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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

何も無いが全てを持っている

2014-11-30 22:47:51 | 忍者的思索・忍界
 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。」         ヨブ記一章二十一節


 しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。
わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。
                     テモテへの第一の手紙六章六、七節

 旧約聖書と新約聖書のこの二つの聖書箇所から考えたことが有りました。私たちは何も持たないで生まれてきました。しかし、私は思うのです。もし人類が堕落せず、神との断絶を経験しなかったなら、生まれて来る子供は神の栄光に包まれ、神に完全に守られた状態であっただろうと。そうしますと、そういう子供であったならば、「裸で母の体から出て来た」のでもなく、「何ひとつ持たないでこの世にきた」のでもなく、全てを持ってきたことになっていたはずではないかと思うのです。
 私たちにこの「全てを持っている」状態を与えてくださったのがイエス・キリストの十字架の贖いであり、私たちを神と和解させてくださった結果です。ですから、私たち忍者は物質的には他の人達と何ら変わることなく「何一つ持たないでこの世を去って行く」のですけれども、霊的には堕落前の人類と同じ全てを持って神の元に帰って行くことになるのです。
 パウロはテモテに対して、物質的には何も持たないで帰るけれども、霊的には全てを持っていることを示す内容として、「信心があって足る」ということを述べ、それを「大きな利得」と表現していると思います。そういたしますと、ヨブも「主の御名はほむべきかな」と告白できる神との関係を持っていて、「信心が有って足る」者であり、「大きな利得」を得ている者であったと言えます。創造主が自分の側に居てくださり、守りとなってくださるという霊的事実は何にもかえ難い恵であり、有り難いことです。
 私は一日を終えて就寝する時、自分が何も成し遂げていないことを思ったりします。もしかすると、主から委ねられたことを自分の勘違いで放棄してきてしまったかもしれないと残念に思う瞬間も有ります。しかし、その時にも主が私の全てであり、私の義も善も主の中に有ることを思います。自分という意識をいただいて生きることは不思議なことですが、それが何のためかと迷い悩むならば苦しいことだと思います。その人生に意味を与えてくださったイエス・キリストをしみじみ有り難く思います。この私に出会ってくださった主がいらっしゃるだけで感謝だ、どの瞬間にこの世の命が終わっても心置きなく去って行けると思います。
 同様の心情を述べている聖書の人物がいると思います。ルカによる福音書二章にはシメオンという人物が出てきます。彼は聖霊の促しによって神殿で幼子イエスに会い、腕に抱きました。その時の第一声はこのように記録されています。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。」
 私のお世話になった大忍はここから次のように語っておられました。「どんなに年齢を重ねても、もう全てやり遂げて満足だということはなかなか無いのです。あれもしておけば良かった。これをもう少し良くしてから死にたいなどと思うものです。シメオンが潔くこの世を去ることができると告白できたのは、一重に救い主と出会えたからです。私たちもこのような神様との関係に生きるのです。」
 私は確かに何ひとつ持たずに生まれてきました。しかし、全ての根源である神が私に出会ってくださったことを感謝しています。この出会いが無ければ決して味わうことの無かった恵と平安を与えられたことや、人生の歩みをここまでして来ることができたことを有り難く思っています。人間的には何もやり遂げていない私かもしれませんし、永遠に比べれば無に等しいような私の生きる時間かもしれませんが、永遠の属性を持っておられる神との関係を与えられました。ですから、私は例えどの時点で命を終えても、全てを持ってこの世を去って行けると思っています。私の仲間である忍者達が、深い頷きを持ってこの告白に和してくださればと思う者です。






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「後の雨」の研究

2014-11-23 00:02:55 | あれれ?な奥義書(聖書)引用
はじめに 
 霊的復興とか覚醒を叫ぶ人達の中には、そういう現象を「後の雨」と表現することがあります。それは奥義書(聖書)の中に出て来る表現ですが、その表すところは何なのでしょうか。今回はそういう部分から確認してみたいと思います。回りくどい作業になりますが、宜しければお読みください。

辞典から
 この語は主に旧約聖書に出て来る表現で、新約聖書には見出されません。先ずはヘブル語の辞典で「後の雨」と訳されている語を確認してみます。マルコーシュと読める語で、春の雨を指します。パレスチナの穀物を成長させるということです。

 次に聖書辞典ではどのような説明がなされているかを確認してみます。前の雨と後の雨は雨季の始まりと終わりを表す語となるということです。農耕の項目を調べますと、秋の雨である前の雨の後に土を耕して種を蒔くということです。冬の雨の後、3,4月に春の雨である後の雨が降り、それが雨季の終わりを告げます。すると大麦が収穫できるようになり、更に3,4週間後に小麦の収穫ができるようになるということです。この後は次の秋まで通常雨は降らないそうです。

 ここからは、実際の旧約聖書の記述を確認します。コンコルダンスで後の雨という語を探してみますと、申命記11:14、ヨブ記29:23、箴言16:15、エレミヤ書3:3、5:24、ホセア書6:3、ヨエル書2:23、ゼカリヤ書10:1に出て来るということです。


各聖書箇所の表している事柄
 各聖書箇所を見て、必要であれば文脈の確認もしながらどういうことを表しているのかを確認してみます。長くなりますので引用はいたしません。

申命記十一章
 ここでは神がイスラエルの民と契約の再確認をしています。心を尽くして神に従うならば、祝福を与えるという約束の一部です。農耕においても必要な雨を降らせて収穫を与えるということです。
 これは後に出て来る聖書箇所の基本になる知識ではありますが、霊的復興とは直接関係はない箇所と判断できます。

ヨブ記二十九章二十三節
 ヨブの弁明の一部です。災いが彼に降りかかる前に彼がどの様に人々に恵を施し、人々ががどのように彼を扱ったかを述べています。ここでは、ヨブが人々に語り掛けると、人々はその言葉を恵の雨を受け止めるかのように受け止めたということが表されています。農耕をする者にとって、後の雨、春の雨がどれだけ大事で在り難いかということとの対比となっています。
 ここでは、後の雨がどれだけ望ましいものであるかは表現されていますし、ヨブの言葉が人々にとってそのような望ましいものであったかということは表されていますが、霊的復興に関わる表現ではありません。

箴言十六章十五節
 十三、十四節とつながって、王との関わりについての箴言です。この箇所では王から恵を受けることを後の雨の恩恵を受けることに例えています。王の権力を考慮して王と良い関係を持つことを説いていると考えることができます。しかし、霊的復興に関わる表現や意味合いを見出すことはできません。

エレミヤ書三章三節
 神がイスラエルの背信を責めておられる箇所です。最初の申命記のところで恵の約束をしていますが、その契約においては同時に契約が守られなかった場合のことも書いてあります。天は閉ざされては雨は降らないというのです。そして、ここで、その契約の通りになったということを示しています。
 この箇所にはその契約が履行されたことを示してはいますが、霊的復興に関わることは述べられていません。

エレミヤ五章二十四節
 こちらではユダの背信が責められています。神が恵を与え、雨を降らせてくださる神であることを認めて神に立ち返ろうと考えないユダの人達の心の状態を表現している箇所です。
 この箇所では、神の約束と神のご性質が表されてはいますが、霊的復興に直接つながることは述べられていません。

ホセア書六章三節
 一節から始まる民の告白は、エフライムとユダの民の偽りの告白と考えられています。自分たちの惨状を見て悔い改めて神に立ち返る素振りを見せるが、実際には不忠で背いていることを責めている箇所です。
 ここでは申命記での契約を認識した記述になっていはいますが、実際にそれに戻ろうとしてはいない状態が示されています。霊的復興とは逆の状況を示した箇所ということになります。

ヨエル二章二十三節
 ヨエル書はユダへの裁きの日と回復、周囲の国々への裁きなどが預言されています。該当箇所は十八節から二十七節までの、ユダの回復の預言の一部です。
その前の部分は、偶像礼拝に陥って神の守りが離れてしまったユダに対して悔い改めお呼びかけ、祭司たちに悔い改めの祈りをささげるように命じています。そして、それが成就した時のこととして回復の預言の部分につながっていきます。
 この箇所は、民が悔い改めた時に何が起きるかを述べています。申命記で述べられた祝福が回復するという理解ができます。列王記上八章に有るソロモンの神殿奉献の祈りには、民が背いた後で神に立ち返って祈るなら憐れんでくださいという願いが有り、その祈りが応えられるという理解もできると思います。
 すると、この箇所は回復の様子を具体的に記述したということであり、神に立ち返った時には申命記で確認した約束の通りに恵の雨が与えられるということを述べていることになります。

 ヨエル書はリバイバルのメッセージに用いられることが多いので、もう少し考えてみたいと思います。ことが起きる順序を考えます。祭司が心から民に代わって悔い改めの祈りをささげるような心の変化が起きる。明確には述べられていませんが、それは民の悔い改めにもつながるのかもしれません。祭司の執り成しの祈りに応えて神が民を憐れまれるとしても、契約は民が心を尽くして神に仕えることが条件だからです。
 そうしますと、霊的復興の条件はやはり祭司が主導するとしても民が神に立ち返って心を尽くして神に仕えることになります。
 次に、この状況は現代の私たちに当てはまるかどうかを考えてみたいと思います。私たちは旧約の契約を神と交わしてはいません。また、キリスト教界が別の神格に鞍替えして偶像礼拝をしたわけでもありません。また、後の雨は具体的な生活の祝福の約束ですから、霊的な復興とはつながりません。仮に後の雨に例えることのできることが有るとしても、順序としてはキリスト教界が悔い改めて立ち返ることが先になります。しかし、日々悔い改めるべき事柄が私たちに無いわけではありませんが、ユダが悔い改めなければならなかったような課題を私たちは持っていません。
 すると、この聖書箇所を根拠に私たちが悔い改めの祈りをするとキリスト教界に霊的復興や覚醒が起きるという理解や適用をするのは無理が有ります。また、霊的復興のために霊的な恵を送ってくれるように祈り、その恵を後の雨と呼ぶことはアイディアとしては良いかもしれませんが、この聖書箇所を根拠にした行動としては不適切です。

ゼカリヤ書十章一節
 メシア預言を含んだ箇所の一部です。メシアの到来と期待の預言が有り、また偽りの指導者や偶像礼拝の状況と回復も述べられています。
 この箇所では、春の雨の時に雨を主に請い求めるように命じています。雨の時期に雨を求めるように命じるのはおかしいと感じるかもしれません。文脈から考えますと偶像の神にではなく創造主なる神に雨を求めよということだと考えて良いでしょう。偶像礼拝をするから神との契約の通りに天が閉ざされて雨が降らなかったのです。
 すると、後の雨は求めるべき相手に求めよということを表している箇所であると理解することができます。民が心を整え、神の恵によって時が来てメシアが来るということにつながって行きます。しかし、この箇所が述べているメシア、すなわちキリストの来臨は、一度きりのできごとです。ですから、この箇所を根拠に霊的復興のために後の雨に象徴される天の恵を求めるのは、不適切な適用です。


まとめ
 後の雨を聖書から理解することにきちんと取り組みますと、これまで確認して来たように、それを霊的復興とか覚醒の説明に用い、それを根拠に霊的復興のために恵を送ってくれるように祈ることは聖書的取組とは言えないことが判ります。
 勿論そのような神の介入を求めて祈ることは悪いことではありません。しかし、その根拠を旧約聖書の「後の雨」という用語やそれを含む聖書箇所に求めることはできません。
 後の雨は毎年のことですし、農耕に関わることです。特別な霊的収穫の時を思って使うのはおかしいことです。また、それを霊的なことに当てはめるならば、人が信仰を持つとか信仰が成長するとかいうことは定期的なサイクルでは語れないことです。比喩的表現だからいいではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、整合性が無さ過ぎると私は考えます。









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御心の確信が必要という強迫観念を考える

2014-11-21 00:05:00 | 忍者的思索・忍界
はじめに
 比較的著名な牧師や伝道者の書物に神の御心を知る方法を述べたものが有りますが、そういう法則がはたして全ての忍者が従うべき法則なのでしょうか。人間の特性や聖書の言葉から考える時、必ずしもしもそうとは言えないと私は考えます。まして、必ずそういう方法で御心の確信を得なければならないと思い込んでいたいり、他人にもそういう姿勢を当たり前のように求めることが有るとしたら、それは強迫観念であるとさえ思います。そういう姿勢に生き続けることはまるで託宣を受ける預言者や巫女にでもなったような振る舞いになることが有ると思います。それは安心を求める行為でもありますから、場合によっては占いに堕しているとさえ言える時が有るのではないかと思います。

神の御心を求める法則の例から考える
 私が頻繁に耳にするものは、次のようなことに神の御心であるかの根拠を求めようとします。これを例として考えてみます。
一 心に強い平安と喜びが有るか
二 状況や環境の流れとして自然か、摂理的配置を感じるか
三 聖書の言葉が個人的なメッセージとして示されたか

一 心に強い平安と喜びが有るか
  霊の働きが有れば確実に判るという前提に立っているように思いますが、人間の感情はかなり自己本位だったり定まらないものだったりします。偽りの平安というものもないわけではありません。ヨナがニネベに行くのを避けて別な方向に向かう船に乗った時、海が荒れていることも気づかない程にぐっすり眠っていました。逆に、為さねばならないことが有れば、そのことによってどんなに心が騒ごうが果敢にそれに向かっていかなければならに場合もあります。十字架にかかられる前のイエス・キリストだってそうっだったではありませんか。このような指標は少しも当てになりません。

二 状況や環境の流れとして自然か、摂理的配置を感じるか
  確かにそういう部分を考えることは有るでしょうし、それが悪いこととは思いません。しかし、これとて普遍的な法則としてしまうことには問題が有ると思います。状況判断はその人間の理解力に制限される部分が有ります。また、ある牧師の証を聞いたことが有るのですが、一度に二つの教会から就任要請が有ったということです。周囲の人達はどう考えてもある教会が摂理的な状況にあると思ったのですが、その牧師はどうしてもそちらに行くことがためらわれて、別の教会に就任したというのです。当然周囲の人達はどうしてそんな決断をと、驚いたり責めたりしたそうですが、その決定で良かったのだと思っておられるそうです。

三 聖書の言葉が個人的なメッセージとして示されたか
  聖書の言葉が示されるという証はよく聞きます。それが励みになったり決断を促すことになって良い結果を見たという場合も幾つも有ります。しかし、これも普遍的な法則としてしまって良いかは疑問です。人間は自分の都合の良いように聖書を解釈して、釈義以外のことを読み取ってしまうこともよく有るのです。私自身、スパッと矢を射こまれたように聖書の言葉が胸に響き、確信とも平安とも思える気持ちになったことが有りましたが、その方向に事は進まなかった経験が有ります。ともすると、個人啓示とか占いのようなものになる危険性の方が高いと思います。


他の聖書の事例から考える
 伝道の書十一章を学びますと、聖書は私たちを先に何が有るかを知り得ない存在として表現しています。故に可能な限りいろいろな方法で行動をしておきなさいと戒めています。いちいち御心の在り方はどれかなどと心配する様子は有りません。
 ヤコブ書四章十三節から十七節までの内容も、先に考察した御心を知る法則の姿勢とは合わないと考えられます。ここでも聖書は我々を明日をも知れぬ身としています。御心であるかどうかは、行動してみてからわかると考えられます。委ねて生きている姿勢と言えるでしょう。
 このような私たちであることを聖書ははっきり示しています。私たちはただ主に信頼して生きていくだけの存在です。それが信仰というものではないのでしょうか。御心を確信しないで生きたり行動したりするのは程度が低い忍者であるかのような姿勢を見せる人がいますが、それこそ神に全幅の信頼を置かずに自分の義を立てるような御心に反した姿勢です。


講義所の師の教えから
  私が講義所で学んでいた時に、直接の師匠ではない方が書かれた本を読みました。そこには次のような例話が載っておりました。ある人が宣教に行こうと思っていろいろな道を探っていました。そして、自分を派遣してくれそうな展望の有る宣教団体に出会いました。ところが、時を同じくして、人生の伴侶として素晴らしいと思われる人との出会いも経験しました。しかし、結婚をすれば宣教地に行くということはできなくなる状況でした。そこで、どちらが神の御心にかなうかと悩んで相談に来たそうです。結論から言いますと、師匠はどちらも神の御心に沿うものであり、どちらを選んだから言って悪い選択になる場合が有るわけではないと答えたいうことです。神が絶対一つの御心しか用意しておられないことは少ないのです。
  師匠の立場に私も倣って生きています。聖書には既に何が御心であるかは示されています。それに反する内容でない限り、どの方向に進んでも宜しいのです。それを、どっちが御心だろうかと悩むようなことは賢明なこととは言えません。


むすび
 私たちは人生の中でいくらでも罪を犯します。にもかかわらずイエス・キリストは私たちの全生涯を贖い取ってくださったのです。そういう贖いの恵の中に居るにも関わらず、どちらが御心にかなっているかということを考えてそんなに苦悩しなければならないのでしょうか。むしろ、神に委ねて開かれた道や自然に思える道を歩んでみることや、幾つかの可能性を試してみることを重ねて、間違っていればまたやり直し、そこに神が伴ってくださる恵を感謝して生きることの方が、強迫観念的に御心を確信しなければ悪いことのような姿勢で生きたり悩んだりするよりも遙かに御心にかなった信仰的な歩みであると言えます。





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フルゴスペルよりコアゴスペル 其の二

2014-11-19 23:29:30 | 忍者的思索・忍界
 其の一で、フルゴスペルよりもコアゴスペルと言える事柄の方が大事ではないかということを述べました。

 http://blog.goo.ne.jp/barzillai21c/e/48e00d4e3dbbcf371ec48191afc21648

 そのコアゴスペルの信仰的要素とはどのようなものでしょうか。新生、聖化、再臨から更に絞り込んで考えてみます。この三つはひとまとまりのプロセスですが、一つ目の新生が無ければ続く聖化と再臨の福音にはつながりません。ですから、新生の要素をきちんと確認することが大事になってきます。その新生に必要なことは、イエス・キリストを自分の救い主として信頼して信じることです。しかし、その信じ方の中心的な在り方があまりきちんと認識されていなかったり、大事な瞬間に忘れられてしまったりすることが大変多いと思います。それでは大事な第一歩がきちんと守られないことになり、新生に至った意義が大変薄い生き方や在り方になってしまいます。そういう基礎的で一番大事な部分を守れないのに、神癒だ祝福だフルゴスペルだなどと目の色を変えて追い求めている場合でしょうか。決してそのような態度であってはならないと思います。

 さて、コアゴスペルの主要素は新生につながるイエス・キリストへの全き信頼です。旧約聖書においても神への全き信頼が求められています。その時代の祝福は主に家畜と農作物が豊であることや、子宝に恵まれ、健康であることでした。新約聖書でもそういう部分への言及は有ると考えて良いでしょう。イエス・キリストによる山上の垂訓では、衣食について思い煩わないようにと教えています。神の国と神の義を求めていればそれらのものは与えられるというのです。この条件がイエス・キリストの福音の完了を通してコアゴスペルの主要素、イエス・キリストへの全き信頼と同義となって行くのだと私は考えます。
 神の国と神の義を求めるということは、イエス・キリストに在ってはどういうことなのでしょうか。神の国とは神の支配を表すと考えられます。神の言葉と言われるイエス・キリストの教えに従って生きるということが、神の支配、神の国の中に生きているということになります。神の義は人間の義ではありません。イエス・キリストは十字架の贖いによってそれを信じ受け入れる者を義としてくださるのです。その神が与えてくださった義によって生きることを求めることが神の義を求めるということです。それがイエス・キリストの宣教の初期からの教えであり、コアゴスペルです。
 コアゴスペルのイエス・キリストの教えであり、イエス・キリストによる義です。教えの中心は神と人とを愛することであり、義について言えば、パリサイ人達のように自分の力や行いで自分が義となる人もしくは人力の義ではなく、イエス・キリストの贖いによって与えられた義認、義をまとうことです。このことを受け入れて新生が始まるのです。この基本的だ中心的な重要事項を、きちんと生きようとしているでしょうか。神と人を愛することは聖霊の力によって生きている自覚を持っていてもそんなに容易なことではない場合が有ります。しかし、そこに留まろうとすることが大事です。うまく留まれない自分を卑下する必要は有りません。どうせ私たちはキリストの贖い無しでは無に等しいのです。ただ、イエス・キリストの義を着せていただいたことを感謝し、自覚するだけです。

 一方、フルゴスペルのように何かをこの基本に付け足して行くと、実は基本から離れていく生き方になって行くことが有ります。フルゴスペルをきちんと受け入れて生きる自分たちがより勝っているような気持ちが少しずつ入ってきたりするからです。すると、そこに神の義ではなく、ある知識を持っているとかあることを信じているからもっと優れた自分だというような義が紛れ込んで来る場合が有るからです。
 パウロは愛を異言や賜物に優ったものとして示しています。この愛というテーマはキリストによって「神を愛し隣人を愛する」ことであると宣言されています。他よりも勝った道であるなどということを誇る姿勢にこの愛が有るのでしょうか。新しい啓示や預言が有ることを誇ったりそういう事柄を追い求める姿勢でいるならば、フルゴスペルを唱っていても、肝心のコアゴスペルが生きていないのです。そういう生き方になっている時、その人は神の敵となっているのです。
 思い出してください。ペテロがキリストの十字架の預言を聞いてキリストを諌めた時、彼は自分の誇りや拠り所がメシアに仕えて偉い立場になることに有りました。そういうペテロにキリストは「引き下がれサタン」と言われたのです。彼の背後に働いていたサタンではありません。そういう態度を持っていたペテロがサタン(敵という意味)だったのです。違った在り方で結局その時のペテロと同じ状態に陥っていないか吟味するべき時が有ると思います。

 以前も同様のことを書いたことがありますが、も一度確認させてください。キリストは十字架の死の前の遺言と言える最後の晩餐でこのコアゴスペルに留まることを命じておられます。弟子達はキリストの「言葉」によって既に「聖い」と言われました。その言葉とは、それまでの教えでした。教えの中心は神と人とを愛することであり、パリサイ人達とは異なり、神によってのみ義とされることでした。そこに留まる時に弟子達はキリストに留まることになるのです。キリストはその時に「行って」実を結びと言われましたが、その「行く」という言葉の意味は、権威の下に強制されるかのように従うことであって、必ずしも出かけることを意味しません。何に従うのでしょうか。イエス・キリストの支配を受け入れ、神と人を愛し、神によってのみ義とされるという法則に従うのです。それがコアゴスペルであり、フルゴスペルよりも大事で中心的な部分です。

 これまで述べてきた内容によって、私がどのようなことを考えてフルゴスペルよりもコアゴスペルとしているのかを少しでもご理解いただければと思います。






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Sex Starving Society (セックス飢餓社会)

2014-11-17 00:59:24 | 忍者的思索・一般
はじめに
 講義所で学んでいた時に、他の学部の課題図書にSex Starving Marriage(セックスに飢えた結婚)というものが有ったように記憶しています。自分の課題で手一杯で読むことができませんでしたが、多分sexを肯定的に捉えられないとか面倒だとかいう配偶者がいるためにそういう自然な欲求が満たされずに飢餓状態であるということと、それに伴う問題を扱った本だろうと推測しました。
 私たちの社会を見ますと、性的な行動を煽るようなことが多いと思います。日本の雑誌であるとか電車の吊り広告の内容などは、性的なことに開放的な諸外国の人が見ても顔をしかめるような内容になっていたりします。ここで、先の本の題を思い出しました。そして、日本の社会は性的な情報や描写で溢れており、そういうことに満足を求めやすい状況になっているように見えますが、実際はセックスに対する飢餓状態を抱えている社会なのではないかと思いいたりました。そして、どうしてそのような状況であるのかということを次のように考えました。少々回りくどい説明になろうかと思いますがおゆるしください。


大脳から考える
 大脳においては本能や情動を司るのは古皮質や旧皮質と呼ばれる部分です。思考や判断を司るのは新皮質と呼ばれる部分です。後者は霊長類において発達している部分で、他の動物においてはあまり高度に発達していないとのことです。今回扱うセックスに直接的な関係が深いのは前者であり、それは多くの動物の行動を支配している部分と言えると思います。
 さて、新皮質が発達していない動物たちでも全てとは申しませんが、一度相手を決めると一生同じつがいで生活し続けるものが有ります。それは本能的にそれが生存なり種の保存に有利であると知っている結果であるかもしれません。しかし、人間がそうであるように他の動物たちも怒り、不安や恐怖を避けるように行動をし、安定した状態を望むようにできています。それが動物の自然で基本的な在り様であると考えることができます。つまり、基本的な行動原理は動物も人間も共通の部分が有るとかんがえられると思いますし、その中には安定を望む部分も含まれているということです。
 一方、人間は新皮質が発達しており、いろいろな思考や理由付けをして行動しています。その働きが勝っているために、旧皮質の反応を思索的に取捨選択することができるようになっています。しかし、このことが、実は旧皮質の基本的欲求を無視する結果になっている場合が有ると考えられます。
 旧皮質の基本的欲求は本能的に性行動を求めるし、同時に安定も求めています。そして、それは個体として認められることにつながります。人であればそれは避けられない欲求ではないでしょうか。ところが新皮質の思考がそういう部分に留意していない場合は、性的欲求は満たされれば良いのだという判断をすれば、それがその人の行動パターンになります。その時に起こることは、二つ有った欲求の一つしか満たされなかったばかりか、残りの欲求も大変重要な欲求であるということです。すると、脳は潜在的な欲求不満を抱えたままになりますし、感覚的にそれが深層心理に引っかかります。ある本ではそれを不全感という言葉で表していたように記憶しております。脳はきちんと機能しきった時に機能した快感、満足を得るのです。

見過ごされた欲求が生み出すものを考える
 今度はこの関係を実際の性行動あてはめて考えてみます。ある人が本能的欲求である性的欲求を感じます。その欲求を感じる度に異なる異性と性関係を持ったとします。性的な欲求は満たされましたが、安定的な生活を求める心の奥の欲求や自分を認めて欲しいというような基本的な別の欲求は満たされないのです。そのことは次のような深層心理の負サイクルを生み出すと考えられます。
 その負サイクルの話に入る前に、深層心理的働きについてご説明しておきたいことが有ります。ペップトークをご存知でしょうか。スポーツ競技の監督などが試合や演技の前に短く選手たちを鼓舞するためにする話のことです。機会が有って日本ペップトーク普及協会の講師の講演を聞かせていただいたことが有りました。そのお話の中で興味深いと思ったことが有りました。ペップトークにおいては否定表現は使わないというのです。例えば「挫けないで」とか「負けないで」というような表現です。何故かというと、深層心理は否定形を理解しないからだというのです。そうしますと、そういう表現は「挫けろ」「負けろ」という言葉として理解されるのだそうです。そして、私の理解では旧皮質も新皮質的理解ができないのです。これを踏まえて上で述べた状況にある人の中で起きていることを考えています。
 性行動が起きてその人の性的欲求が満たされたということは、その欲求の相手となることを受け入れた異性が存在するということです。新皮質は自分の性的欲求を満たす選択をしてその場でそれを可能としてくれる相手を選択しただけだということを理解しています。しかし、旧皮質や深層心理にはそういう判断力は有りませんし、そのような判断が十分に届きません。ですから、性的欲求が充足されることと同時に、その相手に受け入れられ続ける存在であるという安定や自分を認めてもらうという充足感の欲求も満たされたと勘違いするのです。ところが、実際にはその異性との安定的な関係は構築されませんから、性欲が満たされる時はいつも異なる異性との関係になるのです。すると旧皮質や深層心理は前の異性は自分を見捨てた存在と潜在的に認識して不全感を持ちます。裏切られた者の心理に近いものがそこに生じるのです。
 旧皮質は深層心理にとって、深い機能した快感や満足を得る手立ては一つしか有りません。性的欲求と、安定や受容の欲求を一度に満たすことです。これは旧皮質や深層心理にとっては密接に結びついており、ワンセットなのです。しかし、それが半端に満たされることによって脳は不全感を持ちます。性的欲求が満たされることは大きな快感を伴うのにも関わらず、何かが不足しているのです。だから、その不足を満たしたくて再び性的欲求を満たそうとしていきます。その度に脳は心理は不全感を残し、裏切られた者の心がそうであるように更に性的関係に渇望を覚えるのです。それは決して深い満足に至ることの無い負のサイクルなのです。それは無意識のうちに自分を裏切り続ける潜在的な自虐行為となっているのです。
 そういうわけで、私たちの社会は望めばいくらでもセックスの機会は有り、その意味でが満足度の高い社会であると考えられそうなのですが、実情は本能が求めているセックスに辿りつけていないのです。そのために残る不全感を埋めようとして、更にいろいろなセックスの在り方を考えだしたり機会を増やしていくのですが、根本的解決に至らないのです。結局それはセックス飢餓社会を生み出しているだけなのです。


負のサイクルから抜け出すために
 ある高校の文化祭の発表に次のようなものが有りました。保健委員会の生徒たちが集まって一週間お菓子だけを食べて生活をして、それがどんな生活であったか、どう感じたかなどをレポートするというものでした。お菓子を食べて生活するのは美味しくて楽しいだろうと思った生徒もいましたし、最初の二日ほどは楽しくお菓子を食べて生活できたのですが、三日目ぐらいから嫌になってしまう生徒が出てきて、五日目には殆どの生徒が約束を破ってお昼には普通のお弁当を食べてしまっていたということでした。
 この保健委員の高校生の体験で対比されるのはお菓子ときちんとした食事です。お菓子ばかり食べて不満を感じた生徒はきちんとした食事に切り替えてしまいました。もっと満足できるきちんとした食事というものが有るということを知っていたから切り替えることができたのです。これをセックスに当てはめて考えれば、性的欲求を満足させることだけを考えたセックスはお菓子で、性的欲求だけではなく受容されることと安定への欲求も同時に満たされる関係がきちんとした食事ということになります。
 生徒たちはお菓子を食べ続けると喉が渇くとか食感が嫌になることに気付きました。しかし、仮にそれ以外の食物が有ることを知らなければ不満を持ちながらお菓子を食べ続ける以外に選択肢が無かったかもしれません。しかし、実際にはきちんとした食事が有ることを知っていたからお菓子を止めてそちらに切り替えることができたわけです。セックスにおいても、不全感が残る欲求の満たし方ではなく、きちんと欲求を満たすことができるのはどういう場合かということを知識として知っていれば切り替えて行くことができるのです。しかし、現在の私たちの社会は、一部の知識人だけが研究課題程度にしかそれを扱っておらず、それを広く社会に啓蒙して人々の新皮質に届く思索となるような形で示してはいません。新皮質がこのような知識を土台にして旧皮質をしっかり満足させる方法を認識するようになることが大事な鍵であると思います。
 詳細は記しませんが、そういうことの中には、セックスが先ず個人の自己認識と受容や、自己決定権という人権と関わっていること、次いでそれが相手を認めて受容するコミュニケーションへと発展しているものであることを確認することなどが含まれていると思います。それがきちんと意識され、為されている時には、責任をもって特定の異性と関わって行くことが旧皮質が持っている性的欲求のみならず、安定や安全への欲求をも同時に満たし、旧皮質と新皮質が同時に機能した快感を得、不全感の無い満足に至ると思います。そういう形で私たちの社会がセックス飢餓社会から脱却していけたらと思うのです。







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釈義と霊想を区別すること

2014-11-15 23:06:59 | 忍者的思索・忍界
釈義と霊想を区別するべきこと

 以前もこのことに軽く触れたことが有るのですが、説教者は導かれた聖書箇所の釈義と自分の霊想や感話の分かち合いを明確に区別するべきです。特に後者について語る時には、慎重であるべきであると思います。それには二つの理由が有ります。

 第一に、それが、その聖書箇所が持つ元来の意味合いであると会衆が受け止めてしまうと、その箇所の中心的な意味や釈義が忘れられてしまいかねないということです。聖書神学的に考察して、その霊想や感話の内容に問題が無かったとしても、与えられた神の言葉を軽く扱った姿勢になってしまうことになりますので、避けるべきです。

 第二に、元来の釈義を脇に置いて聖書箇所の意味を探ろうとする姿勢や聖書の読み方を会衆も身に着けてしまう危険性が有るということです。そういうことが重なると、自分中心でご都合主義な読み方になってしまうことも出てきます。

 そういうわけで、説教者は自分がこれから語ることや分かち合うことが、釈義なのか霊想なのかをきちんと区別して伝える必要が有ります。


霊想を分かち合う態度についていて

 また、霊想を聖霊の働きによるインスピレーションとして分かち合うのは構わないでしょうけれども、これまでに開かれたことの無い隠された素晴らしい真理の啓示であるというような態度で語ることは避けるべきです。聖書という特別啓示は完結していますし、長い歴史の中では表現しないまでも同様の霊想をした人はいるかもしれないのですから、いろいろ後付の考えにそのような位置を与えることは良くありません。
 この態度の背後に有るものは、聖書への畏敬の念というよりは、自分の霊想がいかに豊なものであるかなどの自慢や虚栄心が忍び込んでいることが多いと思われます。行き過ぎると、偽預言的な働きまで発展し、その後訂正されるべき状況になっても言い訳をして自己弁護や保身に走る説教者もいます。


一つの例(地の塩を題材に

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取
りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつ
けられるだけである。 (マタイ伝五章十三節 口語訳)

 大変重大な問題を引き起こすような例ではないかもしれませんが、「あなた方は地の塩です」ということを取り上げて例示したいと思います。これまでに以下の二つのような霊想の分かち合いを耳にしたことが有ります。

霊想1 塩というものは料理などで用いられる時は多くの場合その形が見えない。味付けに用いられて溶けてしまっているからであるが、しっかりと塩味が有り、効き目が有る。あなたがた忍者は地の塩であるから、同様に姿が見えなくても味の有るキリスト者としての生活をし、時には地に潜って隠れるようにして地上に神の国を広げる務めをするのである。(目立たなくても真心を込めて祈り、奉仕をするという適用になる。聖書的には祈ることは奨励されることであるし、謙遜であることも求められている。その意味においては問題は無い。)

霊想2 塩が実際には目に見えない形で用いられることが多い。しかし、目に見えなくても塩には味付けをしたり腐敗を防止したりする効力が有る。忍者に特有の目に見えなくても効力の有る部分とは何か。それは祈りである。そういう自覚を持ってキリスト者として生きよう。(意識を高く持って祈り続けようという適用になる。いろいろな理由によって祈りを奨励する聖書の言葉が有る。その意味においては問題は無い。)


 では、その箇所における釈義はどうなのでしょうか。この部分の深い解説は別な機会にゆずり、簡単に確認してみたいと思います。地の塩は、次の世の光と対を成していて、同様な原則を提示するための例となっています。そして、その背景となっているのは天国の生き方を反映することです。この二つの例の締めくくりは、十六節に有るように「人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」ということです。
 塩は口に入れれば塩味がして塩が入っていることを隠すことはできません。明かりは灯っていれば光を放っていますから隠すことはできません。天の国の生き方をする人は、その原則が生活に生きていることが行いに現れて、隠すことはできませんし、隠すべきではありません。それは自然に現れる性質のものです。そういう天国、神の国の受け入れ方をするべきであり、それはパリサイ人達のように行いを見せびらかして自慢したりプライドで自分を守るような生き方であってはならないのだということです。
 塩は岩塩でしたが、いろいろな混ざりものが有ると化学反応が進んで塩味が無くなることがあるという理解が有ります。それが、パリサイ人が行いを見せびらかすことで自分の義と平安を守るという霊的な混ぜものをして、せっかく神の言葉である旧約聖書に通じてはずなのに神の国の原則を生きず、神の国を台無しにしていたことの例示として用いられているのです。


 今回扱った例の場合は、直接的な内容を確認する釈義の結果見出される原則の方が先に挙げた霊想より遙かに大事なことです。説教の中でそれが、二次的な霊想とすり替えられては断じてならないことです。会衆がそのような理解だけ記憶に残してその聖書箇所を理解しているように思うことがあれば、それは説教者として大きな失敗です。
 くり返しになりますが、説教の中で霊想を分かち合う時は、それが霊想であって釈義ではないことをはっきりさせることです。そして、会衆がそういう理解にもっと心を向けてしまうのではないかと心配される時は、個人的に恵まれた霊想であったとしても敢えて語らないという選択をするべきです。






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