糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

セカンド・チャンスの根拠にはならない(ペテロ前書三章) 補足

2021-04-23 01:09:16 | 忍者的思索・奥義書より
該当の奥義書の記述が、セカンド・チャンスの根拠にはならないことを、文脈と時制の視点から補足説明してみます。意味のまとまりは下記のように十八節~二十二節と考えられます。引用は、新改訳聖書です。

18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。

20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟で、水を通って救われたのです。

21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。

22 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます


19節の「捕らわれの霊たち」は、一般的な死者の霊たちのことではなく、20節に説明されているように、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、悔い改めず、神に従わなかった霊たちという、限定的な霊たちを指します

また、「語られた」という動作の時制は、アオリスト能動態直接法ですので、過去に完結した動作であって、現在も繰り返される動作ではありません。

従って、イエスがその霊たちに語ったことが福音であるかの正否に関わらず、この記述をもって、すべての死者の霊が皆イエスの言葉を聞く機会が有ると解釈することはできません。

また、22節に示され、使徒信条にも告白されているように、キリストは神の右の座におられます。それは現在時制能動態直接法で述べられています。それに対して、キリストが捕らわれの霊たちの所に「行った」という動作は、アオリスト時制受動態の分詞で表現されています。従って、キリストがそのような霊たちのいる所を繰り返し訪れることはありません

以上の考察を経れば、この奥義書の記述が、キリストによって死後に福音を伝えられるという考えの根拠にはならないことが分ります。





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永遠と復活(幻冬舎刊)の忍者的問題

2021-04-20 16:55:51 | 忍者的思索・忍界
  知り合いの忍者が参考にということで、永遠と復活(大川従道著 幻冬舎刊)という本を貸してくれました。
 
  読んでみて、忍者、もしくは大忍として、二点問題と思う部分が有るので述べておこうと思います。

  第一に、忍界においては、すべての里で、「自死した人間は地獄に行く」という考えがなされているかのような書き方が良くないと思いました。私の属する改家におきましては、死後人が天国に行くか地獄に行くかは神の選びの問題であると考えますので、そのような判断はしておりません。ですから、どの家でも、どの里でもそのような考え方なのだという印象を忍者でない方々に与える記述は不正確で、迷惑であると思いました。
  なお、自死に関する私の立場についても保管してありますので、よろしければ御覧いただきたいと思います。

  第二に、信仰を持たないで死んだ人が、死後にイエス・キリストの奥義を伝えられる可能性が有るということを全面に押し出しているのですが、その根拠となる奥義書の読み込みが、浅過ぎるということです。実は、その箇所は、そのような説明を導くために用いられるような内容になってはいないのです。
  繰り返し用いられていたのは、1ペテロ三章十九節でした。著者は長年大きな単里を導いてきている大忍なのですが、自説を通したいという思いが強過ぎて、きちんと奥義書神学的確認の手順を踏まなかったのではないかと思います。もし、そういう研究を経たうえで、尚且つそのように論じるのであれば、本来の意味を無視して恣意的に奥義書の言葉を用いたことになり、大忍に相応しくない態度であり、改めるべきであると思います。この奥義書の理解についての私の立場も以前保管しましたので、ご確認いただければと思います。
  この部分に関しては、真理のみことば伝道協会という、異端やカルトの警告や救済活動をしている団体のサイトでも言及されていますので、よろしければご参照ください。






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「信じる」という動詞の意味するところを考える

2021-04-13 12:41:05 | 忍者的思索・忍界
ヨハネによる福音書四章には、信じる・信じたという語が七回出てきます。信じるという言葉の意味合いは、案外誤解されている部分が有ると思います。私は、盲信であったり、主体性なく何かに流されたり影響されたりしているイメージで捉えている方が多いという印象を持っています。

新約聖書で「信じる」と訳されている語は、信頼に値するという意味も含んでいますので、何等かの確証を伴っていることが解ります。それは、現代人の信頼する科学的証明というものに限定されません。言い換えれば、科学的に証明されなくても、個人が信頼に値すると判断する材料をもって、伝えられた事柄が真実であると考えることを選択するという主体的な心の動作です。

今回取り上げるヨハネによる福音書四章の例を幾つか取り上げて確認してみたいと思います。

二十一節で、イエスはサマリアの女に「わたしの言うことを信じなさい。」と命じておられます。預言的な言葉それに続きます。それは到底科学的に、もしくは論証を通して事実だと確認できるような事柄ではありません。ここで、イエスはご自身の権威によって語る御言葉であるということをもって、それが事実であると考えることを選択しなさいと勧めているのです。

三十九節では、サマリアの女がその町の人々に、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したことを根拠にして、多くの者がイエスを信じたという記述が有ります。彼らは、科学的に証明されたとういのではなく、従来の預言者の理解を根拠にして、イエスを信頼に値するメシアだと考えることを選択したのです。(四十二節参照)預言者は一度も会ったことのない人物の素性を知ることができるという理解が有りました。イエスがナタナエルがどんな人物かを言い当てたことや、初対面であるはずのザアカイの名を呼んだことの記録は、そういう理解に基づいています。

四十六節以降は、王室の役人の、瀕死の息子の癒しの記事です。五十節では、イエスが「あなたの息子は直っています。」と言われたので、それを信じて王室の役人は帰途についたことが記されています。離れた所にいる息子がすでに直っていることを知覚する術など有りません。ですから、彼は事実を確認したのではなく、イエスの言った通りになっているのだと考えることを選択したのです

更に五十三節では、息子が直ったことを根拠にして、家族全員が、イエスはメシアであると信じたことが記録されています。イエスの言葉と息子の癒しの因果関係は、科学的に証明することはできません。しかし、その事実をもって、彼らはそう考えることを選択したのです。

私たちの忍者の信仰における「信じる」という心の動作が、どういうものであるかを時々確認していただきたいと思います。私たちは、主体的に、科学という限られた方法論に拠らないで、別の根拠をもって、イエスは救い主であり、神の子であると考えることを選択した者たちです。





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ありのままで受け入れられることの意味

2021-04-10 12:17:43 | 忍者的思索・忍界
  忍者の中には、「私たちはありのままで神に受け入れられている。」という理由で、自分の日々の振る舞いへの批判や指導を拒絶する者が出て来て問題になることが有ります。このような忍者は、「ありのままで受け入れらえる」ということの意味や範囲を誤解しているか、悪い場合は、自己弁護のために利用しているかのいずれかになるのではないかと思います。

  ありのままで受け入れられるというのは、どういうことを指しているのでしょうか。

  それは、人間には神に受け入れられる資質も能力も皆無であるからこそ、ありのままで神の前に出るしか方法が無いということです。人間は無力で、神に対して何の貢献もできない存在です。ヤコブのような神に選ばれた契約の人物であっても、奥義書(聖書)では「虫けらのヤコブ」と呼びかけられています。(イザヤ書四十二章十四節参照)私たちの生活の中で、蟻、芋虫、ゴキブリなどを見た時に、それを駆除したり踏みにじったりしなかった時でも、それは、単に見逃してやったというぐらいのことで、虫に価値を見出したからではないでしょう。伝道者の書十一章三節も、人間は天気を読めても制御することはできない無力なものであり、更には、一度倒れてしまえば自力で方向を変えることすらできない倒木のように無力だと描写しています。
  引用したイザヤ書では、その後、神の義の右の手が守るという記述が有ります。 神に受け入れられるための資質も能力も皆無であるからこそ、救い主イエス・キリストの十字架の贖いの業が必要だったのです。イエスの義を着せていただく必要が有ったのです。その偉大なる賜物をただ受け入れて、その教えに従うしか身の処しようが無いのです。ありのままで受け入れられるというのは、悔い改めて神との関係を修復するにあたっては、人間には何の代価も差し出す能力が無いのだから、神の恵みにすがって赦していただく以外に方法が無いということを指しているのです。

  ここで考えなければならないのは、ありのままで受け入れられるというのは忍者の生活のどの時点やどの局面においてそうなのかを区別し、その境界線をわきまえていることです。一度受け入れられたならば、その後の歩みには条件が伴っているということを見落としてはならないのです。
  その条件は、イエスご自身が簡潔に、ヨハネによる福音書十五章で述べています。十節では、「あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。」十四節では、「わたしがあなたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」と言われました。
  この条件を守っていないならば、六節の「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。」という状況になるのです。ありなままで受け入れられたことが台無しになるのです。

  ありのままで受け入れられていると主張しながら、その恵をぶち壊しにして、自ら滅びを招く歩みにならないように自戒する必要が有ります。





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サマリアの女はふしだらだった?(ヨハネ四章十八節)

2021-04-10 11:47:38 | 奥義書講解・福音書
  まとまった段落を扱ったものではなく、特定の人物のキャラクター・スタディにあたりますが、このカテゴリーでお願いします。  

  該当の箇所で、サマリアの女には過去に五人の夫を持ったことが有り、且つ、現在同居している男性は夫ではないというイエスの指摘が出てきます。このことをもって、サマリアの女をふしだらで身持ちが悪いような印象で語る人がいますが、果たしてそういう理解で良いのでしょうか。

  当時の風習では、女性の方から離婚を申し出ることはほとんどできませんでした。何かが気に入らないと理由をつければ、夫の方から簡単に離婚を言い渡すことができた時代です。十四歳ぐらいから結婚適齢期と考えられていましたから、私たちが結婚適齢期と考える二十四歳までに限定しても、複数回の離婚歴が有ってもおかしくなかったのです。それでも、五人の男性が妻にしたのですから、それなりに聡明だったり魅力の有る人物だったのかもしれません。
  そうは言っても、後段の、現在同居している男性は夫ではないという指摘を考えると、あまり素性の良くない人物だったのではないかという考えも出てきます。学者たちが指摘しているのは、ユダヤ人の指導者たちは紀元千年まで重婚を認めていたという事実です。その状況では、第二婦人以降(第四婦人まで認められていました。)は妻と呼ばれず、女性の方からも同居する男性を夫と呼ぶのは難しい場合が有ったというのです。

  これらのことを考え合わせると、サマリアの女がふしだらで身持ちの悪い人物と断定することはできないように思われます。また、人々が彼女のイエスについての証言を聞いた時、人々が彼女についてイエスに会いに来たことを考えると、彼女が人々に蔑まれるような人物ではなかったのではないかという推測もできるのではないでしょうか。彼女がふしだらであった可能性は皆無とは言えないかもしれませんが、ふしだらであったと決めつけるのは難しい状況だと考えられます。

  サマリアの女がふしだらであったという説明を、無批判にそのまま受け止めるのではなく、当時の背景に照らしてどうであったかを考えてみる慎重な姿勢が私たち忍者には求められていると思います。





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大忍・中忍(牧師)を先生と呼んではいけないのか? (マタイ二十三章八節)

2021-04-08 15:34:35 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
  マタイ二十三章八節を根拠にして、大忍・中忍(牧師)は先生と呼ばれてはならないと主張する人たちがいますが、果たしてそういう理解になる聖書箇所なのでしょうか。

  このことを、聖書箇所の文脈、ギリシャ語辞書による定義、新約聖書全体から判る理解を通して確認してみたいと思います。

聖書箇所の文脈
  この箇所は、イエスが律法学者やパリサイ人たちの有様を非難し、弟子たちがそのような有様に倣わないようにという戒めを与えている箇所です。すると、これは、七節に示されているように、彼らが「先生」と呼ばれることを好み、自尊心を満足させようとする態度を問題にしていることになります。それは、この部分のまとめである十一節、十二節からも判ります。先生と呼ばれることで、自分を偉い者のように考えて振る舞い、高慢な態度を示すことが戒められていることになります。
  更に読みますと、イエスは、弟子たちの教師は一人しかいないということを述べています。すなわち、イエス・キリストだけが旧約聖書を正しく解釈する上での師であるということです。

ギリシャ語辞典による定義
  「先生」と訳された語は、ラッビというような発音になる語で、私たちにはラビという表記で馴染みの有るものとなっています。その定義は、ユダヤ人の聖典(旧約聖書)の解釈の専門家と認められる学者や教師というものです。この定義は、キリスト教における牧師とは内容が異なります。
  八節で、「教師」はただ一人だからだという説明が付加されています。この「教師」と訳された語は、ディダスカロスというような発音になる語で、一般的に幅広く教師、先生を表す語として用いられています。
  十節には、補足のようにして「師」と呼ばれてはいけないという戒めが加えれれています。「師」と訳された語は、カセイゲイテイスというような発音になる語で、案内する、説明するという動詞から派生して、先生という意味を持つものです。この戒めの理由も、キリストだけが師であるからだとされています。つまり、弟子たちはキリストの位置に立つような高慢な態度を持っていてはいけないということになります。

  これらの語の用いられている箇所を、コンコーダンスで調べてみます。
  ラビの用例は、「主」と訳されるものを含めて十七回用例が有ります。ラビと訳された用例は、八回有り、その内訳は、今回の一般的ユダヤ人の聖典の教師を指す箇所で三回、イエスに対するものとして四回、バプテスマのヨハネに対して一回です。私たちがこの意味で牧師を先生と呼んでいないことは明白です。
  説明の都合上、次はカセイゲイテイスを説明します。用例は少なく、四回です。しかも、すべて今回の聖書箇所であるマタイ二十三章の用例です。複数の聖書辞典から確認した印象では、単純に教師、先生というよりは、導師のような印象の語に思えます。英語の翻訳では、master という訳を当てていたりします。これも、牧師を先生と呼ぶ時の語感ではありません。
  ディダスカロスの用例は、六十回程有り、一般的な語であることがうかがえます。多くの場合は、イエスに対して用いられています。

新約聖書全体から判ること
  ここでは、もう一度、用例が多くて一般的なものであるディダスカロスを通して確認してみたいと思います。
  イエス以外の人物にも用いられている用例を確認します。第一テモテ二章七節では、パウロが自分が神に「信仰と真理を異邦人に教える教師」に任じられたと述べています。第二テモテ一章十一節でも、パウロが同様のことを述べて、自分の立場の中に「教師」という語を入れています。また、複数形での用例が八回程有ります。その中で、教会の中で正当な働き手としての教師への言及と考えられるものは、六回有ります。
  ここで興味深いのは、ヘブル五章十二節です。「あなたがたは年数からすれば、教師になっていなければならないにもかかわらず」という記述になっています。教会の中に教師と呼ばれる立場が存在し、そういう立場になることが当然のように期待される人々がいるということになります。


まとめ
  これらのことを確認した結果、私たちは牧師を「先生」と呼んではいけないという結論に至るでしょうか。
  第一に、私たちは大忍・中忍(牧師)をユダヤ教のラビと認識はしていません。また、異教の高位の指導者のイメージになったりする導師という認識もしておりません。ですから、イエスが「先生」と呼ばれてはいけないと戒められた中で、この部分は除いて考えて良いでしょう。
  次に、ディダスカロスの部分への考察が必要になります。イエスは、弟子たちの先生(ディダスカロス)は一人だからだと説明されました。一方で、新約聖書には、教会の中の働き手としてディダスカロスの語が当てられている人たちがいました。先に見たヘブル書では、寧ろ、教師、先生になるべき人たちがいることが指摘されています。すると、イエスの戒めに対する使徒たちの理解は、単に呼称の問題として捉えていなかったのだと理解できます。
  そこで、もう一度マタイ二十三章の文脈に重点を置いて確認する必要が出てきます。この章は三十九節中三十六節を律法学者、パリサイ人たちへの批判・非難に割いています。該当の箇所では、彼らが見栄のために栄誉を求める姿勢が避難されています。そして、その締め括りの十一節、十二節においては、イエスはその反対の姿勢を弟子たちに求めて、次のように戒めています。『あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。』このことからも、大事なのは呼称ではなくて、弟子たちの心構えであったことがわかります。したがって、書簡に見いだされる記述も、イエスの教えと矛盾することはないのです。

  最後に、日本の文化の考察を追加しておきたいと思います。私たちはいろいろな立場の人々を先生と呼ぶ習慣が有ります。必ずしもそれは尊敬の念をこめてのことではありません。そういう文化の中にいる忍者として、私たちが大忍や中忍を先生と呼ぶことに問題は無いと思います。
  勿論、大忍や中忍が、先生と呼ばれないと気分を害するような人たちであったりすれば、イエスの戒めに反する態度ですので、その部分は責められ、改められる必要が有ります。

  結論としては、この奥義書(聖書)の記述を根拠にして、大忍・中忍(牧師)を先生と呼んではいけないと教えるのは、間違った理解や取り組みであると言えます。


お断り
  私は、自戒をこめ、謙遜な態度を保つための努力の一環として、大忍・中忍を先生と呼ばない里や個人の取り組みを否定するものではありません。単純に上記奥義書の記述を根拠にして、機械的に大忍・中忍を先生と呼んではいけないと教えるのは間違った取り組みであるという理解を示したものです。






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