糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

説教という捧げもの

2018-11-08 13:06:30 | 奉樂(賛美)の覚書
 礼拝における説教については、以前も触れたことが有ると思いますが、再度書いておこうと思います。

 説教は、牧師が教えて礼拝者が学ぶような感覚でとらえられることが有ると思います。勿論、そういう要素が全く無いわけではありませんが、私たちにはいつも心掛けておくべきもう一つの面を覚えておかなければならないと思います。
 それは、表題にも示しましたように、説教の時間に行われていることは、神への捧げものであるということです。礼拝に出席している忍者たちは、その時間と場所を礼拝所に限定し、聖別して神の前にいます。そこに身を置く間は他のことはできません。それで、そのこと自体が捧げものであるという部分が有ります。そして、説教の時には、そこに「傾注して聞く」という態度の捧げものが加わるのです。
 旧約聖書でも「聞け」という命令が度々記録されています。その意味合いは、心を傾けて聞き入るということの他に従順するという部分も含まれています。説教の時に、忍者たちは、心を傾けて聞く、そして、理解したことを実践に移そうという心構えでいるのですが、それが捧げものであるわけです。ですから、私たちは礼拝を捧げるという表現をし、その中に説教も入っているのです。

 皆さんにとって、説教の時間はどんな時間という印象が有るでしょうか。これまで、それが捧げものであるということに思いが至らなかったという方は、これから、「今、私は捧げものをしているのだな。」ということを自分に思い起こさせながら説教に耳を傾けてみていただきたいと思います。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

説教者とストロー

2018-11-08 13:03:14 | 忍者的思索・忍界
 私が説教のご奉仕の機会をいただくと、時々礼拝後に「素晴らしい説教でした。」と言いに来られる忍者がいます。私はそういう時には心掛けて、「ありがとうございます。でも、素晴らしいのはみ言葉です。」ということをお伝えしています。その聖書の意味が説き明かされて、傾聴するという捧げものをした忍者が、聖霊の働きによって何等かの恵みを感じた、開かれたことが有ったという事実が大事なのであって、取り次いだ説教者はその勤めを全うしたにすぎません。
 司会者や説教者が説教の直前の祈りで、「通り良き管としてお用いください。」という表現をすることが有ります。そういう歌詞が含まれる讃美歌等も有ります。説教者も礼拝に出席する忍者も、説教者はその管であるという認識が必要であると思います。
 皆さんいかがでしょうか。例えば、1992年に四国で食べたカツオのたたきは美味しかったなぁというような思い出はないでしょうか。でも、2000年に沖縄で飲んだマンゴジュースについていたストローは素晴らしかったなぁなどという思い出は皆無に等しいのではないでしょうか。ストローよりも、それを通って口に入るジュースの方が大事なのですから、ストローの思い出が無いのは当然なのです。
 一方、ストローが折れていたり、穴が開いていたりして、ジュースがうまく吸えないようなことが有ったら問題です。私が子供の頃には紙を巻いて蝋を浸み込ませたようなストローが有りました。ジュースと一緒に蝋のにおいがするのが時には気になっていやなことが有りました。説教者は、そういう部分になりそうなことを最小限にとどめる努力をします。
 一方で、説教者は神様は自分の個性をも用いてくださることを信じて語ります。しかし、あくまでも説教者はストローのようなものです。自分が素晴らしいというのではなく、ストローが当たり前にその機能を果たしたのと同じように、自分の委ねられた働きをしたにすぎないのであり、そのことを他の忍者にもはっきり意識してもらいたいのです。
 次に説教者に一言声を掛けたくなるような気持ちになった時には、「〇〇大忍、~~は素晴らしいみ言葉ですね。」というような言い方を考えてみてはかがでしょうか。

 




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔から聞いたこともない (ヨハネによる福音書九章三十二節)

2018-11-02 11:29:22 | 奥義書講解・福音書
 特にまとまった講解ということではないのですが、この箇所を理解する背景として明確にしておくと良いことだと思いましたので、このカテゴリーでお願いしたいと思います。

 ヨハネによる福音書九章は、生まれつき盲目だった人についての話が記録されています。この人がそういう状態で生まれたのは、神の栄光を現すためであるとイエス・キリストは明言されました。そして、この人の目がイエス・キリストの神としての権威によって癒され、正に神の栄光を現すためにこの人は用いられたということになります。

 イエスがこの人を癒したのが安息日であるということで、敵対するパリサイ人たちはイエスに難癖をつけるばかりでなく、この人の両親を尋問したり、この人を再三尋問したりということをしました。それだけ、この状況は強烈な部分が有ったと言えます。それは、メシア預言とみなされているイザヤ書三十五章の記述に合うものでした。

 五節 その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。(口語訳1955)

 しかし、パリサイ人たちにとっては、イエスは敵でしたし、メシアであっては困るわけで、詳細に状況を把握して彼を否定しようとしていたわけです。そこで、もう一度生まれつき盲目であった人を問い詰めるとところ、このような言葉を聞くことになりました。

 盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。(新改訳 二版)

 ここで、注目していただきたいのは、「昔から聞いたこともありません」ということです。旧約聖書には、死んだ者が生き返ったというような奇跡の記録は有るのですが、なんと、盲目の人に視力が与えられたという奇跡の記録は無いのです。イエスはその公生涯で何人かの盲目の人の目を開いた記録が有りますが、それはそれまでに無かった大変稀な奇跡であったということになります。正に、神の栄光が現れるためにこの奇跡は行われたのであり、強力なイエスがメシアであることの証であったのです。
 イエスが盲目の人の目を開いた奇跡は、私たち忍者には馴染みの有る話ですが、他の奇跡とは異なった強い意味を持つことをもう一度意識することに意味が有ると思います。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする