糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

牧師が乞食と揶揄される場合が有ることから思ったこと

2013-08-16 00:13:35 | 忍者的思索・忍界
 ネット上には乞食だと揶揄されるような牧師の話が時々出てきます。読んでみれば、そう言われても仕方ないように思える取組をしている牧師もいます。そういう牧師のせいで、そういう非難に値しない牧師まで同様な目で見られてはならないとも思います。また、批判する方の牧師に対する役割期待やイメージが正しくない場合が有るように思います。他のカテゴリーで述べたことと重複したりしますが、幾つか考えたことを書いておこうと思います。

1.牧師給について
 聖書的には牧師給は十分の一献金とは関係有りません。牧師は新約聖書に定める長老に当たるからです。長老に対する報酬については、テモテ第一の手紙五章十七節、十八節に出ています。十八節に報酬という言葉が出てきます。労賃、報酬などの意味を持つミスソスという語が用いられています。パウロはこの表現を根拠に、特に宣教と教えのために労している長老は二重の尊敬に相応しいと述べていますから、これは報酬としてのお金や物質的援助をすることを指示していることになります。 
 このような長老にそういう援助をしなければならない理由は、背景の確認をすればわかります。当時の自由人は、何等かの技術を身に着けて、家業なり新たに開拓した仕事なりに従事する個人事業主であることが殆どでした。宣教や教えに労するということは、そういう仕事に使う時間が著しく制限されるということです。そうすると、時間と労力をかけて奉仕していますが、生活を支える収入が不足する事態になりかねません。だから、同じ共同体に属する仲間たちが経済的に援助しなさいということなのです。
 パウロはこういうことを当然なこととして幾つかの箇所で述べています。彼自身は自分で働いて負担をかけないように努力をしましたが、それは彼独自の配慮であって、皆が倣わなければならない姿ではないことも彼の記述から理解することができます。そして、基本的にフルタイムの牧師であるならば、この報酬が与えられる取組が適用されるべき場合であると理解できます。

 それでは、牧師給はどのように支払われたら良いのでしょうか。よく引き合いに出されるのは、地方公務員の給料表を適用することです。教団でそういう要素を加味して設定した給料表を持っていたりします。但し、それは多くの教会の場合は努力目標であったり、給料表や報酬の規定が公務員よりずっと低かったりする場合も有ります。教会、共同体の実力に見合った設定をすることが必要になるでしょう。ここで二つのことを考えました。
 一つ目は、地方公務員の給与水準に満たない報酬である場合です。それが生活を維持するのに困難な状況であるならば、パウロは働かざる者は食うべからずの原則を示していますから、フルタイムレベルの奉仕を目標としている牧師と言えど、他に仕事をするべきです。それがパウロも示している聖書的原則ですから、他に仕事を持っている牧師を不信仰であるとか非聖書的であるとか言って批判してはいけません。
 二つ目は、給料表を設定していますが、報酬がやや高すぎないかと疑われる場合です。いくら役員会や会衆がその長老、牧師に感謝の念を持っているとしても、それは聖書の示している原則や理由に合わない行き過ぎであると考えられると思います。ましてや、牧師が具体的な要求をしてそれが入れられたのだとなれば、パウロが批判しているような「敬虔を利得の手段と考えている」状態になっていると思います。教会の中にはいろいろな事情で生活が難しい人達も居るのですから、そういう人達の負担やつまずきにならない取組を心がけるべきです。
 この二つ目の状況に当てはまるのではないかと私が思った例を読んだことが有ります。実際のところは調べようが有りませんが、一か月に四十五万円手取りが有るのに、「お金が足りない」と言っている牧師がいるらしいのです。世間知らずで、会計管理の杜撰な牧師という誹りを免れないだろうと思います。これで、外国の恵まれた教団のように、書籍代、牧師ガウン代もしくはスーツ代、子弟の学費も支給されていたとしたらとんでもないことです。乞食と揶揄されても仕方ないことです。


2.牧師の仕事量について
 牧師は暇でたいした仕事をしていないのに公務員並みの報酬を受けるなどとはとんでもないというような意見を見る場合が有ります。果たしてそうでしょうか。
 割合著名な牧師が、その著名さの故でしょうか、ある方から「家族で二、三日先生と過ごす時間をください。」というようなお願いをされたということでした。理由は忘れましたが、牧会的配慮が必要だと判断した牧師は、それを引き受けることにしました。引き受けた以上は、「そこにいて適当に過ごしてください。」というような扱いはできませんから、彼は一生懸命時間の遣り繰りをして、寝る時間も削って日曜日の準備を先に進めてからその家族を迎えたそうです。おもてなしの心で、普段しないようなバーベキューなどもしたのだそうですが、後になって、その家族が、「先生は暇な人だ。説教の準備もろくにしていない。」というような話をしているということが彼の耳に届いたそうです。彼の失望落胆は想像に難くありません。
 クリスチャンですらそういう印象を持つことが有るぐらいですから、ノンクリスチャンは尚更ということでしょう。別の牧師が話していた体験談です。彼は地域への宣教や証ということも考えて、町内会に積極的に参加していました。ある時、何等かの町内のイベントの係が二人選ばれて、彼もその一人になったそうです。それで、打ち合わせをしようとしてもう一人の人に声をかけました。彼より年配の人だったそうです。ところが、その人は、「俺は忙しい。とにかく俺は関われないから、お前がやっとけ。お前は時間が有るだろう。」というような口ぶりであったというのです。それなら最初から係りは引き受けるべきではないと思うのですが。その牧師は、自分の教会の牧会の他に教団の聖書学校で教鞭を取り、宣教の企画団体を主宰したりして、大変忙しい人でした。実情も知らないで、牧師は暇で時間が有ると考えてはいけません。
 
 それは別にして、聖書学院等で教育を受け、教会実習などを経て任命された牧師が、最低限どれだけの仕事をするという予想をして任地に赴くか、お考えになったことがあるでしょうか。手元に有るある教会の略式の牧師の業務のリストから拾ってみます。「聖徒を訓練して整えること」「役員、リーダーを訓練して整えること」「各種の委員会や集会の監督」「礼拝を司式して福音を語ること」「その他の礼典、諸式の司式をすること」「聖書を自らよく学び、よく教え、日々信徒のために祈ること」「信徒を訪問し、祈り励ますこと」等が記されています。

 ここからもう少し具体的に考えてみます。多くの牧師は月曜日が公休日となっています。週休二日というわけにはなかなか行きませんが、一応そういう設定で考えてみましょう。一日の一般的な労働時間は八時間と考えられていますから、週五日働くと四十時間働くという目安になります。
 牧師の一週間の業務を考えてみます。私が経験した幾つかの教会の業務から、比較的一般的ではないかと思うものを挙げてみます。設定としては、平均出席人数40人(2010年、クリスチャン新聞の記事)ぐらいの教会に合わせてみます。「日曜礼拝の説教の準備」「週半ばの礼拝の説教の準備」「土曜日準備祈祷会の奨励の準備」「日曜学校教師打ち合わせ」「各週に割り当ての有る集会(青年会、壮年会、婦人会、家庭集会、役員会、リーダー会等)」「お見舞い、家庭訪問」「祈りの時間」等でしょうか。これに月例もしくは毎週の地域の牧師会出席、教団の例会が加わったり、積極的に地域に出ていく牧師ならばロータリークラブか町内会などに出かけるということも教会の業務として考えることになります。
 説教の準備については、どのようなことをしているのでしょうか。英語のものも加えて、三つの実例をネットから例示したいと思います。尚、これらは、説教の準備に必要なステップと時間の感覚をお示しするためであって、各サイトやブログのマスターの牧会や教派的姿勢を支持するためのものではありませんので、その点をご了解ください。

http://www.tonybartolucci.com/Sermons/2%20peter%20exegesis/2%20Peter%201.1-2.pdf

http://blog.livedoor.jp/smbno6/archives/51472157.html

http://oliveyamaok.jugem.jp/?eid=18

 原語に遡って確認し、幾つかのキーワードをギリシャ語やべブル語辞典で調べ、文化や時代背景を調べ、前後の文脈を調べ、文意をできるだけ直接的に読み取り、それから適用を考えたりプレゼンテーションの手順を考えたりします。時間のかかる作業です。私の恩師は同様の資料を示した後に、普段は一つの説教に約16時間かかると言っていました。忙しくても12時間はかけないと、忠実に準備して説教したと考えられる過程を終えたとは考えられないと言っておられました。どうしてもその箇所の主旨が読み取れていないと思うと、前日の明け方まで呻吟することも有ります。先に設定した教会の業務の場合、週に二つの説教をしますから、最低でも24時間は費やされることになります。週の60%は説教の準備で終わることになります。牧師は暇だと思っておられる方は、一度そのプロセスを一緒に経験してみたら宜しいのではないかと思います。
 週の半ばの礼拝は、水曜日に持つ教会が多いのではないかと思います。7時半から始まり、教会の施錠は9時を少し過ぎた頃になるかと思います。土曜日の準備祈祷会の時間はまちまちですが、所要時間は同じくらいでしょうか。教会員に会堂やトイレの掃除の習慣がなければ、それも牧師の仕事になります。この部分で4時間ぐらいでしょうか。
 毎日教会員のために祈ることになりますが、それもいろいろな難しい問題を抱えている場合が有りますから、毎日2時間は祈ることになろうかと思います。私がお世話になった教会は地方の小さな開拓教会で、礼拝出席はいつも12人ぐらいでしたが、酒乱のご主人がいらっしゃる教会員の方もいて、目の周りに青あざを作って来られたり、ご主人が教会に怒鳴り込んで来たりしましたので、牧師も祈りと対話に相当時間を取られていた時期が有りました。そのようなことでなくても、教会員の仕事がうまく行かないとか、信仰的に困難を感じているとか、教会員や日曜学校の生徒たちが喧嘩をしているらしいとか、いろいろ気になること、祈りの課題は有るものです。週半ばと日曜の礼拝のために更に時間をとることになりますから、5日間で10時間は祈ることになろうかと思います。「は、祈りか。」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、いったん牧師となって真剣にキリスト教信仰に従って行こうとしているものにとっては、パウロが「労苦している」と表現したような祈りを教会員と教会の働きのためにすることはおろそかにはできないことです。
 それからお見舞いや家庭集会ということがはいります。さすがにお見舞いは毎週は無いかと思いますが、リーダー的な信徒の養いと伝道の機会ということで、週に一つどこかの家庭で礼拝をする取組はよくあることです。この他に地域の寄合に出るとか、月一度の牧師会に出るとか、教団の会議に出るとかの毎週ではないけれども定期的な働きが入ってくることが有るわけです。
 まだいろいろな分担ができていない場合は、週報も牧師が作ります。コラムも書くようにしている場合は、またその推敲にもまとまった時間が必要です。また、日曜学校の教材も、担当者たちに任せっぱなしというわけには行きません。有名な出版社の教材でも、時々的外れなものが有るからです。まず牧師が確認をして、年齢別の教材の注意事項や追加するべき情報、訂正すべき内容などが無いかを調べ、打ち合わせの時に教師達に伝達する必要が有ります。役員会のレジュメなどは、役員が持ち回りで作成する方が良いと思いますが、予め問題点を整理したり、どんな運営ができそうかを考えておくことも必要になります。
 これらのことを考え併せれば、たとえそれが残業百時間で血尿が出るような企業戦士のような生活ではないにしても、定時にきちんと帰るように努力する地方公務員程度の時間や労力を費やして仕事をしていると認めることはできるのではないでしょうか。


3.牧師の時間管理について
 私が講義所で学んでいた時に恩師が例話として挙げていました。ある人が牧師のところに来て、相談の時間を取って欲しいと言いました。それで、牧師はスケジュール調整をするのですが、第一希望の時間帯には先約が有ったので、「その時間帯は約束が有るので、もう一つ別の時間帯をあげてみてください。」と言いました。その人はどういうことかその時間帯に大変固執して、しばらく第一希望の時間帯でなんとかならないかと粘ったようですが、約束だからということで別な時間帯を最終的には設定することになりました。
 この相談者は第一希望が通らなかったことに大変不満を持ち、その時間帯に牧師はどんな約束が有ったのかを調べに行きました。すると、牧師は息子とキャッチボールをしていました。それで相談者は怒って牧師に尋ねました。「あなたの言っていた約束というのは息子さんとのキャッチボールですか。」すると牧師は「そうですよ。あなたは怒っているようですが、息子との約束は破っても良いと仰るつもりですか。父親として家族を大切にし、約束を守ることも神様から委ねられた大事な仕事なのです。息子との約束も守れないような人が私たちの教会の牧師でも構わないとあなたは考えておられるのですか。」という風に答えたということです。あなたはどう思われますか。
 私が読んだ本によると、自分の問題や相談はより重要であると受け止められるべきだという潜在意識を持っている人は、ある心理学者の分類では神経症気質ということになるそうですが、不健全な部分が有ります。講義所のカウンセリングの担当であった別の恩師も、相談であるからと言って全て受け入れてはいけないとよく言っておられました。相談者に依存心やその他の不健全な思考を定着させることになるからです。中には「今先生とお話できないならば死にます。」というような脅迫めいたことを言う人も時々いたそうですが、そういう場合も先生は、「いえ、そういうことで死ぬということはありません。代わりに連絡を取りますから、カウンセラーの○○先生に相談してください。」と言い、私たちにもそうするようにと言っておられました。断固として且つ優しく話し、ただ断るのではなくて代わりに助けとなる人を紹介するなどの労を取るようにとの言っておられました。
 もし、相談者の思いの中に、牧師ならどんな時間でも犠牲を払って相談に応ずるべきだという考えが有ったら、それも不健全です。牧師は超人ではなく普通の人間です。神から委ねられた家族も大事にしなければなりません。あなただったらそういう要求に耐えられますか。相手にはいわゆる愛の有る対応を当然のように求めるけれども、自分のしていることが相手にはどんな影響を及ぼすかを顧みないのは、愛の有る態度ではないのではないでしょうか。


考えていただく第一歩ということで、これが全て正しいとかいうことではありません。少し違った角度からも見たり知ったりしていただくことに意味が有るのではないかと思ってアップいたします。






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2 コメント

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Unknown (牧師は乞食です。)
2019-04-11 15:15:52
私の知っている牧師は児童文学の大学教授をしてNHKを退職していました。やはり普通の一般社会で働いた経験と深い教養があり自分の生活は自分で支えていない人は人間として堕落しています。だからその牧師の話は重みがあった。人間としての深みもある。サラリーマン牧師もいますがやはり話が面白い。
人に生活支えてもらったら乞食より悪い詐欺師です。
主旨が判りません (糸田十八)
2019-04-17 00:27:18
>人に生活支えてもらったら乞食より悪い詐欺師です。

上記のお考えの直接的意味が理解できない上に、仕事をして報酬を得るという形態である牧師は自分の生活を自分で支えていることになるはずですから、上記の内容がどうつながるのかが理解できません。宜しければご説明ください。

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