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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない

2024-01-19 10:43:09 | 忍者的思索・忍界
  インターネット上の記事で、自分の好きなことを仕事にすれば万事楽しく働くことができるということはないというものを読みました。自分の好きなことをしていても、煩雑な人との交渉や金銭のやり繰り、書類の処理など、楽しくない、むしろ煩わしいことが必ずつきまとってくるからだというのです。ですから、現在の仕事が楽しくないと思っても、好きなことを仕事にしたからと言って、その煩わしさはたいして変わらないということも考えなければならないという指摘でした。

  そこで思い浮かんだことが有りました。創世記三章には、堕落後のアダムに対する神の呪いの罰となる言葉が記されています。

『17 また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』(新改訳第三版)

  すると、どんなに好きなことを仕事にしていても、いばらやあざみと思えるような煩わしいものがつきまとうのは必然であるということになろうかと思います。そうなるに決まっているものであれば、その煩わしさに心を奪われるのではなく、神の恵みに心を留め続けて生活することが、恵を受けた忍者の在るべき姿なのかなと思いました。






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聖書翻訳事業の記事から思ったこと

2023-11-24 09:48:20 | 忍者的思索・忍界
 世界宣教関連の広報誌を見ていましたら、下記のような記述に目が留まりました。

 1917年に、ウイリアム・キャメロン・タウンセントは、グアテマラのある部族に聖書の配布を始めました。(スペイン語訳だと思われます。)ある日、その部族の男性が、「お前の神が全知全能なら、何故神が我々の言語で語らないのか。」という質問をしてきたということです。ウイリアムは回答に窮しましたが、このことをきっかけに、ウィクリフ聖書翻訳協会が始まったということです。

 この働きに、私個人も敬意を払い、関係者との交流も少し有るのですが、今回は、この部族の男性の質問に対して思ったことを述べておきたいと思います。

 神が全知全能であるという信仰的事実と、神が彼らにその部族の言語で語られないことは、どういう関係になっているかということは、直ぐに思いつかなければならないのではないかと思います。人類は堕落した時に、基本的には神に逆らい、神を拒絶したのです。ですから、和解、悔い改めを経ないでは、神との対話は成立しません。人類が地球上に広がって行く時に、神との関係の断絶しているグループの人々に、完全に神の言葉が届かなくなったのは仕方ないことではないでしょうか。

 さて、聖書翻訳事業の話に戻りますと、新約の時代に生きる忍者たちには、宣教が託されているので、聖書翻訳事業に努力する者たちが起こされているのですが、現在、最低でも千二百六十八の言語への翻訳がまだ残っているということです。時々そういうことを思い出して、祈りや献金で支援したいただければ幸いです。






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忍者は、天国に凱旋するのか

2023-08-09 18:53:50 | 忍者的思索・忍界
数十年前にお世話になった人のことが、ふと思い出されることがあります。それで、ネット検索をしますと、10年程前に天に召されていたことがわかったりします。その報告の文面を読んでいると、天国に凱旋しました、と記されていることがよくあります。私、糸田十八は、この表現には違和感が有るのです。

使徒パウロは、死を覚悟してテモテに書き送った手紙で、次のように述べています。

      7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
      8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。      (第二テモテ四章七節、八節 新改訳第三版より引用)

パウロは普段から、競技場で競争する走者の例えを用いました。競技が終わると、チャンピオンに月桂冠が与えられたりします。市民マラソンの完走者賞のようなものが有ったかどうかは知りませんが、天国の相続人として、私達忍者にも何等かの褒章が有ると私は考えています。

さて、このようなパウロの召天は、凱旋なのだろうか、と私は思うのです。死と罪に勝利を宣言されて昇天された、イエス・キリストについては、パウロも凱旋のイメージを用いています。しかし、私達忍者は、初穂であるイエスに続いて天の王国に入れていただく者であって、私達は恩寵によって入るのです。私達が勝利をおさめたのではありません。イエス・キリストが勝利をおさめられたのです。勿論、私達は、イエスにつく者として、闇から光に移され、死から命に移されました。死は勝利に飲み込まれた。パウロが次のように述べています。

     54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
     55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
     56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
     57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
                                        (第一コリント十五章五十四節‐五十七節 新改訳第三版より引用) 

しかし、この勝利はいただいた勝利であって、私達は何の功績も有りません。ただ、神を信じ、イエスを信じた結果、恵みとしていただいたのです。

そういう訳で、へそ曲がりだと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は、天に凱旋されたのは主イエス・キリストお一方で、私達は、天に召し入れられる、迎え入れられるという認識、表現を用いるべきではないかと思うのです。                      






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聖書通読の目安

2023-07-27 14:08:52 | 忍者的思索・忍界
かなり前に、中国か北朝鮮の忍者の体験談を読んだ時、取り調べをした人物が、「私は一日かけて聖書を全部読んだが、実にくだらない書物だった。」というようなことを言ったという記述が有りました。その言葉を聞いて、その忍者は、この人は実際に聖書を読んでいない、一日で読み切れるはずがない、と思ったということです。

実際どうなのか、私にはわかりません。というのは、中国語の聖書ですと、新旧約六十六巻全部収録されているものでも、かなり薄い本になるのです。私は、一度サンプルを手に取った時、新約しかないと思いました。よく見たら、旧約も入っていて驚いた経験が有ります。

しかし、朝鮮・韓国語や日本語では、一日で読み切るのは難しいと思います。英語の聖書を一年に五回読むという大忍の話を聞いたことはありますが、やはり、1日で読むのは無理だと思います。そんなことを思い出したり、考えたりしたので、ちょっとした試算をしてみようと思いました。

私は、一日十五分聖書を読むと、一年で読み終わると教えられました。体験上、それは間違った目安ではないと思います。ここから考えます。

一日十五分 ‐ 十二ケ月で通読
一日三十分 ‐ 六ケ月で通読
一日一時間 ‐ 三ケ月で通読
一日三時間 ‐ 一ケ月(約三十日)で通読
一日六時間 ‐ 二週間(十五日)で通読
一日十二時間 ‐ 一週間で通読

ここまでくれば、その取り調べをした人物の言葉がウソだということは明らかです。





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終末について

2022-03-19 12:15:01 | 忍者的思索・忍界
 ロシアのウクライナ侵攻に伴って、世界の終わりが近づいたのではないかと論じる人たちがいます。そのことについて、二三述べておきたいことが有ります。

 確かに、イエスは世の終わりの前兆に地震や戦争の噂を取り上げています。しかし、それは前兆であって、産婦の陣痛のようなものだということです。ですから、直ぐにでも世の終わりが来るかのような受け取り方は、イエスの意図を読み違えていると思います。

 次に、忍者であるにも関わらず、世の終わりが来ることを恐れる人がいます。忍者はイエスへの信仰によって神の国に入れていただく備えが整った者ですから、恐れるこことなく終末を迎えれば良いだけのことです。

 終末の様相を私たちが変えることはできません。また、それは神の壮大なる計画の一部ですから、甘んじて受け入れるしか有りません。たとえどのような艱難に合っても、死を経験しようとも、そこに神の計画が有り、忍者の魂の救いは確実であると信じるなら、成り行きに任せて、自分を神に委ねて歩むだけのことです。







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永遠と復活(幻冬舎刊)の忍者的問題

2021-04-20 16:55:51 | 忍者的思索・忍界
  知り合いの忍者が参考にということで、永遠と復活(大川従道著 幻冬舎刊)という本を貸してくれました。
 
  読んでみて、忍者、もしくは大忍として、二点問題と思う部分が有るので述べておこうと思います。

  第一に、忍界においては、すべての里で、「自死した人間は地獄に行く」という考えがなされているかのような書き方が良くないと思いました。私の属する改家におきましては、死後人が天国に行くか地獄に行くかは神の選びの問題であると考えますので、そのような判断はしておりません。ですから、どの家でも、どの里でもそのような考え方なのだという印象を忍者でない方々に与える記述は不正確で、迷惑であると思いました。
  なお、自死に関する私の立場についても保管してありますので、よろしければ御覧いただきたいと思います。

  第二に、信仰を持たないで死んだ人が、死後にイエス・キリストの奥義を伝えられる可能性が有るということを全面に押し出しているのですが、その根拠となる奥義書の読み込みが、浅過ぎるということです。実は、その箇所は、そのような説明を導くために用いられるような内容になってはいないのです。
  繰り返し用いられていたのは、1ペテロ三章十九節でした。著者は長年大きな単里を導いてきている大忍なのですが、自説を通したいという思いが強過ぎて、きちんと奥義書神学的確認の手順を踏まなかったのではないかと思います。もし、そういう研究を経たうえで、尚且つそのように論じるのであれば、本来の意味を無視して恣意的に奥義書の言葉を用いたことになり、大忍に相応しくない態度であり、改めるべきであると思います。この奥義書の理解についての私の立場も以前保管しましたので、ご確認いただければと思います。
  この部分に関しては、真理のみことば伝道協会という、異端やカルトの警告や救済活動をしている団体のサイトでも言及されていますので、よろしければご参照ください。






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「信じる」という動詞の意味するところを考える

2021-04-13 12:41:05 | 忍者的思索・忍界
ヨハネによる福音書四章には、信じる・信じたという語が七回出てきます。信じるという言葉の意味合いは、案外誤解されている部分が有ると思います。私は、盲信であったり、主体性なく何かに流されたり影響されたりしているイメージで捉えている方が多いという印象を持っています。

新約聖書で「信じる」と訳されている語は、信頼に値するという意味も含んでいますので、何等かの確証を伴っていることが解ります。それは、現代人の信頼する科学的証明というものに限定されません。言い換えれば、科学的に証明されなくても、個人が信頼に値すると判断する材料をもって、伝えられた事柄が真実であると考えることを選択するという主体的な心の動作です。

今回取り上げるヨハネによる福音書四章の例を幾つか取り上げて確認してみたいと思います。

二十一節で、イエスはサマリアの女に「わたしの言うことを信じなさい。」と命じておられます。預言的な言葉それに続きます。それは到底科学的に、もしくは論証を通して事実だと確認できるような事柄ではありません。ここで、イエスはご自身の権威によって語る御言葉であるということをもって、それが事実であると考えることを選択しなさいと勧めているのです。

三十九節では、サマリアの女がその町の人々に、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したことを根拠にして、多くの者がイエスを信じたという記述が有ります。彼らは、科学的に証明されたとういのではなく、従来の預言者の理解を根拠にして、イエスを信頼に値するメシアだと考えることを選択したのです。(四十二節参照)預言者は一度も会ったことのない人物の素性を知ることができるという理解が有りました。イエスがナタナエルがどんな人物かを言い当てたことや、初対面であるはずのザアカイの名を呼んだことの記録は、そういう理解に基づいています。

四十六節以降は、王室の役人の、瀕死の息子の癒しの記事です。五十節では、イエスが「あなたの息子は直っています。」と言われたので、それを信じて王室の役人は帰途についたことが記されています。離れた所にいる息子がすでに直っていることを知覚する術など有りません。ですから、彼は事実を確認したのではなく、イエスの言った通りになっているのだと考えることを選択したのです

更に五十三節では、息子が直ったことを根拠にして、家族全員が、イエスはメシアであると信じたことが記録されています。イエスの言葉と息子の癒しの因果関係は、科学的に証明することはできません。しかし、その事実をもって、彼らはそう考えることを選択したのです。

私たちの忍者の信仰における「信じる」という心の動作が、どういうものであるかを時々確認していただきたいと思います。私たちは、主体的に、科学という限られた方法論に拠らないで、別の根拠をもって、イエスは救い主であり、神の子であると考えることを選択した者たちです。





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ありのままで受け入れられることの意味

2021-04-10 12:17:43 | 忍者的思索・忍界
  忍者の中には、「私たちはありのままで神に受け入れられている。」という理由で、自分の日々の振る舞いへの批判や指導を拒絶する者が出て来て問題になることが有ります。このような忍者は、「ありのままで受け入れらえる」ということの意味や範囲を誤解しているか、悪い場合は、自己弁護のために利用しているかのいずれかになるのではないかと思います。

  ありのままで受け入れられるというのは、どういうことを指しているのでしょうか。

  それは、人間には神に受け入れられる資質も能力も皆無であるからこそ、ありのままで神の前に出るしか方法が無いということです。人間は無力で、神に対して何の貢献もできない存在です。ヤコブのような神に選ばれた契約の人物であっても、奥義書(聖書)では「虫けらのヤコブ」と呼びかけられています。(イザヤ書四十二章十四節参照)私たちの生活の中で、蟻、芋虫、ゴキブリなどを見た時に、それを駆除したり踏みにじったりしなかった時でも、それは、単に見逃してやったというぐらいのことで、虫に価値を見出したからではないでしょう。伝道者の書十一章三節も、人間は天気を読めても制御することはできない無力なものであり、更には、一度倒れてしまえば自力で方向を変えることすらできない倒木のように無力だと描写しています。
  引用したイザヤ書では、その後、神の義の右の手が守るという記述が有ります。 神に受け入れられるための資質も能力も皆無であるからこそ、救い主イエス・キリストの十字架の贖いの業が必要だったのです。イエスの義を着せていただく必要が有ったのです。その偉大なる賜物をただ受け入れて、その教えに従うしか身の処しようが無いのです。ありのままで受け入れられるというのは、悔い改めて神との関係を修復するにあたっては、人間には何の代価も差し出す能力が無いのだから、神の恵みにすがって赦していただく以外に方法が無いということを指しているのです。

  ここで考えなければならないのは、ありのままで受け入れられるというのは忍者の生活のどの時点やどの局面においてそうなのかを区別し、その境界線をわきまえていることです。一度受け入れられたならば、その後の歩みには条件が伴っているということを見落としてはならないのです。
  その条件は、イエスご自身が簡潔に、ヨハネによる福音書十五章で述べています。十節では、「あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。」十四節では、「わたしがあなたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」と言われました。
  この条件を守っていないならば、六節の「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。」という状況になるのです。ありのままで受け入れられたことが台無しになるのです。

  ありのままで受け入れられていると主張しながら、その恵をぶち壊しにして、自ら滅びを招く歩みにならないように自戒する必要が有ります。





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適用は聖霊の導きと忍者本人の責任による

2019-10-14 09:34:52 | 忍者的思索・忍界
 大忍の奥義書講解(説教)において、その適用が聞く忍者の世代や生活感覚から乖離しているから、大忍にもそれなりの社会生活の経験を積んで欲しいというような要望を聞くことが有ります。大忍が高齢化のために、感覚がずれている場合も有るという指摘も聞こえます。
 確かに、大忍に任じられる者は見識が広いに越したことは有りません。しかし、社会全般に渡ってもれなく見識を持つことは不可能ですし、世代による認識の違いは確実に有ります。また、分類すれば16以上有るとされる性格プロフィールの中には相性の悪い組み合わせも有り、大忍と忍者の組み合わせがそれに当てはまっていたりすると、奥義書講解も把握しずらいということも出てきます。そこからよく考えると、大忍の示す適用が忍者達に合うようにするというのは、中心的な要素ではないと思われます。

 奥義書から神の声を聴くという礼拝形式には、忍者本人が傾聴する姿勢を捧げるという要素が有ります。大忍は、その捧げものを助けるために、文化背景、語彙の確認等をして、最初に霊感を受けた記者の伝えようとしたことをより正確に理解にできるようにするのが務めです。その上で、その忍者の生活への適用がどうなるのかということを述べて、忍者の生活がキリストの証人としての歩みとなり、生きえた供え物となるように導きます。

 しかし、先に述べましたように、万人に通じるような適用の提供はできません。ですから、大忍が提供した適用が自分に合うかどうかという部分は、必ずしも大忍に求められるべき事柄ではないと言えます。

 それではどう考えたら良いのでしょうか。先ず大事なのは、奥義書の言葉は聖霊の助けと導きによって読み、また個人的な適用を導いていただくということです。だから、奥義書の言葉を反芻し、思い巡らし、瞑想をするということが大事なのです。私の師匠は、「奥義書講解において、何でも細かく語ろうとしてはいけません。それは、忍者の中に働く聖霊を、肉の働きで邪魔することになる場合が有るからです。聖霊に働いていただくことが必要です。」と訓示されたことがあります。
 また、自分の適用は何だろうかと自ら進んで考える責任が忍者には有ります。詩編の記者の態度からもそれは伺い知ることができます。「神よ私をさぐり、心を知ってください。」という告白は、自分にはさぐりきれないので、全能の主に自分の心の有様を示してくださいと願う祈りです。そこに至るような、自発的に自分の状況を考え、適用を主に、また、聖霊に導いていただこうとする姿勢が不可欠なのです。
 そのような取り組みとして、準セルグループ的な取り組みをしている里を訪れたことが有ります。礼拝の後に、グループ毎に集まって、適用について自ら考え、分かち合いをし、それを大忍に報告するという取り組みをしていました。大忍任せの聞きっぱなしにはしないということが、主の前に責任有る忍者の取り組み、歩みであると考えます。一方、大忍は、そのためにも、パウロが祈ったように、忍者の霊の目が開かれるように祈り続けているのです。






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説教者とストロー

2018-11-08 13:03:14 | 忍者的思索・忍界
 私が説教のご奉仕の機会をいただくと、時々礼拝後に「素晴らしい説教でした。」と言いに来られる忍者がいます。私はそういう時には心掛けて、「ありがとうございます。でも、素晴らしいのはみ言葉です。」ということをお伝えしています。その聖書の意味が説き明かされて、傾聴するという捧げものをした忍者が、聖霊の働きによって何等かの恵みを感じた、開かれたことが有ったという事実が大事なのであって、取り次いだ説教者はその勤めを全うしたにすぎません。
 司会者や説教者が説教の直前の祈りで、「通り良き管としてお用いください。」という表現をすることが有ります。そういう歌詞が含まれる讃美歌等も有ります。説教者も礼拝に出席する忍者も、説教者はその管であるという認識が必要であると思います。
 皆さんいかがでしょうか。例えば、1992年に四国で食べたカツオのたたきは美味しかったなぁというような思い出はないでしょうか。でも、2000年に沖縄で飲んだマンゴジュースについていたストローは素晴らしかったなぁなどという思い出は皆無に等しいのではないでしょうか。ストローよりも、それを通って口に入るジュースの方が大事なのですから、ストローの思い出が無いのは当然なのです。
 一方、ストローが折れていたり、穴が開いていたりして、ジュースがうまく吸えないようなことが有ったら問題です。私が子供の頃には紙を巻いて蝋を浸み込ませたようなストローが有りました。ジュースと一緒に蝋のにおいがするのが時には気になっていやなことが有りました。説教者は、そういう部分になりそうなことを最小限にとどめる努力をします。
 一方で、説教者は神様は自分の個性をも用いてくださることを信じて語ります。しかし、あくまでも説教者はストローのようなものです。自分が素晴らしいというのではなく、ストローが当たり前にその機能を果たしたのと同じように、自分の委ねられた働きをしたにすぎないのであり、そのことを他の忍者にもはっきり意識してもらいたいのです。
 次に説教者に一言声を掛けたくなるような気持ちになった時には、「〇〇大忍、~~は素晴らしいみ言葉ですね。」というような言い方を考えてみてはかがでしょうか。

 




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