということです。そのことをわいせつ物頒布等の罪に問われて逮捕されることになりました。彼女が書いていたことの中には、自分の体はわいせつ物ではないという主張も含まれていました。ネット検索をすると、他にも送ったのはデータであって実際の画像等ではないのにわいせつ物となることが納得いかないということも述べられていました。また、彼女は女性器を「まんこ」と表現して裁判官に表現を変えるように求められた記事も見られました。

 先に彼女の主張の中に同意できる部分が有りましたので記しておこうと思います。それは、あからさまに不特定多数の人間の目に触れるように意図されている女性器の移った写真や特定の女性の女性器の形を取って作られたいわゆる大人のおもちゃは摘発されないのに、自分のサポーター限定で入手できるようにしたアートが摘発されるのはおかしいという主張です。個人的には前者もきっちり摘発していただきたいものだと思います。多分利権が絡んでなかなかそういうことにならないのだろうと推測しています。私自身は、付録の2枚組CDフリーソフト集が欲しくて購入したPC雑誌に女性器の画像の含まれたものが有って、ぎょっとして捨てた経験が有ります。

 さて、先にお示ししたのが彼女にまつわる事件の私の理解であるわけですが、その主張は彼女が気づいていない、もしくは目を向けていない側面が有ることを表していると思います。思いつくままに挙げておこうと思います。
 一つ目は、自分の性器ならばどのように自分が用いるかの選択は自分の自由であるし、自分の性器は手と同じく立派な自分の体の一部であって猥褻物ではないという考え方です。勿論性器そのものは猥褻物ではありません。しかしその用い方なり他人の目にどのように触れるようにする選択をしたかが猥褻であるかどうかの判断になるわけですから、そのような抗弁は意味が無いと思います。そして、その用い方が猥褻であると判断されるような在り方であった場合は、自分の体をどう用いるかの選択の自由を主張してもそれも意味のないことだと思います。彼女が取り上げた手の例を考えてみると、手をどのように使うかは確かに個人の自由ですが、人に危害なり被害を与えるような使い方をした場合にはそれが犯罪と断定される場合が出て来るのと同じではないでしょうか。
 もう一つ手彼女が手を例に挙げることがこの状況に合っていない部分を述べておきたいと思います。手は多くの場合デフォルメされたり象徴や記号のように用いられていることが多いのです。おそらく女性器においてもデフォルメされたり記号的な用い方がされていれば猥褻罪などが問われない場合が多くなるのではないでしょうか。また、手は美容なり検視や解剖学的な場面でなければ性差を意識させない部位なのです。ですから掌紋や指紋がリアルに出ているものも有りますが、問題になることが有りません。そういう別の体の部位と女性器を同列に扱って抗弁するのは無理が有ると思います。
 更に手のことから考えます。手は普段から一目に触れる部位です。用途が多岐に渡る部位ですから、隠していては役に立ちません。その分個人の人格的存在を象徴するような要素としての認識は少ないものになります。しかし、性器はそういうわけにはいきません。普段は覆い隠されているのが普通の部位です。それを露出するということは、より深い、もしくは重要な自己情報を開示するということです。それは、本当に信頼する相手にしかできないことです。相手がサポーターなら信頼する相手だから良いではないかと思うかもしれません。しかし、私には問題となる部分が有ると感じます。日本には裸の付き合いという言葉有りますが、それは気の置けない親しい間柄です。そうでない者から一緒に風呂に入ろうだの、突然立ち入った身の上話などされたら、私たちはそういう間柄ではないではないかという不愉快さ、反発心がわくものです。サポーターは彼女のアートワークを応援したいのであって、そのモチーフとなっているものの素のデータをアートとして評価することは無いと思います。そういう立ち入った自己開示をサポーター全員が全面的に歓迎というわけにはいかないことだと思います。そういう感覚の一部が猥褻であるということにつながっているはずです。

 性器そのものの持つ意味合いに目を向けてみます。ろくでなし子さんは、その生殖機能、命の再生の意味合いに目を向けてアートのモチーフとしようとしている部分が有ります。しかし、性器その持つ意味合いの全てを含んでいるのであって、そういう機能や神秘だけを取り出して用いることは難しいのです。そのための工夫をするとしたら、デフォルメなり記号化なりの作業が必要なはずです。しかし、今回は生の3Dデータを配布しましたから、データを取った時の彼女という特定の人間の性器を寸分たがわぬと言える精度で再生できるわけです。彼女自身が生殖や命の再生を念頭に入れているのですから、これから私が述べる部分への考察も見落とすべきではないと思うのです。性器のそういう部分に目を向けるならば、それが単独では機能しえないことも当然考えられるべきであると思います。つまり女性器の提示は男性器の必要を内包しているのです。大脳のうち旧皮質がそういう欲求を司りますが、これは本能的な部分で、あまり高度な判断をする能力を持っていません。ですから、彼女の局部の正確なデータによって得られたオブジェを提示することは、それを感知した異性の旧皮質からすると、信頼と性交への合意のメッセージになります。勿論そういう意味合いになる刺激はこの世の中にはいくらでも溢れてはいますが、この場合は特定の個人が特定の人々へ発信しているという意味において、より不適切な度合いが高くなるように思います。自分では意識していなくても、不適切な馴れ馴れしさとでもいえるような内容がふくまれています。それはやなり猥褻という部分につながる要素であろうと思います。

 本質とは離れた事柄ですが、彼女が「まんこ」という表現を選んだことはあまり賢明ではなかったと思います。少なくとも関東圏ではその表現はどちらかというと卑語なり隠語的な性質が有り、意識的には猥褻な意識や表現につながるものと言えると思います。

 さて、冗長になりましたが、忍者として思うことは、自分が選んで生を受けたわけでもこの体になったのでもなく、天の与えるままに自己が存在するわけですから(あくまで忍者的考察においてですが)自分の体をどう扱おうと自分の自由という発想がかなり強い論拠になっているように感じられる彼女の主張には危ういものを感ぜずにはいられませんでした。






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尊厳死の忍者的随想

2015-05-04 17:01:02 | 忍者的思索・一般
 数十年前は安楽死という表現が一般的であったと思いましたが、現在は尊厳死という表現の方がより多く使われていると思います。単に楽に死を迎えるということに留まらない事柄だという理解に至ったからでしょう。最近尊厳死を扱ったテレビ番組やネット上の記事に続けて触れる機会が有りました。その中で思うことが有りましたので記しておこうと思います。

 法的な整備をして尊厳死を可能にしている国々はヨーロッパに多いように思います。それで、尊厳死を望む人がそういう国に移動したり、アメリカ合衆国の場合は法制化した州に移動するということが有ります。
 法的な条件としては、治療ができない難病を持っていること、それが耐え難い苦痛をもたらすと認められること、死期が近いこと、家族や親族の同意が得られることなどが挙げられます。私が見た記事では、治療の見込みの無い癌の方や認知症を発症する人が多い家系の高齢者の方が取り上げられていました。
 番組や記事のインタビューの中で、実際にそいう決断をした方々や準備を進めている方々、またそういう生き方を支援する方々が異口同音に言っていることが、私にとっては忍者的にしっくり来ないことに気付きました。

 くり返し尊厳死の重要な点として人々が述べていたことは、「自分で死ぬことや死に方を決定できること」とうものでした。それが尊厳を保った死に方、自己の尊厳を守ることであるということになるのだと考えられます。そこで私には二つのことが気になって来るのです。
 第一に、病気で苦しんだり臓器の不全が進んで命を落とすとか、認知症が進んで空間把握ができなくなるとか下の世話を他人にしてもらわなければならないということは残念なことではありますが、人間の尊厳を損なうことではないと思うのです。乳幼児は下の世話をしなければなりませんし、大人のような方向感覚が備わっていなくて迷子になったりします。けれどもそれは当たり前のことであって別に人間としての尊厳が損なわれるような事柄ではありません。大人や高齢者が病気で命を落としたり認知症になるのも普通に有り得ることであって当たり前な事柄ではないのでしょうか。勿論乳幼児にはこれから成長して行くという展望が有り、大人や高齢者にはそういう展望は有りません。しかし、どちらの場合も人間の一生の中の当たり前な一要素にしか過ぎないはずです。大人や高齢者は皆が平穏に所謂畳の上で最期を迎えるという保証は有りません。一方乳幼児とて必ず順調に成長して人生を全うできるとは限りません。そういう当たり前なことが尊厳を損なうこととして捉えられるとしたら、それこそ人間の尊厳を軽んじた物の見方ではないかとさえ思うのです。それは、別の角度から言えば感性偏重の捉え方であると思います。人間の尊厳とか気高さは、宗教的な部分を除いて考えると、高い徳性とか人生を勇敢に受け止める意志的部分に有ると思うのですが、恥ずかしいとか何かが嫌だというようなことを避けることが尊厳を守ることのように考えるのは過度に感覚的であるように私には思われます。自然に死ぬことに尊厳を認めないのはいかがなものかと思います。
 第二に、自分の命だから自分にその締め括りの決定権が有るという考え方が誰にも納得されるべき考え方であろうかという疑問を感じます。選択権の問題というのであれば、終わりだけでなくて始まりについても考えてみるべきではないかと思います。実際問題として、自分の選択権を行使して生まれてきた人は一人も存在しません。命の倫理の問題も絡んで来ることですが、生まれる時は産む方の人間たちの「選択」が優先で死ぬ時はこの世を去る人たちの「選択」が優先されるというのも一貫性が無いと感じます。死とは実際にはいつどのような形で訪れるのかわからないものです。不慮の事故、突然の災害などで命を落とすことも有ります。しかし、例えそれが比較すると悲惨な死であったとしても、それは当然この世の中に存在する幾つも有る死に方の一つにすぎません。(そうお考えにならない人達が、やや強引な新興宗教の勧誘などで、話を聞いたのにぐずぐず入信しなかったら鉄道事故で亡くなったなどという強迫めいたお話で入信してしまったりします。)それに、突然の災害などで亡くなった方は誰もそれを「選択」されたわけではありません。ことさらそういう亡くなり方をした人達は不幸で、所謂尊厳死を選べる人達やその死に方がより尊いなどと考えられるべきではないと思います。

 さて、忍者的随想という点からすると、やはり私たちの命は「主与え、主取りたもう。主の御名はほむべきかな。」とヨブが告白したように、神様の御手に有り、私たちの自由意思を超えた決定権が神に有るという部分に帰るべきであると思います。人間が堕落したために、いろいろな形態の死が人類にもたらされましたが、それは総合的に全て同等の死でしかなく、また、それは次のライフステージへの出発でしかないと考えるものではないかと思います。






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Sex Starving Society (セックス飢餓社会)

2014-11-17 00:59:24 | 忍者的思索・一般
はじめに
 講義所で学んでいた時に、他の学部の課題図書にSex Starving Marriage(セックスに飢えた結婚)というものが有ったように記憶しています。自分の課題で手一杯で読むことができませんでしたが、多分sexを肯定的に捉えられないとか面倒だとかいう配偶者がいるためにそういう自然な欲求が満たされずに飢餓状態であるということと、それに伴う問題を扱った本だろうと推測しました。
 私たちの社会を見ますと、性的な行動を煽るようなことが多いと思います。日本の雑誌であるとか電車の吊り広告の内容などは、性的なことに開放的な諸外国の人が見ても顔をしかめるような内容になっていたりします。ここで、先の本の題を思い出しました。そして、日本の社会は性的な情報や描写で溢れており、そういうことに満足を求めやすい状況になっているように見えますが、実際はセックスに対する飢餓状態を抱えている社会なのではないかと思いいたりました。そして、どうしてそのような状況であるのかということを次のように考えました。少々回りくどい説明になろうかと思いますがおゆるしください。


大脳から考える
 大脳においては本能や情動を司るのは古皮質や旧皮質と呼ばれる部分です。思考や判断を司るのは新皮質と呼ばれる部分です。後者は霊長類において発達している部分で、他の動物においてはあまり高度に発達していないとのことです。今回扱うセックスに直接的な関係が深いのは前者であり、それは多くの動物の行動を支配している部分と言えると思います。
 さて、新皮質が発達していない動物たちでも全てとは申しませんが、一度相手を決めると一生同じつがいで生活し続けるものが有ります。それは本能的にそれが生存なり種の保存に有利であると知っている結果であるかもしれません。しかし、人間がそうであるように他の動物たちも怒り、不安や恐怖を避けるように行動をし、安定した状態を望むようにできています。それが動物の自然で基本的な在り様であると考えることができます。つまり、基本的な行動原理は動物も人間も共通の部分が有るとかんがえられると思いますし、その中には安定を望む部分も含まれているということです。
 一方、人間は新皮質が発達しており、いろいろな思考や理由付けをして行動しています。その働きが勝っているために、旧皮質の反応を思索的に取捨選択することができるようになっています。しかし、このことが、実は旧皮質の基本的欲求を無視する結果になっている場合が有ると考えられます。
 旧皮質の基本的欲求は本能的に性行動を求めるし、同時に安定も求めています。そして、それは個体として認められることにつながります。人であればそれは避けられない欲求ではないでしょうか。ところが新皮質の思考がそういう部分に留意していない場合は、性的欲求は満たされれば良いのだという判断をすれば、それがその人の行動パターンになります。その時に起こることは、二つ有った欲求の一つしか満たされなかったばかりか、残りの欲求も大変重要な欲求であるということです。すると、脳は潜在的な欲求不満を抱えたままになりますし、感覚的にそれが深層心理に引っかかります。ある本ではそれを不全感という言葉で表していたように記憶しております。脳はきちんと機能しきった時に機能した快感、満足を得るのです。

見過ごされた欲求が生み出すものを考える
 今度はこの関係を実際の性行動あてはめて考えてみます。ある人が本能的欲求である性的欲求を感じます。その欲求を感じる度に異なる異性と性関係を持ったとします。性的な欲求は満たされましたが、安定的な生活を求める心の奥の欲求や自分を認めて欲しいというような基本的な別の欲求は満たされないのです。そのことは次のような深層心理の負サイクルを生み出すと考えられます。
 その負サイクルの話に入る前に、深層心理的働きについてご説明しておきたいことが有ります。ペップトークをご存知でしょうか。スポーツ競技の監督などが試合や演技の前に短く選手たちを鼓舞するためにする話のことです。機会が有って日本ペップトーク普及協会の講師の講演を聞かせていただいたことが有りました。そのお話の中で興味深いと思ったことが有りました。ペップトークにおいては否定表現は使わないというのです。例えば「挫けないで」とか「負けないで」というような表現です。何故かというと、深層心理は否定形を理解しないからだというのです。そうしますと、そういう表現は「挫けろ」「負けろ」という言葉として理解されるのだそうです。そして、私の理解では旧皮質も新皮質的理解ができないのです。これを踏まえて上で述べた状況にある人の中で起きていることを考えています。
 性行動が起きてその人の性的欲求が満たされたということは、その欲求の相手となることを受け入れた異性が存在するということです。新皮質は自分の性的欲求を満たす選択をしてその場でそれを可能としてくれる相手を選択しただけだということを理解しています。しかし、旧皮質や深層心理にはそういう判断力は有りませんし、そのような判断が十分に届きません。ですから、性的欲求が充足されることと同時に、その相手に受け入れられ続ける存在であるという安定や自分を認めてもらうという充足感の欲求も満たされたと勘違いするのです。ところが、実際にはその異性との安定的な関係は構築されませんから、性欲が満たされる時はいつも異なる異性との関係になるのです。すると旧皮質や深層心理は前の異性は自分を見捨てた存在と潜在的に認識して不全感を持ちます。裏切られた者の心理に近いものがそこに生じるのです。
 旧皮質は深層心理にとって、深い機能した快感や満足を得る手立ては一つしか有りません。性的欲求と、安定や受容の欲求を一度に満たすことです。これは旧皮質や深層心理にとっては密接に結びついており、ワンセットなのです。しかし、それが半端に満たされることによって脳は不全感を持ちます。性的欲求が満たされることは大きな快感を伴うのにも関わらず、何かが不足しているのです。だから、その不足を満たしたくて再び性的欲求を満たそうとしていきます。その度に脳は心理は不全感を残し、裏切られた者の心がそうであるように更に性的関係に渇望を覚えるのです。それは決して深い満足に至ることの無い負のサイクルなのです。それは無意識のうちに自分を裏切り続ける潜在的な自虐行為となっているのです。
 そういうわけで、私たちの社会は望めばいくらでもセックスの機会は有り、その意味でが満足度の高い社会であると考えられそうなのですが、実情は本能が求めているセックスに辿りつけていないのです。そのために残る不全感を埋めようとして、更にいろいろなセックスの在り方を考えだしたり機会を増やしていくのですが、根本的解決に至らないのです。結局それはセックス飢餓社会を生み出しているだけなのです。


負のサイクルから抜け出すために
 ある高校の文化祭の発表に次のようなものが有りました。保健委員会の生徒たちが集まって一週間お菓子だけを食べて生活をして、それがどんな生活であったか、どう感じたかなどをレポートするというものでした。お菓子を食べて生活するのは美味しくて楽しいだろうと思った生徒もいましたし、最初の二日ほどは楽しくお菓子を食べて生活できたのですが、三日目ぐらいから嫌になってしまう生徒が出てきて、五日目には殆どの生徒が約束を破ってお昼には普通のお弁当を食べてしまっていたということでした。
 この保健委員の高校生の体験で対比されるのはお菓子ときちんとした食事です。お菓子ばかり食べて不満を感じた生徒はきちんとした食事に切り替えてしまいました。もっと満足できるきちんとした食事というものが有るということを知っていたから切り替えることができたのです。これをセックスに当てはめて考えれば、性的欲求を満足させることだけを考えたセックスはお菓子で、性的欲求だけではなく受容されることと安定への欲求も同時に満たされる関係がきちんとした食事ということになります。
 生徒たちはお菓子を食べ続けると喉が渇くとか食感が嫌になることに気付きました。しかし、仮にそれ以外の食物が有ることを知らなければ不満を持ちながらお菓子を食べ続ける以外に選択肢が無かったかもしれません。しかし、実際にはきちんとした食事が有ることを知っていたからお菓子を止めてそちらに切り替えることができたわけです。セックスにおいても、不全感が残る欲求の満たし方ではなく、きちんと欲求を満たすことができるのはどういう場合かということを知識として知っていれば切り替えて行くことができるのです。しかし、現在の私たちの社会は、一部の知識人だけが研究課題程度にしかそれを扱っておらず、それを広く社会に啓蒙して人々の新皮質に届く思索となるような形で示してはいません。新皮質がこのような知識を土台にして旧皮質をしっかり満足させる方法を認識するようになることが大事な鍵であると思います。
 詳細は記しませんが、そういうことの中には、セックスが先ず個人の自己認識と受容や、自己決定権という人権と関わっていること、次いでそれが相手を認めて受容するコミュニケーションへと発展しているものであることを確認することなどが含まれていると思います。それがきちんと意識され、為されている時には、責任をもって特定の異性と関わって行くことが旧皮質が持っている性的欲求のみならず、安定や安全への欲求をも同時に満たし、旧皮質と新皮質が同時に機能した快感を得、不全感の無い満足に至ると思います。そういう形で私たちの社会がセックス飢餓社会から脱却していけたらと思うのです。







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神と神通力に馴れ馴れしい現代の日本人

2014-08-23 00:26:46 | 忍者的思索・一般
 日本人のスピリチャリティーを考えると、私には表題のような感じがします。どういうことか説明してみます。
 神は人の考えの及ばないような超絶的存在です。その神と人間がどのように接点を見出すかということは一つの課題になるはずです。しかし、テレビなどで見る人々の神に対する態度はそういう課題は素通りで、まるで旧知の間柄であるかのように突然振り向いて神にお願いをしたりするのです。そして、その神は大抵の場合は願いを叶えてくれるに決まっているような扱いになっています。神と人間の関係という課題を念頭に置くと、大変馴れ馴れしく不躾で、神を召使とか自動販売機のように扱ってるように思えます。人間同士であれば決してそんなことはしないのではないでしょうか?
 パワースポットなどという考え方も同様な馴れ馴れしさのようなものを感じます。どういう霊とどのような関係づけが有るからそこがパワースポットたりえるのでしょうか。何故そこを訪ねさえすれば願ったパワーを得ることができるのでしょうか。そういう関係とか約束を交わしたことがない人が、気軽に出かけて得した気分になって帰ってくるという感覚は、ずうずうしいような感じがします。
 テレビではいろいろな場面で知人、家族、恋人などの幸せや安全を願ってお守りを渡すことが有ります。それが、神仏に帰依した神官や僧侶が祈祷をして念などを込めたものであるならばそこに神仏と人間の接点が生じると考えても差し支えないと思います。しかし、お守りが普段神仏とは関係なさそうな個人の手作りである場合も割合多く有ります。そんなお守りがどういう理屈や関係づけで神仏の守りをそれを持つ個人にもたらすことになるのでしょうか。作る人が祈りを込めたという程度のものであれば、では、どうしてその人の祈りに神仏は答えるに決まっているかのようにお守りを扱い、他人に渡したりできるのでしょうか。

 昔の日本人の感覚においては、神仏はある程度人格的存在で、その関係や機嫌を損なえば災いが有ったり、祟られたりするという面がより強かったように思います。ですから日頃から儀式儀礼を怠らないようにしていたと思います。しかし、現代においては極端に非人格的で、自動販売機のようなただ祈願する人にとって都合の良いだけの神仏とかスピリチャリティーが多すぎるように思います。

 果たしてそのような人間の手下のような神は存在するのでしょうか。それは信頼に値する神概念もしくは神観なのでしょうか。あなたが信頼に値する神とはどんな存在かを思索する時、そんな程度の低い存在を神とすることを良しとするのでしょうか。その神の定義や神との関係、つながりはどのように説明されるのでしょうか。そういう思索を経たスピリチャリティーの感覚なり理解を現代の日本人がもっと持ってるべきではないかと思います。そして、それは怪しい面を持つ新興宗教であるとか、宗教カルトに容易に取り込まれないために必要な素養でもあります。また、教会がカルト化するような時においても、そのような教えが神の性質にかなっているいるかなどの考察、思索を立ち止まってすることができる基礎的な姿勢でもあると思います。






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人格的自己開示を理解しないオピニオンリーダー

2013-01-13 22:21:24 | 忍者的思索・一般
 あるアイドルグループのメンバーの写真集の発行が中止になるかならないかという話題がネットニュースに繰り返し掲載されています。18歳未満の子供に手ブラをさせたことが批判されています。それに対して、あるオピニオンリーダーが、ヒステリックなバッシングであるとか、一ファンとして発売を期待しているとかいうことを述べたのだそうです。それがどれぐらい事実であるのか私は知りません。一応私が読み取った内容が事実と仮定すると、この人は問題をしっかり理解していません。
 実は、手ブラを担当したのが18歳未満かどうかに関わらず、ここには理解しておいたいただかなければならないことが有ります。彼女とその男の子の間に何が起きているのかという部分に限定して述べます。彼女は彼に対して人格的自己開示をしたのです。一般的な生活においては、自分の体や肌がどうなっているかは被服で覆って隠しています。その部分の情報は気軽に他人に開示するものではないからです。それは、本当に信頼できると判断した相手にのみ開示されます。それがプライベート・ゾーンの扱い方というものです。先ず、彼は背中だけかもしれませんが、プライベートな関係が無ければ通常は決して見ることの無い彼女の背中、肌を見ました。視覚的な自己開示を彼女はしたことになります。次に、彼の手は、通常プライベートな関係が無ければ起きない、彼女の胸に触れるということをしました。皮膚の感覚、触覚的な自己開示を彼女はしたことになります。この二つの自己開示は、本来は、人格的な交流の有る信頼し合った者同士だけがする行為です。それを、ただの商業的活動のためにする、もしくはさせるということは、心理学的にも大脳生理学的にも歪んだ行為である部分が有ります。
 人間の大脳は旧皮質と新皮質で構成されています。新皮質は知的な判断をしますから、彼も彼女もそれが商業的な行為であると理解して割り切っています。しかし、旧皮質は本能的な理解判断しかしませんから、二人の行為を人格的な自己開示をし合っているのと変わらない反応しかしません。この歪みを私は良いこと、認めて良いこととは思いません。それがこの世の規範に照らした時、大人同士の行為ならそれなりの分別が有る者同士の判断として容認されるのでありましょう。しかし、今回の件では、そのアイドルも男の子も理解していないでありましょう。その問題は残ったままであると思います。
 私が書いた理解は、キリスト教界の理解ということではなく、セキュラーな教育シーンにおいて性教育を人格的またコミュニケーション的な面から理解し、啓蒙活動をしてきた人々の論説、コラムなどの記事に基づいたものです。
 日本においては、こういった啓蒙活動に尽力している人々がいらっしゃる一方で、そのような取り組みが理解されず、浸透していかない現状が有ると思います。それは、商業主義、商業化主義偏重の社会的潮流のせいであると思います。しかし、それが、この分野においては、米国よりもひどく押し流されてしまっていることを残念に思います。そして、このような理解が、国の進む方向に積極的に発言をしている人物にも欠けているということを残念に思います。







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イサクとイシマエルのたとえ(ガラテヤ書四章二十一節~三十一節)

2012-09-30 09:34:10 | 忍者的思索・一般
 ガラテヤの教会の問題は、律法主義者がその教えを広めて影響力を強め、多くの信徒がそれに従って行ったことだと考えられます。

 パウロは、救いをもたらすのは律法を守ることではないことを、言葉を尽くして説明していますが、後半に入ったところでこのたとえを挙げています。ガラテヤのクリスチャン達の中心はユダヤ人ではありませんでしたが、他の初代教会の人々と同様に、私達が言うところの旧約聖書を一生懸命学んでいましたし、それがモーセ五書の中に有るエピソードでありますから、このたとえははっとさせるような効果が有ったのではないかと思います。

 今回は、イシマエルを中心にして、このたとえが如何にガラテヤに有った律法主義と福音の衝突の問題に合致しているかを再確認してみようと思います。奥義書を開いて該当箇所の内容を確認しながらお読みください。

イシマエル:ここではガラテヤ教会における律法主義の教えや律法主義者の象徴として取り上げられています。
 
 第一に、イシマエルがここで取り上げられる理由は、彼が神の約束の結果ではなくて、人間の努力によって生まれたということにあります。アブラハムは、約束の子孫がサラから与えられる約束を信じきれなかったようで、サラの言葉を受け入れて、ハガルを通してイシマエルを得ました。神による救いの約束であるメシア、イエス・キリストを信じる信仰では救いは達成できないとする姿勢は、神の約束を信じないで人間的努力をする当時の律法主義に結実し、イシマエルの状況と合うと考えられます。
 第二の理由は、先に生まれたイシマエルが乳離れの祝いの時に、イサクをからかっていたということにあります。母親のサラが不快感を表したところを見ると、いじめに近いようなやり方であったのかもしれません。同様に、先に成立したユダヤ教の教えを福音に混ぜるように強要していた律法主義者たちが、福音に入れられた異邦人クリスチャン達を、不完全で足りない者として見下し、割礼などを受けなければ救われないなどと教えていました。中には、それを受け入れて律法主義に走ってしまう信徒もいました。それは、先に福音を宣教した人達や、それを守るように努めて指導していた人達と、福音を受け入れて間もない人々にとっては、大変な圧迫であったでしょう。
 第三の理由は、イシマエルはイサクと一緒に居ることが許されず、追い出されたということです。イエス・キリストへの信仰によって救われるという奥義を、人間の努力である割礼や戒律の遵守によらなければ救われないという教えで乱すことは、異端を広める行動として退けられるべきものでした。

ガラテヤの教会の人々にとって、これは大変理解し易いたとえの提示であったと思われます。

なお、これはたとえであって、イシマエル個人が貶められるべきではないと思います。その名前の意味は「主は聞かれる」ということで、聖書中には他にもイシマエルと名づけられた人がいます。




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