本文:『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』(旧約の引用部分)
複数の方から、この個所を引用して、ご自分の状況やこの個所を読んだ感想を聞かせていただく経験をしましたが、その理解がとても主観的であったりすることがありました。
その方々は、いけにえ(犠牲と書いたりします)と自分を同化させて考えたようです。自分が身を粉にして教会のため、伝道のために奉仕して、疲れてしまったということで、自分の犠牲的奉仕の精神が、実は間違っていたのではないかと気付いたというのです。それは神がお喜びにならないことだったのだと。そして、むしろ、神様の憐れみの中で、ゆったり過ごすことが今の自分に対する神様の御心なのだと受け止めていました。
この個所が、はたしてそのような理解と結びつく内容を持っているのでしょうか。
この引用の原型はホセア書六章六節に有ります。
「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(新改訳第二版)
その理解を助ける聖書的背景は、Ⅰサムエル記十五章二十二節にあります。
「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(同上)
これは、イスラエルの初代王、サウルが、神の命令を聞かないで、神にいけにえ、犠牲を奉げるためだという言い訳で、状態の良い家畜を殺さなかったことに対して、神が預言者サムエルを通して与えた叱責の言葉です。
箴言二十一章三節は、この法則を次のように言い換えています。
「正義と公義を行なうことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。」(同上)
ついでもう一つ、ミカ六章八節です。
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(同上)
原型の故事である、サウルへの叱責から発展して、心は創造主なる神から離れているのに、形式的にいけにえを奉げて、神を敬い、礼拝しているふりをし、その裏では偶像礼拝や様々な罪や誤魔化しをしていたイスラエル人達への叱責になっていったものだということがわかります。
すると、私のところに来た人たちのような、自分は頑張り過ぎたから、すこしゆっくりしていいのだという神様からの語りかけという解釈は、文脈も背景も無視した、極めて主観的な思い込みであるということがわかります。
みなさんも、是非、慎重に聖書の意味を汲み取る習慣をつけて下さい。
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その方々は、いけにえ(犠牲と書いたりします)と自分を同化させて考えたようです。自分が身を粉にして教会のため、伝道のために奉仕して、疲れてしまったということで、自分の犠牲的奉仕の精神が、実は間違っていたのではないかと気付いたというのです。それは神がお喜びにならないことだったのだと。そして、むしろ、神様の憐れみの中で、ゆったり過ごすことが今の自分に対する神様の御心なのだと受け止めていました。
この個所が、はたしてそのような理解と結びつく内容を持っているのでしょうか。
この引用の原型はホセア書六章六節に有ります。
「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(新改訳第二版)
その理解を助ける聖書的背景は、Ⅰサムエル記十五章二十二節にあります。
「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(同上)
これは、イスラエルの初代王、サウルが、神の命令を聞かないで、神にいけにえ、犠牲を奉げるためだという言い訳で、状態の良い家畜を殺さなかったことに対して、神が預言者サムエルを通して与えた叱責の言葉です。
箴言二十一章三節は、この法則を次のように言い換えています。
「正義と公義を行なうことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。」(同上)
ついでもう一つ、ミカ六章八節です。
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(同上)
原型の故事である、サウルへの叱責から発展して、心は創造主なる神から離れているのに、形式的にいけにえを奉げて、神を敬い、礼拝しているふりをし、その裏では偶像礼拝や様々な罪や誤魔化しをしていたイスラエル人達への叱責になっていったものだということがわかります。
すると、私のところに来た人たちのような、自分は頑張り過ぎたから、すこしゆっくりしていいのだという神様からの語りかけという解釈は、文脈も背景も無視した、極めて主観的な思い込みであるということがわかります。
みなさんも、是非、慎重に聖書の意味を汲み取る習慣をつけて下さい。
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律法の実践により、人を罪に定めて苦しめること
私は、目的の為なら人間を粗末にしてよいという
心も神の愛の理解も伴わない、因習的な律法の
実践により、自らを罪に定めて生贄にしてました。
自己犠牲から抜け出す事が、恐かったんです。
人柱を立て良しとする百姓根性がありました。
深く悔い改めます。 アーメン。