該当の奥義書の記述が、セカンド・チャンスの根拠にはならないことを、文脈と時制の視点から補足説明してみます。意味のまとまりは下記のように十八節~二十二節と考えられます。引用は、新改訳聖書です。
18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。
20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟で、水を通って救われたのです。
21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。
22 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。
19節の「捕らわれの霊たち」は、一般的な死者の霊たちのことではなく、20節に説明されているように、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、悔い改めず、神に従わなかった霊たちという、限定的な霊たちを指します。
また、「語られた」という動作の時制は、アオリスト能動態直接法ですので、過去に完結した動作であって、現在も繰り返される動作ではありません。
従って、イエスがその霊たちに語ったことが福音であるかの正否に関わらず、この記述をもって、すべての死者の霊が皆イエスの言葉を聞く機会が有ると解釈することはできません。
また、22節に示され、使徒信条にも告白されているように、キリストは神の右の座におられます。それは現在時制能動態直接法で述べられています。それに対して、キリストが捕らわれの霊たちの所に「行った」という動作は、アオリスト時制受動態の分詞で表現されています。従って、キリストがそのような霊たちのいる所を繰り返し訪れることはありません。
以上の考察を経れば、この奥義書の記述が、キリストによって死後に福音を伝えられるという考えの根拠にはならないことが分ります。
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18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。
20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟で、水を通って救われたのです。
21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。
22 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。
19節の「捕らわれの霊たち」は、一般的な死者の霊たちのことではなく、20節に説明されているように、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、悔い改めず、神に従わなかった霊たちという、限定的な霊たちを指します。
また、「語られた」という動作の時制は、アオリスト能動態直接法ですので、過去に完結した動作であって、現在も繰り返される動作ではありません。
従って、イエスがその霊たちに語ったことが福音であるかの正否に関わらず、この記述をもって、すべての死者の霊が皆イエスの言葉を聞く機会が有ると解釈することはできません。
また、22節に示され、使徒信条にも告白されているように、キリストは神の右の座におられます。それは現在時制能動態直接法で述べられています。それに対して、キリストが捕らわれの霊たちの所に「行った」という動作は、アオリスト時制受動態の分詞で表現されています。従って、キリストがそのような霊たちのいる所を繰り返し訪れることはありません。
以上の考察を経れば、この奥義書の記述が、キリストによって死後に福音を伝えられるという考えの根拠にはならないことが分ります。
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