弱い者とは? 其の三に関する背景、問題、在るべき姿などを追加します。
偶像に供えた肉を食べることを巡る文化的背景
1)コリントなどの異邦人の都市においては、肉は二種類の経路で食卓に上りました。一つは一般的な肉屋を通して得られます。二つ目は、神殿で偶像に供えた動物の一部が、偶像の信仰者や祭司の取り分として持ち帰られ、それぞれの家庭で用いられたり、更に市場に流されたりしました。神殿で売られる肉は、一般の肉屋よりも安価であったと考えられています。
2)ユダヤ教においても、そいう肉を巡る二つの勢力の対立が有ったそうです。一つは旧約の律法だけを基準にして厳しく取り組み、そのような肉は食べてはいけないという立場でした。もう一方は、伝統主義とでもいいましょうか、ラビや長老達の解釈を守って取り組むというもので、彼らは、偶像の刻印などが付いていなければ自由に用いて良いという立場でした。
3)実際のコリント教会における対立が、ユダヤ教の二つの理解の違いに影響を受けたものなのか、異邦人とユダヤ人の対立によるかなどは、はっきり示すことが難しいようです。関連する箇所で、パウロは「ユダヤ人にもギリシャ人にも神の教会にもつまずきになってはいけない」ということを述べていますが、それを根拠にして異邦人とユダヤ人の対立と結論付けるのも難しい状況であるようです。注解もいろいろな可能性を示唆しています。
対立する二つの立場と問題
1)強い者:聖書的な理論とその知識によって、偶像に供えた肉を食べることに問題が無いとする者
彼らは、自分の知識と自由の行使にあたって、優越感や思い上がった誇りを持っていました。それで、そういう知識の無い者たちに対する配慮が無く、キリストの与えた新しい教えである「互いに愛し合いなさい」という原則に従って行動しておらず、その結果、神の体である教会を建て上げず、かえって傷つけるという罪を犯していました。
2)弱い者:聖書的な理論とその知識が乏しく、偶像に供えた肉を食べることに問題を感じ、強い者を裁くか、良心の咎めを感じながら強い者の真似をしてしまう者
彼らは、正しい知識、確信によらずに判断、行動したことに問題がありました。よく理解できていないのに、他のクリスチャンに負けてはいけないというようなプライドから出た行動をしたりしていた場合も、神への信頼と信仰による行動ではなく、自分の肉的な思いを満足させるために行動するという罪を犯したことになります。
カルト被害者たちに、元カルト信者が警告していました。自分を被害者だとだけ思ってはならず、自分を正しい側に置こうとした罪の態度を反省しなければならないのだと。
パウロによる回答、その実践や意味
強い者こそ責任が重いのです。原則は正しい知識を誇ることではなく、愛によって行動することでした。先ずそのことが指摘されています。
勿論、強い者はその信仰によって肉を食べる自由が有ります。しかし、同時に、弱い者たちをつまずかせたり、罪を犯させたりする自由は無いということを意識しなければなりません。だからこそ、強い者の方が、その当然の自由や権利を制限することが求められています。九章は、別な話題に移ったような印象を受けますが、パウロは、その章全体を割いて、当然の自由や権利を進んで放棄する自分の実践例を思い起こさせています。
最終的な実践上の具体的な指示は、十章二十三節から十一章一節に示されています。先ずは、正しい知識に従って、気にしないでどんな肉でも食べるように述べています。しかし、弱い者が関わっている状況においては、その人たちへの愛の配慮から、食べてはいけません。
十章十四節から二十二節の理解
そこだけを読むと、偶像礼拝に通じるから偶像に供えた肉は食べるなという指示のようにも思えます。しかし、八章で示された原則や十章二十三節以下の指示、結論の方は、偶像に供えた肉を食べないようにという指示にはなっていません。この箇所と前後の指示に関する違いは何でしょうか。
偶像礼拝を避けなさいという指示は、実際に偶像礼拝をしてはおらず、そういう意識の無いコリントの教会の信徒たちにとってはどういう意味を持つのかを考えます。偶像礼拝は、偶像が安置されている場所でなされます。ですから、これは、これからは異教の神殿で食事をすることは止めなさいという指示と捉えることができます。そのことは、続く具体的な指示の中で、神殿で食事をすることに関する指示が出て来ないことからも理解でいると思います。他人からみれば、それも偶像礼拝に見えたりします。弱い者に誤解されるような行動は止めなさいという部分も含まれているように思われます。
強い者、弱い者の分類と、在るべき姿
細かく考えますと、強い者、弱い者もそれぞれ二種類ぐらいに分けられるように思います。
強い者1 信仰的知識が有り、理由付けがしっかりできて、偶像に供えた肉を食べる権利と自由を理解しているが、愛によって弱い者への配慮、権利と自由の制限を甘受できる人。
強い者2 信仰的知識が有り、理由付けがしっかりできて、偶像に供えた肉を食べる権利と自由を理解しているが、愛によらず、優越感や誇りによって行動して、弱い者を傷つけている人。
弱い者1 信仰的知識が無く、偶像に供えた肉を食べると何らかの悪い影響が有り、罪を犯したことになると考えている人。
弱い者2 信仰的知識が有るが、それでもそれを受け入れられないか、感情的に違和感を感じて、偶像に供えた肉を食べることに確信や平安の無い人。
できることならば、強い者1のタイプになれることが理想であると思います。
強い者2のタイプは、キリストの体なる教会を傷つける罪を犯すことにつながりますから、基本に立ち返って、人間的な優越感や誇りを悔い改めて、愛によって行動するように、強い者1のタイプに変わるようにしなければなりません。
弱い者1のタイプは、強い者1によって、きちんと教えを受け、強い者2のタイプにならずに、強い者1のタイプの仲間入りすることが理想です。
弱い者2のタイプは、信仰によって聖書的原則に従順することを徐々に学ぶ必要が有ります。一方人間の感情は簡単には変わらない部分が有ります。ですから、強い者1は、信仰的知識が有るのにどうしてそのように行動できないのかと責めたりしてはいけません。同時に、弱い者2のタイプの人も、強い者1などの人たちを裁くような態度を持ってはいけません。
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偶像に供えた肉を食べることを巡る文化的背景
1)コリントなどの異邦人の都市においては、肉は二種類の経路で食卓に上りました。一つは一般的な肉屋を通して得られます。二つ目は、神殿で偶像に供えた動物の一部が、偶像の信仰者や祭司の取り分として持ち帰られ、それぞれの家庭で用いられたり、更に市場に流されたりしました。神殿で売られる肉は、一般の肉屋よりも安価であったと考えられています。
2)ユダヤ教においても、そいう肉を巡る二つの勢力の対立が有ったそうです。一つは旧約の律法だけを基準にして厳しく取り組み、そのような肉は食べてはいけないという立場でした。もう一方は、伝統主義とでもいいましょうか、ラビや長老達の解釈を守って取り組むというもので、彼らは、偶像の刻印などが付いていなければ自由に用いて良いという立場でした。
3)実際のコリント教会における対立が、ユダヤ教の二つの理解の違いに影響を受けたものなのか、異邦人とユダヤ人の対立によるかなどは、はっきり示すことが難しいようです。関連する箇所で、パウロは「ユダヤ人にもギリシャ人にも神の教会にもつまずきになってはいけない」ということを述べていますが、それを根拠にして異邦人とユダヤ人の対立と結論付けるのも難しい状況であるようです。注解もいろいろな可能性を示唆しています。
対立する二つの立場と問題
1)強い者:聖書的な理論とその知識によって、偶像に供えた肉を食べることに問題が無いとする者
彼らは、自分の知識と自由の行使にあたって、優越感や思い上がった誇りを持っていました。それで、そういう知識の無い者たちに対する配慮が無く、キリストの与えた新しい教えである「互いに愛し合いなさい」という原則に従って行動しておらず、その結果、神の体である教会を建て上げず、かえって傷つけるという罪を犯していました。
2)弱い者:聖書的な理論とその知識が乏しく、偶像に供えた肉を食べることに問題を感じ、強い者を裁くか、良心の咎めを感じながら強い者の真似をしてしまう者
彼らは、正しい知識、確信によらずに判断、行動したことに問題がありました。よく理解できていないのに、他のクリスチャンに負けてはいけないというようなプライドから出た行動をしたりしていた場合も、神への信頼と信仰による行動ではなく、自分の肉的な思いを満足させるために行動するという罪を犯したことになります。
カルト被害者たちに、元カルト信者が警告していました。自分を被害者だとだけ思ってはならず、自分を正しい側に置こうとした罪の態度を反省しなければならないのだと。
パウロによる回答、その実践や意味
強い者こそ責任が重いのです。原則は正しい知識を誇ることではなく、愛によって行動することでした。先ずそのことが指摘されています。
勿論、強い者はその信仰によって肉を食べる自由が有ります。しかし、同時に、弱い者たちをつまずかせたり、罪を犯させたりする自由は無いということを意識しなければなりません。だからこそ、強い者の方が、その当然の自由や権利を制限することが求められています。九章は、別な話題に移ったような印象を受けますが、パウロは、その章全体を割いて、当然の自由や権利を進んで放棄する自分の実践例を思い起こさせています。
最終的な実践上の具体的な指示は、十章二十三節から十一章一節に示されています。先ずは、正しい知識に従って、気にしないでどんな肉でも食べるように述べています。しかし、弱い者が関わっている状況においては、その人たちへの愛の配慮から、食べてはいけません。
十章十四節から二十二節の理解
そこだけを読むと、偶像礼拝に通じるから偶像に供えた肉は食べるなという指示のようにも思えます。しかし、八章で示された原則や十章二十三節以下の指示、結論の方は、偶像に供えた肉を食べないようにという指示にはなっていません。この箇所と前後の指示に関する違いは何でしょうか。
偶像礼拝を避けなさいという指示は、実際に偶像礼拝をしてはおらず、そういう意識の無いコリントの教会の信徒たちにとってはどういう意味を持つのかを考えます。偶像礼拝は、偶像が安置されている場所でなされます。ですから、これは、これからは異教の神殿で食事をすることは止めなさいという指示と捉えることができます。そのことは、続く具体的な指示の中で、神殿で食事をすることに関する指示が出て来ないことからも理解でいると思います。他人からみれば、それも偶像礼拝に見えたりします。弱い者に誤解されるような行動は止めなさいという部分も含まれているように思われます。
強い者、弱い者の分類と、在るべき姿
細かく考えますと、強い者、弱い者もそれぞれ二種類ぐらいに分けられるように思います。
強い者1 信仰的知識が有り、理由付けがしっかりできて、偶像に供えた肉を食べる権利と自由を理解しているが、愛によって弱い者への配慮、権利と自由の制限を甘受できる人。
強い者2 信仰的知識が有り、理由付けがしっかりできて、偶像に供えた肉を食べる権利と自由を理解しているが、愛によらず、優越感や誇りによって行動して、弱い者を傷つけている人。
弱い者1 信仰的知識が無く、偶像に供えた肉を食べると何らかの悪い影響が有り、罪を犯したことになると考えている人。
弱い者2 信仰的知識が有るが、それでもそれを受け入れられないか、感情的に違和感を感じて、偶像に供えた肉を食べることに確信や平安の無い人。
できることならば、強い者1のタイプになれることが理想であると思います。
強い者2のタイプは、キリストの体なる教会を傷つける罪を犯すことにつながりますから、基本に立ち返って、人間的な優越感や誇りを悔い改めて、愛によって行動するように、強い者1のタイプに変わるようにしなければなりません。
弱い者1のタイプは、強い者1によって、きちんと教えを受け、強い者2のタイプにならずに、強い者1のタイプの仲間入りすることが理想です。
弱い者2のタイプは、信仰によって聖書的原則に従順することを徐々に学ぶ必要が有ります。一方人間の感情は簡単には変わらない部分が有ります。ですから、強い者1は、信仰的知識が有るのにどうしてそのように行動できないのかと責めたりしてはいけません。同時に、弱い者2のタイプの人も、強い者1などの人たちを裁くような態度を持ってはいけません。


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