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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

結婚に関する創世記三章の記述 付録

2016-09-29 21:20:48 | 奥義書に見る結婚関係のあれこれ
 創世記三章には神からエバに次のような言葉が語られています。

 『つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。』

 ここで、「治める」と訳された語は、「治める、統治する、支配する」というような意味が有ります。それで、男性忍者の中には、妻に対してそのような姿勢、振る舞いをすることが神の御心であるという理解をする人がいます。しかし、それはこの個所の理解が不十分であることを示しています。
 神からエバに語られたこの言葉は、彼女、ひいては女性の子孫に対する呪いの内容を示しています。つまり、夫が妻に対してそのような態度や振る舞いをするなら、それは呪いなのだということです。間違った理解をしている男性忍者は自分の妻に呪いをもたらしていることになります。もし、そのような理解を示している男性忍者に出会った場合には、その理解を正していただきたいと思います。
 では、神の御心に適った有様はどういうものになるのでしょうか。神の恵みによって神との関係を回復した存在である忍者夫婦の在り方は、イエス・キリストが命じたように、「神を愛し、互いに愛し合う」ということを実践することにあります。その理解には、支配的な姿勢は含まれないはずです。具体的な姿勢や指示は、このカテゴリーで奥義書の新約の部分で扱いたいと思います。







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結婚に関する創世記三章の記述

2016-09-29 00:04:59 | 奥義書に見る結婚関係のあれこれ
 創世記三章には人類の堕落の様子が記されています。(私、糸田十八は、所謂福音派の改家に属する忍者でございます。立場を異にする方々はその点は目をつぶっていただきたいと思います。)

 堕落につながった心の姿勢は「神にいただいた状態よりもっと良くなりたい」「神以外の方法でもっと良くなりたい」と表現できる部分が有ります。神の栄光をいただいて創造された人間ですが、その神を蔑ろにしてなお神の栄光に留まることは有り得ません。神の栄光は人類から取り去られ、霊と肉の死が入って来ました。そして、その有様が結婚にも当然影響を及ぼすことになるのです。

 「現実の自分よりも良くなりたい」「神以外の方法で良くなりたい」という法則が結婚にも入り込んで来るとどんなことが起こるのでしょうか。

 先ず、エバが善悪を知る木の実を食べる時に、彼女はアダムに相談をしませんでした。結婚においては、夫も妻も家族の意思決定において相談されないと軽視されたと感じて傷付くことが有りますが、特に男性の方は権威に対する挑戦を受けたというような気持ちが働き、必要以上に反応してしまう場合が有ります。エバのこの行為は、アダムの気持ちを強く突き動かしたと想像されます。この時、アダムは神の権威に従うことによって自分の尊厳を保つことを選ばず、エバと同じ行動をすることによってそれを得ようとしたと考えられると思われます。つまり、先に示した罪の法則のサイクルが始まってしまっているのです。

 次に、神がアダムとエバに質問をする場面にそれは現れます。「食べるなと命じておいた木から取って食べたのか?」という問いに対して、アダムはエバを晒し者にするような発言をします。彼は現実の自分を少しでも良く見せる方法を求めました。自分は悪くないと考えられる方法を見出そうとしました。正にそれは、「現実の自分よりも良くなりたい」「神以外の方法で良くなりたいという姿勢によって生み出されたものです。エバの弁解も同じです。また、この時、エバはアダムの言葉に裏切りを感じ、酷く傷ついたことが想像できます。女性は特に男性には想像もつかない繊細な部分が存在し、男性からのちょっとした非難や嘲笑に大変傷つく部分が有ります。

 この姿勢は、神を愛さない姿勢です。そして、神を愛さない姿勢は、他人を愛さない姿勢につながるのです。配偶者の言動に怒りを感じたりした時には、自分が繰り返し確認した二つの法則が自分の思考の中に働いていないかを立ち止まって考える必要が有ります。

まとめ
 結婚における障害となる事柄が、三章には示されていました。重要なのは男女の性差に関係なく働く法則は、先に示した二つです。
「現実の自分よりも良くなりたい」「神以外の方法で良くなりたい」という姿勢で行動する時に、夫婦は傷つけ合う結果になることが有ります。

 更に、人間は称賛を必要とする部分が有ります。神は人間を創造され、全ての創造を終えられた時に、全ての物を「よし」とされました。その称賛を、人類は罪を犯すことによって失ってしまったのです。しかし、人類の魂は深い所でその称賛に対する渇望が有るのです。夫婦は特に神によって結び合わされた者同士として、意識して感謝し合い、褒め合うことが必要になります。それが、神との正しい関係にイエス・キリストの恵みによって戻された者同士の取り組むべき領域です。

 そして、特に女性が気を付けなければならないことは、男性は権威を傷付けられたと感じる時に自らを律するのが難しくなるという事実です。また、特に男性が気を付けなければならないことは、女性は傷つきやすい部分が有り、特に非難には敏感であるということです。


 なお、創世記三章に関しては、「いちじくの葉を捨てて生きる」というタイトルでアップロードした記事もご一読いただければ幸いです。







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結婚に関する創世記一章と二章の記述

2016-09-25 22:49:44 | 奥義書に見る結婚関係のあれこれ
 一章二十六節に人間の創造に関する記述がなされ、二十七節に最初から人間は男と女に創造されたことが記述されています。ですから、二章の記述を、女性が後付けで創造されたと考えることはできません。
 では、どうして女性の創造は同時ではなかったのかということを考えます。二章二十節は、男性にふさわしい助けてが見つからなかったと記しています。女性の創造の時間差は、男性に自分には足りない部分が有るということを自覚させるための意図が有ったと考えるのが順当であると考えられます。そのことが明らかになった時点で女性が創造されました。男性にとって、女性が大事な存在であることを自覚させるための時間であったと考えられます。
 実際、男女が結婚するまでにお互いに大切な相手を見つけるのに時間がかかります。その過程で、お互いがどう補い合わなければならないのかを考える必要が有り、それをきちんと突き止めたり考えたりすることが大事になります。自然に生まれつき相手が決まっているようなことがありません。それは最初の男性の意識、現実においてもそうであったと言えるのではないでしょうか。

 女性の創造に関しては、それが男性のあばら骨から取られたという記述が有ります。心臓に近い骨という連想で考えることが一般的であると思います。女性を大事なパートナーとして尊重することを象徴していると考えられます。

 二十三節の記述について、知り合いの大忍が興味深いことを述べておられました。アダムはエバを見た時に大変感動して彼女を「わたしの骨の骨、肉の肉」と表現しています。それだけの一致や相性というようなものを感じたのでありましょう。しかし、アダムはそこで神への感謝の言葉を述べていないのです。人間の神を忘れる姿勢はすでにその時点で芽生えていたのかもしれない、ということでした。その上、アダムの言葉は、「わたしの」という表現になっています。神にいただいたパートナーでありますが、「わたしのもの」という態度になっています。この態度も結婚の妨げになっている場合が有るという理解ができそうです。

 二十四節は「それで」という理由を示す言葉でつないで、男女は親を離れて結び合わされるという記述がなされています。アダムとエバに人間的な親はいませんでした。「それで」というのは、それと同様な状況に合わせるようにしてということと理解できそうです。実際問題として、結婚する男女のどちらかでも親から精神的に、また財政的にも独立していないと、その結婚は大変なものになることは明らかなのではないでしょうか。


 まとめのようなことはいたしませんが、大事なポイントはお分かりになるのではないかと思います。

 カテゴリーとして追加しました。今後も少しずつポストを加えていくつもりです。





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