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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

弱い者とは? 其の三の補足

2011-05-15 00:13:31 | 奥義書講解・書簡
弱い者とは? 其の三に関する背景、問題、在るべき姿などを追加します。


偶像に供えた肉を食べることを巡る文化的背景
 1)コリントなどの異邦人の都市においては、肉は二種類の経路で食卓に上りました。一つは一般的な肉屋を通して得られます。二つ目は、神殿で偶像に供えた動物の一部が、偶像の信仰者や祭司の取り分として持ち帰られ、それぞれの家庭で用いられたり、更に市場に流されたりしました。神殿で売られる肉は、一般の肉屋よりも安価であったと考えられています。
 2)ユダヤ教においても、そいう肉を巡る二つの勢力の対立が有ったそうです。一つは旧約の律法だけを基準にして厳しく取り組み、そのような肉は食べてはいけないという立場でした。もう一方は、伝統主義とでもいいましょうか、ラビや長老達の解釈を守って取り組むというもので、彼らは、偶像の刻印などが付いていなければ自由に用いて良いという立場でした。
 3)実際のコリント教会における対立が、ユダヤ教の二つの理解の違いに影響を受けたものなのか、異邦人とユダヤ人の対立によるかなどは、はっきり示すことが難しいようです。関連する箇所で、パウロは「ユダヤ人にもギリシャ人にも神の教会にもつまずきになってはいけない」ということを述べていますが、それを根拠にして異邦人とユダヤ人の対立と結論付けるのも難しい状況であるようです。注解もいろいろな可能性を示唆しています。


対立する二つの立場と問題
 1)強い者:聖書的な理論とその知識によって、偶像に供えた肉を食べることに問題が無いとする者
 彼らは、自分の知識と自由の行使にあたって、優越感や思い上がった誇りを持っていました。それで、そういう知識の無い者たちに対する配慮が無く、キリストの与えた新しい教えである「互いに愛し合いなさい」という原則に従って行動しておらず、その結果、神の体である教会を建て上げず、かえって傷つけるという罪を犯していました。
 2)弱い者:聖書的な理論とその知識が乏しく、偶像に供えた肉を食べることに問題を感じ、強い者を裁くか、良心の咎めを感じながら強い者の真似をしてしまう者
 彼らは、正しい知識、確信によらずに判断、行動したことに問題がありました。よく理解できていないのに、他のクリスチャンに負けてはいけないというようなプライドから出た行動をしたりしていた場合も、神への信頼と信仰による行動ではなく、自分の肉的な思いを満足させるために行動するという罪を犯したことになります。
  カルト被害者たちに、元カルト信者が警告していました。自分を被害者だとだけ思ってはならず、自分を正しい側に置こうとした罪の態度を反省しなければならないのだと。


パウロによる回答、その実践や意味
 強い者こそ責任が重いのです。原則は正しい知識を誇ることではなく、愛によって行動することでした。先ずそのことが指摘されています。 
 勿論、強い者はその信仰によって肉を食べる自由が有ります。しかし、同時に、弱い者たちをつまずかせたり、罪を犯させたりする自由は無いということを意識しなければなりません。だからこそ、強い者の方が、その当然の自由や権利を制限することが求められています。九章は、別な話題に移ったような印象を受けますが、パウロは、その章全体を割いて、当然の自由や権利を進んで放棄する自分の実践例を思い起こさせています。
 最終的な実践上の具体的な指示は、十章二十三節から十一章一節に示されています。先ずは、正しい知識に従って、気にしないでどんな肉でも食べるように述べています。しかし、弱い者が関わっている状況においては、その人たちへの愛の配慮から、食べてはいけません。


十章十四節から二十二節の理解
 そこだけを読むと、偶像礼拝に通じるから偶像に供えた肉は食べるなという指示のようにも思えます。しかし、八章で示された原則や十章二十三節以下の指示、結論の方は、偶像に供えた肉を食べないようにという指示にはなっていません。この箇所と前後の指示に関する違いは何でしょうか。
 偶像礼拝を避けなさいという指示は、実際に偶像礼拝をしてはおらず、そういう意識の無いコリントの教会の信徒たちにとってはどういう意味を持つのかを考えます。偶像礼拝は、偶像が安置されている場所でなされます。ですから、これは、これからは異教の神殿で食事をすることは止めなさいという指示と捉えることができます。そのことは、続く具体的な指示の中で、神殿で食事をすることに関する指示が出て来ないことからも理解でいると思います。他人からみれば、それも偶像礼拝に見えたりします。弱い者に誤解されるような行動は止めなさいという部分も含まれているように思われます。


強い者、弱い者の分類と、在るべき姿
 細かく考えますと、強い者、弱い者もそれぞれ二種類ぐらいに分けられるように思います。
 強い者1 信仰的知識が有り、理由付けがしっかりできて、偶像に供えた肉を食べる権利と自由を理解しているが、愛によって弱い者への配慮、権利と自由の制限を甘受できる人。
 強い者2 信仰的知識が有り、理由付けがしっかりできて、偶像に供えた肉を食べる権利と自由を理解しているが、愛によらず、優越感や誇りによって行動して、弱い者を傷つけている人。
 弱い者1 信仰的知識が無く、偶像に供えた肉を食べると何らかの悪い影響が有り、罪を犯したことになると考えている人。
 弱い者2 信仰的知識が有るが、それでもそれを受け入れられないか、感情的に違和感を感じて、偶像に供えた肉を食べることに確信や平安の無い人。

 できることならば、強い者1のタイプになれることが理想であると思います。
 強い者2のタイプは、キリストの体なる教会を傷つける罪を犯すことにつながりますから、基本に立ち返って、人間的な優越感や誇りを悔い改めて、愛によって行動するように、強い者1のタイプに変わるようにしなければなりません。
 弱い者1のタイプは、強い者1によって、きちんと教えを受け、強い者2のタイプにならずに、強い者1のタイプの仲間入りすることが理想です。
 弱い者2のタイプは、信仰によって聖書的原則に従順することを徐々に学ぶ必要が有ります。一方人間の感情は簡単には変わらない部分が有ります。ですから、強い者1は、信仰的知識が有るのにどうしてそのように行動できないのかと責めたりしてはいけません。同時に、弱い者2のタイプの人も、強い者1などの人たちを裁くような態度を持ってはいけません。






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弱い者とは? 其の三

2011-05-11 21:26:10 | 奥義書講解・書簡
今回は、コリント前書八章九節のものから考えます。


  しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、
  気をつけなさい。(口語訳)


 今回は、どんなことについて「弱い者」と表現しているのでしょうか。先ず、この章が何を扱っているのかを確認します。
 八章全体が偶像に供えた肉を食べることについて扱っていることが、一節と十三節を見るだけでも判ります。実は、この内容についてはいろいろ背景などを調べると興味深いことが出てくるのですが、今回は、本文を読むだけでわかる事柄についてだけ確認してみようと思います。

 八節を読むと、パウロは一つの結論を出していると考えることができます。


  食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、
  食べても益にはならない。(口語訳)


つまり、偶像に供えた肉であろうと、クリスチャンにとってそれは霊的な意味を持たず、従って、それを食べてもかまわないということです。


 では、その理由はどういうものでしょうか。それは四節から六節までの内容で確認できます。簡単にまとめます。偶像は実は神ではないし、実際にそういう神が存在しているわけでもありません。だから、偶像に供えられた肉であるということは、クリスチャンに対して何ら霊的な意味を持つことはないということです。(勿論、そういう偶像から来る恩恵を期待したりしていたら、偶像礼拝の罪であり、クリスチャンでありながらキリストの心に反した行動をする反逆ということになります。)


 この箇所で「弱い者」というのは、七節に述べられているように、上に書いたような「知識を持たず」また、「良心が弱い」クリスチャンたちということになります。


今回は、八章を読むだけでわかることに限定して書きました。しかし、その背景やその他の解説も大事だと思いますので、次回はその補足を書きます。






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弱い者とは? 其の二

2011-05-10 22:09:07 | 奥義書講解・書簡
 使徒行伝の記事で「弱い者」と訳されていた語が使われている他の聖書箇所を調べてみました。三つほど似たような用例を見つけましたので、これから確認を進めてみたいと思います。今回はローマ書のものを考えてみます。

      信仰の弱い者を受けいれなさい。(ローマ書14章1節a 口語訳)

 今回は、「信仰の」という語を伴っていますが、その具体的な内容はその箇所だけではわかりません。確認してみますと、2節に食べ物の話が出てきます。そして、この章を閉じる23節も、食べ物に関係有る終わり方をしています。それでは、14章においては、信仰と食べ物はどんな関わりで出てきているのでしょうか。 
 14章を通して読んでみますと、21節に記述が有るように、肉や酒をクリスチャンが食べたり飲んだりすることをどう判断するかということに関わって、信仰の強い者、弱い者という表現をしていることがわかってきます。
 ここで信仰の弱い者というのは、クリスチャンは肉や酒を食べたり飲んだりしてはいけないのではないかと考える人たちのことということになります。どういう風にそれが信仰の妨げになり、信仰の弱い者と表現されることになったのでしょうか。
 いくつかの注解を見ましたところ、これは、ユダヤ人の背景を持った人や、異邦人でユダヤ教的理解の有る人がクリスチャンになった場合、まだ律法に従って食べてよい肉と食べてはならない肉(たとえば豚肉)を区別しなければならないのではないかと考えて、食べてしまった時に良心の呵責を覚えたり、食べる人を罪人と思ったりすることを指しているということです。また、酒については(実際はワインということです)、ユダヤ人には普通の飲み物だったのですが、ナジル人(ひと;部族などではない)やレカブ人(じん;家系、一族)は酒を飲まなかったという聖書的記述を学んだ異邦人クリスチャンが、皆酒を飲んではいけないと信じたりした場合が有っただろうとしています。
 肉や酒については、別な背景や議論が無いわけではありませんが、この箇所については特にそういう意味合いであるという理解が伝統的なものであったことが伺えます。
 パウロがそういう立場のクリスチャンを「信仰の弱い者」と表現していますから、逆に言えば、モーセの律法にとらわれずに豚肉を食べてよいと理解し、ナジル人たちのように酒を断つ必要が無いと理解しているクリスチャンを信仰の強い者、控えめに言えば、信仰の弱くない者ということになります。

 この箇所における「信仰の弱い者」というのは、律法やナジル人の誓願の掟がクリスチャンにも適用されなければならないと理解し、そういう物事に良心の呵責を感じたり、動揺してしまったりするクリスチャンということになります。





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弱い者とは?

2011-05-09 22:55:31 | 奥義書講解・書簡
 使徒行伝を読んでいましたら「弱い者」という言葉が出てきたのですが、具体的にはどういう風に弱いことなのかが一瞬ぴんと来ませんでした。それで、少し時間を取って確認してみました。


 あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。
 わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。(使徒行伝20:34、35)


 パウロがエペソの教会の長老達を集めて最後の話をした時の、最後の部分です。パウロは書簡の中で、信仰的な知識が足りなかったりして、他のクリスチャンの行動に動揺してしまうような信徒を弱い者という風に表現したりしていましたが、ここでは、どんな意味でしょうか。

 35節を確認すると、「弱い者を助けなければならない」ということを長老達に述べているのですが、その手段は、「このように働いて」ということです。どのようになのかは、先の34節に説明されています。パウロは自分の手で働いて、自分の生活や一緒にいた人たちの生活を経済的に支えたことが読み取れます。
 後半の主イエスの言葉という部分は、「与える」ということを促す根拠として述べられています。
 これらを合わせて考えると、助けるという行為は「経済的に与える」ことを指しています。そういう助けが必要な「弱い者」は、結局、経済力が弱くて貧困に苦しんでいる人たちのことになります。

 長老教会においては、信仰に篤くて経済力の有る人が長老になったりする場合が有りますが、それは、この伝統を踏まえたものであると理解することができるかもしれません。(全ての長老教会がそういう実践をしているということではありません。)







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こっそり為された悪事は必ずばれる? 付録其の二

2011-05-07 02:02:50 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 旧約聖書に、表題のような原則を示した箇所が有るのかどうかを確認しました。コンコーダンスを使い、新約で用いられたのと同じ訳語を入れて、用例を調べていくという方法が有ります。今回は、かなりその法則に近いと思われる一節をみつけました。

 あなたは心のうちでも王をのろってはならない、
 また寝室でも富める者をのろってはならない。
 空の鳥はあなたの声を伝え、
 翼のあるものは事を告げるからである。 (伝道者の書 10:20 口語訳)


 この箇所は、「王をのろう」という悪事は、鳥や他の飛ぶ生き物によって告げ知らされてばれてしまうという内容を含んでいるように思えます。しかし、この箇所を引用して、こっそり為された悪事は必ずばれるという法則を示そうとしてみると、あまりぴったり合わないと感じられるのではないでしょうか。
 伝道者の書は、ある共通のテーマで幾つかの句をまとめるという編集の仕方になっていると考えられるのですが、それを見つけ出すのはあまり楽な作業ではありません。それで、確認しやすい部分だけ取り上げてみます。索引つきの聖書を見ると、出エジプト記22:28が参照箇所とされています。その内容は、

 あなたは神をののしってはならない。
 また民の司をのろってはならない。 (口語訳)

というものです。民の司と王は同義と考えることができます。すると、モーセを通して神が与えた戒めの確認という側面が強くなるようです。また、実際にそのような思いや言葉は、どこかに表れ、家族や周囲の人にも知られるところとなることが多いということです。寝室でのろったならば、当時は家族がみな一緒に寝ましたから、妻や子供に聞かれてしまい、家族がぽろりと外でもらしてしまうことも有り得たでしょう。また、中近東の王達は、国政と自分の地位を守るために、そういう噂などを聞き集めるような役割の人を町に放ったと言われています。すると、もう一つ、処世術的な警告という面も考えられます。


結論
 この旧約の聖書箇所は、かなり「こっそり為した悪事は必ずばれる」という原則に近い内容を持っているように思えますが、王をのろうという具体的な行為が念頭に有り、それが所謂悪事全般を代表し得る内容とは言えません。ですから、この語を引用してそういう原則を示そうとするためには、ぴったりとは言えません。また、先に述べたような、律法の確認や、処世訓的な意味合いがより強いものと考えられます。
 結局のところ、聖書の中には、「こっそり為した悪事は必ずばれる」という原則を示すために引用できる箇所は無いのだと結論づけることができると判断しました。
 当たり前に思って聞いたり、自分でも使ったりする聖書の引用が、本当に適切であるかを、時々立ち止まって考えていただきたいと思います。


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こっそり為された悪事は必ずばれる? 付録其の一

2011-05-06 23:11:05 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
新約聖書の福音書以外の箇所に、同様な表現があるかどうかをコンコーダンスを使って調べました。福音書で確認した「隠された」とか「現される」という言葉が用いられている他の箇所を参照すると、似たような表現が確認できたのは次の箇所だけでした。

だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。
(コリント前書4:5 口語訳)

「主がこられるまでは」という条件がついています。確かにここでは人の心の中のことがあらわにされるのですが、その時は「主がこられるとき」ということになりますから、現在のわれわれの生活の中での一般原則として考えることはできません。



結論
 すると、新約聖書の記述の中には「こっそり為された悪事は必ずばれる」という原則を表す箇所は無いということになります。


次回は旧約を確認した結果をお知らせします。









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こっそり為された悪事は必ずばれる? 其の四

2011-05-04 20:40:22 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
くどいかもしれませんが、このシリーズはまだ続けさせていただきます。でも、福音書のキリストの言葉からの検証はこれで最後になります。其の三と同じルカ伝から確認します。今回は12章1節~12節からで、2節の意味を確認します。


    おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、
    隠れているもので、知られてこないものはない。(口語訳)



1.該当テキストの前後関係を確認し、大きな括りを確認する。
 この箇所は11章の内容を受けた流れになっています。11章ではキリストが律法学者やパリサイ人たちを責めました。そのために、彼らからの激しい敵対が始まったことが記されています。
 そういう環境の中で、12章でキリストは弟子たちに律法学者やパリサイ人たちに関する警告を与えています。それが12節までの言葉になっているのです。12節までが大きな括りになっているという判断は幾つかの方法で確認できます。先ず、キリストは弟子たちに語りはじめられましたが、12節までの内容は一貫して弟子たちに対する注意事項です。また、その内容が弟子たちに降りかかるであろう迫害に関わるもので、パリサイ人たちの敵対心があからさまになったこの状況に合致していますし、パリサイ人たちに関わる注意ではじまったキリストの警告の続きと考えることは自然です。更に、この部分の構成は、最初のパリサイ人たちに関する警告から二回「そこで」ということばでつなげられている形になっていますから、その面からも一まとまりと理解できます。
 この大きな括りにおける共通のテーマは何でしょうか。パリサイ人たちの偽善に注意することから始まっていますが、その続きは彼らからの圧力を恐れないということがテーマになっています。キリストは教えを宣べ伝える中で、パリサイ人たちにその権威がどこから来たかと挑戦されました。そして、キリストがパリサイ人たちが持っている間違った態度を指摘すると、彼らからの激しい敵対を受けることになりました。ですから、キリストの弟子たちが神の国の福音を宣べ伝える時も、同様な迫害をパリサイ人たちから受けるのは当然のことでした。
 少し横道にそれますが、偽善と言う言葉を確認して興味深いことに気が付きました。原語では偽善と訳された語はフポクリスィスというものですが、ストロングズの辞書においては、断罪する、有罪にするという意味も掲載されています。他の資料では、内側で判断をすること・審判を下すことという意味の語と同根であるということでした。パリサイ人たちは、常に人々を断罪していましたし、キリストや弟子たちもその対象でした。すると、パリサイ人たちの見せ掛けの善としての偽善も注意しなければなりませんが、彼らの持っている断罪する姿勢にも注意しなければならないということを含意していると考えられるかもしれません。弟子たちはパリサイ人たちの断罪を真に受けてはいけないし、その態度から来る圧力にも負けてはいけません。ましてや、自分の肉的な誇り、傲慢を持って他人を断罪するような態度を弟子たちが持つようになってはいけません。弟子たちは神の恵みと神の国の原理によってのみ行動しなければなりませんし、その原則に従って宣教しなければならないのです。(断罪するという意味を、直接フポクリスィスから引き出すことができるかどうかは更なる研究が必要です。)
 


2.該当テキストの部分の主たる意味を確認する。
 より小さい括りは、1節から3節です。これまでの流れから理解すると、この部分は、どんなにパリサイ人たちの迫害や圧力が有っても、弟子たちは宣教に携わり続けることになるというキリストの意志を感じることができます。パリサイ人たちの偽善に注意を促しながらも、キリストの教えは言い広められることになるという前提で話されています。使われているのは未来時制受動態です。必ずそうなるということが含意されるようです。
 3節に有る、暗やみで言う、密室でささやくという行為は、マルコ伝ではキリストの行為でありましたが、この箇所においては弟子たちの行為として記されています。キリストは、この箇所においては、更なる宣教の広がりを意識していたと考えられます。マルコ伝においてはキリストが弟子たちに語り告げ、教えたことが、弟子たちによって公に語られるのですが、この箇所では弟子たちが他の人たちに語り告げ、それが伝え聞いた人たちによって更に広められる設定になっています。
 研究の中心となる2節も、キリストの言葉は語り告げられなければならない必然性を表すために用いられていると考えることになると思います。



3.該当テキストにおける2節の特定の意味を確認する。
 ここまでの流れ、全体のテーマから考えると、キリストの神の国の福音は必ず語り告げられなければならないという意味合いで理解するべき箇所であると考えられます。
 ここで、パリサイ人たちの偽善は必ず公に知れることになるという理解の可能性を考えます。それがこの箇所の文脈に合うか、理論的な整合性が有るかどうかは、前後の意味をつき合わせてみれば判ります。「パリサイ人たちの偽善は周知のこととなる」→「だからあなたがたの語り告げることが更に言い広められる」という流れになります。これは理論的な整合性を持ちません。やはり、最初に示した理解の方が良いでしょう。
 さて、このシリーズの疑問は、2節に表れる表現が、「こっそり為された悪事は必ずばれる」という意味合いで引用できるかどうかということです。今回の箇所も、そういう意味は無く、そういう原則をサポートするためにキリストの言葉として引用することは不適切であるという結論になりました。


福音書の、キリストの言葉の中からの確認はこれで終わりになります。今後の流れとしては、書簡の中に見出される同様な表現を確認し、その後に旧約聖書の中に見出される類似表現を確認し、「こっそり為された悪事は必ずばれる」という原則を示すために引用するのに適切な箇所が有るのか無いのかを見て行きたいと思います。

   







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こっそり為された悪事は必ずばれる? 其の三

2011-05-04 16:21:23 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
引き続き同様な表現を確認します。今回はルカ伝8章17節です。


   隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもの
   で、ついには知られ、明るみに出されないものはない。(口語訳)


1.該当テキストの前後関係を確認し、大きな括りを確認する。   
 良い土地の譬の後に続いて出てくる点が、マルコ伝の流れと共通しています。8章3 節から、「さて」という切り出しで、良い土地の譬が始まるのですが、「隠されたもので」のくだりは、キリストのその譬の解説の締め括りに出てきます。ですから、大きなテーマを確認するにあたっては、3節の土地の譬と併せ、キリストの解説が終わる18節までの区切りを一まとまりと捉えることになります。更に、「聞く、聞き方」という点に注目すると、21節までもそのまとまりと考えられます。
 この大きな括りにおける主題は何かということをかく本文から確認します。キリストは最初に群集に良い土地の譬を話た時、「聞く耳のある者は聞くがよい」と言って締め括りました。そして、その解説の締め括りである「隠されているもので」くだりの後に、「だから、どう聞くかに注意するがよい」という警告が入ります。全体の主題はみ言葉を聞く態度に注意するということにより重点が有る構成になっていると考えられます。良い聞き方の具体的な有様は、15節に有る、み言葉を正しい良い心で聞いてその教えを守るといものです。そして、それを別な角度から説明しているのが、19節からの区切りに表れる、「神のみことばを聞いて行う者こそが」という部分です。


2.該当テキストの部分の主たる意味を確認する。
 17節が含まれる最小の括りは、16節~18節です。みことばをきちんと聞く、良い聞き方をするという流れで考えると、16節のあかりの譬は、聞いたみことばを正しい位置に置きなさいということになるでしょう。あかりを在るべき位置に置くように、みことばを心の中の然るべき位置に置くということでしょう。それは、「どう聞くかに注意する」、「神のみことばを聞いて行う」という説明に合致します。
 17節と18節は「だから」という接続詞でつながっています。17節が今回一番内容をはっきりさせたい部分ですが、これを理由として、どう聞くかに注意せよという注意が与えられています。すると、人がどういう聞き方をしたのか、きちんと聞いたのか、そうでないのかは何れ判ってしまうものだから注意しなさいと警告していることになります。その結果の現れ方が、持っている者はもっと与えられ、持っていない者は持っているものまで取り上げられ、その差が大きなものになってしまうからです。持っているというその内容は、神の国の福音です。1節ではキリストが神の国の福音を説き、また伝えて巡回しておられたことが記されています。また、ユダヤ人たちは神の民の意識が有り、霊的な特権意識が有りましたから、そういう特権や神の恵みという部分も含まれていることでしょう。


3.該当テキストにおける17節の特定の意味を確認する。
 先に簡単に述べましたが、この内容がこの箇所で表していることは、人がみことば良い心で聞いたかどうかは、はじめは外見上は判らないが、何れは判るようになるということです。キリストはこれを集まってきた大勢の群集に向かって話しました。その中には心から神の国の福音に触れたくて来た人、時の人であるキリストの教えを聞くことがステータスであると思うような人、キリストを陥れようとするユダヤ教の指導者などが混ざっていました。そういう心構えは何れ判り、明らかになるのだから、きちんと聞いてみことばを行う者になるようにという警告を促すためのことばであったと考えるのが自然です。 
 この箇所を、こっそり為された悪事は必ずばれるのだという原則を表現するために引用することは相応しくありません。キリストがそういう意味で用いていないからです。









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