そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。」 ヨブ記一章二十一節
しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。
わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。
テモテへの第一の手紙六章六、七節
旧約聖書と新約聖書のこの二つの聖書箇所から考えたことが有りました。私たちは何も持たないで生まれてきました。しかし、私は思うのです。もし人類が堕落せず、神との断絶を経験しなかったなら、生まれて来る子供は神の栄光に包まれ、神に完全に守られた状態であっただろうと。そうしますと、そういう子供であったならば、「裸で母の体から出て来た」のでもなく、「何ひとつ持たないでこの世にきた」のでもなく、全てを持ってきたことになっていたはずではないかと思うのです。
私たちにこの「全てを持っている」状態を与えてくださったのがイエス・キリストの十字架の贖いであり、私たちを神と和解させてくださった結果です。ですから、私たち忍者は物質的には他の人達と何ら変わることなく「何一つ持たないでこの世を去って行く」のですけれども、霊的には堕落前の人類と同じ全てを持って神の元に帰って行くことになるのです。
パウロはテモテに対して、物質的には何も持たないで帰るけれども、霊的には全てを持っていることを示す内容として、「信心があって足る」ということを述べ、それを「大きな利得」と表現していると思います。そういたしますと、ヨブも「主の御名はほむべきかな」と告白できる神との関係を持っていて、「信心が有って足る」者であり、「大きな利得」を得ている者であったと言えます。創造主が自分の側に居てくださり、守りとなってくださるという霊的事実は何にもかえ難い恵であり、有り難いことです。
私は一日を終えて就寝する時、自分が何も成し遂げていないことを思ったりします。もしかすると、主から委ねられたことを自分の勘違いで放棄してきてしまったかもしれないと残念に思う瞬間も有ります。しかし、その時にも主が私の全てであり、私の義も善も主の中に有ることを思います。自分という意識をいただいて生きることは不思議なことですが、それが何のためかと迷い悩むならば苦しいことだと思います。その人生に意味を与えてくださったイエス・キリストをしみじみ有り難く思います。この私に出会ってくださった主がいらっしゃるだけで感謝だ、どの瞬間にこの世の命が終わっても心置きなく去って行けると思います。
同様の心情を述べている聖書の人物がいると思います。ルカによる福音書二章にはシメオンという人物が出てきます。彼は聖霊の促しによって神殿で幼子イエスに会い、腕に抱きました。その時の第一声はこのように記録されています。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。」
私のお世話になった大忍はここから次のように語っておられました。「どんなに年齢を重ねても、もう全てやり遂げて満足だということはなかなか無いのです。あれもしておけば良かった。これをもう少し良くしてから死にたいなどと思うものです。シメオンが潔くこの世を去ることができると告白できたのは、一重に救い主と出会えたからです。私たちもこのような神様との関係に生きるのです。」
私は確かに何ひとつ持たずに生まれてきました。しかし、全ての根源である神が私に出会ってくださったことを感謝しています。この出会いが無ければ決して味わうことの無かった恵と平安を与えられたことや、人生の歩みをここまでして来ることができたことを有り難く思っています。人間的には何もやり遂げていない私かもしれませんし、永遠に比べれば無に等しいような私の生きる時間かもしれませんが、永遠の属性を持っておられる神との関係を与えられました。ですから、私は例えどの時点で命を終えても、全てを持ってこの世を去って行けると思っています。私の仲間である忍者達が、深い頷きを持ってこの告白に和してくださればと思う者です。
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しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。
わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。
テモテへの第一の手紙六章六、七節
旧約聖書と新約聖書のこの二つの聖書箇所から考えたことが有りました。私たちは何も持たないで生まれてきました。しかし、私は思うのです。もし人類が堕落せず、神との断絶を経験しなかったなら、生まれて来る子供は神の栄光に包まれ、神に完全に守られた状態であっただろうと。そうしますと、そういう子供であったならば、「裸で母の体から出て来た」のでもなく、「何ひとつ持たないでこの世にきた」のでもなく、全てを持ってきたことになっていたはずではないかと思うのです。
私たちにこの「全てを持っている」状態を与えてくださったのがイエス・キリストの十字架の贖いであり、私たちを神と和解させてくださった結果です。ですから、私たち忍者は物質的には他の人達と何ら変わることなく「何一つ持たないでこの世を去って行く」のですけれども、霊的には堕落前の人類と同じ全てを持って神の元に帰って行くことになるのです。
パウロはテモテに対して、物質的には何も持たないで帰るけれども、霊的には全てを持っていることを示す内容として、「信心があって足る」ということを述べ、それを「大きな利得」と表現していると思います。そういたしますと、ヨブも「主の御名はほむべきかな」と告白できる神との関係を持っていて、「信心が有って足る」者であり、「大きな利得」を得ている者であったと言えます。創造主が自分の側に居てくださり、守りとなってくださるという霊的事実は何にもかえ難い恵であり、有り難いことです。
私は一日を終えて就寝する時、自分が何も成し遂げていないことを思ったりします。もしかすると、主から委ねられたことを自分の勘違いで放棄してきてしまったかもしれないと残念に思う瞬間も有ります。しかし、その時にも主が私の全てであり、私の義も善も主の中に有ることを思います。自分という意識をいただいて生きることは不思議なことですが、それが何のためかと迷い悩むならば苦しいことだと思います。その人生に意味を与えてくださったイエス・キリストをしみじみ有り難く思います。この私に出会ってくださった主がいらっしゃるだけで感謝だ、どの瞬間にこの世の命が終わっても心置きなく去って行けると思います。
同様の心情を述べている聖書の人物がいると思います。ルカによる福音書二章にはシメオンという人物が出てきます。彼は聖霊の促しによって神殿で幼子イエスに会い、腕に抱きました。その時の第一声はこのように記録されています。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たのですから。」
私のお世話になった大忍はここから次のように語っておられました。「どんなに年齢を重ねても、もう全てやり遂げて満足だということはなかなか無いのです。あれもしておけば良かった。これをもう少し良くしてから死にたいなどと思うものです。シメオンが潔くこの世を去ることができると告白できたのは、一重に救い主と出会えたからです。私たちもこのような神様との関係に生きるのです。」
私は確かに何ひとつ持たずに生まれてきました。しかし、全ての根源である神が私に出会ってくださったことを感謝しています。この出会いが無ければ決して味わうことの無かった恵と平安を与えられたことや、人生の歩みをここまでして来ることができたことを有り難く思っています。人間的には何もやり遂げていない私かもしれませんし、永遠に比べれば無に等しいような私の生きる時間かもしれませんが、永遠の属性を持っておられる神との関係を与えられました。ですから、私は例えどの時点で命を終えても、全てを持ってこの世を去って行けると思っています。私の仲間である忍者達が、深い頷きを持ってこの告白に和してくださればと思う者です。


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