goo blog サービス終了のお知らせ 

糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

イスラムと奴隷 其の三 (シャリアと奴隷)

2018-05-14 23:07:32 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

 シャリア(イスラム法)には奴隷に関する規定がかなり細かく記されています。

 非イスラム教徒との戦争においては、捕虜は殺される、イスラム教徒の捕虜と交換される、身代金を払って自由になるもしくは奴隷になるのいずれかになります。婦女子もイスラム教徒の捕虜と交換されるか奴隷にされることになります。
 主人が女奴隷とどう結婚するかもしくは妾にするか等の細かい規定も有ります。それは、間に生まれた子供の父親の権利を明確にするためです。主人の子供を産んだ女奴隷は、ウム・ワラド(彼の子の母)という地位が与えられます。生まれた子は嫡子と同じ権利が与えられます。主人が死ぬまで売られたり自由の身になるということはありません。もし妾とされた場合は、自由の身とされることが有ります。主人と続けて暮らすとしても妻の立場にはなれませんが、使用人の上に権威を持つことはできます。子供は非嫡子という扱いになります。勿論奴隷同士の結婚についても規定は有ります。

 モハメッドに続く四人のカリフはイスラム教徒を奴隷にすること反対し、実質的には禁止することになりましたが、非イスラム教徒を奴隷とすることは更に進んで行きました。非イスラム教徒の奴隷がイスラム教に改宗しても奴隷のままでした。主人の慈善の行為として改宗した奴隷が自由にされることは有り得ました。

 イスラム教国においては、奴隷には一般市民としての権利や法律的権利は与えられませんでした。裁判に訴える権利や所有の権利も有りませんでした。奴隷の蓄財は主人の物となり、子供に相続されることは有りませんでした。奴隷は主人の許可が無いと結婚できませんでした。また、施しをすることや巡礼に出かけることも許されませんでした。奴隷は財産の一部と考えられていました。

 実際の奴隷の扱いは、主人によって様々でした。優しい主人もいれば、残忍な主人もいました。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村


    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

イスラムと奴隷 其の二 (コーランにおける記述)

2018-05-07 23:40:02 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

 コーランにおいては、奴隷の存在は無批判受け入れられています。幾つかの例を確認してみましょう。

 コーラン33:50(A. Yusuf Ali 編集1975年版、以降の引用も同様。コーランは編集者や版によって章節の番号が異なります。)においては、モハメッドに捕虜になった女性は妾にすることができるという許可を与えている記述が有ります。その記述は、明らかに、戦争で捕虜になった者を奴隷にすることは神から与えられた権利としています。
 
 コーラン23:1-6においては、イスラム教徒は女奴隷と性的関係を持つ権利が有るということが示されています。

 コーラン4:29では、奴隷は罰金を払う時の貨幣のように用いて良いということが示されています。イスラム教徒が人を殺してしまった場合、イスラム教徒である奴隷を自由に身にし、被害者の親族に償いをすることができるとしています。一方、非イスラム教徒の奴隷は、この規定の適用で自由の身になることは有りません。

 コーラン24:33は、性格の良い奴隷には、本人が望めば代価を払って自由の身にしてやるようにという指示が有ります。コーラン90:12-13では、奴隷を自由の身にしてやることが善行の一つに数えられています。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村


    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

イスラムと奴隷 其の一 (モハメッドと奴隷)

2018-04-30 22:08:36 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

 現在でもパキスタンやサウジアラビアでは奴隷扱いで使役されている人々がいます。歴史的にはヨーロッパの奴隷の使役は広く知られていますが、イスラム圏における奴隷の使役は殆ど意識されません。しかし、イスラムもヨーロッパの奴隷制に、アフリカの首長と結託してヨーロッパにアフリカ人の奴隷を供給するビジネスに手を染めることによって、貢献していた部分が有るのです。
 過去においては様々な宗教が奴隷制を支持するようなことがありましたが、現在では殆どの宗教はそのような考えを退けています。しかし、イスラムはその例外として顕著な例となります。このシリーズでは、イスラムがどのように奴隷について教え、歴史の中でどのような影響を与えて来たかを確認したいと思います。

 イスラムの預言者モハメッドは奴隷を使役していました。彼の伝記を著したイブン・カイム・アルジョージアによると、彼には四人の女奴隷と27人の男奴隷がいたとうことです。彼の記述には次のようなものが有ります。「預言者は奴隷の売買をした。彼は売るよりも買うことが多かった。彼はまたアブ・マドカーの奴隷のヤカブを売り、アフリカ人の奴隷を二人の奴隷と引き換えに手に入れた。」
 多くの奴隷は軍事遠征の戦利品として獲得されました。バヌ・クレイザと呼ばれたユダヤ系の部族を627年に打ち破ると、モハメッドは男性は全て処刑しました。その数は600人から900人とされています。婦女子は彼に従った人々の間で山分けされました。この時モハメドは処刑した部族長の妻であったリアーナを妾にしいています。この話は、古典的イスラムにおいては捕虜は自動的に奴隷、もしくは女性ならば妾となることを示しています。
 モハメッドは奴隷を使役していたばかりではなく、当時のアラビア半島の多くの人々がしていたように奴隷売買に関わっていました。彼が贈り物として奴隷を受け取るようなことも有りました。彼の妾の一人であるコプトのメアリー(明らかにクリスチャンと思われる名前)は、エジプトの支配者から与えられたのでした。

 イスラム教徒に行動規範の完璧な模範と考えられるモハメッドの例が、イスラムの中からのいかなる奴隷制批判をも難しくしています。モハメッドの行動に倣うことにしか関心のない保守的なイスラム教徒には、過去には奴隷制は自然で受容されていたが、今日の社会においては受容できるものではないという議論は、殆ど、もしくは全く考慮されないのです。
 





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村


    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

イスラムにおけるイエス 其の六 まとめ

2018-04-11 18:02:12 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

 イスラムはイエスを罪の無い預言者として受け入れ、奇跡を行ったとしていますが、単なる人間なのだとします。(単なる人間で罪が無いというのは矛盾ですが。糸田十八)また、処女降誕、昇天、再臨も認めています。ただし、先の記事の通り、キリスト教を撲滅するために来ます。イスラムは、イエスの神性、受肉、十字架の刑死、贖罪の業と復活を否定します。このようにして、イスラムはキリスト教の中心的教義と信仰を否定するのです。
 それでも、イスラムのイエスの理解はモハメッドの理解ともうまく両立していないように思われます。モハメッドはイエスに勝る存在であるとするのに、彼は罪が無かったとはせず、死んで埋葬されたことを認めています。昇天し、また再臨するのはイエスであるのに、モハメッドの方が勝っているとするのはどうしてでしょうか。
 ムスリムにはコーランこそが間違いの無い神の言葉なのです。その前提のために、その他の理解は全て拒絶されることになります。ですから、聖書のイエスに関する記述もコーランに反しない時だけ受け入れられるのです。彼らは、コーランと矛盾する聖書の記述はユダヤ人とキリスト教徒が変容させてしまったもので、無効だとします。しかし、イスラムはこの主張に関わる説得力の有る歴史的な証拠等を示すことはできません。つまり、誰が、何時、どうして新約聖書の内容を変容させてしまったか説明できないのです。それで、イスラムはコーラン等の資料で十分であるとして、ムスリムが聖書を読むことから遠ざけます。
 イスラムとの共通の土俵を見出そうとするキリスト教徒は、イエスとイスラムのイサ(イエス)の違いや二つの信仰の違いを意図的に無視しようとします。すると、イエス・キリストの神性、贖い、全世界の王等の重要な属性を取り除いて考えることになり、殆どイスラムのイサと変わらないものになります。それはイエス・キリストを人間としてしまうことなので、キリスト教信仰の中心的な教義を抜き去り、形骸化してしまうことであり、キリスト教への攻撃と同じことになります。これはアリウス派に通じる異端的理解を導入することになってしまいます。(そういう試みは受け入れられないという意味です。糸田十八)
 





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村


    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

イスラムにおけるイエス 其の五 (イエスの再臨)

2018-04-09 21:08:50 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

 コーランがイエスの再臨は最後の審判の時の印であるとしています。ハディスはイエスを主に最後の審判に関わる人物として示しています。

 イエスはキリスト教徒とユダヤ教及びすべての敵を滅ぼすイスラムの戦士として再臨します。その時にはイスラムが世界に唯一の宗教になるとします。
 ハディスの記述には、再臨のイエスは十字架を破壊するとあります。それでイスラム教徒はキリスト教の中心的シンボルとして十字架を憎んでいます。
ハディスの「十字架を破壊する」とか「豚を殺す」という表現はどちらもキリスト教の撲滅を表すことになります。
 イスラムは異教徒から人頭税を取って二級市民として生きることを許可しましたが、廃棄の教義を適応すると、イスラムに改宗するか死ぬかしかなくなります。そうすることによってのみイスラム教は繁栄していくのです。
 イスラムにおいては、モハメッドがイエスよりも優位であることを示すために、ハディスにおいては最後の審判において、イエスは人々にモハメッドに執り成しを求めるように示唆するとします。モハメッドだけが執り成しをすることのできる存在とされ、故にイエスよりもはるかに偉大な存在ということになるのです。
 そういうわけで、イスラム教においては、再臨のイエスの役目は偽りの救世主すなわち反キリストとその勢力を打ち滅ぼし、完全なイスラム社会を実現することが主要なものになっています。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村


    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

イスラムにおけるイエス 其の四 ーハディスから(イサの風貌)ー

2018-02-12 23:12:10 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

 以前のポストで示しましたが、ハディス(伝統)はモハメッドの言行を記録したものです。イスラムの教義においては、アラーがモハメッドにコーランの解釈をする責任を与えたとしていますので、ハディスに見いだされるモハメッドの言行はコーランを解釈するための二番目に大事な資料となり、イスラム教徒の生活や思考を形成するうえでコーランと同様に重要な存在となっています。これから数回にわたってハディスに見いだされるイサ(イスラム教におけるイエスと思われる人物)の記述を確認したいと思います。

ハディスにおけるイサの風貌
幾つかのハディスの記述はモハメッドが夢の中でイサを見て、その風貌を仲間に説明したとしています。

イブン・ウマルによる記述 
預言者は言われた。「私は(天に上った夜に)モーセ、イサ、アブラハムを見た。イサは赤ら顔で髪が縮れており、胸板が広かった。」(アル・ブカリ4.648)

アブデゥラ・ビン・ウマルによる記述
アラーの使徒(モハメッド)は言われた。「今日私は夢の中でカバの近くにいる自分を見た。私は白みがかった褐色の肌の人物を見たが、それは褐色の肌の人種の中で最も美男と言えた。これまで見た中で最も美しいと思われるリマ(耳たぶのところから下がる髪)をしていた。その髪は櫛けずられており、水がしたたっていた。彼は二人の人もしくは二人の人の肩にもたれかかって、カバの辺りでタワフ(イスラムの巡礼の行の一つ)を行っていた。私(モハメッド)は、「これは誰だ。」と尋ねた。「マリアの子、メシアだ。」と言われた。(アル・ブカリ7.789) 






にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へにほんブログ村


    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

イスラムにおけるイエス 其の三 -コーランから(イエスの生誕と十字架の死について)ー

2018-02-05 23:12:44 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
 母マリアはヘブル語に近いマリアム(アロンとモーセの姉妹、ミリアム)という音で呼ばれます。バプテスマのヨハネの父ザカリヤに養われたとしていますが(コーラン3:35-37等)、時間的に無理であると思われます。イエスはベツレヘムで生まれたのではなく、人里離れたところのナツメヤシの木の下で生まれたとしています。(コーラン19:22‐23)赤子のうちから言葉を話したとします。

*マリヤはミリアムのギリシャ語読みです。

 イエスの十字架と死は否定されています。コーランの4章には、「彼らは勝ち誇って、我々はアラーの使徒、マリアムの息子イサ・キリストを殺したと言ったが、彼を殺しも十字架につけもしなかった。それは、彼らの目にそのように見えるようにされたということだ。」ということが書かれています。
 多くの解説者は、この箇所からイサ(イエス)に似せた代理が立てられ、イサ(イエス)の身代わりに十字架につけられ、一方、イサ(イエス)は死なずに直接天に挙げられたのだと解釈します。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村


    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

イスラムにおけるイエス 其の二 -コーランからー

2018-01-29 14:31:12 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

 コーランに見いだされるイエスは、聖書の要素も含んではいますが、しばしば矛盾した内容になっています。また、外典や偽典の影響が見られます。
イエスに用いらえる称号は聖書にも出てくるものですが、聖書的な意味合いが有りません。

 コーランはイエスの神性を認めず、三位一体を認めません。イスラムにおいては、そのような教義を信じることは大罪であり許されざる罪です。
イスラムではキリスト教徒は神がマリアと肉体的関係を持ったと信じていると主張し、そのようなことは有り得ないことだと非難します。コーラン6:101参照

 イエスは他の預言者と同等で、そのメッセージはアラーへの服従であるとします。

 イエスはアラーがアダムと同様に土から造り出した、被造物とされています。コーラン3:59参照

 イエスに福音と当時必要な律法が与えられたとしますが、福音書は歪曲されているとし、廃棄の教義の対照で、モハメッドを通してアラーから与えられたより完全な啓示によって置き換えられたとします。

 イエスはモハメッドの出現を預言したと理解されています。コーラン61:6参照

 イスラム教徒はイエスの最初の弟子たちはユダヤ人やキリスト教徒ではなく「イスラム教徒としてアラーへの信仰を持ち、アラーの証人となり、礼拝をします」という告白をしたイスラム教徒であると考えます。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村



    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

イスラムにおけるイエス 其の一

2018-01-15 14:06:03 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

 イスラムの教えの中にもキリスト教のイエスを指すと思われる人物が出てきます。そのイエスはキリスト教のイエスと同じなのかということが問題になってくる場合が有ります。その人物はイスラムではイサと呼ばれます。このイサはどのような意味なのでしょうか。

 このイサという名称の背景は不明瞭です。これはイエスという名前のアラブ語への直訳ではないのです。様々な説明がなされてきています。

 1.この名前には特別な意味はなく、モハメッドがイエスという名前に音韻を合わせたに過ぎない。
 2.イエスのヘブル語の綴りの順番を入れ替えて作り出されたものである。
 3.イエスのアラマイ語で、赤の混ざった白という意味が含まれるものであろう。
 4.ヘブル語のエサウに相当するものであろう。

 このような混乱が有ることは、キリスト教徒が主であり神と告白する聖書のナザレのイエスとはつながりがないことを示唆しています。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村


    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。

イスラムと真理の考え方 其の六

2018-01-14 23:51:04 | 神尾貴夫博士のイスラム情報
お断り:内容は元イスラム教徒である神尾貴夫博士の記述に拠ります。糸田の判断ではありません。

 イスラムが矛盾しているように思われる理由には、もう一つの重要な教義、廃棄の教義も関係しています。

 イスラム教徒はコーランを完璧な神の啓示と信じていますが、矛盾する内容が多く含まれています。イスラム教徒はそのような問題を廃棄の教義で取り扱うのです。二つの矛盾する記述が有った場合には、古い方が廃棄され、新しい方が有効であるとするのです。

 どちらの記述の方が古いのかを突き止めるのは容易なことではありません。コーランは時系列に従って編集されてはいないからです。学者によっても幾つかの記述のどちらが古いかの意見は合致していません。それでも、どの章がメッカ時代の記述で、どの章がメジナ遷都以降の記述かという大まかな合意がなされています。

 廃棄の教義の残念な結果は、イスラムの異教徒への激しい敵意です。それは、コーランの平和的記述の殆どがメッカ時代に残された記述だからです。迫害を避けてメジナに遷都した頃には、モハメッドの異教徒への態度は完全に変わってしまい、メジナ遷都以降の記述は激しく、異教徒と戦うように命じています。廃棄の教義が有るために、メッカ時代の平和的記述はメジナ以降の攻撃的な記述によって無効にされてしまうのです。

 廃棄の教義が無効にした平和的な記述も、コーランの中にしっかり残っています。それで、その記述は無効であるにもかかわらず、タキヤ(偽装)の教義に則って、イスラム教徒は非イスラム教徒に対して「イスラムは平和の教えである」と主張することができるのです。







にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村


    ↑
よろしかったらクリックにご協力ください。