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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

ルカによる福音書十章三十八節~四十二節

2024-12-10 17:11:42 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
導入
イエスはエルサレムに向かって旅をしていましたが、直接エルサレムに入らず、先に、3.2キロぐらい東にある村、ベタニヤに行きました。そこには、イエスが心を許すことのできる3人の姉弟、マルタ、マリヤ、ラザロがいました。

解説
三十八節 ルカは村の名前を記してませんが、共観福音書等から、これがベタニヤであることがわかります。マルタという女がイエスを家に迎えました。イエスを迎え入れるということは、同行する弟子達も迎え入れるということです。それだけ大勢の人を迎え入れることができるということは、大きな家を持っていたということであり、裕福であったと推測されます。裕福でありながら、夫の名前が出てこないことから、多くの学者達は、マルタは寡婦であっただろうと考えます。
 すでに、パリサイ人、サドカイ人、律法学者達は、イエスを敵視していましたし、イエスを認める者は破門扱いであることが決められていました。ですから、イエスを迎え入れるということは、本当にイエスを認め、信仰を持っていなければできないことでした。

三十九節 マルタの妹のマリヤは、イエスの足元に座ったことが記されています。用いられている動詞と前置詞から、くっつくぐらい間近に座ったことがうかがわれます。当時、弟子達は、師の足元に座って教えを受けました。マリヤは、イエスに従う者、弟子であるという心構えを示したことになります。ユダヤでは、ラビは、女性を弟子にとることはしませんでした。しかし、女性を蔑視せず、平等に扱うイエスは、マリヤが弟子として足元に座ることを禁じたりはしませんでした。
 マリヤの「聞き入っていた」という動作は、継続的な動作を表す時制が用いられています。ある学者は、マリヤには、いつでも習慣的に、イエスの教えに耳を傾けて聞き入るということがあったのであろうと考えます。

四十節 マルタはいろいろなもてなしの用意のために、心を煩わされていたことが記されています。この状態を表す言葉は、「引き離される、分けられる」というような意味合いが有ります。準備のためにすることが多過ぎて、注意が分散されて落ち着かなくなってしまったのかもしれません。8章では、イエスの宣教旅行には、裕福な女性達が同行して、いろいろ助けていたことが記されていますから、この時も、マルタの準備を助けていたかもしれません。その場合は、女主人であるマルタとしては、「他人が手伝っていてくれているのに、身内で、お迎えする側のマリヤが何もしないのは体裁が悪い。」というような考えに、気持ちが落ち着かなかったということも有ったかも知れません。
 そこで、マルタはイエスの所に行き、マリヤに手伝いをするように指示してくださいと頼みます。彼女の言葉に、マリヤが彼女を離れっぱなしであるという不満が示されています。ここで用いられている「手伝う」という動詞には、「共に力を合わせる、共に支える」というような意味合いが有ります。協力して何かを為すという行為をよく表している言葉です。それだけ、マルタにとって、マリヤは頼りになる存在であったということかもしれません。
 マルタのこのような発言は、イエスに対して無礼なのではないかという印象があるかもしれません。しかし、この質問の真意は、「主よ、あなたもこれは問題だとお考えですよね。」という気持ちであり、イエスからの肯定的な答えを当然期待している質問でした。また、当時、弟子は、師の許可無く教えている師の元を離れることはできませんでした。マルタは、マリヤが許可を得るきっかけを作ろうとしたのだとも考えることができます。

四十一節 イエスはマルタの名を二度繰り返して呼びました。これは親愛の情の表現であり、また、注意を促す呼びかけでもありました。「愛するマルタよ、よく聞いてもらいたい」と呼びかけたことになります。イエスはマルタの現状を指摘します。多くのことに悩んでいるというのです。

四十二節 マルタは「多く」のことに悩んでいたわけですが、イエスは必要なことは「一つ」であると言いました。そして、マリヤは「良い方、良い部分」を選んだと宣言しています。それが何であるかは、続きの言葉からわかります。「それを取り上げてはならない」ということが書かれています。マリヤがマルタを手伝うために立ち上がることによって取り上げられることになることとは何でしょうか。それは、「イエスの教えに聞き入る」ことです。
 世の中にはしなければならないこと、したいことが「多く」有るでしょう。しかし、その中の「一つ」が「良い方、良い部分」であるならば、その他のものは、価値や良さがより少なく、優先順位が下であるということになります。イエスの教えに聞き入る、イエスの教えを聞き続けるということが、最優先であるということになります。
 イエスは、「愛するマルタよ、私を迎え入れてくれて有難う。多くのことに心を奪われて、思い煩っているね。しかし、私の教えを聞くことが最優先なのだよ。」ということを言ったのです。

まとめ
 現代に生きる私達が、この聖書箇所から学びとらなければならないポイントは、次にように考えられそうです。

1)どのような困難の中でも、イエスとその教えを迎え入れること。
   最高権力であるユダヤ人の議会から排斥されているイエスを迎え入れるこ
  とは、大変難しい判断でした。しかし、それでも、信仰のゆえに、マルタ、
  マリヤ(そしてラザロも)イエスを自分の家の迎え入れました。私達も、こ
  の模範に倣って困難や迫害が有っても、私達の心にいつもイエスとその教え
  を迎え入れる態度を持ち続けましょう。

2)困難や不満を、イエスに打ち明け、答えを得ること。
   マルタは自分の不満や苛立ちをイエスに話しました。返ってきた答えは、 
  自分の期待と全然違っていたかもしれませんが、愛に溢れた答えと、必要な
  教えをいただくという結果になりました。
   私達も、心にある不満や苛立ち、困難などを、イエスに祈りのうちに告白
  するのです。自分に期待した答えではないかもしれませんが、私達がイエス
  に告白して祈る時、聖霊によって、聖書の言葉を通して愛に溢れた答えと、
  必要な教えをいただくことができます。ヨハネによる福音書では、イエスの
  ことを「ことば」であると表現しています。ですから、聖書のことばを通し
  て答えを得るその時、イエスが直接教えてくださったと信じるのです。

3)聖書の言葉と教えを聞き続けることを優先すること。
   私達には、この世の思い煩い、あるいは、神への奉仕をあれこれ考え過ぎ
  て、心が落ち着かなくなることが有るかもしれません。その時こそ、優先順
  位を確認するときです。イエスは、必要なことは「一つだけ」だと言いまし
  た。最優先となるべきことは、神の言葉である聖書を読み続け、聖書に答え
  を求め続けることです。継続的に聖書に親しみ続けるのです。

 クリスチャンであるならば、私達はすでにイエスを迎え入れた存在です。イエスを迎え入れていても、心が乱されることは有るものです。しかし、乱れた心をイエスに告白する時、私達には答えが有るのです。その答えを得るためにも、私たちは、イエスの教えに聞き入ること、聖書を読み続けることが最優先となるのです。
 イエスの言葉に聞き入っていたマリヤの心は、あれこれ考えて、心が千路に乱れてしまったマルタの心とは反対に、平安であったでしょう。私たちも、聖書の言葉を聞き続け、神と神の言葉に信頼して、委ねて生きる時、心が乱されることが少なくなり、困難な中でもより平安に過ごすことができるようになるのです。そのような平安を得たいと思いませんか? まだそのような信仰の前進を始めていないのならば、信仰を新たにし、新しい決意をして、祈り、聖書を学び続け、神に信頼して委ねる人生の第一歩を踏み出しましょう。

1)どのような困難の中でも、イエスとその教えを迎え入れること。
2)困難や不満を、イエスに打ち明け、答えを得ること。
3)聖書の言葉と教えを聞き続けることを優先すること。

このことを毎日心に留め、神への信頼が深められ、より平安に生きる忍者を目指そうではありませんか。





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ルカ十七章五節~十節 ただ主の命に従う信仰

2024-12-10 17:07:37 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
五節
弟子達はキリストに「私達の信仰を増してください。」と言いました。それは前の節までのキリストの教えに関連しています。キリストの弟子達は「気を付けていなければならない」のです。そして、兄弟、他の弟子達が罪を犯したら、諌めなければならないし、自分に対して罪を犯した後でやってきて悔い改めるならば、赦さなければならないのです。弟子達はそれを聞いて、罪を犯した兄弟を諌めたり、自分に対して罪を犯して悔い改める兄弟を赦さなければならないとは、難しくて到底このままではできないことだ、と思ったのです。だから、キリストの言いつけを守れるように、信仰と増して欲しいと願い出たのです。

六節
キリストので弟子達への答えは、多分予想とは違ったものであったでしょう。弟子達の予想は、おそらく、キリストが弟子達に信仰が増し加えられるように、祝福の祈りなどをしてくれるというようなことであったと思われます。しかし、キリストは、とても短い植物を用いた例話で、別のことを教えました。
 最初に出てくるのは、からし種です。からし種は、パレスチナで見られる種子の中では一番小さいものです。次に出てくるのは、桑の木です。日本で見られる桑とは違う品種かもしれませんが、パレスチナでは身近な植物で、その特徴は、根がとても強くて、広く深くはるということです。ですから、そういう桑の木を引き抜くというのは、殆ど不可能に近いことなのです。その根の強さで、樹齢が六百年ぐらいにまでなるという説明をしている注解も有ります。
 キリストはこの例話で何を教えたのでしょうか。
 「からし種ほどの信仰が有ったなら」と言っています。からし種は確かに小さいかもしれませんが、きちんと発芽して成長します。つまり、からし種に命が有れば、大きさなどは関係無いのです。同様に、信仰は持っていさえすれば、そして、それを働かせさえすれば、結果が伴うのです。増し加えられるようなものではないのです。ただ、信仰でありさえすれば良いのです。
 桑の木を抜くのはその根の強さのせいで殆ど不可能です。大勢の人や牛馬を使えば抜けるでしょうが、それは大儀なことです。これは、躓きが起きないように気を付け、兄弟を諌めたり、赦したりするのが困難だと考えた弟子達の心の持ち方を表しています。しかし、信仰を働かせさえすれば、諌めることも赦すこともできるのだとキリストは言っているのです。それを、目の前に有る桑の木が、近くにあるガリラヤ湖にでも移ってしまうと表現しているのです。
 ここで一つ確認しておくべきことが有ります。信仰とは何かということです。信仰を表す言葉の持つニュアンスは、信じること、信頼することの他に、忠実であること、忠誠を尽くすことという部分も含まれているのです。ですから、この例えは、もし命令を下した方が神であると知っているならば、信じているならば、また、その方を信頼し、忠誠を尽くすべき神だという認識が有るならば、ただその心構えから、それを行動に現すだけで、その弟子の恐れる困難は困難でなくなるはずだということです。逆に言えば、それだけの神への信頼と帰依がなければならないということです。

七節、八節
ここからキリストは、関連するもう一つの例話を示します。しもべもしくは奴隷と主人との関係を示して、キリストの弟子と神との関係を確認しているのです。
 しもべや奴隷が耕作や羊の群れの世話から帰ってきたということは、そんなに楽ではないその日の仕事をやり終えてきたということです。ですから、彼らは疲れているかもしれません。しかし、だからと言って、主人は彼らに食卓に着くようには言いません。しもべや奴隷は、あくまでも主人のために働いているのであり、一日の仕事は最後まで決まっていて、それを終えることに優先順位が有るのです。ですから、しもべや奴隷が疲れて野から帰ってきても、主人は当然のこととして次の割り当ての仕事の指示をするのです。
 割り当ての仕事が変われば、装いもそれに相応しく替えなければなりません。畑仕事の時の服のままで主人の食卓を整えて給仕することはできません。相応しい服に着替え、また、袖やその他の部分が過って主人の料理に触れたりしないように、帯を締め、現代風に言えば、エプロンなどもしなければならなかったかもしれません。
 この例話を読むと、主人は奴隷に冷たいのだと考え、弟子と神の関係もそんなものなら、神は善なる存在ではないではないかと思う人もいるかもしれません。しかし、これはあくまでも例話です。そして、その中心は、しもべや奴隷の仕事は当然するべきものであり、優先順位が有るということに有るのです。そして、キリストはこの例話の中ででも、弟子への配慮の部分も忘れてはいません。例話の中の主人に「あとで、自分の食事をしなさい。」と言わせています。しもべや奴隷の食事は、主人が十分足りるように支給するのです。また、ギリシャ・ローマ文化における奴隷は、私達が持っているこき使われる使用人という印象とは違い、家族の一員と考えられていたのです。ですから、この例話においても、神とキリストの弟子との関係は、そういう家族的な関係として捉えられるようになっているのです。

九節、十節
キリストは例話の中心となる事実の再確認をして、その原則に従った弟子達への直接の指示を与えます。
 主人はしもべや奴隷が割り当ての仕事をしたからといって、いちいち感謝したりなどはしません。しもべや奴隷の方も、そんなことは当たり前だと思っていますから、そのような期待は持っていません。同様に、キリストの弟子達も、キリストの命じることや、聖書の命じることをしたら、たとえそれが難しい内容だったとしても、賞賛や栄誉を求めるようなことはしないのです。そして、いつでも、しもべである自分と神との関係を自覚し、告白できる準備ができていなければならないのです。
 キリストが弟子に言うように指示した言葉の中に、「役に立たないしもべ」という表現が有ります。この「役に立たない」と訳された語は、「求められたことを超えない」と言う意味で、無能であるとか、求められた水準に満たないという意味ではありません。この言葉には、しもべとしての謙遜な態度のほかに、忠実に命じられたことをするという部分も含まれているのかもしれません。
 また、この指示と結論は、パリサイ人達の批判も含まれていて、弟子達に彼らに倣わないように警告をしている部分が有るように思われます。パリサイ人達は、律法や伝統を守るべきこととして教えていました。守るべきことを一生懸命守るだけなら良かったのですが、週に三回断食しているとか、日に三回の祈りの時間を守っているとかいうことを、これ見よがしに目に付くように行っていたのです。彼らは外出中に祈りの時間が来て、人目の付く通りで祈りを始められるように予定を組んだとさえ言われています。彼らは、するべきこととして教えたことを実行するだけでなく、人からの賞賛や誉を求めていたのです。
 プライドのために行動し、人々を神の御心から引き離し、収税人や罪人を見下し、お金に貪欲で、人々の躓きとなっていたパリサイ人の性質は、サタンの性質の反映でした。しかし、キリストの弟子はそんなパリサイ人と同じ態度を取ることは決して有ってはならないのです。「信仰を増してください。」と頼んだ弟子達は、信仰を強くしてもらって、難しい兄弟を諌めることや、兄弟を赦すことができるようになって、「よくやった」と褒めてもらうことを期待していようです。キリストは、弟子達の中に賞賛や誉を求める心が有ることを見て取って、そのような態度に釘を刺し、諌めようとされたと考えられます。
 

まとめ
弟子とは、師に学び従う者という意味が有ります。私達もキリストに学び従う者です。キリストのこの例話と教えを心に留めて生きなければなりません。この箇所から心に留めておくべき原則は何でしょうか。

私達は躓き、すなわち罪への誘惑や、間違った信仰理解に迷い出させることを避けなければなりません。そのためにキリストは弟子達に同じ信仰を持つ仲間が罪を犯したなら諌め、悔い改めるなら赦すことを命じました。弟子達にはそれはとても難しいことと思われましたし、実際に私達が取り組む場合にも困難に感じることです。

しかし、私達はただ主の命に従う信仰を持たなければいけません。そのためには、
1) 我々が仕えているのは神であるという自覚を持つこと
2)信仰を信頼と忠誠のうちにただ働かせること
3)賞賛や栄誉を求めないで、謙遜と忠実のうちにただ従順すること
です。
こうして、例え困難に感じても、同じ信仰を持つ仲間が罪を犯した時に諌め、悔い改めるなら赦すことを実行に移せるように、気を付けていなければならないのです。






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ルカによる福音書十七章一節~四節

2024-12-10 17:04:03 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
状況
十五章から始まったキリストの教えと同じ場面であると考えられます。イエスと十二弟子の周りに、収税人や罪人と呼ばれる人達が教えを求めて集まっており、それに批判的な言葉をかけるパリサイ人や律法学者達も居ました。

直前に、キリストは、ラザロと金持ちの例話を用いて、自分達こそ天国の上席に着く者達だと思っているパリサイ人達に、彼らの在り方は決して天国を継ぐようなものではないことを、痛烈に語りました。

そして、それを踏まえて、キリストは弟子達に向き直り、弟子達に語り始めました。



解説

一節
最初にキリストが弟子に示したのは、私達のこの世における霊的な現実でした。「つまずきが起きるのは避けられない」というのです。
 ここで「つまずき」と訳された言葉は、誘惑、罪を犯すこと、間違った教えにそれてしまうことを示すことのできる言葉です。そして、そういうことが起きるのは避けられないとキリストは明言しているのです。どうしてでしょうか。
 先ず、この世では、まだサタンや悪霊が活動しているからです。次に、どんな人間にも肉の性質、罪の性質が有ることは無視できません。そして、それらの故に、パリサイ人達のようなプライドに満ちた偽教師達がいつの世にも存在するからです。だから、つまずきが起きるのは避けられないという現実が私達には有るのです。

そういう霊的現実において、そういうつまずきをもたらす者は忌まわしい者だというのです。聖書にはキリストが「忌まわしい者だ、律法学者、パリサイ人」と呼びかけている場面が有ります。間違った律法理解と伝統で人々を縛って、人々を神の心から引き離していた彼らは忌まわしい者たちでした。そして、その背後で働いているサタンがその忌まわしい者の親玉ということになるでしょう。


二節
キリストは次いで、具体的なつまずきを指摘し、それがどのような処遇が相応しい行為であるかを示しました。
 キリストは「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら」と言っています。「この小さい者たち」とはどんな人達でしょうか。小さいのだから子供達だろうと単純に考えてはいけません。実際にキリストを取り巻いていたのは、弟子達、収税人、罪人と呼ばれる人達でした。子供達ではありません。
 当時、権力や社会的地位の無い者達、また、ユダヤ教の実践の乏しい者達や信仰的知識が乏しい人達は「小さい者達」と呼ばれたということです。キリストの周りに教えを求めて集まった収税人や罪人と呼ばれる人達は、パリサイ人達から見れば、「小さい者達」で、見下されていました。
 キリストはこのように弟子達に語りかけることで、間接的にパリサイ人達を非難している部分が有ります。「パリサイ人達よ、お前達は霊的に飢え乾いてキリストの教えを求めて集まって来た収税人達を「小さい者達」と裁いている。そして、彼らを神の国から遠ざけている。お前達は忌まわしい者達なのだ。」と。そして、弟子達に向かって、決してパリサイ人達と同じような態度を取ることが有ってはならないと戒めているのです。

忌まわしい者達に相応しい処遇とはどういうものでしょうか。キリストは「石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」と表現しています。そんなことをされたらどうなるでしょうか。石臼の重さで海の底に沈んで溺死して、だれも生きて帰れないでしょう。これは、ギリシャ文化の影響を受けた諸国の死刑の方法の一つであった言われています。ユダヤ社会での死刑の方法には含まれていませんが、広く知られている死刑の方法で、キリストの話を聞いた人達は、その恐ろしいイメージに驚き、つまずきを起こすことがそんなにも重い罪であるということを思い知らされたかもしれません。
 ここで用いられている石臼を表す語は、オリーブや小麦を挽くために、ロバを使って回すような大きい石臼を指しています。家庭の主婦が使っていたような小さなものではありません。
 海という語は、深い淵というような語感が有り、刑罰の場所を想起させるものだということです。
 投げ込まれるという受動態の動詞は、激しい怒りでぶん投げるという語感の有る語だということです。神の心をわきまえないパリサイ人達の行いが、神の怒りの対象であり、処罰の対象であることを示していると思われます。


三節
つまずきが起きることは避けられないことと、つまずかせることがいかに大罪であるかを示した後、キリストは、弟子達に命令、指示を始めます。
 
最初に与えられた命令、指示は「気をつけていなさい」ということでした。何を気をつけるのかが続いて示されます。
 兄弟というのは、直接的には弟子同士ということでしょう。弟子達は、将来的には教師、指導者となる人達でした。兄弟が罪を犯すというのは、文脈から考えれば、「これらの小さき者をつまずかせる、間違った信仰に導き、罪を犯させる」ことをして、罪を犯したということと考えられます。そんな行為は恐ろしい刑罰に値することで、忌まわしいことですから、先ず、そういう罪に敏感に気付かなければならないでしょう。だから「気をつけていなさい」なのです。
 そのような行為に気付いたら、その兄弟を戒め、正さなければなりません。そうすることによって、その兄弟および彼によって罪や過ちに陥った「小さい者」を神の御心にかなった道に回復しなければなりません。しかし、心に備えがなければ戒め、正すことは難しいでしょう。だから、「気をつけていなさい」なのです。
 兄弟を戒めても聞き入れるかどうかはわかりません。実際にキリストの戒めを聞いても、パリサイ人達は耳を貸しませんでした。しかし、兄弟が戒めを聞き入れて悔い改めるならば、赦さなければなりません。被害の内容によっては、赦すことが難しい場合が有ります。被害が直接自分に関わっていれば尚更そうでしょう。しかし、いつも赦す心構えができてなくてはいけません。だから「気をつけていなさい」なのです。


四節
キリストはここで追加の確認をしています。兄弟が、直接自分に被害を与えた場合のことを想定しています。しかも、「一日に七度罪を犯しても」という状況・条件を提示しています。どうして七度でしょうか。ペテロがそのような質問をした、もしくはしたことが有るということに関連しているかもしれませんが、旧約聖書からの影響と考えることにも意義が有るように思われます。箴言二十四章十六節には、正しい人が七度たおれても、また起き上がるということが書いてあります。ユダヤ文学的には、七という数字は完全を表すと考えられています。正しい人でも完全に倒れてしまうことが有るという示唆ではないでしょうか。今回の聖書箇所と関連付けて考えれば、弟子でも深刻に仲間をつまずかせてしまったりすることが有るかもしれないことを示しているように思います。
 しかし、この人がきちんとその一つ一つについて、直接出向いてきて「悔い改めます」と言うならば、赦しなさいという指示で、キリストはこの話を締め括っています。勿論、ここでは口先だけの悔い改めではなく、真実な悔い改めのことを指しています。


まとめ
 キリストは、悔い改めと赦しについて、繰り返し言及したことになります。ユダヤ文学では繰り返しは強調を表します。ここで取り扱ったのは、直接的には「小さい者」を間違った行動や信仰に導く罪ですが、この原則は罪全般に適用できるのではないでしょうか。罪を犯しても、真実に悔い改めるならば赦しなさいということが、繰り返し語られて強調されました。どうしてでしょうか。それは、キリストが、人間は「つまずきが起きるのは避けられない」状況に生きていることを理解していたからではないでしょうか。そういう難しい状況に生きているのだからこそ、きちんと悔い改めをするならば、赦しなさいという部分が有ると思われます。そんな世の中、そんな状況では、悔い改めることだって難しいはずです。それをきちんと悔い改めるのですから、評価し、受け入れるべきなのではないでしょうか。それに、いつか立場は逆転するかもしれないのです。


キリストの直接の命令、指示は「気をつけていなさい」でした。気をつけていなければならない理由は何でしょうか。
1)つまずきが起きるのは避けられない世の中だから。
2)「小さな者」をつまずかせてはならないから。
3)罪を犯したことに気付けなければならないから
4)罪を犯した者を戒める備えができていなければならないから
5)悔い改めを受け入れて、赦す心の備えができていなければならないから。
6)自分が罪を犯したなら、悔い改める心構えを持っていなければならないから。

 
私達がキリストの教えを守り、神の良い御性質を反映した生き方をすることが弟子としての本質です。「気をつけている」ことによって、1)~6)を守り、実践するならば、それ自体が弟子の使命を果たしていることになり、神の国と神の義を求めていることになるのではないでしょうか。これが、パリサイ人達のような偽教師になることなく、天国を相続する生き方をする弟子の共同体であり、心構えと言えるでしょう。






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ルカによる福音書八章一節ー三節

2024-11-16 12:07:19 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
イエスの第二次伝道旅行と同行者の紹介

1節
それから間も無くということは、パリサイ人シモンの家での出来事の直後ということであろう。

ここは、ルカ福音書におけるイエスの第二次伝道旅行の開始を告げる部分である。この旅行を始める前は、ほぼカペナウムの中で教え、業をしておられた。

イエスは都市や村を行き巡られた。継続的動作を表す動詞が用いられている。イエスはたゆまず伝道し続けた。都市とは人の多い場所であり、村とは人の少ない場所である。イエスは人の多い場所を好むパリサイ人達とは異なり、例え人が少ない場所でも無視して通り過ぎるようなことはしなかった。イエスは誰のところにでも届こうとされる神である。

勿論その活動内容は、神の国の到来を宣言し、宣べ伝えることであった。それは、人間は罪ある存在であること、悔い改めときよめ、律法や行いによる義ではなく、神による義、罪の赦し、悪霊や病からの解放、心の平安などが含まれていたはずである。イエスは平和の君であり、神の国はその平和の君の支配する領域である。イエスがパリサイ人達を非難した時に述べたように、すでにこの教えを受け入れて悔い改め、神の国を体験し始めた人々が起こされていた。7節の最後に出てくる、イエスの足を洗った女性もその一人である。

同行者の最初にあげられるのは12弟子である。弟子はただの従う者たちではない、使者、伝令でもある。彼らはイエスのメシアとして行う奇跡の数々の目撃者、証人とならなければならなかった。また、使者、伝令としては、使わす者の考えとその内容を忠実に把握する必要があった。彼らは、繰り返しイエスの教え、教義に耳を傾ける必要がった。将来において、イエスの証人として証し、伝道するための備えの時でもあった。


2節
伝道旅行の同行者には、女性も複数含まれたいた。当時から考えたら、これは普通のことではなかった。ギリシャの哲学者についての話しにも、付き従う者の中に女性がいるということが非難の的となったというものが残っている。ラビの祈りの中には「女に生まれなかったことを感謝します」という内容のものがあったことが記録されている。しかし、創造主でもあるイエスには、そのような分け隔ては無かった。また、聖なる主であるキリストのグループの中に、女性がいたことに、不道徳でスキャンダラスなことは無縁であった。

この女性達には共通点が有った。悪霊の影響と病を癒された者達であった。病と訳される語は、身体的な病だけではなく、霊的な不具合も表す語である。これは、12弟子の中には見られない要素である。悪霊に支配され、心身共に不健康な状態であったら、どんなにか不自由で平安の無い生活であっただろうか。間違った言葉、悪霊の言葉に悩まされ、狂気に近い状態の者もいたかもしれない。ここで用いられている悪霊という語は、決して、比喩的表現ではない。同じ表現が、他の箇所では悪魔的な霊の描写としか解釈できない内容のところで用いられている。特にルカは断ってはいないが、勿論癒しはイエスを通して与えられたのである。この霊的な解放への感謝から、これらの女性達は、このイエスの伝道旅行に進んで同行することにしたのであろう。

ルカは三人の女性の名をあげていて、最初にマグダラのマリアを紹介している。マリア(旧約ではミリアム)という名は多く用いられたので、区別のために出身地などが添えられることが多かった。マグダラとは、がリラヤ湖西岸、カペナウムとティベリウスの間にあった町である。ヘブル語のミグドルに由来し、見張りの塔という意味のようである。ギリシャ風の地名では、魚と塩という意味があるとする解説書もある。それは、一世紀には干し魚産業で栄え、人口もその地方にしては多い、四万人を数えた都市だったからであろう。文化的繁栄には人間の堕落も影を落とし、ラビ達は、この町を「不道徳の町」としたという記録も有るらしい。

そんな都市出身のマリアは、悪霊の支配を受けやすい環境にも居たのであろう。ルカは七つの悪霊が彼女から出て行ったと記している。七つが実際に影響を与えた悪霊の数であるが、ヘブル文学の背景からすると、七は完全数であるので、完全に悪霊に支配されていたということを示唆する部分も有るのかもしれない。

そのような状態から解放されたマリアであったから、イエスに対する感謝の念は人一倍大きかったのかもしれない。彼女はイエスが十字架に掛かった時も離れたところからではあったが、その一部始終を見ていた。イエスの体が墓におさめらる時にも側にいた。復活の日にはイエスに油を塗ろうとして出かけて行って、最初に復活のイエスに会うという特権にあずかった。おそらくペンテコステまでともに集まって祈った百二十人あまりの弟子の中にも居たであろう。彼女がイエスに従い通したその姿勢は高く評価されるべきである。マグダラのマリアは娼婦であったという前提で語られることが多いが、聖書にはそれを示す記述は一つも無い。


3節
二番目にヨハンナが紹介されている。彼女の夫はガリラヤ地方の領主、ヘロデ・アンティパスの執事のクーザであった。イエスの最初の伝道が、ヘロデの宮殿にまで届いていたことがうかがわれる。執事のイメージは、旧約で言えば、ポティファルに仕えたヨセフのような立場であった。財政管理やその他の管理を任されていたであろう。ヘロデ・アンティパスは残忍で悪辣な王として知られている。だから、彼の信頼を勝ち得たクーザは、大変賢くて切れ者であっただろう。人格者であったのか、それともヘロデ・アンティパスと気が合う悪者同士であったのかは判らない。彼がイエスに敬意を持っていたか、敵意を抱いていたかも不明である。しかし、ヨハンナが妻の立場を追われることなくイエスの伝道旅行に同行できたことは幸いであった。それは、彼女が悪霊と病から解放されたことが、クーザにとっても有り難い出来事であったからかもしれない。イエスの働きにはそういう力が有る。伝道旅行に同行することは、楽なことではない。しかし、彼女は王室に仕える者の妻にゆるされる不自由無い生活を離れて、イエスの伝道旅行に同行することにためらいは無かった。神の国が与えられたことに対する感謝はそれだけ大きかった。ルカはヨハンナの名も、イエスの体に香料や油を塗ろうとして出かけた女性達の中に記録している。

三人目にはスザンナが紹介されている。彼女については名前の他には何も語られていないし、聖書中にもここにしか出て来ない。しかし、先の二人と合わせてその名前が紹介されているのは、この三人が初代教会の中では知られた存在であったから、もしくはルカが個人的に知り合いであったからかもしれない。

この三人の中では、マリアとスザンナには夫についての記述が無いため、この二人は寡婦であったろうと考えることが多い。

ルカは、名前のあがった三人以外にも大勢の女性たちが同行していたことを記している。ギリシャ語では他の者達という意味になる語に複数の女性形の語尾がついている。この女性達のもう一つの共通点は、悪霊の影響と病から解放されたことの他に、自弁で経済的に彼らに仕えていたことである。「彼らに」というのは、イエスと十二弟子達のことを指す。仕えていたという語も継続的な動作を表す。おそらくイエスの昇天後も、キリストの体なる教会に、できる限りの支援をしたことだろう。


学ぶべきこと

これは単なるイエスによる第二次伝道旅行の構成員紹介ではない。聖書は現代に生きる我々に、また教会に向けられたメッセージでもある。ここから学ぶべきことはなんだろうか。

1)全ては神によって始められたということを覚えること。

神は人類にご自身を啓示された。そして、イエスという特別啓示をもって人類に届いてくださった。イエスは父なる神の御性質の現れであり、人々に届こうとし続けられた。どんな寒村でも見過ごされなかった。教会が存在するのも、クリスチャンが存在し、神の恵みに与っているのも、すべて神に帰することである。教会は神が始められたものであり、キリストの体であることを度々思い巡らすことに意味が有る。

2)聖書の教師は繰り返し学び、忠実に神の言葉を伝えること。

使徒、は使者であり伝令である。主の言葉を忠実に伝えなければならない。そのためには、主の言葉を繰り返し聞いて確かめ、正確にそれを伝えなければならない。教会の中には、今日使徒そのものは存在しないとしても、パウロが教会に仕える立場の中に数えたように教師は存在する。聖書的には長老の職は御言葉をきちんと解き明かして教え、異端や間違った教えが広がることを防ぐことである。そのような立場の者達がなすべきことは、自分の教えを伝えることではなく、主なるイエスの教え、教義を忠実に伝えることである。そのためには、繰り返し聖書を読み、その意味を確かめなければならない。また、現在も活きて働いているイエスの業を自らも体験し、分かち合い、率先して証するものでなければならない。また、イエスは御自身の権威でことをなされたが、祈りを通して、人々の解放を願い取り成さなければならない。もし自分が教師的立場であれば、尚更このことを心に留めなければならない。

3)霊的な問題の解決はイエスによらなければ与えられない。

この箇所で紹介された女性達は皆裕福であった。社会的地位の高い者の妻もいた。しかし、彼女達は悪霊の支配下にあり、心身共に不健全な状態であった。富や社会的地位は、彼女達を救わなかった。なす術が無ければ後は絶望である。しかし、イエスが悪霊から解放し、身も心も癒してくださったのだ。この解放がどれだけ大きな喜びをもたらしたかは、彼女達がこの伝道旅行に同行し、経済的にイエスと弟子達を支え続けたことから知ることができる。平和の君が治める神の国の市民となった恵みへの感謝が溢れている。

人類は、キリストによってサタンの支配から神の支配に移されなければ、どんなに富や名声や力があっても解決に至らない。それがはっきり自覚できた時は、絶望することであろう。その絶望が、真の希望への扉となることを願わされる。


4)与えられた立場と賜物を用いて教会に仕えること。

イエスに従う者たちの中には他にも裕福な男女は居たかもしれない。しかし、皆が同じようにこの伝道旅行に同行してこれを支えるということはできなかっただろう。事情がゆるさなかったりすることがあったであろう。女性達の中でも、この旅行に同行していろいろな世話や支援をしたいと思っても、そんな経済的な余裕が無かったり、夫の理解が無かったりということも有ったであろう。

ある領域で奉仕するためには、特別な立場や能力が必要な場合がある。それは神から与えられたものであり、恵み、特権である。それを自覚し、それを主のために、キリストの体なる教会のために用いることである。

この女性達には富があったが、それは彼女達の霊的な問題を解決しなかった。同様に、自分の音楽的才能やビジネスの才能などを一生懸命用いても、心に満足が得られないということは多く聞かれる。それらは霊的な問題を解決しない。しかし、一旦イエスによって、霊的問題が解決すると、それらの立場、才能や賜物は、贖われた用い方ができるようになり、喜んでそれをキリストのために用いることができるようになる。

本当に人々の霊的な解放をもたらすものは宣教と神の力だけである。しかし、当時、女性達が教えることは大変希であった。だから、この女性達も直接宣教に携わることは無かった。しかし、この経済的な支援を通して、イエスの第二次伝道旅行は支えられた。同様に、クリスチャンが皆宣教師、伝道師ということは無い。しかし、宣教献金が神の国の拡大の業を支えるならば、同様な意味がある。そのことによって、キリストの業に参与する者となれる。

クリスチャン達が、この女性達と同様に、自分の力では永遠に解決できない霊的解放をいただいた恵み、サタンの支配から救い出された喜びと感謝の心で、この世で与えられている能力、財力や賜物をもってキリストの体なる教会に仕えることをルカは勧めている。これは、彼の同労者であるパウロが教えていることと一致している。






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ルカによる福音書七章三十一節ー三十五節

2024-11-15 17:01:45 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
31節
「今の時代の人々」もしくは「この時代の人々」は誰を指すのか。イエスは前の箇
所でも神の御心に従って洗礼(ヨハネの)を受けた人と、神の御心を拒絶したパリ
サイ人を比較して語っている。この箇所ではパリサイ人という言葉は一度も出てこ
ないが、この表現が彼らを指していることは文脈から理解できる。

「この時代・世代」という表現は、旧約においてはいろいろな人々を指すために用
いられているが、申命記では、約束の地に入れないユダヤ人達を指して使われてい
る。そして、新約聖書では、イエス、ペテロやパウロによって、「神に敵対する
人々」という意味合いで用いられていることが殆どである。


32節
広場というのは、たくさんの人が集まる場所である。パリサイ人も人の多く集まる
場所にいて、人を教えたり、正したり、自分の善行を見せびらかしたりしていた。

子供達の歌の意味は何か。それはどういう場合に用いられたのか。

先ず、歌の意味である。最初の笛とは、結婚式の笛のことである。「結婚式ごっこ
をしようと誘ったのに、笛を吹く真似に応えて踊らなかった。」と言っている。ま
た日本語でも明らかなように、「葬式ごっこをしようと誘ったのに、泣き真似をし
てくれなかった。」と言っているのである。「泣く」と訳されている語の直接的な
意味は、悲しみの表現として「胸を叩く」ということである。

次に、この歌が歌われる場合である。どんな子供のグループでもボスやいじめっこ
がいる場合がある。そうすると、彼らが遊びの主導権を持ち、何をするかを決め
る。もし、嫌がる子がいると、無理にでも一緒に遊ばせようとして、このような歌
を歌ってからかったらしい。アメリカ映画で子供が「じゃあ家に帰ってママに甘え
るってのか~。」といってからかっているような場面と考えられる。

これは、「この時代の人々」の説明である。つまり、パリサイ人はこの子供のボス
みたいに、人の多く集まる場所に顔を出して、人の嫌がることを無理にさせるよう
ないやな性質があったということをにおわせている。

同時に、この歌は別な意味を暗示している。そのケースにおいては、パリサイ人は
相手の誘いに乗らない子供達を指している。

33節
バプテスマのヨハネはイナゴと野蜜を食べ、らくだの毛の衣を着ていた。また、当
時の食卓では普通に供されたぶどう酒を、天使から告げられた神の命令に従って飲
まなかった。彼は神に従う姿勢の中の、敬虔さや従順、そして悔い改めに重点のあ
る神の使者であった。

しかし、パリサイ人は、彼が「気に入らなかった」のだ。彼が真の神の使者である
にもかかわらず、自分達のプライドと権威をかさに、彼を「悪霊に憑かれている」
と評した。

34節
人の子、イエス・キリストは、多くの人と交わりを持ち、人々を神の国に招きいれ
る働きをした。イエスの働きは、神に従う姿勢の中で、父なる神の慈悲を反映させ
ることと、神の国を喜ぶことに重点があった。彼は単なる神の使者ではなく、メシ
アでもあった。

しかし、パリサイ人は、彼が「気に入らなかった」のだ。普通に食事をしただけで
あったのに、「食いしん坊の大酒飲み」だと評している。この表現は、旧約聖書に
おいて、親に暴力的に言い逆らう息子を公に訴える時に用いられる表現であった。
パリサイ人は、イエスをならず者扱いしているのである。

パリサイ人は、二人の神の使者のメッセージが「気に入らなかった」のだ。そこに
は、仲間の誘いを無視する子供のように、神の教えに対する共感が無かった。彼ら
は神本位ではなく、自分本位であった。宗教的にも政治的にも自分の力を頼みとし
ていた。

35節
知恵は、旧約聖書においては神を敬う敬虔な女性に擬えられる。また、知恵は神の
性質の一部である。また1コリント書1:13においては、イエスを知恵と表現し
ている。神の御心の正しさ、神の使者の言葉の正しさ、イエスとイエスの言葉の正
しさは、神本位に生きる人々によって証明される。クリスチャンを通して証明され
る。

証明されると訳された語は、「義とする、宣言する」という意味合いもある。神を
正しいとし、そのことを宣言するということになる。


適応
中心的なメッセージは、自分の力、自分の義に充足するのではなく、神の御心を謙
虚に受け止める姿勢を持つことによって、神を正しい方と崇め、表す姿勢を持つと
いうことである。

別の面としては、神の御心の表れが、ヨハネとイエスでは異なっていたように、
我々クリスチャンの間でも異なることが有り得るということである。
その時に、パリサイ人が「気に入らない」ということでそれを拒絶したように、拒
絶の態度を取ってはいけないということになるであろう。他の教派の礼拝形式は駄
目だの古いだの、あの信者の賛美の姿勢は敬虔に見えないだのの、批判的な心を持
つべきではないということであろう。どちらも神の御心を求めた結果である。






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ルカによる福音書七章二十四節ー三十節

2024-11-15 16:59:29 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
ルカ7章24節~30節

24節
風に揺れる葦は、旧約聖書の中でも周囲に流される主体性の無い人物の比喩として
使われている。弱さを表す。そして、そんな人に会うためにわざわざ荒野に出て行
った人は居なかった。バプテスマのヨハネはそんな人ではなかった。

25節
金持ちや権力者の描写である。確かに、そんな人たちを頼れば力になる場合は有る
だろう。でも、人々はそんな人を求めて宮廷などには行かず、荒野に出かけた。
霊的な助けは、世の富や権力から得るものではない。

26節
霊的な助けや力は、神の言葉を語る人のところに求めに行かなければならない。
バプテスマのヨハネは正にそういう人であった。しかし、彼はただの預言者ではな
かった。

27節
彼は、単なる預言者ではなく、その出現が預言されていた特別な預言者である。し
かも、その任務も特別であった。メシアの露払いをし、道を備える働きである。
「備える」という語のニュアンスは「完璧に、念入りに備える」という感じである。

28節
そんな大預言者であるから、かれが「女から生まれた者のなかで」一番偉大である
とされる。しかし、新約聖書の時代の「霊によって生まれた者」である神の国の市
民権を持っているクリスチャンは、彼よりもすぐれているのである。それは、バプ
テスマのヨハネが生存中に体験することができなかった、イエス・キリストの十字
架の贖いによる救いと、聖霊の証印・内住をクリスチャンは持っているからである。
「わたしはイエス・キリストと聖霊によって、バプテスマのヨハネより偉大だ」と
いう認識があるだろうか。

29節
収税人を上げるのは、ユダヤ人にとっては驚きであったろう。罪びと、もしくは罪
びととみなされる存在だったからである。しかし、彼らは神の義を認めた。それは、
1)神は義なる神であると認める。
2)自分はその義に届かない罪びとであり、神の赦しを得なければならないと認め
  る。
3)神の使者の言葉に従い、従順して洗礼を受ける。
といことを含んでいる。

30節
パリサイ人達は、自分が律法を守っているということで自らを義として、神の義を
認めなかった。当時の洗礼は、異教徒、異邦人がユダヤ教に改宗するときの儀式で
あったから、パリサイ人はそれをする必要を認めなかったし、神の使者のそういう
指示に耳を貸す謙遜さも無かった。

彼らは神のみこころを拒んだ。神のみこころとは、私達が上記の3点をに従って、
最終的にはイエス・キリストによる救いを得ることである。



私達が、いつも神のみこころにそった、神の国の市民としての歩みをしているかを
考えることが必要。
私達にあるのは、バプテスマのヨハネよりも偉大な者とされた特権である。






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ルカによる福音書七章一節ー十七節

2024-11-15 16:57:21 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻

百人隊長が天の父なる神様の御性質を反映した生き方をし、イエスの権威に対する
全き信仰を持っていたことに、読者が倣うようにという意図がある。

病人の側に来て癒しの奇跡を行うことだけでも素晴らしいことであったが、距離が
ある程度離れた所からの癒しは、もっと強力な奇跡の力と認められるものであった。
百人隊長の信仰が、このような奇跡で応えられたということも、彼の信仰への評価
であると思われる。

イエスはこの百人隊長の信仰に「驚いた」と書いてある。
他の訳では「感心し」となっている。
しかし、イエスは神であるのだから、すでに彼の心の内を知っていたであろう。
その意味では「驚いた、感心した」という訳はあまりぴったりではない。
この語は「賞賛する」という意味も持っている語であるから、むしろ、その訳を当
てる方が適切なように思われる。

イエスが賞賛する信仰の姿勢とは何か。
「天の父の慈悲深さに倣い、イエスの救世主としての権威に全幅の信頼を持つ」、
そういう信仰の姿勢である。


ナインの寡婦の一人息子を蘇生させる(11~17節)

寡婦で、しかも一人息子を亡くすということは、生活を支える手立てが無いという
ことであった。そのような人が自活できるような仕事や環境は無い時代だった。

ここではイエスご自身が天の父なる神の慈悲深さを現す。

「泣くことはない」と声を掛けるということは、必ず助けることを約束する言葉と
人々には理解されたはずである。しかし、イエスは金持ちではなかった。弟子を残
してこの寡婦のために働かせるということも考えれない。

すると答えは一つ、息子を生き返らせることであった。

息子が生き返るのを見て、人々はエリヤやエリシャのことを思った。確かにこの二
人の預言者は死んだ息子を生き返らせる奇跡を行っている。しかし、彼らは一生懸
命神に祈った結果答えられたのであって、彼ら自身に力が有ったわけではなかった。
しかし、イエスは「わたしはあなたに言う。起きなさい」という風に、ご自身の権
威によってこれをなされた。

この二つの奇跡は同日、もしくは二日以内に連続して行われたと考えられる。瀕死
の人間の癒しよりは、既に死んだ者の生き返ることの方が更なる困難を退ける奇跡
である。このような奇跡のダブルパンチは、イエスのメシア性をはっきり示し、証
明するものであった。

神の助けのタイミングはぴったりである。
律法の規定により、死体はその日のうちに埋葬されないと、その家は穢れたものと
みなされた。だから、イエスが行き合わせたのは夕方であろう。それまでに、悲し
みの時間を過ごし、埋葬の準備として油を塗ったり香料を塗ったりしたのである。

キリストの到着が遅ければ、民衆は去り、奇跡は多くの証人を得ることができなか
ったであろう。早すぎれば、人々は死者が生き返ったとは信じず、瀕死の人が癒さ
れたとしか思わなかったであろう。神の栄光を現すのに調度良いタイミング、しか
もその奇跡を必要とする人に与えられている。

イエスキリストは神の一人子である。多くの群集に伴われた。
無くなった人も一人息子であり、多くの群集に伴われてきた。
(彼が人望の厚い人だったから、もしくはそれが当時の習慣だったから)
しかし、片方には命は無かった。イエスこそが命の主である。
この命の主に出会う時、人類の最後の敵である死にも打ち勝つことができるのである。






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ルカによる福音書六章四十六節ー四十九節

2024-11-15 16:52:51 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
46節、47節
「主よ」と呼ぶのは当時のラビ達への呼びかけ方の一つだったという解説もある。こう呼ぶことで、相手の権威を認める姿勢を示す。でも、一方で、ただその人の名声や権威を利用するという感覚も有るらしい。イエス様は「わたしの言うことを行わない」という姿勢を責めていらっしゃる。主と呼ぶだけでなく、本当にキリストを受け入れ、その故に御言葉を守って生きる人が真の弟子である。

イエス様の言葉を守るかどうかがこの箇所のポイントである。

48節
我々はみな人生、生き方建てあげる存在である。地面を深く掘り下げるということは、岩盤にたどり着くまで掘るということである。浅く掘って満足してはいけない。そのためには努力も必要であるだろう。またその働きにたいする忠実さも求められる。イエス・キリストによる救いの計画をきちんと理解するまでその教えを学んでいく姿勢。ことば」と呼ばれるイエス様の御心を知るために、聖書を読み込んでいく姿勢にもつながる。

洪水という言葉は海に対しても用いられる言葉で、その時は大きな波のうねりや潮の満ち引きと理解できるだろう。パレスチナでは高地に植物があまり多くないので、保水力がなく、冬の雨が降ると、それが一気に流れ下り、洪水となることがある。その水の流れる道筋にあるものは大概押し流されてしまった。ユダヤ文学的には、水は困難や混沌の象徴である。

潮の満ち引きも冬の洪水も、繰り返し起こるものである。我々の信仰生活にも、迫害、サタンの誘惑、人心の荒廃、偽教師による偽りの教えが常に付きまとい、繰り返し寄せて来るものである。しかし、その時に岩なるイエス・キリストとその教えまた福音の希望に深く根ざしている者は、少々の被害は有っても押し流されることは無い。

イエス様が居合わせた人たちに問うたのは、「あなた達の土台は単なる人の教えである長老達、ラビ達の伝統なのか、それとも神様の教えなのか。」ということである。それは、「私の教えは神からの教えだ」という主張でもあり、故にそれを行うことも求めることができたと言える。

49節
イエス様をただ自分のために利用したいだけの人々は、表面上は真の弟子と同様に振舞うが、その心と生き様はイエス様の教えという岩盤に到達していない。だから迫害や誘惑に遭うと、「すぐさま」流されてしまう。「倒れる」と訳される語は、大きな樫の木が響き渡る大きな音を立てて倒れる時のような倒れ方を指す。ニュアンスとしては全てが一気に倒れる感じも持っている。ルカは医者であったので、他の福音書の記者と異なった語を「壊れ方」という部分に用いている。体表の裂けた傷、怪我や、骨の裂けた様子に用いられる語である。



ポイントは、深くイエス様の教えを学びこむ努力と忠実さの上に、更に生活実践をすることにある。それが弟子であるか、それともイエス様を利用する者かの違いである。

これはコロサイ書1章9~12節のパウロの祈りにあらわれる信仰の原則とも共通する。またコロサイ書2章7節の表現は、このイエス様のたとえ話を連想させる。





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ザカリヤとエリサベツ (ルカ伝一章五節~二十五節)

2013-09-14 18:03:18 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
五節~七節 ザカリアとエリサベツの評価

ザカリアとエリサベツという夫婦の人となり、どんな人物であるかが説明されています。ザカリアという名前は祭司の間では人気の有る名前だったと思われます。ユダヤ人の聖書の順番では歴代誌が最後で、そこに登場する神殿で殺された忠実な祭司の名前にあやかったことになります。エリサベツというのも人気の有る名前であったと思われます。特に、レビ族の女性であるならばそうであったと思われます。それは、初代大祭司アロンの妻と同じ名前でした。ルカは、わざわざエリサベツが「アロンの子孫」つまりレビ人だと記しています。祭司はイスラエルのどの部族の女性とも結婚できたのですが、同じレビ族の女性ならもっと好ましいとされていました。
 ルカは更に続けて、彼らが「神の御前に正しい」歩みをしていたことを記しています。人気の有る名前を持つこと、レビ人の女性を妻に迎えたことは、体裁が良いから、世間体が良いからということではなかったようです。前の代から、真摯に神を求める家族を背景に持った二人が結婚し、真摯に神に仕えてきたということではないでしょうか。
 神の御前に正しい生き方をしてきた夫婦でしたが、それでも困難を体験していました。子供が無かったのです。子供が無いということは、当時の世界では何か祝福を失っている、何か足りないところが有るというように見られましたから、それは気の重いことであったと思われます。また、歳を取っても、生活の保証がきちんとしていた時代ではありませんでしたから、子供の労力をあてにできないということも、困難を増し加えました。
 キリストに何度も警告を受けたパリサイ人達は、真面目に、また律法に忠実に生きているようでしたが、「神の御前に正しい」生き方ではありませんでした。お金を沢山持って、自分達こそ神に祝福されていると思っていたパリサイ人でしたが、一度も「神の御前に正しい」と評価されたことはありませんでした。逆に、人間の目から見たら、何か足りないと思われていたザカリヤとエリサベツの心をご存知の神様は、ルカを通して、「神の御前に正しい」人物であったという評価を残されました。


八節~二十三節 与えられた特権

祭司にも組分けが有ったことがわかります。ダビデの時代に二十四組に分けられ、バビロンの捕囚の後、四組しか帰還しませんでしたが、その人達を再び二十四組に編成しなおして、昔の組の名前を与えたそうです。
 彼らは順番に神殿の奉仕をしました。年に二回当番が巡って来て、一回の期間は一週間でした。
 ここでザカリアは、一生できないかもしれない奉仕の特権を得ました。神殿に入って香を焚く当番がくじで当たったのです。この当番は、一度当たったことのある者はできませんでした。それでも祭司の人数は沢山いましたから、この奉仕を経験せずに引退する祭司はたくさんいました。
 香を焚く係りは三人選ばれました。一人目は、前の香の灰を掃き取ります。二人目は、全焼の犠牲の祭壇から金の器に炭火を取って、香を焚くための金の祭壇にその炭火を乗せます。三人目がその炭火の上に香を乗せ、香りと煙が立ち昇る中で、イスラエルの民のための執り成しの祈りをします。この三人目の役がザカリヤに与えれらたのでした。これがザカリアに与えられた第一の特権でした。

ザカリアが奉仕をしていると、香壇の右に天使が立ったと書いてあります。どうして、立つ位置までルカは書いたのでしょうか。当時の人達の理解では、右側というのは、好意、恵みを表す位置だからということのようです。つまり、天使は神様の好意、恵みを伝えるために現われたことを示唆しているわけです。そして、この天使はガブリエルであると名乗りました。ガブリエルは、名前が記されている数少ない天使のひとつで、神の意志や計画を伝えるのが主な仕事だとされていました。神の元から、このような特別な天使が来て伝えたことは何でしょうか。
 ガブリエルは、開口一番に、「あなたの願いが聞かれたのです。」と言いました。ザカリヤの願いとは何だったのでしょうか。ある人達は、直後に子供が生まれるという預言が有るから、子供が与えられることだったろうと考えます。しかし、それは状況に合わないようです。ザカリアは、香を焚いてイスラエルの民の祝福を祈る一生に一度有るか無いかの特別な奉仕をしていたのです。個人的な祈りをささげるような場面ではありませんでした。しかも、その預言に疑問を呈しています。ですから、彼は真心を込めて、イスラエルの祝福のために、また約束のメシアが与えられるように祈ったのだと考えられます。そのような彼の祭司としての務めを通して、神様がそのような大きな祈りに応えられたということが彼に与えられた第二の特権であったと思われます。

続けてガブリエルが伝えたことは、祈りの答えであるメシアの到来に先立つ「主のまえぶれ」に成る者として、ザカリアに子供が与えられるということでした。旧約聖書に現われる記述を参考にすると、幾つかのことがわかります。子供の生えは神がつけました。神に名前を付けられた者は、例えばソロモンのように、とくべつな働きをすることが予見できました。彼がぶどう酒も強い酒も飲まないという部分は、サムソンやサムエルが生まれる前に天使が告げた言葉と同じです。ですから、先の二人のような特別な存在になることが予見できました。胎内に居るときから聖霊に満たされると言われました。聖霊に満たされることは、旧約聖書では神の言葉を語る預言と関連のあることがらでした。ですから、この子供は神の言葉を伝える預言者の仕事をすることが予見できました。
 
 
 


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バプテスマのヨハネの誕生 (ルカ伝一章五十七節~六十六節)

2013-03-16 16:02:10 | 奥義書(聖書)講解(少忍レベル)ルカの巻
五十七節
エリサベツが月が満ちて出産をします。大変な高齢出産で、しかも初産であったわけですが、神のお約束通りに守られて出産できたました。勿論生まれたのは預言の通り男の子であったということです。生まれてみたら女の子だったというような間違いは起こらないのです。この時、マリアも一緒であったかもしれないという考えが有りますが、文化背景からは、出産の時は極身内の者だけが残るという判断も有り、奥義書の記述の順番通り、マリアはもう帰った後であったろうと考える立場が有力なようです。

五十八節
近所の人々と親族たちは、この出産を喜びました。出産は喜ばしい事柄でありますが、特にこの場合は、「神が彼女に大いなるあわれみ、ご慈悲をおかけになった。」という理解が有って、更に大きな喜びであったと言えます。あわれみというのは、当時の社会においては子供が無いということが女性に肩身の狭いことであったけれども、そこから救い出してくださったこと、流産もせず、産褥死もなく健康に過ごせたこと、預言によればその子が偉大な者になるということのすべてを含んでいたと考えられそうです。
 「親族たち」と訳された語は、従兄弟達とも訳せる語ですが、近親者という意味から広くは同胞という意味にまで使うことのある言葉のようです。その地方のレビ族たちやユダ族たちという気持ちも含めた表現ということでもあったかもしれません。
 ガブリエルの預言においては、この子供の誕生を多くの人たちが共に喜ぶであろうということが語られましたが、その成就の一部をこの節でみることができるのだと言えます。

五十九節
八日目というのは、モーセの律法の規定にきちんと従って割礼を施すということです。ピリピ書を見ると、パウロが八日目に割礼を受けたことを人間的な誇りのリストに挙げていますから、ユダヤ人としては正統的で誇らしいことであったと思われます。彼らがそれまでと同様に、落ち度無く神の御心に沿って生きていこうとしていることが伺えます。
 割礼には、10人の証人が立ち会わなければならなかったとする解説も有ります。また、割礼の時に捧げる祈りや宣言が決まっていたということです。この時点では、父親のザカリヤはまだ口がきけない状態でしたので、実際の割礼の施術は別の人物がしたであろうということです。
 割礼は神がユダヤ人たちに与えた掟でありましたが、別に彼らの習慣というものが有りました。アブラハムが割礼の時に神に名前を変えられたことなどから、割礼の時に子供に名前をつけるということでした。名前は、その血統の中の優れた人物の名前を選ぶことが通常であったようです。旧約聖書時代の実践を見ても、そういう考えが有ったことは伺えます。ザカリアという父親の名前は旧約聖書中にも出てくる祭司の名前にあやかったものだと考えられます。そして、この父親自身が周囲の人に落ち度の無い人物であると認められていたのですから、生まれた男の子にもこの名前を継がせようと思うのは自然なことであったと考えられます。

六十節
与えられた子供が普通の子供であればそれで構わなかったのですが、エリサベツその名前ではいけない、ヨハネでなければならないというのでした。勿論それは、天使を通して神に与えられた名前であったからです。エリサベツはそのことは直接聞いてはいませんでしたが、口がきけなくなったザカリアが筆談で詳細は知らせていたと考えることができます。夫婦は共に神の前に忠実であろうとしており、一致していたのです。また、出産までの間にマリアに会った時には聖霊に満たされる体験などを通して、ここでも聖霊の働きや助けが有ったかもしれません。

六十一節
人々は事情を知らなかったのかもしれません。これまでの実践を盾にとってヨハネという名前を拒絶したと考えられます。時には人々は自分たちの慣習などを強く主張したりするものです。

六十二節
エリサベツの態度が毅然としていたからでしょうか、人々は父親のザカリアに意見を求めます。手振りで尋ねたということですので、このザカリアは口がきけないだけでなく、実は耳も聞こえなくされていたのではないかという考えも有ります。

六十三節
手振りだけで様子はわかったのでしょうか。この後書き板が持ってこられます。そうでなければ、その前から書き板が使われていたのではないかと思われます。とにかく、ザカリア天使の告げた通りの名前を示しました。身近に天使の現れとお告げをいただいた者としては、他の名前を選ぶなどということは有り得なかったわけです。
 ザカリアがヨハネという名前を選んだということに、人々が驚いているのはどういうことでしょうか。ザカリアの様な真面目な人が、自分たちの習慣を曲げて子供を名づけようとしているということへの驚きでしょうか。もしかしたら耳も聞こえなくなっていたかもしれないザカリアが、エリサベツとそこまできちんとした意思の疎通ができていたことへの驚きであったかもしれません。人々が天使ガブリエルの伝えたことを良く知らなかったということは確かなようです。

六十四節
天使を通して与えられた神のお告げに従い、子供の出生と名づけの所までの経過が完結したところで、これもまた天使の告げた通りの期限が来て、ザカリアは口がきけるようになりました。すぐに口が開けたということは、神の言葉の確かさを示していると考えられます。
 口が開けたところで先ずゼカリアがしたことは、神を賛美することでありました。これはこの先に記されている六十七節の預言のことか、それとも別のことかははっきりしません。預言した内容にも賛美の言葉は含まれています。一方で、ザカリアの預言の記述な前に二節分の記述が別になされることを考えると、ルカはこれらを別のものとして考えていたとも理解できそうです。
 この二つが別のものであったとすると、ザカリアの賛美の内容は、自分たち夫婦が神の偉大な働きの端緒を担うように選ばれたこと、妻エリサベツの妊娠と出産が無事に守られたこと、子供にヨハネと名づけるところまで守ってくださったこと、口が開かれたことなどが入っていたことと思われます。
 ザカリアの場合は特殊な状況にありましたが、それでも、口が開かれて先ずしたことが賛美であったことは倣うべき模範であろうと思われます。

六十五節
おそれというのは、神への畏敬の念ということでしょう。神のなされた不思議な業を間近に見た人たちには、そういう思いが与えられて当然ではないでしょうか。ユダの山里というのは、ザカリアたちが住んでいた地方を現す言葉と理解できます。その周囲の社会にこの出来事が詳しく伝播して行ったことが伺えます。ルカとしては、このことを述べることで、確かにそういう事実が有ったということを示す意図も有ったことでしょう。

六十六節
伝えられた話を聞いた人たちは、それを一笑にふしたりすることはなかったようです。むしろ、神への畏敬の念を持ち、この子供が将来どのような大きな業をするのか、どのように神のご計画を遂行するのかということに関心を持ちました。
 神の手がヨハネと共に有ったということが締めくくりに示されています。人々が関心を持っただけでなく、実際に神の守りや導きが有ったということが、人々にも見えたのだと考えることができます。健やかに育ち、危険を免れたというような具体的な事柄が有ったのかもしれません。また、神の手が共に有るということは、ヨハネに預言の言葉が与えられて、それが成就するようなことが有ったのかもしれないと考える人たちもいます。「神の手が共に有る」ということが、預言と関連付けられている旧約の記事などがあるからです。


まとめ
この箇所からは、どのようなことを読み取ったら良いのでしょうか。幾つか考えられると思いますが、次のようにまとめてみようと思います。

1)神の計画は必ず成就し、イエス・キリストの福音の物語は事実である。
2)神の御心を知らされた者は、忠実にそれを遂行すべきである。
3)人間の習慣や考えが神の計画や御心に優先されてはならない
4)我々が口を開く時に、先ず神への賛美が捧げられる生き方であるべきである。
5)ヨハネという名が示す通り、神は恵み深い方である。





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