糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

先祖から伝わる呪いの説明?(出エジプト記三十四章六、七節)

2016-05-29 20:55:40 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、 いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。(口語訳)


 先祖からの伝わる呪いを断ち切るという考えが有ります。その時に用いられる聖書の箇所が上記の聖書箇所であるのを見て、これはおかしいことだとどうして気づかないかと思いました。少し検索しましたが、同様なことを述べている大忍のブログがやはりいくつかありました。
 ここでは、私なりの手順で説明させていただこうと思います。

 先ず、この聖書箇所の原則は誰に適用されるものなのかを考える必要が有ります。これは、イスラエルの民と神の間の約束事です。ですから、これが先祖から伝わる呪いを断ち切るという考えを導くには幾つか不都合なことが有ります。
 第一に、この約束事は神と旧約のイスラエルの民との間の約束です。イエスキリストによって呪いから解放された者は、この約束の当時者ではありませんから、これを引用してそういう断ち切りの説明に用いるのは関係上無理が有ります。仮に呪いの問題が存在するとしても、この聖書箇所を根拠にすることはできません。
 第二に、呪いを断ち切る祈りは呪いもしくはサタン、悪霊を対象にしたものです。しかし、この聖書箇所は神様が呪いをもたらすという約束になっています。神との約束の結果来る呪いを、どうやって神の御名によって断ち切るということができるでしょう。しかも、その時には呪いは神ではなくてサタン、悪霊から来ているということになるのは矛盾しています。
 第三に、このような呪いの関係は、旧約聖書時代中に、神様によって改訂されています。エゼキエル書十八章一~三節には、「主の言葉がわたしに臨んだ、あなたがたがイスラエルの地について、このことわざを用い、『父たちが、酢いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく』というのはどんなわけか。主なる神は言われる、わたしは生きている、あなたがたは再びイスラエルでこのことわざを用いることはない。」と書いてあり、更に二十節には「罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。」と再確認されています。ですから、神様に由来する呪いでもサタン、悪霊に由来する呪いの場合であっても、それが子供に伝えられるということをこの聖書箇所から説明することはできません。


 さて、先祖から伝わる呪いが一切無いかと言われれば、私は無いとは言いません。サタンはこの世の支配者ですし、罪の呪いや結果がキリストにない者を苦しめることは有ります。また、その中で、先祖が子孫を悪霊(偶像)に捧げるようなことも有ります。ですから、そういう悪い影響を受けている人はいると思います。
 しかし、少なくとも、そういうことの説明に上記の聖書箇所を用いることは間違っています。








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単里の楽隊で旋律楽器を担当している忍者に送る七つのヒント(英語です)

2016-05-25 21:20:21 | 奉樂(賛美)の覚書
フルート、サックス、バイオリンを例に挙げていますが、どの楽器でもある程度はヒントになろうかと思います。
表題の通り、英語で申し訳ありません。




https://sevennotesofgrace.com/2016/05/25/7-tips-for-those-who-play-melody-instruments-in-a-church-band/





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幻のない民はみな滅びるからヴィジョンを掲げる?

2016-05-23 21:16:48 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 「幻のない民みな滅びる。だから、幻を高く掲げよ。」と勧める説教やワーシップソングが有ります。これは箴言29:18の言葉に由来していると思われます。しかし、これは一般的な霊的原則として理解するべき聖書の言葉なのでしょうか。

 実は既に多くの仲間が指摘しており、その中には比較的著名な大忍も含まれているのですが、もっと多くの人に届くべきではないかと思い、私、糸田十八も書いておこうと思った次第です。

 新改訳や共同訳では「幻」と訳されている言葉は、口語訳では「預言」と訳されています。そして、文脈からすると、その意味が正しいと思われます。なざならば、対を成す次の句が「しかし律法を守る者はさいわいである。」というものになっているからです。幻という言葉で我々に思い浮かぶ内容と、民がほしいままに振る舞うとか堕落するという結論がどう結びつくのか、疑問に思われないでしょうか。

 それでは、どうして口語訳はそれを預言と訳したのでしょうか。略称でBDBと呼ばれているヘブル語辞典を確認してみます。カゾーンというような発音になる語で、確かに幻という意味は有るのですが、後半には、「 神からの託宣、預言、神的伝達」と言えるような定義が示されています。また、歴代誌下32:32にイザヤに関連した書物のタイトルとしても用いられています。

 次いで、その語の用例を見てみますと、多くの場合は神からの啓示という内容と理解できる場面で用いられています。

 そうすると、この語の定義、用例、該当の聖書箇所における文脈から総合的に判断すれば、この幻と訳された内容は、神の教え、預言、啓示と理解するべき内容になります。

 従いまして、この聖句をもってビジョンを持とう、信仰的な夢を掲げようと勧めるのは間違った聖句の理解や用い方、引用であると言わざるを得ません。神様は私達忍者にそのようなことを求めてはおられません。
 聖書中の主だった人物を見ても、そういう自分で考えたビジョンで生きて神の祝福を得た例は無いように思います。アブラハムは神の導きに従って故郷を離れたのであって、自分のビジョンで行動してはいません。エジプトの宰相になったヨセフは、自分の意に反してことが起こり、神の導きによって一族を助け、人々を助けて高い地位を得たのであって、自分のビジョンによってはいません。モーセは自分のビジョンで同胞を助けようとして失敗し、神の導きとビジョンを得て初めてことを成し遂げることができました。旧約の預言者達は、自分の意志に関係なく召し出され、苦難の道を通っています。使徒行伝のパウロも、異邦人への伝道を神に託されたのであって、自分でビジョンを抱いたわけではありませんし、どこに向かうかも基本的には神の導きによりました。彼がローマに行きたいという考えを持ったのも、先に神の伝道の使命を託されたことによるものでした。
 このように聖書中の人物から考えても、自らのビジョンを持って行動した人は殆どいないと言えるのではないでしょうか。神は、むしろ、神のみ言葉を日々身近に心に留め、それを守り、地道に主を信頼し切って歩み続けることを求めておられると考えられます。






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新中忍、大忍に送る言葉

2016-05-23 00:05:04 | 忍者的思索・忍界
毎年、新たに中忍もしくは大忍になられる方々に申し上げておきたいことが有ります。

 第一に、自分に染みついていて、無意識の内に発動してしまう肉性、罪の性質に基づく行動パターンやメッセージが何であるかを必ず突き止めておくことです。人は神に信頼してお委ねするということができないで、自分の行動パターンで心の平安を守ろうとしていることが有ります。それは思考的霊的な偶像礼拝であるが故に肉性、罪の性質に基づく行動パターンということになるのです。そして、それが神に根差さず、罪に根差している故に、それは周囲の人を傷つけ、自分も不本意な結果になることが多いのです。ですから、それが里を守り導く上では大変な障害になるのです。
 例えば、「自分が平安であるためには、どんな犠牲を払っても対立を避けなければならない。」というメッセージに支配されていたとします。自分のそういう行動や選択で心の平安を守ろうとすることは、神に信頼して平安を得ようという態度では有りませんから罪なのです。そういう対応を重ねた結果が良いものになるはずがないことは容易に理解できることだと思います。
 そういうアプローチができる先輩の中忍や大忍の指導を仰ぐということができれば良いと思います。書物では、洋書で申し訳ありませんが、Larry Crabb博士のINSIDE OUT とEFFECTIVE BIBLICAL COUNSELING をお読みになることをお奨めいたします。


 第二に、泣く覚悟をするということです。使徒パウロが涙を流し、泣くような状況の中で神に仕えたことは奥義書中に複数回記されています。「すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた。」(使徒行伝20:19)「わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書きおくった。」(第二コリント書2:4)「わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。」(ピリピ書3:18)
 涙の内容は様々ですが、中忍や大忍の道には涙を流し泣かざるを得ない状況がどこかしら出て来るものです。そのような覚悟が無い場合は、中忍、大忍になるべきではありません。こういう状況を避けようとすると、人間的な策略を巡らすようになり、不健全な里の運営に繋がって行きます。権威主義、イエスマン養成、扱いの難しい人を追い出すようにしむけるような取組、妥協的な取組等です。
 涙の中で、更に我らの主イエス・キリストとの絆を深いものにして、揺るがないでお仕えする中忍、大忍となることに最初から心を決めていただきたいと思います。


 第三に、中忍や大忍は神様の前に人一倍厳しい裁きを受ける立場であることを自覚することです。「わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。」(ヤコブ書3:1)
 主イエス・キリストをどのような形にせよ、自分の利益のために用いるような偽教師の道に陥らないように用心していなければなりません。先に述べた第一と第二の内容を心に留めていないと、このような道に陥ることが容易に起こるのです。中忍、大忍と言えども人間の弱さは変わらないのです。
 山上の垂訓の締め括りに近い場所において、イエス・キリストは偽預言者に注意するようにと命じられました。注意するという言葉は、いつでもすぐ気付くようにという語感になっています。そういう偽教師に気を付けて見はっていなければならない立場の中忍、大忍が、自らの弱さや邪の思いから偽教師に変わってしまうことが有り得るのです。問題を指摘されているカルト化した教会の大忍達の有様はまさにそれであると言えます。イエス・キリストは、審判の日に、彼らに向かって『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 (マタイ伝7:23)と言うから、とはっきり予告、宣言しておられます。これ程厳しい裁きはないでしょう。そういう立場に導かれたのだという自覚を持つことです。


 第四に、結婚しているならば、家族を大事にするということです。私、糸田十八も大忍の息子であります。同じような境遇の仲間の中には、傷ついてこの道を離れてしまった者達もたくさんいます。中忍、大忍として、非現実的、非聖書的なプレッシャーを妻も子供も受けないように最大限の努力をすることです。聖書的に中忍、大忍とは何者なのか。子供の発達段階において普通に有り得ることを抑圧するようなプレッシャーは間違っていることなど、折に触れて里の忍者達にも理解を促す必要が出て来る場合も有ります。その努力に対して反発が起きることも有るかもしれません。場合によっては、別の単里に移らなければならない事態になることも有るかもしれません。しかし、その家族が唯一神様から頂いた大事な家族なのです。そこに神の国の平安を持つことができないような環境で、どうやって単里の忍者達に神の国の平安を教えることができるのでしょうか。そして、そういう理解に至るように里を導くことも中忍、大忍の働きなのです。夫婦は一心同体と言います。それが聖書的な教えです。配偶者が苦しむような有様にきちんと対処し、向き合い、時には対決できる心構えを持っていただきたいと思います。


以上が、私、糸田十八が新中忍、大忍に送る言葉であります。





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ギデオンが印を求めたから忍者も印を求めて祈る?

2016-05-13 23:40:11 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
 少々印象が異なるかもしれませんが、このカテゴリーでお願いしたいと思います。

 ギデオンに神の使いが現れて、士師としての使命を与えました。士師記六章三十六節から四十節に、ギデオンが神に印を求めた有名なエピソードが記されています。それで、このことを根拠に神に印を求める忍者がいるのですが、はたしてこれは適切な聖書の適用なのでしょうか。

 では、ギデオンの場合をもう少し細かく考えてみます。憐れみによって神はギデオンの願いに答えて印を与えましたが、原則的にはこれはするべきことではなかったと考えられます。なぜならば、神はそれ以前に既に奇跡的な印をお示しになっておられるからです。その様子は六章十七節から二十一節に記されています。
 このような印をいただいた後であるにも関わらず、ギデオンは出陣の前に再び神に印を求めるのです。しかも、二回も求めました。これは不信仰なことでした。明らかに神が語ったということを確かめた後であるのに、再び神に印を求めることは信仰の業とは言えません。それだけではありません。申命記六章十六節では「あなたがたの神、主を試みてはならない。」と戒められています。イスラエルの民が確実な神の業を見たにも関わらず、神が自分達を養い、守れるのかと試したからです。イエス・キリストも荒野で悪魔の誘惑を受けた時に、この言葉を引用して誘惑を退けています。
 ギデオンは亡くなるまで士師として活躍しましたが、その後の歩みはあまり神に忠実とは思えない部分が有ります。神が命じたわけでもないのに黄金のエポデを造り、それが偶像礼拝につながりました。また、妻を多く娶り、子供が七十人もいました。それだけでなく妾もいたというのです。そういう部分も、彼の不信仰な歩みと重なるのではないかと思います。へブル書十一章三十二節においては、信仰の歩みをした者のリストに彼の名前は含まれ、信仰と従順によってミデアン人を追い払ったことへの評価がされていますが、詳細を見ると、注意しなければならない点が有ったと考えられます。
 そういうわけで、ギデオンの例に倣って印を求めるという発想は、皆が倣うべき適切なものと考えることはできません。旧約には他にも神の癒しの宣告に対して印を求めた王の記録が有りますが、やはり、その王も信仰的に良い状況で最期を迎えていはいません。

 参考に述べますと、新約聖書において、イエス・キリストはヨナの印以外には与えられていないと言われました。不信仰なパリサイ人達が信じたくないばかりに印を求めたのですから拒絶されたのです。一方で、初代教会においては使徒たちを通して奇跡的な印が与えられて、信仰に入る人達が出てきました。しかし、すでに信仰に入った者が印を求める記述は見当たりません。

 現代の忍者が印となるような状況を求めて祈ったり、聖書の言葉を示してもらえるように祈って、良い状況に向かった経験談を神の恵の証として語る場合が有ります。わたしはそれを全面的に否定しようとは思いません。しかし、それは旧約聖書には良い事例は無く、新約聖書には実践例が有りません。また、それは、ややもすると自分の責任で状況判断をして信仰によって歩みだすという姿勢を損なうことになる場合が有ると思います。少なくとも、ギデオンの例に倣って印を求めようというのは、適切な発想とは言えません。







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ワーシップバンドに適したドラムヘッドの記事(英語です)

2016-05-10 09:35:10 | 奉樂(賛美)の覚書
 米国のウェブサイトに、表題のような内容の記事が掲載されていました。自分の経験から各ドラムに適したブランドのドラムヘッドを紹介しています。理由とその人のチューニングも紹介されています。英語ですが、参考にされたら良い記事だと思います。
 サイトには他にも奉樂のヒントに関するものが含まれていますので、ご覧いただければ幸いです。

先に掲載したリンクが切れていましたので、文中に新しいリンクを埋め込みました。






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特集 権威について

2016-05-02 21:22:29 | 忍者的思索・忍界
私、糸田十八は改家の大忍ですから、この他家の大忍とは立場が異なる場面が有ろうかとは思いますが、カルト化した教会の間違った考え方に気付かせるために表題のような特集を組んでおられます。参考になると思いますので、ご紹介させていただきたいと思う次第です。21篇ほど有りますが、そんなに時間はかかりませんから、今までそういうことを考えたことはないと思われる方は、ご一読いただけると良いのではないかと思います。順番が前後する所が有りますが、数字が振ってありますので、順にお読みになると宜しいかと思います。


http://maranatha.exblog.jp/24344126/


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