糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

馬脚を現していることに気付いていない偽預言者

2015-08-05 15:47:22 | 忍者的思索・忍界
 偶然あるネット上の対話に出くわしました。神様から直接啓示を受けていると考えている人が、今度来日する説教者は問題ない人だとコメントをしていました。しかし、この説教者はカルト問題に警鐘を鳴らしておられる特別大忍のブログで偽預言者として取り上げられている人物でした。どうして問題ないかというと、その人が聖霊に尋ねたところ、問題ないという回答、お墨付きを得たからだというのです。単なる思い込みかもしれないことを、そうやって聖霊に語られたということをもって断言するということは、その人自身も自分を預言者の位置に置いていることになります。

 実は、この人は神の啓示を受けて携挙が2014年に有るかのような記述を自分のブログでしていた人物でした。そのことを私は知らなかったのですが、妙に自信たっぷりな感じで、どのような人物だろうかと思って氏名で検索した結果そういうことが判りました。つまり、私の判断ではその人物も預言が成就しなかった偽預言者ということになります。

 さて、そういう人物のコメントに対して、「預言が成就しなかったことが有るならば神の預言者ではない」という注意のコメントが寄せられたのですが、それに対して、一度の失敗で人を裁くのは良くない等の回答がなされていました。注意した人物は、聖書には預言者の資格は明確であり、預言が成就しなければ偽預言者なのだということを再度コメントしていました。ところが、そのコメントに対してその人物は次のような質問で返してきたのです。その内容は「それではヨナはどうなるのか。ヒゼキヤ王の死を預言したイザヤはどうなるのか。」というものでした。

 この質問は、聖書神学の手法による預言の理解をしていないばかりか、聖霊や神の啓示を受けているということも思い込みであることを露呈する内容になっています。聖書信仰主義の仲間である忍者の皆様はお分かりになりますよね。以下のように説明してみたいと思います。


1.聖書信仰主義の枠においては、聖書は神の霊感によって書かれています。(私は狂信的無誤謬の態度ではありませんが、基本的に無誤謬を支持します。)
-聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって(2テモテ3:16)

2.霊感によって書かれた聖書に啓示された預言者の証明は預言が成就することです。
-もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない(申命記18:22)(20節では、「殺されなければならない。」)
ウィキペディアでも「ただし、預言者である以上は、語られたことが必ず成就することが正当性を示す基準であり、旧約時代には偽預言者は死罪とみなされた。」と読み取っています。
 
3.そのことを持ってサムエルも預言者と認められました。
-サムエルは育っていった。主が彼と共におられて、その言葉を一つも地に落ちないようにされたので(つまり成就したので)、ダンからベエルシバまで、イスラエルのすべての人は、サムエルが主の預言者と定められたことを知った。(サムエル記上3:19-20)

4.ヨナやイザヤが預言者であることをユダヤ教、キリスト教が認めているのは上記2,3と同じ原則によります。もし彼らの預言が「成就しなかった」ことになるならば、神は矛盾した神、もしくは啓示に失敗した神ということになります。そんな神は信仰に値しません。(その人物は、信仰に値しない神を自分の神としていることになります。)
 神の霊感によって与えられた申命記の言葉が有り、それが判断基準なのに、預言が成就しなかった預言者が正式な神の預言者として聖典である旧約聖書に取り上げられているとしたら、それはとても矛盾したことになります。神の霊感によって聖書六十六巻の啓示が与えられたならば、お互いの記述は調和していなければなりません。そういう神と啓示についての信仰に立つならば、ヨナやイザヤの預言は成就しなかったということにはならないのです。(その人物は、聖霊から特定の人物の資質についての示しを受けることはできるのに、聖霊が啓示した聖典の正統な理解についての示しを受けることはできていないのです。おかしくありませんか。
 
 ここで、一応ヨナとイザヤの場合を確認しておこうと思います。ヨナは罪深いニネベの四十日後の滅亡を預言しましたが、神はニネベをその時期には滅ぼしませんでした。イザヤはヒゼキヤ王が患った病によって死ぬと預言しましたが、その病は神の指示によって癒されて死にませんでした。しかし、彼らは偽預言者ではありません。なぜでしょうか。
 それは預言の原則的要素を理解することで判ります。預言は神から人間への啓示なのですから、神の性質と目的を反映しています。すると、神の性質と目的に合致するならば、換言すると、神の預言の文脈に合っているならば、最初に啓示された内容と異なる結果が出ても預言が成就しなかったことにはならないのです。そして、結果が異なる場合、どうしてそうなのかを預言者、当事者、もしくは聖書の読者は明白に理解できるのです。

 ヨナの預言の場合では、その目的はニネベの人達が罪深い生活をしていることを明らかにすると同時に、御心に適った生き方を勧める目的が有り、それに応えるならば最初の宣言は変更可能な状況でした。神への直接の応答が可能な状況においては、悔い改めや請願がなされ、神がそれに従って別の応答をしてくださることは十分有り得ることです。ヨナの四章における神への言葉を確認すれば、ヨナにもそれが予見可能な状況であったことが理解できます。ヨナの口からも神の御性質がどんなものであるかも告白されています。ですから、ニネベの人はその時には滅ぼされませんでしたが、それは預言の文脈に沿ったものでした。

 イザヤのヒゼキヤ王に関する預言の場合は、やや事情がことなるかもしれません。最初の預言の意味するところは何でしょうか。彼は重い病気に罹っていました。それは一般的には治らず、死に至るものであることが明白でした。イザヤ書三十八章一節のはじめに「死にかかっていた」ということが明言されています。王たる者は、死期が近いことが明らかならば、次の王を立てる準備が必要になります。しかも、ヒゼキヤにはその当時第一王位継承者の資格の有る息子がいませんでした。(この出来事の後神はヒゼキヤ王に十五年の命を与えました。彼の死後、マナセは十二歳で王位を継承していますから、まだこの時には生まれていないことが分かります。)ですからイザヤの預言は既に明白な「必ず死ぬ」ということではなく、王位継承を含む政治的「身辺整理をしなさい」という部分に重点が有りました。直訳的には「王家に命令を出せ」という語感です。
 どういう動機からであったかは推測しかできませんが、身辺整理をせよという命令は脇に置いて、延命の嘆願をします。一応なりともユダの善王のリストに挙げられるヒゼキヤ王の嘆願の祈りを神は聞き入れ、もう十五年命を延ばしてくださったのです。その結果、次の王位継承への準備は十分にできたことになります。ですから、こちらの場合も最初の預言の文脈に沿った成り行きになっていることが分かり、どうして最初の預言と異なった部分が出て来たかは明白です。
 ネット上では預言が外れた時に、それはどういうことだったのか主に聞きながら過ごしたいなどと書いている人もいますが、それは明らかに正統な預言の法則に反します。全て明白でなければなりません。
 二つの例が神の目的と性質を反映していることが確認できたと思います。また、神の性質の一つは神を信頼する者の応答には答えてくださるということです。くり返しますが、これらは預言の文脈に合っているから起きたことです。時が満ちて最終判決のような罰の宣告の預言という文脈でしたらそれは変更不可能でした。

 さて、話を私が見かけた偽預言者に戻します。その人物は聖霊や神から啓示を受けることができるそうですが、神の霊感によって書かれた聖書の内容について理解していないし、その理解のために神や聖霊から啓示を受けていないという事実を自らの質問によって暴露しました。また、神の霊感によって書かれた聖書の内容が調和しているという基本的な聖書信仰も持っていませんでした。そうやって馬脚を現していることに気付いていもいないのです。

 因みに、吟味すれば良いというような態度の支援者も現れていましたが、それも聖書全体の記述と調和しません。偽預言者と使徒や長老が判断する場合は、その教えや内容を告げることを禁止されましたし、止めない場合は教会を出されるというのが使徒たち指示しています。私が取り上げた偽預言者は、預言が外れた後も預言的発言を続けていますが、これも聖書的原則に反しています。




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