イスラム教徒はキリスト教を無効とする論法として、神は子を生むことはないから、イエス・キリストが神の御子である、子なる神であるということは有り得ないという主張を持ち出します。しかし、それは、私たち忍者の方からすると、奥義書の預言及び、父、子という表現の意味するところをきちんと理解していないことを表していることになります。私たち忍者は、どのような理解、説明ができなければならないのかを述べてみようと思います。
このことを最も明らかに示しているのは、第二サムエル記七章の記述であると思います。ここには、神殿を建立したいというダビデ王に、預言者ナタンが伝えた神の言葉が記録されています。直接的には、十三節で、神殿を建てるのはダビデではなく彼の子孫だと述べています。
しかし、我々にとってそれよりも重要なのは、十二節から十六節に示されているメシア預言の部分です。直接的にはダビデ王に世継ぎが生まれる約束になっていますが、預言的にはメシアの到来の約束になっています。十三節と十六節は、ダビデの子孫により、ダビデの王国が永久に続くことを述べています。ご存知のように、ダビデ王朝は途絶えてしまいましたから、これは、イエス・キリストによる神の国のことを示していることになります。
ナタンを通して語られたこの預言には、父なる神、子なる神の関係を示す言葉も示されています。
『 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。』(十四節)
ここでは、ダビデの子孫として生まれる王に対して、神は「父」の立場になり、王は「子」の立場を得ることを約束しているのであって、神がその王を生むという関係ではないことは明白です。
このような関係において、神が「父」となるということの意味は何でしょうか。幾つか考えられることを示します。
1)父なる神は、イエス・キリストの権威の後ろ盾である。
2)父は子に相続をさせる存在である。父なる神はイエス・キリストに神の国を相続させることに決められ、イエス・キリストを信じる者、忍者たちを共同の相続人とすることを定められました。そういう関係と意味合いにおいて、父なる神、子なる神という表現になる。
別の奥義書の言葉からも考察していみます。ペテロは使徒行伝四章において、詩編二編をダビデによるメシア預言として引用しています。その七節には、『主はわたしに言われた。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」』という記述が有ります。ダビデはエッサイの子ですから、生物学的な意味合いで神が生んだなどということは有り得ません。王という立場任命したということです。そして、それをメシア預言としてイエス・キリストに当てはめても、神がメシアとして立てたという意味として理解するものです。
なお、第二サムエル記七章十四節は、神は子が罪を犯した場合、人間を使ってむちで打たせて懲らしめるという表現が付け加えられています。イエスは罪のない存在でしたが、十字架にかかる前にポンテオ・ピラトの裁定によってローマ兵にむち打たれたことを預言している内容になっています。
忍者の皆様には、父なる神、子なる神という表現の持つ意味合いをはっきり認識しておいていただきたいと思います。
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このことを最も明らかに示しているのは、第二サムエル記七章の記述であると思います。ここには、神殿を建立したいというダビデ王に、預言者ナタンが伝えた神の言葉が記録されています。直接的には、十三節で、神殿を建てるのはダビデではなく彼の子孫だと述べています。
しかし、我々にとってそれよりも重要なのは、十二節から十六節に示されているメシア預言の部分です。直接的にはダビデ王に世継ぎが生まれる約束になっていますが、預言的にはメシアの到来の約束になっています。十三節と十六節は、ダビデの子孫により、ダビデの王国が永久に続くことを述べています。ご存知のように、ダビデ王朝は途絶えてしまいましたから、これは、イエス・キリストによる神の国のことを示していることになります。
ナタンを通して語られたこの預言には、父なる神、子なる神の関係を示す言葉も示されています。
『 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。』(十四節)
ここでは、ダビデの子孫として生まれる王に対して、神は「父」の立場になり、王は「子」の立場を得ることを約束しているのであって、神がその王を生むという関係ではないことは明白です。
このような関係において、神が「父」となるということの意味は何でしょうか。幾つか考えられることを示します。
1)父なる神は、イエス・キリストの権威の後ろ盾である。
2)父は子に相続をさせる存在である。父なる神はイエス・キリストに神の国を相続させることに決められ、イエス・キリストを信じる者、忍者たちを共同の相続人とすることを定められました。そういう関係と意味合いにおいて、父なる神、子なる神という表現になる。
別の奥義書の言葉からも考察していみます。ペテロは使徒行伝四章において、詩編二編をダビデによるメシア預言として引用しています。その七節には、『主はわたしに言われた。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」』という記述が有ります。ダビデはエッサイの子ですから、生物学的な意味合いで神が生んだなどということは有り得ません。王という立場任命したということです。そして、それをメシア預言としてイエス・キリストに当てはめても、神がメシアとして立てたという意味として理解するものです。
なお、第二サムエル記七章十四節は、神は子が罪を犯した場合、人間を使ってむちで打たせて懲らしめるという表現が付け加えられています。イエスは罪のない存在でしたが、十字架にかかる前にポンテオ・ピラトの裁定によってローマ兵にむち打たれたことを預言している内容になっています。
忍者の皆様には、父なる神、子なる神という表現の持つ意味合いをはっきり認識しておいていただきたいと思います。
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