時々、イエスは自ら神であると言ったことはないという主張に出くわすことが有ります。後に弟子たちがイエスを神格化してしまったのであって、それはイエスの本来の目的や意思とは異なっているというような言い方をするわけです。しかし、これは、ユダヤ的な背景を理解していないことから来る誤解です。このことは、二千十七年に召天されたNabeel Qureshi氏も自身の体験として語っていました。彼はイスラム教徒でしたが、忍者である友人に同様な意見を述べたということでした。しかし、忍者である彼の友人がじっくり解説してくれたことで、ついに彼も忍者になったのでした。
さて、表題の奥義書の箇所で、イエスはどのように神であると宣言しているのでしょうか。
また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。
ユダヤ人は「主の日」に神が最終的な裁きをすると理解していました。さばき、審判を下すのは神のすることです。しかし、その権限はイエスに与えられたと言っています。それだけならば、まあ預言者に委任されたのかな、などと考えることも可能ですが、そこにたたみかけるように、自分は「人の子」なのだから、という宣言を付け加えているのです。
この「人の子」という称号を自分に対して用い、自分が「人の子」であると述べたことが、すなわち神宣言となるのです。その理解には、旧約聖書のダニエル書七章十三、十四節の描写を理解する必要が有ります。
十三節 私がまだ、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
十四節 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去る
ことがなく、その国は滅びることがない。
この箇所に見る「人の子」のような存在、元来の意味では人間のように見える存在は、天の雲に乗って来るのですから、単に人間であるとは考えられません。更に、諸国の民が彼に仕えるというのです。仕えると訳された語は、他に栄誉を与える、礼拝するという意味が有ります。ですから、英語の聖書ではworshipという訳が当てられていたりします。礼拝をうけるべき存在は神しかいません。ですから、この「人の子」は神性を持った存在であるということになるのです。「人の子」は神の前に進み出るのに神でもあるというのは理解が難しいことでしょうけれども、そう理解するしかない表現がされているのです。そして、イエスは「わたしがその人の子なのだよ。」と宣言していることになります。言い換えれば、「私は神だから。」と宣言したことになります。
ユダヤ教の考え方では、この箇所の理解は未解決の部分が有るように思われますが、キリスト教的には三位一体の教義で説明がつくということになると思います。私が講義所で学んでいたいた時、学長も兼任されていた師匠が、昔のラビの中にも三位一体的理解を論じた人がいるのだという話を聞いたことが有ります。どのラビがどのように述べたのか知りたいと思ったのですが、機会を得る前に師匠は召天してしまわれました。
さて、ここに挙げたのは一例です。他にもイエスの表現が自分は神であると述べたことになるものは幾つか有ります。何故ユダヤ人指導者たちがイエスを殺そうとしたかを説明する聖書箇所を研究すると、イエスのされたこと、言われたこと、またその表現が自分が神であることを宣言したことになるのだということが判ってきます。後に弟子たちがイエスを神格化したなどという考えは、福音書の記述と決して相容れません。
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さて、表題の奥義書の箇所で、イエスはどのように神であると宣言しているのでしょうか。
また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。
ユダヤ人は「主の日」に神が最終的な裁きをすると理解していました。さばき、審判を下すのは神のすることです。しかし、その権限はイエスに与えられたと言っています。それだけならば、まあ預言者に委任されたのかな、などと考えることも可能ですが、そこにたたみかけるように、自分は「人の子」なのだから、という宣言を付け加えているのです。
この「人の子」という称号を自分に対して用い、自分が「人の子」であると述べたことが、すなわち神宣言となるのです。その理解には、旧約聖書のダニエル書七章十三、十四節の描写を理解する必要が有ります。
十三節 私がまだ、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
十四節 この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去る
ことがなく、その国は滅びることがない。
この箇所に見る「人の子」のような存在、元来の意味では人間のように見える存在は、天の雲に乗って来るのですから、単に人間であるとは考えられません。更に、諸国の民が彼に仕えるというのです。仕えると訳された語は、他に栄誉を与える、礼拝するという意味が有ります。ですから、英語の聖書ではworshipという訳が当てられていたりします。礼拝をうけるべき存在は神しかいません。ですから、この「人の子」は神性を持った存在であるということになるのです。「人の子」は神の前に進み出るのに神でもあるというのは理解が難しいことでしょうけれども、そう理解するしかない表現がされているのです。そして、イエスは「わたしがその人の子なのだよ。」と宣言していることになります。言い換えれば、「私は神だから。」と宣言したことになります。
ユダヤ教の考え方では、この箇所の理解は未解決の部分が有るように思われますが、キリスト教的には三位一体の教義で説明がつくということになると思います。私が講義所で学んでいたいた時、学長も兼任されていた師匠が、昔のラビの中にも三位一体的理解を論じた人がいるのだという話を聞いたことが有ります。どのラビがどのように述べたのか知りたいと思ったのですが、機会を得る前に師匠は召天してしまわれました。
さて、ここに挙げたのは一例です。他にもイエスの表現が自分は神であると述べたことになるものは幾つか有ります。何故ユダヤ人指導者たちがイエスを殺そうとしたかを説明する聖書箇所を研究すると、イエスのされたこと、言われたこと、またその表現が自分が神であることを宣言したことになるのだということが判ってきます。後に弟子たちがイエスを神格化したなどという考えは、福音書の記述と決して相容れません。
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